遠いあの夏の日
綺麗な夕陽に照らされながら、私は空を見上げていた。まだ日が出ていると言うのに、星達は焦って顔を出し始める。ぼーっと、ただただ見つめていた。
トントン、と後ろから肩を叩かれる。はっと目を覚ますかのように驚きながら、笑顔で後ろを振り返った。そこには、何も感じていないかのように硬い表情をした子と、顔を真っ赤にした子の二人の男の子がいた。
「何か?」
私がそう尋ねると、私の肩を叩いたのであろう男の子が、顔を真っ赤にした男の子の肩を叩いた。
「話せば?」
それだけ言うと、彼は何処かへ行ってしまった。あの子は何のためにこの男の子に寄り添っていたのだろうか?
「あ、あのお、そのお。」
顔を真っ赤にした男の子。熱でもあるのだろうかと疑問に思いながら、しどろもどろ話す彼の顔を見つめる。そろそろ行かなくてはならないのに。私はそう思いながら、男の子が次の言葉を発するのをまった。
「す、好きです!平山清華さん!」
平山清華。その私の名前を、男の子は大きな声で呼んだ。そして、腕からぶら下げられていた私の手を取って、
「付き合ってください!」
と叫んだ。けれど、私は何も感じなかった。ただ思っていたのは、他の人に聞かれていないのか、それだけが心配だった。好きです。その言葉が頭の中に響く。好き?どうして?あなたとはほとんど話したことがないと言うのに。この男の子の名前は知っている。確か、同じクラス、2年3組のクラスメイト、山田優希くんだ。
「山田くん。」
「はっ、はい!」
どうして敬語を使うのだろうか?同じクラスの、同じ学年の仲間なのに。そんなことを思いながら、私は笑顔で続けた。
「私のどこを好きになったの?」
山田くんは驚いたような顔をして私を見た。そんなことを聞かれるなど、思いもしなかったのだろう。
「えー、えーと。」
山田くんは少し考えた後、ニコッと笑って
「いつも笑顔なところ、です。」
と言った。ため息をつきたくなった。けれど、それを堪え、笑いながら返事を告げる。
「ごめんなさい。あなたとは付き合えないわ。」
山田くんの顔色が、みるみる青くなっていく。そして、涙がじんわりと滲みはじめ、最後にはポロリと溢れでた。
「ど、どうしてですか?!せめて、理由だけでも!」
いまだに離してくれない手をぎゅうと握りしめ、彼は私に尋ねた。
こんなに頑張って勇気を出してくれた子を、私は泣かせてしまうなんて。私は悪い子なのだろうか?けれど、私は笑顔を崩すことなく、
「ごめんなさいね、あなたとは付き合えないの。」
そう言って、山田くんの手を振り払った。山田くんの表情が絶望の色に染まったのを見届けながら、私は中学校を後にした。
鍵を開け、ガチャリと玄関の扉を開ける。
「ただいま。」
そう呟いてはみるものの、中から返事が返ってくることはなかった。
まあ、返ってくるわけないかと笑いつつ、二階にある自分の部屋に向かって歩き出す。自分の部屋の扉を開け、カバンをどさっとおくと、そのまま部屋を後にした。宿題をするのは後回しだ。一階におり、台所に向かう。宿題よりも先に、今日の晩ご飯の支度を済ませなくては。
「飯はまだかあ!」
今日も男の人の怒鳴り声が私たちの家に響く。いつものことだ。お酒を飲んで、仕事もろくにせず、お腹が空けばどなって私に用意させる。
「わかってるわ、お父さん。すぐに用意するからまってて。」
いつもの笑顔が崩れないように。注意しながらリビングでお酒を飲んでいる父に言う。父は少し苛立ちながら
「早くしろ!」
と叫んだ。
もうどのくらいこんな生活が続いているのか。私はもう覚えていなかった。母はいつ私たちの家を出ていったのだろうか?黙々と料理を続けながら、頭の中に浮かぶのはいつもそれだ。けれど、私はいつもそんな考えを振り払って料理に集中する。考えないほうがいい、幸せだった頃なんて。考えなくていい、不幸になった瞬間なんて。もっと不幸になるだけなのだから。いつもそう思い直して、私はそんな考えを何とか乗り切ることができていた。
できた料理を持って、リビングに入る。今日の晩ご飯はハンバーグだ。リビングでは、お父さんがお酒を飲みながらテレビを見ていた。
「よお、遅かったな。」
今日の父はどうやら機嫌がいいようだ。いつもなら無視されることも多いのに、今日は私に話しかけてくれている。
「今日はお父さんの大好きなハンバーグだよ。」
私は笑ってそう言ってから、自分を責めた。しまった。だめだ、怒られる。
「だまれ。あいつを思い出させるようなことを言うな!」
父は私に手をあげることは滅多にない。少しなりとも父親心が残っているのかもしれない。けれど、殴ったりしない代わりに父はよく怒鳴った。今のように。
「ごめんなさい、お父さん。」
母も、きっと私のように笑ったのだろう。あなたの大好きなハンバーグよ、と言って。私は覚えていないのだけれど。父は出ていってしまった母のことを思い出すのを嫌がる。それは私もだから、何も言えないけれど。それでも、たまにききたくなってしまう。
「私の母は、どんな人だったの?お母さんは私たちのことを愛していたの?」って。けれど、私はいつも聞けないまま、いつものように自分の部屋に戻った。
ピピピピ、と言う音に目が覚める。どうやら昨日は宿題をしたまま眠ってしまっていたらしい。私は、机の上に突っ伏したまま寝ていた。枕がわりにしていた腕がジンジンと痺れている。鳴り続ける目覚まし時計を止め、制服に着替えると、私はまたいつものように一回に降りた。いつも私は制服で家事をしている。父は昔、たまにお小遣いを机の上に「お小遣い」と書かれた手紙とともにおいてくれた。そう言う時は、きっと父の機嫌が良かった時なのだろう。けれど、それを使うのはもったいなくて私はあまり服を買っていない。だから、必要性を感じた寝巻きと制服以外は私は服を持っていないのだ。
一階に降りると、父もあのまま寝てしまっていたようで、リビングにいびきをかいて眠っている父がいた。
「おはよう、お父さん。」
小さな声でそう呟きながら、にっこり笑う。寝ている父の姿には、どこにも恐ろしさはなく、昔の優しい父の姿そのものだ。
父が目を覚ます前に私たちの朝ごはんとお父さんのお昼ご飯を用意してしまわなければと、急いで支度を始める。ただし今日は、父を起こさないように静かに、だ。
その前にお皿洗いをしなければと、昨日の夜から机の上に置かれたままのお皿を片付け始める。お皿の量は少なく、皿洗いはすぐに終わった。
次は朝食の準備だ。トントントン、とトマトを切りながら考える。
昨日告白してくれた山田くんの顔を思い浮かべる。私が気になっていることは、山田くんとの関係が悪くなってしまわないかということだ。もし昨日のことが気まずくなって、ギクシャクしてしまったらどうしようか?
私は、いつも笑顔を保っている。だからか、告白されることもたまにだがあるのだ。その後、いつも気になるのは告白してくれた子との関係が悪くならないかだ。大抵はギクシャクしてしまう。
山田くんとの関係も悪くなってしまわないだろうか?山田くんはいい人だし、これからも仲良くしたいのに。それだけが不安だった。
「清華ぁ。朝飯はまだかあ?」
目を覚ましたお父さんが眠そうに目を擦りながら私に声をかけた。
「もう用意できてるよ、お父さん。そこに置いてあるでしょ?」
リビングのデーブルの上にある朝ご飯のサンドイッチを指差しながらそう言ったら、お父さんは
「そうか。」
とだけ言ってまた眠りについた。半分寝ぼけていたのかもしれない。まだ眠いなら、そのまま寝かせておいてあげよう。
自分の分のサンドイッチを手に取り、台所の床に座って食べ始める。私はいつも台所か自分の部屋で食べる。リビングには大抵父がいるので、リビングにいては気まずくなってしまうからだ。
今日のサンドイッチは簡単だけれどなかなかの出来だ。自分でも満足しながらもう一つ、とお皿に置いてある最後のサンドイッチを手に取った。最後にとっておいたのは私の大好きな卵サンドだ。その卵サンドは、あっという間に私の胃の中に吸い込まれてしまった。私は満足し、リュックサックを手に取ると外に出た。さあ、学校へ行こう。
外に出ると、眩しい朝日が私を出迎えてくれた。日の光に暖かく包まれながら、私は学校に向かって歩を進めた。
しばらく歩いていると、ふと視線を感じる。その数は、学校に近づくにつれ増えていった。昨日何かしてしまったのだろうかと、不安になるのだが、覚えはない。何かがおかしい。やはり、見られている。ざわざわ。ざわざわ。周りで話しているすべての会話が、私のことを話しているような気がする。一体、何が起こっているというのだろうか?
「ねえ、アンタ。」
声をかけられ、振り返る。そこにいたのは、他クラスの女の子達だった。けれど、彼女たちはかなりの有名人だ。……いじめっ子として。そんな子達が、今まで何の接点もなかった彼女達が、私に一体何の用があるというのだろうか?
「どうしたの?」
悪い印象を与えてしまわないように。私はいつものようにっこり笑いながら返事をした。
そんな私を見て、彼女達は笑った。
「ハハハハハっ。面白っ。」
そして次に、口にした台詞は私に衝撃を与えた。
「アンタさあ、山田のこと振ったんでしょ?」
驚いた。どうして彼女達が知っているのだろうか?あの場所には、私たち3人しかいなかったはずだ。もしかして、あの二人のどちらかが話した?いや、ありえない。どうして自らそんな話をしたというの?もしかして……。
「みてたよお、しっかりと。この目と……スマホちゃんがね。」
やはり。見られていた。撮られてしまっていた。本来ならば、学校にスマホを持ってきた彼女達の方が攻められるべきなのだろうけれど、彼女達を責めるものはいなかった。彼女達のうちの一人が理事長の娘とか、そういうわけではない。ただ単純に、面白いからだ。きっと、この学校は、もうとっくの昔に腐ってしまっていたのだ。
「それが何か?」
平然と答える。下手に焦って答えれば、山田くんにも被害が行くかもしれない。今は、我慢する時だと、後ろに回した自分の手をつねりながら笑顔を保った。
「あははっ。面白いじゃん。ここまで言われて顔色一つ変えないやつは初めて見たよ。」
彼女達……3人が一斉に笑い出す。
「これからはアンタがいじめのターゲットだから。いいわね?」
リーダーらしき1人が私にそう言い放つと、3人は楽しそうにその場を後にした。
私はトイレに駆け込んだ。ここまで言われて、どうして近くにいた教師は何も言わないのか!いじめ、と、はっきり言っているというのに。私は久しぶりに顔を歪めた。
教師は頼れない。父親も、多分無理だろう。特別仲のいい友達もいない。私は、どこにも逃げ場がなくなってしまった。これから、どうしていこうか。どうやって生きていこうか。そう考え始めるまでに、少し時間がかかった。
はあ、と誰にも気づかれないよう小さな音でため息をつく。そろそろチャイムが鳴る。教室に戻らないと、と、トイレを流し、ドアを開けた。女子トイレから出ると、昨日会った無表情の男の子がいた。同じクラスではないので、さっきの彼女達同様名前は知らないが、一つ分かったことがあった。かなりモテるのだろう。彼は、何人もの女の子に囲まれながら歩いていた。
ふと、目が合う。けれど、やはり彼はにこりともせずにその場をさった。あまり彼とは関わらないほうがいいだろう。これ以上面倒なことになっては、さすがに私も泣いてしまうかもしれない。
教室のドアを開けると、一斉に私に視線が向けられた。一体何人の人が昨日、山田くんが告白してくれたことを知っているのだろうか?私が断ったことを知っているのだろうか?不安になる心の中。私はすぐにそれに気づき、自分で自分を慰めた。
弱気になっちゃダメ。私は、告白をされて、それを断っただけ。何も悪いことはしていないのだから。
私は自分の席に座ると、リュックサックから荷物を出し、机に詰めた。これで今日の準備はよし、と、無理やり心の中を明るくする。長続きはしない。分かっていても、そうせざるを得なかったのだ。
その日は、特にこれと言って何もされなかった。ただただ、注がれる視線が気になるだけだ。私は部活はやっていなかったので、掃除を済ませた後は急いで教室を出た。早足で歩き、学校を出る。もうこんなところにはいられなかった。流石に疲れてしまった。今日は帰ったら、家事をしながらでもいいから考えないと。考えていかないと。これからどうするかを。
夕日が私を照らす。赤く染まる空は、まるで私を哀れんでいるようだった。見ないでほしい。とっさにそう思った。お父さんも、学校のみんなも、お日様も、もう私を見ないでほしい。怖いから。恥ずかしいから。泣きたい気分だった。けれど、わたしのほおを涙がつたうことはなかった。外だからだろうか?泣こうとしても、こっそり泣きたいと思っても、涙がこぼれ出ることはなかった。家では落ち着けない。学校にはみんながいる。外には人の目が。一体私は、どこでだったら泣けるというのだろうか?
どうしようもなく、悲しかった。山田くんに被害がいかなかったのはいい。でも、私は何もしていないのにどうして虐められなければいけないというのだろうか?
ただひたすらに、悔しかった。悲しかった。
次の日からひたすらに無視される日々が始まった。誰に話しかけても、誰も返事をしてくれない。ただ私を見て、笑って、そして通り過ぎていく。見られているようで見られていない。そんな不思議な感覚だった。
「あ、あの。提出物、私が集める係だから出してほしいんだけど……。」
私がそう言うと、その男の子はニヤリと笑った。ばっかじゃねえのが口癖のその男の子。男の子は口癖のその言葉さえ発することなく、席を立ち、どこかへいってしまった。笑いもしなかった。ただ私をじっと見つめて、そして何処かへ行ってしまったのだ。その男の子は、どうやら後から直接先生に提出物を提出したようだ。……私がその男の子の分だけ、集めてくれなかったと言って。
一度トイレに行ってから、集めた提出物を持って職員室に向かう。
「先生。提出物を持ってきました。」
集めてきた提出物を持って、職員室を訪ねる。
「吉田先生?」
名前を呼んでも、先生は職員室から出てこなかった。
「すみません、吉田先生はいらっしゃいますか?」
今度は大きな声で、職員室にいる先生達全員に話しかける。それでも、それでも。返事が返ってくることはなかった。私は職員室の入り口に提出物を置くと、職員室を立ち去った。
教室に戻る前に、またトイレに寄った。さっき行ったばかりだから、おかしく思われるかもしれないが、そんなことは気にせず私はトイレに入った。泣きそうだったから。誰にも聞かれないよう、心の中でポソリと呟く。それでもあなた達は教師なの?って。信じられなかった。いくら頼りない教師だとは言っても、いじめにまで加担するとは思っても見なかったのだ。信じない。信じたくなかった。
授業が始まった。ほぼ全員が先生に当てられ、問題を出されていたが、私にそれが回ってくることはなかった。私の席は窓の隣だった。窓から空を眺める。今日は生憎の曇りだ。けれど、空はまだ泣いてはいなかった。私も泣かないようにしなくては。授業中、ずっと空を見ていた私を、先生が注意することはなかった。
とぼとぼと帰路に着く。昨日もそうだが、今日は散々な1日だった。これからはこんなのがずっとつづいていくというのだろうか?もう、どうしようもない気分だった。これから、どうしていけばいいと言うのだろうか?昨日の夜、必死に考えてみたはいいものの、いい考えが浮かぶことはなかった。
「ふふ、あはは。」
小さな声で笑う。きっと、誰にも気づかれてはいないだろう。もう、笑うしかなかった。笑わなければ、きっとこの先やっていけなくなるだろう。もう、この世から消えてなくなってしまいたい気分だった。そんなこと、叶うわけないと、許されるわけがないと分かっていながら、私は願った。
誰か、助けて、ください。
今日から、日記をつけて行こうと思う。私がもし自殺してしまっても、私がこの世にいたのだと言う証拠が残るように。まあ、見つかれば捨てられてしまうだろうから、絶対に捨てないでと書いてすみに隠しておこうと思う。
7月15日
今日も無視祭りだった。特にそれ以上何もされなかったのは幸いだったけれど。念のためだけれど、山田くんの様子を観察してみた。どうやら、山田くんはいじめにはあっていないようだ。楽しそうに友人と話をしていた。とても、羨ましく感じた。
日の光はあったかい。前は見ないで欲しいなんて思ったが、いつも私を包み込み、慰めてくれるように感じた。けれど、今日は昨日に続き曇りだったから、お日様には会えなかった。でも、雲越しにお日様の気配を感じた。日の光の合間から、うっすらと日の光が差し込む。もう、誰にでもいいからすがりたい気分だった。お日さまでも、誰でもいいから。助けて欲しい。そう願った。願うことしか、できなかった。
7月16日
今日は、まだマシなほうなのかもしれない。これからまだ悪化していくのかと思うと、寒気がする。
朝学校について上靴に履き替えようと下駄箱を覗くと、上靴がびしょ濡れになっていた。だからと言って、それを履かないわけには行かない。私は靴下を脱いで、びしょ濡れの上靴の中に足を突っ込んだ。
7月17日
今日は金曜日。明日は休みだと思うと、少し気が楽になった。けれど、今日はかなり勿体ないと思えることをされてしまった。
登校し、教室に行くと私の机に落書きがされ、昨日置いていった教科書が破られ、机の上に置かれていた。もう、私は少しおかしくなってしまっていたのかもしれない。私はそれをみて、美しいと思った。バラバラに破り捨てられた紙が、開いた窓から入り込んだ風に揺られて散らばっていく。それがたとえ私の大切な所有物だったとしても、それは美しくて仕方なかった。
7月18日
今日は土曜日だ。一日中父の相手をしないといけないとは言っても、やっぱり気は少し軽くなった気がした。けれど、それはすぐに絶望に変わることになった。
父が言ったのだ。何の前触れもなく、急に。
「お前なんて、生まれてこなければよかったのにな。」
って。信じられなかった。信じたくもなかった。たまに、言われる言葉だった。でも、今日だけはいって欲しくなかった。だって、今日は私の誕生日だったから。
7月19日
夢を見た。現実を私に突きつけるような、でも、優しい夢。
そこは、暗い空間で、その中にいくつか浮かんでいる球があった。その中には、私の思い出と記憶が詰められていた。
父が優しかった頃の思い出。
母がいた頃の思い出。
小学校の頃の記憶。
いじめられ、父には暴言を吐かれる最近の記憶。
その奥には、太い縄のようなものがあった。けれど、私はそれを糸と認識していた。それはもうボロボロで、ほとんどちぎれていて、細い糸一本で何さかつなぎとめている状態だった。
その意図がプツンと音を立てて切れて、
もう、何も感じなくなった。
7月20日
今日を含め、後2日で夏休みだ。夏休みには何をしようか?家の家事をやって、一人でどこかに出かけるのもいいな。お父さんのお昼ご飯はいつものように机の上に置いておけばいい。夏休みが楽しみだ。
7月21日
今日で学校は終わり。明日から楽しみだ。
7月22日
特に何もすることがなくて暇だ。何をすればいいと言うのだろう。もう、何もかもが今さらだ。
と、日記を書いていると、ピーンポーンとチャイムが鳴った。誰がきたと言うのだろう?今さら父の知り合いが訪ねてくることもないだろうし。
父が出てくれるわけがないので、玄関におりドアを開ける。そこにいたのは、私をいじめている女の子達、3人だった。
「おはよう。いらっしゃい。」
約束していないと言うのに。3人には住所も教えていないと言うのに。それでも私は何も感じることはなかった。驚きもせず、いつもどおりに笑いながら3人を出迎える。
「何かご用?」
私がそう尋ねると、3人はニヤニヤしながらそのうちの女の子の一人がこう言った。
「今からちょっとついてきて欲しいんだけど。」
ついていかなければ、夏休み明けもっとひどい地獄が待っている、ということになりかねない。そう思った私は、必要なものがいつも詰められているバッグを手に取ると3人について家を出た。
今日はよく晴れている。カーテンを閉め切っていたから今まで気がつかなかったが、雲ひとつない快晴だ。お日様がさんさんと私たちを照らす。私たちはそれに汗を流して対抗するも、結局お天道様には負けてしまうのだった。
「ちょっと、何笑ってるのよ?」
「あら、ごめんなさい?」
私はどこに連れていかれるのだろうか?ニコニコ笑いながらそんなことを考える。でも、これも今さらだ。考えてもしかたがない。
「ここよ。」
3人のうちの一人が指をさす。その先にあったのは、大きなマンションだった。
「私の家。」
指を刺した女の子が自慢げにそう言う。その女の子の家らしい。何階建てだろうと考えられるくらい、そのマンションは高く積み上げられていた。エレベーターに乗ると、エレベーターは静かに私たちを最上階の20階まで運んでくれた。
長い廊下を4人で歩く。といっても、私は3人の後をついていくだけだ。
「さあ、入って。」
玄関の扉の横には「松下」と書いてある。この女の子は、松下さんと言うのか。私は笑顔を崩さないまま、勧められたままに扉を開けた。
ガチャっと言う音と共に、色々な人の顔が目に飛び込んできた。10人はいる。その中には、山田くんや山田くんの告白についてきたあの男の子もいた。
「じゃあ、今から拷問会を行いまーす!」
松下さんが楽しそうにそう言うと、2人の女の子が私の腕を掴んだ。腕はガッチリと固定され、いくら引っ張っても非力な私の力では剥がすことができなかった。この状況では、私も流石に笑えず、固まった表情のまま奥の部屋へ連れていかれた。
そこからはもう殴る蹴るの暴力祭りだった。いくらもがいても、いくら抵抗しようとしても。彼らは私を逃してはくれなかった。一番ショックだったのは、山田くんが楽しそうに笑ってみていたことだった。どうして?と、心の奥底から思った。あなたは私のこと、好きなんじゃなかったの?もしかして、あれは松下さん達に言われてやったお遊戯会だったの?あれは、嘘だったの?そんな疑問が、私の心の中を飛び交った。
途中、あの男の子が口を開いた。山田くんの告白についてきた、表情の固い、あの男の子だ。
「ねえ。」
期待した。もしかして、助けてくれるのかと。けれど、そんな期待は一瞬にして打ち砕かれた。
「撮っていい?」
笑わずに、悲しい顔もせずに、真顔で彼はそう言い放った。周りにいた子達はみんな笑顔で
「面白そう!」
とか、
「いいね!」
などといって、楽しそうにまた私を殴り続けた。変わったのは、私を見つめる目が、もう一つ増えたと言うことだけ。機械の、まるで彼のような、冷たい目が。
彼らは私の顔や腕、足だけは殴らなかった。誰かにバレてしまわないようにだろう。7、8人に何時間も殴られ、蹴られた私の体はもうボロボロだった。家にたどり着くのがやっとで、晩ご飯の支度に、少しだけ手を抜いてしまった。父には何とかバレなかったが、不安な気持ちになった。こんなことが、これからも続くのだろうか。私が卒業するまで後、一年と半年ある。その間、私はずっとこのようないじめを受け続けるのだろうか?ここは、父に怒鳴られてでも転校するべきなのかもしれない。そう思った私は、自分の部屋から一階に降りると、父に声をかけた。
転校したいなんて言えば、きっと父は怒るだろう。そうわかっているはずなのに、父に声をかけるのは全く恐ろしくなかった。
「お父さん。」
私がそう呼びかけても、父は返事をしなかった。別に、ねむっているわけではない。寝転がってお菓子を食べながら、テレビを見、そして私を無視しているだけだ。
「転校したい。」
わたしがそういうと、父はいきなり起き上がり、私の肩をがっしりと掴んだ。そして、壁に頭をガンガンと打ち付けてくる。痛い。頭が割れそうだ。だけれど、中学生の私では大人の力に対抗することはできないのだ。
「転校だってえ!」
父は叫ぶ。大きな声で。
「ゆるさん、ゆるさんぞお!」
父は私が転校することに怒っているのだろうか?いや。そうではないように見えた。何かに悲しみながら、それを関係のない私にぶつけている。そんな風に見えた。薄れゆく意識の中、私は父の表情を捉えようと必死になったのだが、父の顔を見る前に、私の意識は途切れてしまった。
目を覚ますと、白い天井が見えた。小説などでたまに見かける、白い天井。小説どおりなら、ここは病院だろうか?ゆっくり体を起こそうとすると、頭がいたんだ。やはり、ここは病院らしく、ベッドの周りにはカーテンがかかっていた。ふと横を見て、驚いた。そこには、あの男の子がいたのだ。
「あ、あなたは……。」
痛む頭を抱えながら、彼の顔を見つめる。そう、かれだ。山田くんの告白についてきた彼。私が殴られていたとき、スマホで私を撮っていた彼だ。
「俺の名前は竹上信二。」
竹上くんは下を向いたまま続けた。
「安心して。君が病院から帰ってくる頃には、全て終わっているから。」
彼はそれだけ言うと、私の元を後にした。何が怒っているのかが、全く理解できなかった。考えよう。何とか考えて何か見つけよう。そうは思うのだが、先ほどから睡魔に襲われている私が眠りにつくまで、そうは時間がかからなかった。
ふと、目を覚ます。ここは……ああ、病院か。目を開けてあたりをキョロキョロと見渡していると、通りかかった看護師さんが私の方を見て
「あら、目を覚ましたのね。先生を呼んでくるわ。」
と笑顔で言うと、どこかに行ってしまった。眠りにつく前のことと言い、何がおこっているのかがわからず、誰かに説明して欲しいと思った。
しばらくするとお医者さんらしき人がやってきて、私の頭の状態を見た。
「うん。もう1日念のため様子を見たら、帰っていいよ。」
お医者さんの笑顔は、まるで私の大好きなお日様のようだった。月は嫌いだけれど、お日様は大好きだ。そんなお日様に、お医者さんの笑顔は似ていた。なんだか、優しい感じがするのだ。まるで包み込んでくれているかのような、優しい感じ。
「あ、あの。何がおこっているんですか?」
私がそう聞くと、お医者さんは
「ん?」
と言って、笑いながら答えてくれた。
「君、家の前で倒れてたんだよ。頭から血を流してね。それを、竹上くん?だったかな。が、救急車を呼んでくれて、助かったんだよ。」
竹上くんが助けてくれたのは嬉しい。けれど、お医者さんの話を聞いた時に私を襲ったのは絶望だった。どうして私は家の外にいたのだろうか?答えは簡単だ。父だ。父が、意識を失った私を見放して外に放り出したんだ。父に、あまり良くは思われていないかもしれないとは思っていた。だけど、そこまで嫌われていたなんて。どうして、どうして。
お医者さんに見てもらった後、私はベッドの上にゴロンと横になった。お父さんは、何がしたいのだろうか?お医者さんにあってから、あの優しくて温かい笑顔に触れてから、何かが少しずつ戻ってきたような感覚がした。心の奥底がじんわりと暖かくなると共に、暗い絶望が私を包んで離さなかった。
「お父さん。」
小さく、小さく呟く。絶対に誰にも聞かれないよう。もう、私はあの人を心からお父さんとは呼べないかもしれないから。最後に呼んでおこうと思ったのだ。
「お父さん。」
泣きたかった。心が、私の心が、泣きたがっていたのだ。けれど、どうしても泣けなかった。涙がこぼれてこないのだ。どうしても、泣こうとしても、涙はやっぱり出てこなかった。私はいつから泣いていないのだろうか?私自身でさえ、それはわからなかった。でも、予想はできる。きっとあの日だ。私が生まれてきてから一番のどん底に陥れられた、あの日だ。
誰かに腕を叩かれた感触に目を覚ます。どうやら、昨日はあのまま眠ってしまっていたらしい。
「平山清華さん。退院ですよ。」
看護師さんがにっこり笑ってそう告げた。
「運動をしてもいいけれど、あまり無理な運動はしないでね。何かおかしいと思ったら、すぐに病院に来て。」
お医者さんが続ける。私は、
「はい。」
と答えると、ゆっくり起き上がり、お辞儀をした。二人が出て行ってから着替え、待ってくれていた看護師さんにつれられて外に出る。久しぶりのお日様だ。3日振りかな?おはよう、お日様。
「じゃあ、さよなら。お大事に。」
私はもう一度大きくお辞儀をすると、病院を後にし、家に帰った。
家は、ひどい有様だった。洗い物はたまり、ゴミは捨てられないままで、床に散乱していた。たったの3日でどうしてここまで汚くできるのだろうか?
「清華か?」
珍しくリビングから出てきた父が、私を見下ろす。その目は、まるで私を見ていないかのように、宙を舞っているように感じた。
「昼飯、作れ。」
父はそれだけ言うと、リビングに戻って行った。
「ただいま、お父さん。今からお昼ご飯作るからね。」
父が少し、怖かった。けれど、家に帰ってきて、お父さんにあって実感した。お父さんと呼べる。なんなのだろうか、この感じは。あの時、確かにお父さんに対して絶望……のようなものを感じたのに、あって仕舞えばそんなものは吹き飛んでしまった。やっぱり、私はまだ、お父さんを……愛して、いるのだろうか?
翌日。先生に呼ばれて学校へと向かうと、不思議なことが起こった。部活で学校に向かう生徒が大勢いると言うのに、誰も私の方を見ないのだ。教室によっても、私の教科書はきちんと新しいのが置かれていて、落書きは消されていた。誰か親切な人がやってくれたのだろうかと疑問に思いながら職員室に行く。
「吉田先生、いらっしゃいますか?」
そう尋ねる。また無視されるかなと思っていたのだが、先生はすんなり出てきた。
「平山さん。教室で話そうか?」
先生はそう言って教室の鍵を手に取り、教室へと向かう。私は静かにその後について行った。
「平山さん。今回のことは、本当に申し訳なかった。代表として、お詫びする。だから、あんまり大事にしないでもらいたいんだ。」
先生がいきなり私に向かって頭を下げた。私は少しパニックになった。なんの予兆もなくいじめがなくなったかと思えば、急に謝られたのだ。無理もない。
「ど、どうしたんですか?急に?」
私の問いに、先生は顔をしかめながら答えた。
「竹上のやつが、平山さんのいじめの証拠を持っていたんだ。俺たちが平山さんを無視しているのを録音していたり、平山さんが殴られているのをスマホで撮っていたり……。もう、本当に参ったよ。」
先生のその表情には、溢れんばかりの憎しみが込められていた。一体、どうすればいいのだろうか?本当に、このまま許してしまっていいのだろうか?私は、あんなに苦しんだのに、今の先生の謝罪はどう?主犯は謝りにこず、しかも謝罪するために私を学校に呼びつけるなんておかしい。先生が来るべきなのに。
「おい。」
急に後ろから声がして、振り返る。そこには、竹上くんがいた。けれど、そのいつも無表情だったその表情は、怒りに支配されているのが目でわかった。
「おかしいだろ?」
そう言いながら、先生に近づき、先生を睨む。その目は、地獄から這い出てきた鬼のように恐ろしかった。
「な、何がだい?」
先生は冷や汗をかきながらも笑ってそう答えた。その次の瞬間。教室に大きな怒鳴り声が響き渡った。
「おかしいだろって言ってんだよ!」
私が怒られているわけではないのに。手汗が止まらず、いつもの笑顔を保つことができなくなった。私の表情は一気に崩れ、恐怖の顔に変わる。
「なあ、おかしいだろ?どうしてあいつらは謝らなくていいんだ?どうして怪我人をこんなところまで呼び出したんだ?!」
先生ももううまく笑うことができずに、その笑顔は引きつっていた。ポタポタと冷や汗が地面に垂れる音がする。
「どうなんだよ!」
竹上くんがそう叫んだのを最後に、先生は教室の外へ駆け出して行ってしまった。
「平山さん。このことはちゃんと警察に持っていくから安心して。」
彼の表情は、また無表情に戻ってしまっていた。それでも嬉しかった。誰も味方がいないと思っていたあの時。辛く、苦しかった。消えてしまいたいと思った時さえあった。それでも、私には彼と言う味方がいた。それが、ものすごく嬉しかったのだ。
「ごめん、あんな方法しかとれなくて。証拠を集めるまで動けなかったし……。」
竹上くんの声は平坦で、感情を感じさせないものだった。けれど、ものすごく申し訳ないと感じているのが伝わってきた。
「大丈夫だよ。助けてくれてありがとう。」
久しぶりに、心の底から笑えた気がした。
竹上くんは、もともと優しい人なのだろう。警察に一緒に行く時も、警察の人が私に話を聞いてくる時も、ずっと一緒にいてくれた。でも、私はお父さんのことだけはどうしても話せなかった。これ以上ひどくなるのが、怖かったからじゃない。ただ、お父さんを愛していたから。お父さんのことを話せば、お父さんは間違いなく捕まるだろう。それだけは避けたかった。私のためには、話したほうがいいこともわかっている。わかっているけど、私はどうしてもそのことが言えなかった。外で頭から血を流して倒れていたことについては、こけてしまったと言うことにした。それ以上は、誰も何も聞かないでくれた。
「平山さん。大丈夫か?」
竹上くんの声に、ハッと現実に引き戻される。どうやら私は、ぼーっとしてしまっていたらしく、周りの人が心配そうな目で私を見た。
「だ、大丈夫です。すみません。」
婦警さんが、私の頭をゆっくりと撫でた。
「大丈夫よ、安心して。もうあなたを傷つける人はいないわ。」
そう言って、優しく私を包み込んでくれた。まるであのお医者さんの笑顔みたいに。まるで私の大好きなお日様みたいに。そんな優しさに、包み込まれたのに。やっぱり私は、泣くことができなかった。
帰りは竹上くんが送ってくれることになった。ふらつくほどでもないし、遠慮したのだが、やはり心配だとのことで、警察に送られるのが嫌ならせめて彼を、と、婦警さんが押し切ったのだ。彼女を送って欲しい。婦警さんにそう言われても、竹上くんは嫌な顔一つせず、そして、やはり表情を変えることなく
「はい。」
と小さな声で言った。
「送ってくれてありがとう、ごめんね、竹上くん。」
いつもの笑顔が作れるようになった私は、いつものように笑いかけながら言うと、竹上くんもいつもの無表情で
「気にすることないよ。」
と言ってくれた。
「おれも、平山さん心配だったし……。それに、気になることもあったし。」
私の方を見ることなく竹上くんは続けていった。気になることとはいったいなんなのだろうか?曲がり角を曲がると、夕陽が正面にきて、前が眩しくて見れなくなった。
「大丈夫?僕の後ろにきたら?」
竹上くんはやっぱり優しい。こんな何気ない時まで、私のことを気遣ってくれる。
「大丈夫。それで、気になることって?」
私が尋ねると、竹上くんは私の方を向いて
「ごめん、やっぱりいいや。」
と答えた。
次の日。なんとなく家にいたくなかった私は、少しみんなに対して気まずい気持ちを抱えながらも登校した。他に行く場所が思いつかなかったからだ。意外なことに、みんなまた前のようにニコニコしながら私に話しかけてきた。
「おはよー。前はごめんね?」
みんながかけてくるその言葉に、私は何度も
「ううん、いいよ。」
と答えた。許せるわけがない。どうせこの子たちも、面白がって私のことを無視したのだから。いじめに加担したのだから。けれど、こんなにたくさんの人を許さないと言うのは少しこちらもしんどいだろう。許せない。そうは思いつつも、やっぱり許してしまう。きっと、私を殴ったあの子たちも、私に暴言を吐く父も、やっぱり私は許してしまうのだろう。
お昼あたりになると、夏休みの間でもやっている部活の合間に私に謝りに来る人が大勢私のいる教室に集まってきていた。その大勢に紛れて、彼も私に会いにきた。
「平山さん。」
竹上くんだ。私の頭の怪我が心配で会いにきてくれたらしい。
「ありがとう、竹上くん。」
持てる限りの精一杯の笑顔で応える。純粋に、嬉しかったから。私に謝りに来る人はいても、私の怪我を心配してくれる人はいなかったから。
何も話すことがなく、見つめあっていると竹上くんの後ろから大きな声が聞こえてきた。
「信二ぃ!どう言うことだあ!」
そう叫んだ男の子が、信二、竹上くんの胸ぐらを掴み引き寄せる。あれはもしかして……と、近づいて見てみると、それはやはり山田くんだった。
「どうしたの?その手を離してあげたら、山田くん。」
私がそう話しかけると山田くんは頬を赤く染めたのだが、すぐに首を横に勢いよく振り、私のことを睨んだ。その姿は、私を好きと言う気持ちを振り払おうとしているかのように見えた。
「どうした、山田。」
竹上くんが自分の胸ぐらを掴む山田くんの手にそっと手を当て、きいた。そして、私が瞬きしたのと同時に大きな声が響いた。
「おれを裏切ったなあ!親友のふりをして!」
周りの人が圧倒され、その場にへたり込む人もいた。それに動じることなく竹上くんが話し始める。
「俺はお前を裏切っていない。俺はもともとお前の味方なんかじゃなかった。お前を止められなくて、すまなかったと思っているよ。」
竹上くんの目は静かに山田くんを睨んでいた。けれど、その目と言葉は山田くんの怒りという火に油をさしてしまったようだ。山田くんは、ものすごい勢いと剣幕で竹上くんのお腹を殴り始めた。
「あいつが悪いんだよお!あいつが、これの問いに答えないから!」
ドス、ドスっという音が響く。周りにいるものは誰も止めに入らなかった。それは、先生も。みんながみんな、嬉しそうにそれを見つめていた。まるで、仇が死ぬのを見ているかのように。
あいつというのは、きっと私のことを言っているのだろう。私が、山田くんの告白を断った時、どうしてという問いに答えなかったから。それが始まりだとでも?それが、あの苦しみの始まりだとでも?
次の瞬間には、山田くんが突き飛ばされ、その場にへたり込んでいた。
「なっ、何すんだよ!」
「それはお前の方だろ!」
だって、という山田くんの声が次第に小さくなっていく。周りにいた生徒や教師たちは唖然として二人を見ていた。
「お前にも俺に言えない事情くらいあんだろ!」
そう静かに吐き捨てると、竹上くんが私の方に寄ってきて、優しい声でこう言った。
「ごめんね。もう大丈夫。」
私はその場に崩れ落ちた。
肩を揺すられ、頬をパシパシと叩かれる。頭が痛い。ズキズキと、頭痛がする。
「平山さん!大丈夫か!?」
竹上くんの声で、一気に現実世界へ引き戻された私は、ハッと顔を上げた。周りの人の視線が私に集まっている。私は、竹上くんに肩を支えられていた。
「あ、あれ?私……。」
「本当に大丈夫か?いきなり崩れ落ちて……大丈夫か?」
竹山くんが私を見つめる。その表情は変わっていないが、目は私を心配していた。
「だ、大丈夫。離してくれる?」
しまった、とすぐに後悔をした。心配してもらったのに、ぶっきらぼうな態度をとってしまったからだ。
「ご、ごめんね?竹上くんも大丈夫?」
少し焦りながら謝りながら立ち上がった竹上くんを見上げると、竹山くんの目はもう普通の目に戻ってしまっていた。
やってしまった。けれど、後悔してももう遅い。
「保健室に行こう。付き添うよ。」
彼は私の手を取り、保健室に向かって歩いていった。
「迷惑かけてごめんね?」
いつもの笑顔を少し崩しながら尋ねると、彼は前を向いたまま
「気にしないで。迷惑だなんて思ってないから。」
と答えた。嬉しかった。彼の静かさはまるで夜に輝く星のようだ。私は月が嫌いだから、夜もあまり好きではないのだが、それでも彼は星のように美しく見えた。
「星みたい……。」
思わずぽそりと言葉が溢れた。生憎、彼に聞こえてしまったみたいで彼は私の方を振り返り
「え、何?」
ときいてきた。私は少し頬を赤く染めながらも、なんとか
「な、なんでもない……き、気にしないでっ。」
と答えた。
保健室に着くと、保健室の先生は心配そうな顔をしながら私の顔を覗き込んだ。
「頭のことがあるから、念のため、病院に行く?」
と言いながら、先生は先生の車があるところまで案内してくれた。先生も私のことを無視したくせに。許したつもりでも、やっぱりそう思ってしまう。車に乗り込む前、竹上くんと別れた時、竹上くんもそう思ったようで、静かに保健室の先生を睨んでいた。
「大丈夫?横になってていいからね?」
後部座席に座っている私に、保健室の先生は話しかける。私は見えないとはわかっていても、笑顔で
「大丈夫です。ありがとうございます。」
と答えた。実際のところ、私は平気だった。あんなにいたんでいた頭も、今はもうほとんど痛くない。頭のせいではないのかもしれないと思いながら、私は車が病院に着くのを待った。
病院でいろいろな検査をされた後、私と保健室の先生は診察室に呼び出された。
「頭のせいではないようですね。傷は順調に治っていますから。」
この間のお医者さんが、太陽のような笑顔で話してくれた。
「おそらく、精神的な問題かと。とにかく、今日はうちに帰って休まれたら?」
お医者さんにすすめられては、帰らないわけにはいかない。私は保健室の先生に車で送ってもらい、家へと帰った。
「……ただいま。」
私が小さな声でそういうと、お父さんは酒瓶を振り回しながらリビングから玄関にやってきた。
「おい、学校サボってんじゃねえよ!」
お腹をドスッと殴られる。
「うっ。」
胃から何かが出そうになるのを堪えながら、私は笑顔を作った。
「もう夏休みに入っているの。ずる休みじゃないよ。」
それでも父は納得できないらしく、私の右頬を引っ叩いた。
「お父さん。顔は……顔はやめて……。」
顔を殴られたのが見つかってしまったら、もうお父さんと一緒にいられなくなる。そう考えると、恐ろしかった。この世界が滅ぶと言われるよりも、もっと、ずっと。
数発私の顔を叩いて、お父さんはやっと気が済んだらしく、リビングに戻っていった。
「家事、ちゃんとしろよ。」
それだけ言い残して。
家事をちゃんとやっても褒めてはくれない。そうわかってはいたけれど、お父さんから何かを求められるのは嬉しかった。誰かから何かを期待されるって、嬉しいことだ。たまに重荷になることも歩けれど、期待されるというとことはそこにいてもいいよと言ってもらえているような気がして、なんだか楽しい気持ちになる。
「わかったわ、お父さん。」
いつもより、素晴らしい笑顔をとお父さんに向けられるように。私は痛いのを堪えて精一杯笑った。
夜、今日は早めに電気を消すことにした。頭の包帯を、カリカリとかく。もう血は止まっている。この包帯も、もうすぐすればとれるだろう。少し嬉しい気持ちだった。お父さんが私に暴力を振るった証拠が消える。それは私にとって喜ばしいことだった。
ふと、今日お父さんに叩かれたことを思い出した。腫れてしまっていないだろうか?
ぎし、ぎしと音を立てながら一階に降りる。リビングでは、お父さんがいびきをかきながら眠っていた。近くに転がっていた毛布を父にかけると、私は満足して洗面所に向かった。
「うわ、腫れてる……。」
この腫れ、どうやって隠そうか?悩んでいると、学校で風邪をひいてマスクをしていた子がいたのを思い出した。そうだ、私もマスクをしようと思い立ち、自分の部屋に戻る。
大きなマスクをすれば、頬は隠れるし、この腫れも隠せるだろう。近所の人に、学校の人にバレなければそれでいい。まあ、学校の人にバレても私とお父さんを引き離そうとする人なんていないだろうけれど。いや、竹上くんはどうだろう?
竹上くんの顔を思い浮かべる。思い浮かんでくるのはやっぱり無表情の彼だ。
竹上くんは優しい人だから、私を心配してくれるかもしれない。やっぱり、学校でも誰にもみられないように気をつけよう。
私は自分の部屋に戻り、鼻の下までバサリと布団をかぶると、すぐに眠りについた。
ジリリリリという目覚ましの音に目を覚ます。もう朝か。昨夜はあまり眠れなかった。何度も起きてしまって、それから寝付くのに時間がかかった。目覚ましを止め、制服に着替え、マスクをつけ、さっさと朝ごはんを作ると、私は急いで家を出た。昨日、明日会おうと竹上くんと約束していたので、今日は学校に向かわなければならない。どうしてだろう?私はこんなにお父さんを愛しているのだから、もっと一緒にいたいと思っても不思議ではないのに。私は早く学校に行きたいと思ってしまった。
学校に行こうと歩き始めると、後ろからお父さんの声が聞こえてきた。
「清華!学校から電話だぞ!」
そういうお父さんは、まだ寝ぼけているようでその声から怒りは感じられなかった。久しぶりに昔に戻ったようで、少し嬉しく感じた。私は振り返ると、
「はーい。」
と答えながら家に戻った。
「はい、もしもし?」
学校からの電話は謝罪についての電話だった。私を殴ってきたあの9人が、今日の放課後、私の家に謝罪に来たいのだという。
謝罪をしてくれるというのは、嬉しいことだ。けれど、私は困った。家にはお父さんがいる。今のお父さんに、客人の対応をする能力はないだろう。
「あの、目立ちたくないんで学校ででもいいですか?」
私がそう尋ねると、電話の相手は
「はい、もちろんです。」
と嬉しそうに答えた。何が嬉しいのだろう?ああ、謝罪を受けてもらえるときいて安心したのか。
電話越しで顔が見えないのはわかり切っているのに、私は笑って
「では。」
と電話を切った。
さて、と、学校に行こうとすると、後ろにはお父さんが待ち構えていた。
「なんかやらかしたのか。謝るのは俺なんだぞ!?」
殴られる前に、と、私は間髪入れずに
「違うわ!」
と叫んだ。大きな声をあげたのはいつぶりだろうか?
「違うの。むしろ私が謝罪を受けるの。だいじょ
まだ話している途中だというのに。ドスっという音と共に、私は宙を舞った。ドサリと尻餅をつく。
「目立つじゃねえか。何、問題起こしてんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
尻餅をついて起き上がってこない私を父は一度蹴った後、
「ふん。」
と満足げにリビングに戻っていった。私は父を初めて疑った。
どうして。今回は本当に私、何にも悪くないわ。むしろ、被害者なのに。
ふん、と、満足げに笑ったあの顔。明らかに私を殴ることを目的としていた。
どうして、どうして、どうして。いままで、暴言は吐いても暴力を振るう父ではなかったのに。
私はフラフラと立ち上がり、学校へと向かって歩き出した。
学校へと向かう間に、私は少し落ち着きを取り戻した。いろいろ考える前に、まずは落ち着かないとと自分をなだめる。いますぐにでもお父さんを問い詰めたい気分だったが、お父さんについて考えるのは、家に帰って、家事と宿題を終わらせてからにしようとと思い直し、私は前を向いて学校に向かった。
学校に近づいていくと、校門の前に誰かが立っているのが見えた。さらに近づくと、それが竹上くんであることがわかった。相変わらず、何人もの女の子に囲まれている。
「おはよう、竹上くん。昨日はありがとう。誰を待っているの?」
私がそう尋ねると、竹上くんは私をみながら
「平山さんを。」
と言った。周りの女の子たちは静かになっていた。
私を待ってくれていたのか。校門で待ち合わせをしていたみたいで。まるで友達みたいで、なんだか嬉しく感じた。
「そっか。昨日約束したもんね。」
楽しそうな笑顔を作って竹上くんを見る。竹上くんは私から目線を離し、歩き始めた。周りに群がっている女の子たちもそれに合わせて移動する。ついて来いということだろうか?私は竹上くんの近くに駆け寄ると、竹上くんの目が少し穏やかな目になるのがわかった。
「平山さんが心配だったんだ。結局、なんだったの?」
きっと昨日のことを聞いているのだろうと思った私は、
「精神的なものらしいから、心配ないよ。」
と答えた。すると、竹上くんは心配そうな目で私をみながら、
「心配なくなんかないよ。」
と言った。どうしてだろう。怪我のせいではないのに。
「心が無事じゃないんでしょ?なら、心配だよ。」
竹上くんは私の肩をポンと叩くと、女の子に囲まれたままどこかにいってしまった。
先生に呼び止められ、教室に行くと、すでに私を殴ってきた9人の生徒たちと、その親御さんが集まっていた。その中には、もちろんあの3人組や山田くんもいた。
「この度は本当に申し訳ありませんでした!」
全員が口を揃えてそう言う。
この間、一応警察にはいったのだが、相談した結果被害届は出さないでおいたのだ。目立ちたくない。目立って、お父さんのことがばれたくない。そう思った私が、なんとか絞り出した結論だった。
「いえ、もういいんですよ。でも、もう二度と私に関わらないでいただきたいんです。」
警察の対応は、厳重注意にとどめてもらった。
「でも、次はありませんから。」
にっこり笑顔でそう言い渡すと、私は教室を後にした。
教室を出ると、竹上くんが一人で立っていた。今度は女の子たちには囲まれていない。
「女の子たちはどうしたの?」
「あー、置いてきた。」
竹上くんは女の子たちのことを鬱陶しいと思っていたのだろうか?なんだかこの話題は楽しくなさそうに感じられた。
しばらくニコニコしながら見つめ合っていると、竹上くんがきゅうに
「話がある。」
と言って私の腕を引っ張った。私は腕を引っ張られるまま竹上くんの後についていった。ついたのは、誰もいない中庭だ。
「話って、何?」
彼の目を見ながら尋ねる。彼はベンチに腰掛けると、私の腕を離し、話してくれた。
「心が心配だって言ったろ?……気になってるんだ。先生から謝罪を受けた時は大丈夫だったのに、どうしてあのタイミングでしんどくなってしまったのかなって。」
あのタイミング。山田くんが竹上くんに掴みかかった時だ。そういえば、どうしてだろう?考えても見なかった。
少しうーん、と悩み、答えを探す。一体何がそんなにショックだったのだろうか?
「あのね、あんまり話がまとまらないんだけど、聞いてくれる?」
彼は静かに頷くと、私の目をしっかりと見た。彼なりの覚悟が、現れていた。
「私ね、ショックだったんだと思う。」
自分を好きだと言ってくれた彼が現れたと思ったら、
「私のこと好きだって言ってたのに、私のこと殴るしさ。」
それも、私の事情を話さなかったからと言う理由で。
「私なんかのことで……親友の竹上くんに掴みかかってたし。」
私なんかのことで。私のせいで。
うん、うんと頷きながら私の話を聞いていた彼が、突如口を挟んだ。
「平山さんのせいじゃないよ。」
まるで私の心を読んだかのように、彼はそう言った。心の中を見透かされたように。けれど、ちっとも気持ち悪くなかった。ただ、嬉しかった。嬉しかった。この言葉を、彼の言動から使うのは何回目だろうか。ああ、そうだ。彼が優しいからだ。私が出会った人の中で、誰よりも静かで優しい人。
「竹上くんは優しいんだね。」
心からの笑顔を彼に向ける。彼は目を少し見開いた後、そっぽを向いてしまった。私の笑顔が気に食わなかったのだろうか?
「ど、どうしたの?」
「き、気にしないでっ。」
彼が焦った声でそう言った。彼の声に変化があったのは初めてだ。嬉しい。彼が感情をあらわにしてくれたのが嬉しい。そっぽを向いてしまったので、彼の表情までは読み取れなかったが、それでも嬉しかった。
「今日はもう帰ったら?疲れたでしょ。」
そう言った彼の声はもう、いつもの声に戻ってしまっていた。少し残念だが、仕方がない。
「うん。ありがとう。帰るね。」
私は竹上くんに手を振ると、学校から家に帰った。
玄関のドアを開けると、お父さんがいびきをかく音が聞こえてきた。酔い潰れて眠ってしまっていたのだろう。まだ昼間なのに、とは思うが、いつものことだ。父がそうしたいなら、好きにさせてやればいい。
「お父さん、おやすみなさい。」
小さな声でそう言って、辺りに散らばっている毛布を洗濯機に放り込む。そして、昨日洗ったいい匂いのする毛布を、父の肩にそっとかけた。
「かぜ、ひかないでよね?」
ふふふ、と笑って父の寝顔を見つめる。そんな時、いつもよくふと思ってしまう。昔に戻りたい。母に帰ってきて欲しい、と。けれど、いつもそんな考えは振り払う。そんなこと、思ってはいけないのだ。父に無理に変わって欲しいと願ってはいけないのだ。母の自由を奪ってはいけないのだ。それは、他人を不幸にするものかもしれないから……。
誰もいないのに。誰も私を見ていないのに。にっこり笑顔を作った。笑顔を絶やすな。そうしたら、いつか父も元に戻るかもしれない。いつか母も帰ってきてくれるかもしれない。いつか、私も、幸せになれるかもしれない……。その日が来ることを、切に願った。
日は沈み、もう眠る時間となった頃。どこかで携帯が鳴る音がして、音の鳴っている場所を探す。私の携帯の画面は、もうすでにヒビが入り、使い古されたものだ。ヒビは気がついたら入っていた。もしかしたら、お父さんが投げたのかもしれない。
画面を見ると、誰かからメールが来ていた。題名は、『竹上です。』となっている。彼には番号もメールアドレスも教えていないのに、どうして知っているのだろうか。疑問に思いつつ、メールを開ける。内容はこうだ。
「友近さんにメールアドレスを教えてもらいました。急にすみません。平山さんのことが心配だったんです。」
友近さん。少し前にメールアドレスを教えたクラスメイトだ。
彼の無表情な顔が頭に浮かぶ。と同時に、まだ心配してくれていたのかと、少し喜びも湧き上がった。なんと返信しようかな、と考えていると、またメールが届いた。題名はやっぱり『竹上です。』だ。ボタンを押して内容を確認する。
「何かあったらメールしてください。」
やっぱり、心配してもらえると言うのは嬉しい。まるで君は必要なんだと言ってもらえているようだ。顔がなんだかにやけてしまう。こんなに嬉しいと思うことが増えたのは、優しい彼のおかげだ。彼に感謝しなくては。その優しい彼に、どんな返事をしようか。今度は、返事の内容はすぐに決まった。
「ありがとう。」
そう一言だけ書くと、メールを彼の元へ飛ばした。彼が安心してくれるといいな。彼が喜んでくれるといいな。そう思いながら、私は眠りについた。
お日様が私を起こす。もう朝だよ、と言って。どうやら昨日は、目覚ましをかけないまま眠ってしまったらしい。恐る恐る一階に降りると、お父さんはまだ眠っていた。時計を見ると、今は9時だ。なんだか少し罪悪感が湧いてくる。
「お父さん、ごめんね。」
いつもなら、朝早く起きてお父さんがいつ起きてきてもいいように朝ご飯の支度をするのに、今日はかなり寝坊してしまった。まだお父さんが起きていないからいいものの、私の心は罪悪感の海に浸された気分だった。とにかく、さっさと朝ごはんを作ってしまわないと、と、台所に立つ。目玉焼きを焼き、パンにジャムをつけ、レタスにドレッシングをかけたものを大きめのお皿に乗せた。自分の分をお父さんのよりは小さめのお皿にもり、二階にある自分部屋へ上がる。
食べながら、つい最近終わった私へのいじめを思い出した。思い出すだけでも、寒気がする。でも、本当に一瞬のことだったように感じられる。実際には何日かはいじめられていたのだけれど、まるで台風のようだ。突如やってきて被害をもたらし、通り過ぎていく。自分への被害が大きくならないために謝っていたあいつらは許せないけど、仕方がない。そう思った瞬間だった。携帯が、プルルルルと音を立てた。
「わっ、わっ。ちょっと、お父さんが起きちゃう!」
小声で焦った声を出しながら電話に出ると、聞こえてきたのは聞き覚えのある声だった。
「あ、もしもし?ひ、平山さん?」
山田くんの声だ。驚きつつ、そして私の心の中には確かな嫌悪感があった。今更一体私に何の用があると言うのだろう。
「うん。私だよ。どうしたの?番号教えたっけ?」
優しく、優しく話さけなければと思っていたのに。少し威圧的になってしまった気がする。
「あ、あのお。」
「うん。」
山田くんが告白してくれたときのことを思い出す。あの時も、こうやってしどろもどろ山田くんの意見を聞かせてくれたっけ。
「ごめんなさい!」
煩く感じられるほどの大きな声が耳元にあてた携帯から響いた。その声色には、焦りが感じられる。
「本当に……ごめんなさい。」
今にも泣きそうな声をしていた。心の底から謝ってくれているのだろう。けれど、その声が私の心を動かすことはなかった。
「大丈夫よ。」
優しい優しい声で答える。まるで心の奥底からそう思っているかのように。そう聞こえるように。
「ち、違う。」
山田くんはすでに泣き出してしまっていた。それでも、違うんだと言い続けた。
「本心が聞きたいんだ。」
弱々しい声だった。何かを恐れているかのような声で、私の本心が聞きたいのだと、山田くんはいう。責めて欲しいとでもいうのだろうか?
「本心?私は嘘をついていないわよ?」
今度は絶対に悟られないように笑顔で、なんとも思っていないと思ってくれるように。そう意識して答えたはずなのに。
「本心じゃないんでしょ?知ってるよ。」
まるで神にでもすがるような声だった。なんだか嬉しく感じる。そして、恐ろしく感じた。自分の本心を見抜いてくれるものがいた。それは嬉しく、とても恐ろしいものだった。
「そんなに聞きたいのなら、聞かせてあげる。」
顔が、醜い笑いを勝手に作る。私は、悪魔に支配されてしまったのだろうか?
「正直、嫌いだから。山田くんのこと。」
自分でも思った。冷たい声だと。冷た過ぎる声だと。仕方がないよな、と、心の中で苦笑いをする。殴られている時、それを楽しそうに見ていた山田くんを嫌いにならないわけがないのだから。
「そうか、そうだよね。」
ごめんね、ごめんなさい。それを山田くんは何度も繰り返した。許されるわけがないと、わかっているのだろうに。わかっているのに。それでも、私は。
「大丈夫よ。もう許してあげる。」
と笑った。
久しぶりに、大切なものを入れている箱を自分の部屋のタンスから取り出した。箱を開けると、中には昔家族で作った思い出の写真がたくさん詰められていた。その中に、手紙がある。中に入っている手紙はこれだけだ。私にとって、世界で一番大切な手紙。どんな手紙よりも、大切な手紙。これを前に読んだのはどのくらい前だろう。きれいに保存された手紙には、ほとんどが空白になっていた。上の方に、小さな文字で少しだけ。
「許せる人になりなさい。みんなで笑えたら、それであなたは勝ちなのです。
母より」
母の字で、それだけが書かれた手紙。母が出て行った朝に、この手紙だけが残されていた。それ以来、この手紙は私の宝物だ。
「お母さん、ごめんなさい。」
私は、どうしても人を許せる人にはなれなかった。許せないの。私を殴ったあいつらが。私を無視したあの大勢が。ごめんなさい。許さなきゃいけないのはわかっているのに。許さなければ前に進めなくなってしまうのはわかっているのに。どうしても許せない。許せないんだ。
泣きたいくらい悲しいのに。私はまた、泣けなかった。
床にゴロンと横になる。天井を見上げれば、星図が貼ってあった。昔お父さんが貼ってくれたのだ。まるで天井が透けて見えているようで、それは面白かった。そして、美しいと感じた。私は、星たちのように、あの彼のように美しくは生きられない。いったいこれからどうすればいいというのだろう。みんな変わってしまった。幸せに見えた学校は薄っぺらい何かで作られた地獄だった。お母さんもとうの昔に出て行き、お父さんも今は私に暴力を振るう。けれど、どうすることもできなかった。転校するわけにもいかないし、怖かった。もし転校した先でもいじめられたらどうしようという不安がある。お母さんが帰ってくるわけはないし、帰ってきてもお父さんが元に戻るだろうか?かと言って、この家を出て行きたくはない。私は、お父さんを愛しているから。ずっと、ずっと一緒にいるのだと、昔約束したから。
「はあ。」
大きくため息をつく。私はこれから、いったいどうやって生きていけばいいのだろうか?
かあ、かあ。カラスの鳴き声で目を覚ます。最近の私は気がつけばよく眠ってしまっていることがある。よっぽど疲れているのかもしれない。
水を飲みに行こうと、ゆっくり体を起こすと、後ろの扉がガチャリと開いた。びくっと肩を振るわせながら振り返る。後ろにいたのは。
「お、お父さん。」
お父さんの顔は珍しく嬉しそうな顔をしていた。何かいいことがあったのだろうか?
「今から明後日の夜まで、出ていけ。」
急にどうしたというのだろうか?誰か客人でもくるのだろうか?浮かんでくる疑問はたくさんあった。私には抱えきれず、こぼれ落ちてしまいそうなほど。けれど、必死に抱え、口からこぼれ出ないように注意しながらいつもの笑顔を作る。
「わかったわ。お父さん。」
あなたが望むなら。
着の身着のままで私は家を出た。持っているのは、いつものバックだけだ。家を出たのはいいものの、これからどうしようか、私は迷っていた。止めてくれそうな友達もいないし、ホテルに泊まれるほどのお金もない。もう、どうしようもなかった。
そういえば、と、彼のことを思い出した。あの無表情の彼なら、私のことを助けてくれるだろうか。気がついたときには、私は携帯を手に取っていた。夏の夜は冷える。私の手も、もう冷たくなっていた。その冷たい手で、メールを打つ。
「公園で待ってる。」
この近くには公園は一つしかなく、公園といえばここだろうという公園がある。私はそこに向かってヨロヨロと歩き出した。迷惑だということはわかっていた。公園で夜を明かすことも可能だとわかっていた。それでも、彼なら助けてくれるかもしれないと、思ってしまったのだ。寒くて、なんだか恥ずかしくて。私はその気持ちを紛らわすようにブランコに座って、足をぶらぶらと動かした。
「平山さん!」
5分もしないうちに、彼はやってきた。彼の声を聞いて自然に顔が笑顔になっていくのがわかる。
「竹上くん!」
立ち上がろうとすると、彼は私にものすごい勢いで駆け寄ってきて、私の肩をがっしりと掴んだ。
「だ、大丈夫!?」
彼の眉は曲がり、目は歪んでいた。何が起こっているのがわからなかった。
「か、顔が……。」
彼の表情が、変わっていた。その表情をあらわにし、私に訴えかけていた。どうしたの、心配だよって。
「え、あっ。ごめん。」
すぐに彼はそっぽを向いてしまって、一呼吸ついた後、また私に向き直った。
「何があったの?」
もう、声も表情も元に戻ってしまっていた。喜ぶのは後だ。今は彼になんとか言い訳をしないと。
「なんか、家にいたくなくて……。」
もう、そんな言い訳しか思いつかなかった。どうすればいいかわからない。口からこぼれ出るのは。
「えっと、あの……。」
そればかりだ。彼ははあ、とため息をつくと私の方を離した。
「話したくないんならいいんだよ。」
優しさが伝わってくる。その一文字一文字が、大きな優しさを背負っているようだった。
「とりあえず、俺の家、来る?」
彼は後ろを向きながらそう提案してくれた。嬉しい申し出なのだが、少し不安でもあった。迷惑になっていないだろうか?
「迷惑だなんて思ってないよ。おいで。」
また、彼は私の心を見透かしたようにしてそう言った。彼は本当にどうして人が思っていることがわかるのだろうか?不意に、笑みが溢れる。
「ありがとう。」
二人で歩きながら彼の家に向かう。
「竹上くんの家族、なんていうかな?」
その問いに彼はどうじることなく
「俺しかいないよ、家には。両親は海外にいるから。」
と答えた。驚いた。1人で寂しくないのだろうか?私は、お父さんと2人でも寂しかったのに。
街灯に照らされながら2人で夜道を歩く。途中からはもう何も話すことがなくなって、お互いに黙って歩いていた。私はふと、夜空を見上げた。私の嫌いな月が輝いている。じっと見つめていた。まるで睨むかのように。
「月が嫌い?」
急に彼が訪ねてきた。きっと、月を睨んでいたのを見られたのだろう。
「ええ、嫌いよ。」
自分が放った声のはずなのに。その声はどこか儚げに聞こえた。
「どうして?」
私の方を振り向くことなく彼が私に尋ねる。私は、
「内緒。」
とだけ答えて彼に笑いかけた。私が笑いかけても、彼が笑うことはないのだろうけれど。
「そういえば、さっきの表情、嬉しかったよ。」
「え?嬉しかったの?」
もう今度の彼は私の方をチラリと見ただけで動揺することはなかった。
「うん。嬉しかった。竹上くんが心を開いてくれた気がして。」
彼のことが、少し心配でもあった。彼が表情を変えないのは、何か隠さなければいけないことでもあるかのようで。まるで、私のように。
「そう?そんなに俺、心開いてないかな?」
「うーん、開いていないっていうか、わかりづらいっていうか……。」
ふふふ、と自然に笑いが溢れた。これは、無意思に作り出された笑いなのか、私の心からの笑いなのか。
そしてまた、沈黙の時間が始まった。2人とも何も話さない、静かな時間。聞こえてくるのは、風の音だけだ。
突如、彼が静かに腕を上げ、きれいな一軒家を指さした。
「ここだよ。」
穏やかな風が、夜を歩き回っていた。
「新築?綺麗だね。」
「そう。新しく引っ越してきたんだ。」
どこから引っ越してきたの、とは聞かなかった。寂しそうに家を見つめる彼の顔を見れば、聞く気なんてなくなってしまったから。
「さ、はいって。」
彼がポケットから鍵を取り出し、ガチャリと玄関の鍵を開けた。扉を開けると、そこには無機質な部屋が広がっていた。家具などもろくになく、必要最低限のものが置いてある状態だった。
「綺麗に片付けてあるんだね。」
彼が機嫌を損ねないよう、ニコニコ笑いかける。彼は
「そうだね。」
と言って台所に入って行ってしまった。しまったと思った。なぜかはよくわからないけれど、とにかく機嫌を損ねてしまったのは間違い無いだろう。
「ご、ごめんね?」
私がとりあえず、と謝ると、彼はため息をついて
「どうして謝るの?」
ときいてきた。答えることは、できなかった。
彼は私にお風呂に入るように促した。汚いままでいるわけにもいかないので、私は素直にお礼を言うと、お風呂に入った。彼の家のお風呂は狭くも広くもなく、ちょうどいい大きさだった。2人で入るには少し狭いが、1人で入るのであれば少し広いくらいだ。
「ふう。」
湯船にどっぷりと浸かると、夕方まで眠っていたはずなのに疲れているのを感じた。今日は特に何もしていないのに、どうしてこんなに疲れてしまったのだろうか?ああ、そんなことよりも、お父さん、お腹は空いていないだろうか?眠ってしまっていたから、お昼ご飯も作っていないし、今は作り置きもない。お父さんのことが心配になってしまった私は、一度
「はあ。」
とため息をつくと湯船から上がることにした。なんだかそわそわして、落ち着いて浸かっていることなどできなくなってしまったのだ。
ザパンと音を立てて立ち上がる。揺れたお湯が、私の足を撫で、肩についていたお湯がお腹をつたった。
「ひ、平山さーん。服とバスタオル、置いておくねー。」
扉の向こうから彼の大きな声が聞こえてきた。なんだか焦っているような話し方だ。
「わかった。ありがとおー。」
私も大きな声で答える。シャワーで体を流すと、私はお風呂場の扉を開けた。
彼が置いてくれたであろうバスタオルはふわふわで、温かくなどないはずなのに、どこかに温かみも感じられた。
バスタオルで体についた水分を拭うと、なんだかさっぱりした気分に包まれた。
「ん?」
バスタオルをのけてから気が付いたのだが、シャツとズボンが置いてあった。服を用意してくれたのか。ほつれもなく、どうやら新しいものを置いておいてくれたようだ。それに、1人で住んでいると言うのに女物だ。お母さんが置いて行った服なのだろうか?
洗わずに置いておいた下着を手に取る。
……あれ?そういえば。この下着、私隠してお風呂に入ったかな?ううん、隠さなかった。
彼の大きな声が蘇る。「ひ、平山さーん。」あの時、彼は確かに動揺していた。もしかして、もしかしてだけれど。
「下着……見られた?」
小さく声に出すと、現実を突きつけられたようで、一気に恥ずかしくなってきた。
「や、やだっ。」
顔が真っ赤になっていくのがわかる。どうしようという焦りが、私にじりじりと近づいてくる。
「どうした?」
コン、というノックの音とともに彼がきいてきた。私の声を聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「なっ、なんでもない。」
「え、あ、そ、そう?」
彼の声からはまだ動揺が見られる。やはり、私の下着を見たのだろうか?
聞いてみようかと思ったところで、私は首をブンブンと横に振った。嫌なことをわざわざ思い出させる必要はないのだから。
「なんでもない。ありがとう。大丈夫!」
だからもう言ってください、と、心の奥底から願った。恥ずかしくて、恥ずかしくて、溶けて消えてしまいたくなるくらいだった。
服を着て、お風呂に入る前に案内してもらったリビングに向かうと、彼がソファーあぐらをかいて座っていた。静かに、そーっと。音を立てないように近づくと、彼の真後ろまで近づくことができた。驚かしてやろうと、手を伸ばす。
「何する気?」
私の方を向かないまま、彼は私に向けて声を発した。
「わっ。」
これには驚いた。てっきり気付かれていないと思っていたのに、気付かれていたのだから。伸ばした手を引き戻すと、彼は私の方を振り返った。
「驚かそうとしたの?残念だったね。10年、いや、100年は早いよ。」
彼の話していることといつもの変わらない表情が合わなくて、なんだか面白い。 「ふふふ。」
私が笑うと、彼はまた表情を変えないまま
「何?」
ときいてきた。また表情は変えないま。それがまた面白くて。私は声を上げて笑ってしまった。
「あははっ。」
私の顔には、心からの笑顔が浮かんでいた。その時だった。
彼が、ふと、笑った気がした。
「えっ?」
「ん?何?」
驚いて彼の顔を凝視してみる。けれど、そこにはもう彼の笑顔はなかった。
「今、笑わなかった?」
恐る恐る聞いてみると、彼はそっぽを向いて、顔を手で隠しながら
「……ごめん、忘れて。」
と言うのだ。確かに、確かに彼が笑ったのだ。今日はいい日だ。彼の表情が変わるのを2回も見ることができたのだから。
「ふふっ。嬉しいなあ。」
私がそう言って笑うと、彼はため息をついて
「またそれ?何が嬉しいって言うの?」
と意味がわからないとでも言うように言った。
しばらく笑って、笑い疲れた頃。彼は
「気が済んだ?」
と言って、私を開いている部屋に案内してくれた。お母さんの部屋なのだと言う。この部屋も綺麗に片付けられていたて、あるのはベッドと衣装ダンス、化粧台だけだ。
「じゃ、おやすみ。」
彼はそれだけ言うと部屋を出て行ってしまった。なんだか少し、残念だった。
ベッドにゴロンと寝転がった。あまり使われていないであろうそのベッドは、綺麗でふかふかだった。思わず上でジャンプしたくなるくらいだ。
「眠れるかな?」
今日は夕方まで眠っていたのだ。流石の私も眠れないだろう。そう思って目を閉じると、だんだんと睡魔の海が近づいてくるのがわかった。せっかくふかふかのベッドなのだ。今日はこのまま眠ってしまおうと、海に自ら飛びこんだ。
朝、鳥の鳴き声で目を覚ます。そういえば、昨日家を外から見たときに庭に小さめの木があった。そこに小鳥でも止まっているのだろうか。
ゆっくりと体を起こすと、扉が叩かれる音がした。
「入っていい?」
私が心の中で彼と呼んでいる竹上くんの声だ。そういえば、私はどうして彼のことを彼と呼ぶのだろうか?それも、2人っきりの時が多い気がする。
「ねえ。入っていい?」
「あっ、ちょっと待って。」
急いで立ち上がり、化粧台についている鏡を覗くと、案の定髪の毛がぼさぼさになっていた。自分で自分を急かしながらさっとある程度整えると、扉に駆け寄り扉を開けた。
「おはよう。竹上くん。」
「おはよ。朝ごはんだよ。顔洗っておいで。」
何から何まで申し訳ないと思いながら、部屋をで、洗面所に向かう。途中の廊下で窓を覗くと、外にはやっぱり小鳥が木に止まっていた。
「おはよう、鳥さん。」
前を歩く彼に聞こえないくらいの小さな声で鳥に挨拶をする。私は鳥が好きだ。昔、父が好きだと言っていたから。まあ、鶏肉が、だけれど。父はとにかくお肉が好きで、何が食べたいと聞くとよく肉!と答えていたっけ。
「平山さん?」
「あ、ううん。なんでもない。」
朝ごはんか、と、彼の言葉を思い出す。朝ご飯。お父さんの朝ごはん。思わずため息をつきたくなる。お父さんの食事は大丈夫だろうか?きちんと食べられているだろうか?考えれば考えるほど不安になってくる。
「ついたよ。……平山さん?」
彼が振り返り、首を傾げて私の顔を覗き込んだ。
「あっ。ごめんね。ありがとう。」
急いで笑顔を作り答えると、洗面所に入り、顔を洗い始めた。
「タオル、置いておくね。」
「ゴボ、ゲホッ、うん、ゴボボボ。」
「……返事しなくていいから。」
顔を洗い終え、彼の用意してくれたタオルで顔を拭く。振り返ると、彼は後ろで待ってくれていたようだ。
彼の後についてリビングに行くと、テーブルの上には朝食が並べられていた。目玉焼きに焼いたパン、それにレタスと、そしてヨーグルト。ヨーグルトはあまり家では出さなかったので、食べるのは少し久しぶりかもしれない。
「どうぞ。」
彼は私の目の前の席に座り、小さな声でいただきます、と言うと食べ始めた。それに習って私もいただきます、と作ってくれた彼や食材に感謝しながら食べ始める。パンの焼き加減はちょうどいいし、ヨーグルトもよく冷やされていて美味しい。私は彼の作ってくれた朝食をペロリとすぐに食べ終えてしまった。
「美味しかった。ごちそうさま。」
彼もすぐに食べ終え、ごちそうさまを言った後、小さな声で
「お粗末様でした。」
と言った。なんだか心がほっこりした。
食べ終えて休憩をしていると、彼が立ち上がった。お皿を集め始めているから、片付けをしようとしているのだろう。
「あ、私やるよ。」
やってもらってばかりでは申し訳ない。私も何かしなければと立ち上がると、彼は首を振って断った。
「いいよ。俺、好きなんだ。家事するの。」
家事を好きだと思えたことはなかった。 家事は誰もやる人がいなくなってしまって、やらなければいけないことだと思って始めたものだったからだ。何か好きなことがあると言うのは素晴らしいことだ。その上それが実用的なものだったら、生活はさらによくなるだろう。
「わかった。じゃあ、待ってるね。」
お皿洗いを始めながら、彼は私に話しかけてきた。
「今日の予定は?どうするの?もう帰るの?」
私は少しうーんと悩むと、
「とりあえず外に出ようかな。夕方に家に帰りたいんだけど、ずっとここにいるわけにはいかないし。」
と答えた。ここにいてはまた迷惑がかかってしまう。とにかく、早くこの家を出なければと思った。
「別にいてもいいよ。」
「迷惑がかかるから。」
私がそう言って断ると、彼はじゃあ、と言って提案してきた。
「山田と3人でどこかに行こうか?」
昨日も来ていた制服に着替え、外に出ると、もう山田くんが玄関の目の前で待っていた。
「おはよっ。平山さん。」
慌てて笑顔を作り、挨拶を返す。
「おはよう、山田くん。」
私がにっこり笑いかけると、山田くんは首を傾げた。
「制服?」
今までは友達と遊びに行くことなんてなかったから、服も気にしていなかったのだが、やはりこれでは、と、自分でも自分の姿が残念に感じる。
「私、服はあんまり持っていなくて……。」
山田くんと竹上くんが私をみる。見ている。なんだか、言われてみると恥ずかしくなってきた。
「まあ、持っていないなら気にすることないよ。」
竹上くんがそういうと、山田くんも納得してくれたようだ。
「今日はどこにいくの?」
この恥ずかしさを忘れようと私がそう尋ねると、後ろで家の鍵を閉めていた竹上くんが
「ショッピングセンターは?あそこ、近いだろ?」
その提案に、山田くんがすぐに
「それだ!」
と同意した。
私たちは結局竹上くんの提案通りショッピングセンターに行くことになり、歩いてそこへ向かった。昔はいつも車で行っていたから知らなかったが、そこは歩いて行ける距離にあるらしい。
「何があるところなの?」
私がそうきくと、山田くんが答えてくれた。
「服とか、アクセサリーとか、化粧品とか、雑貨屋、百均に……フードコートもあるな。お昼はそこで食べるのもいいかも。」
服に、アクセサリーか。最近は家事につきっきりで、あまり遊びに出ることはなかったから、長いこと見に行ったり買ったりしていないな。
昔から私はキラキラ光るものが好きだった。それは、もちろん服やアクセサリーも例外ではないわけで、私は見に行くのが大好きで母がいた頃はよくねだってお店に連れて行ってもらっていた。
「平山さんは、何が見たいの?」
「あ、俺が聞こうとしてたのに!」
2人と話す会話は、なんだかムズムズするものだった。これが青春というものなのだろうか?
「そうだなあ。私はアクセサリーが好きだから、アクセサリーが見たいな。」
そう、言ってから気がついた。
男の子って、女の子みたいにあんまりアクセサリーつけないよね?見に行っても、私しか楽しくないのでは…?
「ご、ごめんね!やっぱり、他のとこまわ……
「いいね。いこうか。アクセサリーショップ。」
「そうだな!女の子らしくていいと思うよ。」
山田くんが私の肩をポンと叩き、竹上くんが私の方を見て、そう言ってくれた。なんだか少し、嬉しかった。山田くんといても嫌にならないし、もしかすると、私は山田くんのことを許せているのかもしれない。そう思うと、余計に嬉しかった。
しばらく話しながら歩いていると、ショッピングセンターについた。かなり早かったように感じる。出発してから着くまでに、30分もかかっていないだろう。
「さ、行こうか。アクセサリーショップ。」
山田くんがショッピングセンター内の地図を取ってきてくれて、アクセサリーショップを探し始めた。
「2人は行きたいところとかないの?」
私が尋ねると、2人はううんと首を振った。もしかしたら、ここにはよくきていて、もう全部の店を見てしまっているのかもしれない。私のためにここに誘ってくれたのだとしたら、それは少し申し訳ないことだ。
「あった。ここだ。」
アクセサリーショップはこのショッピングセンターには一つしかないらしい。
「あ、目の前だな。」
山田くんが指さしたのは私の真後ろだった。振り返ると、そこにはきらびやかに輝くアクセサリー達がいた。
「わあ。見に行っていい?」
「心ゆくまで。」
私は柄にも合わずアクセサリーショップまで駆け寄った。まるで子供のようにはしゃいでいた。ピンクゴールドの腕時計に、丸いビーズで構成されたブレスレット。それに、音符のネックレス。
「綺麗……。」
特に音楽が好きなわけではないのだが、なんだか綺麗に思えた。小さくて、なんだか可愛い。値段もそんなに高くない。900円だ。
買おうか迷ったのだが、今回はやめておくことにした。お父さんからもらったお小遣い。それは、大切なものだ。あまり無駄遣いはしたくない。
「ありがとう。気が済んだわ。」
2人はずっと店の前で待ってくれていたようだ。2人のもとに駆け寄り、お礼を言う。ショッピングセンターの真ん中に置かれていた時計を見ると、見始めで1時間は経っている。
「ごめんね。長いこと見ちゃった。」
その答えとして、山田くんは笑い、竹上くんは
「気にしないで。」
と言ってくれた。
次にどこに行くかも選んでいいと言ってくれたので、どこに行こうか迷っていると、少しそこで待っているように言われた。私は地図から顔をあげ、
「うん。わかった。」
と答えると、また地図に目線を戻した。次はどこに行こうか?私はかなり迷った後、どこに行くかは決めずに探索をすることにした。
「お待たせ!どこに行くか決めた?」
山田くんが楽しそうな笑顔できいてきた。
「とりあえず、グルグル回りたいな。入りたい店があれば入る感じで。」
私がそう答えると、2人は黙ったままうんとうなずいた。
ショッピングセンターの端に向かって歩き始める。このショッピングセンターはそこまで広くはないので、すぐにつきそうだ。もう端が見えてきている。
「どこか入りたいところはないか?」
山田くんが私の顔を覗き込んだ。そして、嬉しそうに笑う。
「じゃあ、そこの雑貨屋さん、見ていい?」
「もちろん。」
私がお店の中に入って回っていると、2人は私の後についてきた。昔、私も両親について回ったな。そんなことを想像していると、なんだか2人が家族のように大切な人に思えてきた。こんな人を、みんなは友達と呼んでいるのだろうか。
「ねえ。」
「ん?」
「どうした?」
不安になりながらも、恐る恐る尋ねる。
「私たち……友達だよね?」
2人は私の目をしっかりと見た後、
「「もちろん。」」
と答えてくれた。
その日は、結局夕方になるまでショッピングセンターの中を回っていた。帰路に着く頃には、もう3人ともヘトヘトで、なんだか楽しくて笑ってしまった。けれど、これは本当に心からの笑顔なのかがわからなかった。今まで、ああ、これは心の底からの笑顔だと思えた笑顔も、そうでなかったような気がしてくる。ダメだダメだと首を横に振った。悪い方向に考えてはいけない。しっかりしないと。そんなことよりも、お父さんのご飯の心配をしないと。
そう思い、2人と別れて急いで帰ろうとすると、2人に
「「待って。」」
と呼び止められた。渡したいものがあるらしい。竹上くんがポケットから何かを取り出す。それは、小さな袋に包まれていた。
「開けてみて。」
山田くんに言われて開けてみると、その袋の中身はあの音符のネックレスだった。
「えっこれ。」
「ほしそうにさてたから、2人で買ったんだ。」
山田くんがへへへと笑う。けれど、友達からプレゼントなんてもらったことのない私は動揺していた。
「う、受け取れないよ。」
ネックレスを袋の中に戻し、竹上くんの目の前に突き出す。
「受け取ってくれ。俺たちが持っていても意味はない。」
竹上くんは私の手を取り、私の手の上にネックレスの入った袋を乗せ、握らせた。確かに、これは女の子である私にしか使えないだろうと思った私は、そのネックレスを素直に受け取ることにした。
「ありがとう!」
今度こそは、心からの笑顔だった。
その後2人と別れ、家が見えてくる頃、私はまだ嬉しい気持ちと楽しい気持ちで心が満たされていた。初めてもらったプレゼント。ここ最近で一番幸せな気分だった。そんな気持ちのままで、家に向かって走り出す。家に近づくと、家には明かりがついていた。お父さんは起きているのだろうか?
「ただいまー。」
少し大きめに声を出して私が帰ってきたことを伝えようとしたのだが、眠っているのか中から物音さえ聞こえてくることはなかった。家に入ると、驚いたことに家は散らかっていなかった。お父さんが片付けたのだろうか?いつもお酒を飲んで酔っ払っているから、しないのに。台所に向かうと、皿洗いをしたらしく、濡れたお皿が乾かされていた。その中には、包丁もある。もしかして、自炊をしたのだろうか。あのお父さんが?信じられなかったが、したのだとしたらそれはいいことだ。娘として、素直に喜ばなければ。リビングを覗くと、お父さんが眠っていた。これはいつも通りだ。
それにしても、どうして急に出て行けなんて言い出したのだろうか?息抜きがしたかったのだろうか?いくら夏休みで学校がないとはいえ、急に言われれば困るものだ。けれど、まあ。お父さんが幸せならそれでいいか。
お風呂に入ると、だんだんと眠くなってきた。自分の部屋の掃除をしてからお風呂に入ったから、もう遅い。いつもの私なら、眠っている時間だ。電気を消し、布団に潜り込んだ。うつろうつろと眠りの世界に吸い込まれていく。
おやすみなさい、お父さん。
眠りの世界の扉を開き、中に入ろうとした時だった。プルルルと、携帯が鳴った。眠い目を擦りながら携帯を手に取ると、それは山田くんからの電話だった。前かかってきた時に登録しておいたので、携帯の画面には「山田くん」と表示されていた。
「もしもし?山田くん?どうしたの?」
「いやあ、どうしても伝えたいことがあって……。」
画面越しでも、山田くんが笑っているのがわかった。
「何?」
私がそうきくと、山田くんは小さな声で続けた。
「信二のやつさあ、かわいかったんだぜ?」
「え、なになに?」
2人でこそこそ話すのは、なんだか内緒話をしているようで楽しかった。
「今日さ、2人で行くとデートみたいで気まずいからって俺のこと呼んだんだぜ?あいつ、友達俺しかいないから……。」
竹上くんはいつも無表情だから理解してくれる人が少ないのだろう。それにしても、驚いた。山田くんを呼んだことにそんな裏があったのか……。
「ごめんな?俺といたら、あんまり楽しくなかっただろ?」
とっさに 、そんなことはないと言いそうになった。嫌いだ、とは言ったけれど、今日は一緒にいて楽しかった。本当は、嫌いじゃないよ。好きだよ、友達として、と言いたかった。言おうとした。けれど、山田くんは私が話そうとするのを遮って続けた。
「許してもらえなくていいから。それでも、見守らせてください。……す、好きです!」
山田くんはそれだけ言うと、電話を切ってしまった。好きです。その言葉が、胸に刺さった。もう私のことは好きじゃないと思っていた。そう、願っていた。山田くんとは、友達でいたかったから。山田くんのことを、恋人としては好きになれそうになかったから。
「……深くは考えないでおこう。」
未来はどうなるわからないのだから。ある日急に、変わってしまうこともあるのだから。
ゆっくりと体を起こすと、窓から入り込んだ日の光が私の顔を照らした。ふと机の上を見ると、夏休みが始まる前、学校で配られたチラシがあった。近くの神社でやっている夏祭りのチラシだ。そういえば、今日の夜は夏祭りがある日だ。
一瞬行こうかとも思ったのだが、お小遣いを無駄遣いしたくないし、それに1人だけ遊びに行くのはお父さんに申し訳ない気もする。
「まあ、毎年行っていないし……。」
母がいた頃は、3人で毎年行ったものだ。私が毎年買ってもらっていたのは大きなりんご飴。いつも買うのはいいものの、1人では食べきれなくて、半分くらいを残してお父さんにあげていた。懐かしい思い出が蘇る。幸せだったあの頃を、何度思い出したことか。その度に後悔する。記憶の中から帰ってきた時、現実を突きつけられたようで。
さて、と一階におり、リビングで眠っているであろうお父さんのもとに向かった。やはりお父さんは寝ていて、つまみを乗せていたお皿と空の酒瓶が置かれていた。いそいそと片付けを済ませると、次は家の掃除をしなければ。そう思い雑巾をとりに向かおうとすると、上から携帯のなる音が聞こえてきた気がした。小さな音だったので本当になったのかは分からないが、竹上くんか山田くんだったらいいなと思いながら二階に上がる。携帯は鞄の中に入れられていたままだったので、探し出すまでに時間がかかった。やっと携帯を見つけ、携帯の画面を見てみるときていたのは山田くんからのメールだった。
「夏祭り、一緒に行かない?もちろん、3人で。」
メールの内容は、夏祭りのお誘いだった。山田くんに誘われて、少し悩んだのだが、先ほどやめておこうと思っていたし、今回は……と、私は
「ごめんね。今回は遠慮しとく。」
と、返信した。山田くんが残念がる顔が頭に浮かんでくる。が、仕方がない。
「清華ー。」
一回から呼ぶ声が聞こえてくる。お父さんだ。何か私に用事があるのだろうか?階段を駆け下り、お父さんを探すと、珍しくお父さんは一階にあるお父さんの部屋にいた。鞄の中に手を突っ込み、何かを探しているようだ。
「どうしたの?お父さん。」
「おお、清華。」
そう言いながらお父さんは鞄から財布を取り出した。
今日のお父さんは機嫌がいいようだ。最近はお父さんの機嫌がいいことが多い。喜ばしいことだ。
「これで夏祭りに行ってこい。」
お父さんは私に財布から取り出した千円札を手渡した。お父さんがお小遣いをくれたのはいつぶりだろうか?お父さんに手渡されたお金とお父さんの顔を交互に見る。お父さんは笑っていた。その笑顔は昔の笑顔とはかけ離れたものだったが、お父さんが笑っていることは嬉しかった。
「ありがとう!」
私はお父さんに大きくお辞儀をし、笑いかけた。
「楽しんでくるね!」
そうと決まったら、山田くんに電話をしなくては。やっぱり行けるようになったって伝えなくちゃ。テンションが一気に頂点まで上がった私は階段を駆け上がった。ガチャリと勢いよく扉を開け、携帯を手に取った瞬間、携帯が鳴る。
「もしもし?」
機嫌のいい私は相手が誰かも確認せずに電話に出た。相手は、
「もしもし。」
竹上くんだった。
「竹上くん。どうしたの?」
「夏祭り行かないって聞いて。何か用事?」
おそらく山田くんから聞いたのだろう。私は明るい声で伝えた。
「あのね、やっぱり行けるようになったの!一緒に行こうね、3人で。」
私がそう言った時。携帯の向こうから小さな声で声で
「はははっ。」
と聞こえてきた。山田くんの声だ。2人は一緒にいたのか。私はなぜ笑っているのだろうかと首を傾げた。何か、笑われるようなことを言ってしまったのだろうか?
「どうしたの?」
私がそう尋ねると、竹上くんが
「今かわる。」
と言って、すぐに携帯から山田くんの声が聞こえてきた。
「おはよ、平山さん。」
「おはよう。どうして笑っていたの?」
挨拶を返し、きいてみると山田くんはまた笑いながら
「だって、あんまり嬉しそうに言う声が聞こえてきたから。」
と言った。そこで顔が一気に暑くなる。直接スマホに耳を当てていない山田くんにまで私の声が届いたのか。私はそんなに声が大きくなるほどテンションが上がってしまっていたのか。恥ずかしかった。竹上くんに変なふうに思われていないだろうか?山田くんは笑い飛ばしてくれたけど。恥ずかしくて、今すぐにでも電話を切りたい気分だった。
「じゃっじゃあ、5時に神社前集合でどお?」
私が提案すると、2人はいいよ、とのってくれた。
私は
「じゃあ5時に!」
と言って急いで切ってしまった。切ってしまってから後悔する。変なふうに思われてしまっただろうな。けれど、やってしまったことは仕方がない。とりあえず、夕方になるまでに家事を済ませてしまおうと、私は立ち上がった。
家事と宿題をしていれば、1日なんてすぐに過ぎた。まず先に家事を済ませようと、家中の掃除をし、お昼ご飯と晩ご飯をまとめて作った。そのあとは、夏休みの宿題だ。私は勉強が嫌いなわけではないので、集中して宿題をやっていく。そうやって過ごしていれば、すぐに時間なんてすぎた。お父さんがそろそろいけと言うので、私はバッグを持ち、家を出た。私はやっぱり制服なのだけれど、そんなことは気にならなかった。
神社に向かう途中、私はウキウキしていて、飛び上がりたい気分だった。けれど、町中で飛び上がるわけにも行かないので、手を握り締めて我慢した。携帯で時間を確認すると、後10分で5時だ。神社の近くには人が多く集まっていて、屋台が並んでいた。神社を階段の下から見上げると、男の子が2人並んで立っているのが見えた。1人は小さな鞄を持っているようだ。竹上くんと山田くんだろうか?階段をゆっくり登っていく。半分くらいまでのぼると、だんだん息が切れてきた。上を見上げると、先ほどの男の子たちが手を振っている。今行くから待ってて、と言おうと口を開いたのだが、言う前に2人が階段を降ってきた。私がのぼるスピードとは比べ物にならないくらいの、速いスピードで。
「やあ。平山さん。」
ポケットに突っ込んでいた手を出しながら竹上くんがそう言った。山田くんも階段を駆け下りながら
「こんにちはー……あれ?こんばんは?」
と、定まらない挨拶を返してくれる。
「まだ日が出てるから、こんにちは、かな?こんにちは、2人とも。」
と、挨拶を返す。私が笑顔を作ると、山田くんも楽しそうに笑った。
「じゃあ、行こうか。」
そう言いながら山田くんが階段を駆け下りていく。それを見て、竹上くんも跡をついて行った。2、3歩おり、私の方を振り返る。
「行こう、平山さん。」
私は大きく頷くと、2人の後について駆け下りた。
階段を一番下まで駆け下りると、色々な種類の屋台が列をなして私たちを出迎えてくれた。
「とりあえず、端まで見てみようか。」私がそう提案すると、2人はうなずいて私の横に並んだ。
「人、多いなあ。流されないようにしないと。」
山田くんが苦笑いしながら私を見た。私はそうだね、と答えながら、フルーツ飴の屋台を探す。けれど、私はりんご飴を買うか悩んでいた。なんだか恥ずかしかったのだ。あの大きなりんごを、2人の前で食べるのが。よく食べる女の子だと思われないだろうか?そう考えると、無性に恥ずかしかった。
「平山さん。射的しよーぜ。」
そういって山田くんが指さしたのは景品が並べられている射的の屋台だった。男の子は、やっぱりこういうものに惹かれるのだろうか。2人が射的をしている姿を想像しながら、列に並ぶ。列といっても、4、5人しか並んでいなくて、順番はすぐに回ってきた。
「俺からやっていい?」
山田くんがお金を射的の屋台のおじさんに渡し、コルク銃を構える。すると、すぐに、ぽん、という音とともに弾が発射された。弾が当たった先には、小さな熊のぬいぐるみがある。山田くんは可愛いものが好きなのだろうか?熊のぬいぐるみは少し傾いたものの、落ちることはなかった。
その後も4発ほど撃ったのだが、どれも当たりはするものの動かない。どこを狙えば落ちやすいのだろうか?
「うーん、だめだ。よし、あとは任せたぞ。」
お金を払っている竹上くんに、横から山田くんが、先ほどまで使っていたコルク銃を手渡した。竹上くんは
「わかった。」
とだけ答えると、銃を構える。先ほどの山田くんとは違い、どこかしっかりと安定した構えだ。
ぽん、あと4発。少しずつずれていく。
ぽん、あと3発。またずれた。
ぽん、あと2発。落ちそうなのに。
ぽん、あと1発。もう少しだ。
なんだかこちらまでドキドキしてくる。落ちるだろうか?
ぽん!最後の音が鳴った瞬間、熊のぬいぐるみがゆっくりと落下した。
「やった!」
「よし。」
「落ちた!やったな!」
山田くんがぐっと拳を握りしめて喜んだ。私も思わず自分の手をギュッと握りしめる。
「山田。これ、平山さんにだよな?」
熊のぬいぐるみを屋台のおじさんから受け取りながら、竹上くんが山田くんの方に視線を向ける。山田くんが慌てた顔で
「当たり前だろ!俺、そんな可愛い趣味ねえよ!」
と少し大きめな声で答えた。それを聞いて、竹上くんが私に熊のぬいぐるみを差し出す。
「俺と山田から。」
「わあ。ありがとう、山田くん、竹上くん。」
もらってしまって少し申し訳ない気持ちもやっぱりあったのだが、それよりも嬉しい気持ちが勝る。私に喜びを与えてくれてありがとう。2人に心の底から感謝した。
「平山さんも射的する?」
山田くんが私に銃を差し出してくる。私は首を横に振りながら答えた。
「ううん、しない。苦手なんだ。」
すると、山田くんは少し残念そうな顔をしながら
「そっか。」
とだけ言って笑った。私が射的をするところが見たかったのだろうか?それなら少しかわいそうなことをしてしまったが、できない姿を2人には見せたくない。昔、お父さんとお母さんと来た時にやったことがあったのだが、1発も当たらなかったのだ。もうあれからかなり立ったが、2人みたいにはうまくできないだろう。
「ごめんね。」
私が気を使って謝ると、山田くんは首を傾げた。
「え、なにが?」
山田くんが不思議そうにそういう。こんな台詞を、竹上くんにも言われた覚えがある。もしかして、私は謝らなくていいタイミングで謝っていたのだろうか?まあ、今更気が付いても遅いと2人に歩み寄る。
「行こっか。つぎ、どこに行きたい?」
前回、ショッピングセンターでは私の好きにさせてもらったから、今度は2人の好きなように回って欲しいのだ。
「平山さんは?」
竹上くんがきき返してくる。
「私は特にないかな。」
いまだにりんご飴を買いにいくか行かないか迷っていたのだが、とりあえずは行かないことに決めた。どうしても食べたくなれば、後で1人で買いに行けばいいだろう。
「そう?じゃあ、とりあえず続きを見て回ろっか。」
私がそういい、山田くんが歩き始めようとしたとき、竹上くんがそれを止めた。
「もう少しすれば花火が始まる。場所取りをしておこう。」
花火、花火か。夏祭りには最近入っていなかったが、花火はいつも自分の部屋の窓から見ていた。私の部屋の窓は二階だったのでよく見えたが、少し遠かった。それでも、花火はきちんと美しくみえた。今年は友達と一緒に見るのだから、もっと綺麗に見えることだろう。
「場所取り、どこでするの?」
山田くんが竹上くんに近づいて尋ねた。綺麗に見えるところがいいなと、頭の中で花火が打ち上げられる瞬間を予想する。
「そうだな。俺が毎年見ていた川岸でいいか?」
神社の横には川が流れている。まあまあ立派な川で、竹上くんは今まで毎年そこで見ていたらしい。
もう埋まっているかもしれないと竹上くんが言うので急いで行ってみると、やはり川岸は人でごったがえしていた。
「俺見てくる!あとからゆっくりきて!」
山田くんはそういうと、私と竹上くんを残して走って行ってしまった。それはもう物凄いスピードで。山田くんは運動が関係してくる部活に入っているのだろうか?山田くんが部活をしている姿をイメージすると、体を動かす部がにあっている気がする。
「山田くんと竹上くんって、なんの部活入っているの?」
山田くんが走って行った方に向かって2人で歩き出しながら、竹上くんに話しかける。
「俺も山田も入ってないよ。」
返ってきたのは、意外な答えだった。てっきり入っていると思っていたのに、2人は部活には入っていないらしい。
「山田は運動神経がいいからしょっちゅう勧誘されてるよ。」
そういう竹上くんの声はどこか自慢げだ。友達として、誇らしいのだろう。私もそんな山田くんと竹上くんと友達なんだと思うと、どこか誇らしくなってくる。
「平山さんは?」
竹上くんが上を見てそう言った。私もそれに習って上を見ると、だんだんと空が暗くなってきていた。花火に適したいい天気だ。
「私も部活、入ってないよ。」
上を見たまま答えると、竹上くんがそれに気が付いたのか、
「空、雲ひとつなくて綺麗だね。」
と言った。私は笑顔で
「そうだね。」
とだけ答えた。沈黙の時間が続く。2人とも空を見上げながら歩いていた。ここらでは町の光のせいで見えない星がほとんどだが、それでも負けじと輝いている星がいくつかあった。その中にはもちろん月も含まれている。
「2人ともー!ここならどう?」
静寂を切り裂くように、山田くんの声が頭の中に飛び込んできた。山田くんが立っていたのは、大きな木の下だった。
「うん、いいんじゃない?」
竹上くんがそう言いながらバックから何かを取り出す。竹上くんにつかまれてバックの中から出てきたのは、レジャーシートだ。それを3人で広げ、バサリと引く。2人がレジャーシートの上に座ったので、私も同じように腰掛けた。
「花火まで後どのくらい?」
山田くんが竹上くんに尋ねる。竹上くんは左腕につけた腕時計を見ながら答えた。
「後、10分。」
それを聞いて、山田くんが足をバタバタさせて喜んだ。
「楽しみっ。」
今にも飛び上がりそうな声だ。私自身も、かなり楽しみだ。そのくらい空に光る花火が早く見たかった。
「そういえばさ、服買わないの?平山さん。」
山田くんが唐突に私にきいてきた。お金が足りないわけではないし、必要性を感じたから買ってもいいのだが、長いこと買っていなかったから私の服のセンスが心配だ。
「そうだね。そのうち買いに行こうかな。」
そのうち、そのうち。そういって私は先延ばしにしてしまうだろうなあ、と、苦笑いすると、山田くんが私にぐっと顔を寄せて笑う。
「じゃあ、明日買いに行こうぜ!」
驚いた。けれど、嬉しい申し出だ。3人でどこかにいくのは楽しい。私のためだけに出かけるのは申し訳ないし、その時はきちんと2人の行きたいところにも行こう。そう思って
「いいよ。」
と答えると、竹上くんも
「いいな。」
と乗り気になってくれた。
「じゃあ、明日の朝10時に前に入ったショッピングセンターで……
そう言いかけた山田くんの口を勢いよく手で塞いだ山田くんが、時計を見ながら言う。
「しっ。もう始まる。」
慌てて空を見上げると、正面の空に、ひかる蛇が登っていくのが見えた。そして、大きな花が咲き誇る。その美しく光る花は、暗い空によく映える。遅れて聞こえてくる大きな音は、空気を震わせた。
「綺麗……。」
思わずそう呟いてしまう。2発目、3発目と次々に打ち上げられていく。1輪1輪が違う美しさを持っている。その、暗闇に負けず輝く明るさは、まるでいつも笑顔の山田くんのようだ。
「綺麗だね。」
「そうだな。」
2人の声が静かに、聞こえた。溶けて消えて無くなってしまいそうなくらいに、その声は静かだった。
花火を見た後に周りのものに目を向けると、すべてが美しく見えた。同じものなどなに一つとしてない。どんなものでも何かが違う。見た目、性格、過ごしてきた時間、経験。まるで、それはあの花火のように。
楽しい時間はすぐに終わってしまうもので、花火はあっという間に終わってしまった。
「綺麗だったね。」
はあ、とため息をつきながら2人に話しかける。山田くんは
「来年もまた一緒にみよーね。」
と返してきた。私と竹上くんはうん、ど頷いて答えた。
レジャーシートを片付けながら2人に話しかける。
「結局明日、どうするの?」
すると、竹上くんがレジャーシートをバックにしまいながら言った。
「さっき山田が言ってた通りでいいんじゃないか?10時にショッピングセンターで待ち合わせ。」
10時であれば余裕を持っていくことができるし、あのショッピングセンターなら道は覚えたからいけるだろう。万が一、道に迷っても、現代には携帯という強い味方がいるのだから、問題はない。
「俺はそれでいいけど、平山さんも、それでいい?」
「うん。大丈夫。」
私が首を縦に振ると、山田くんがじゃあ、と言って立ち上がった。
「屋台の続き、回ろうか。」
スキップで進む山田くんに合わせて早足で歩く。早足で歩くのは久しぶりで、少しこけそうだ。それに気がついたのか、竹上くんが山田くんを止める。
「山田、速いよ。」
速いよ、その一言で山田くんはピタリと止まり、私たちの方を振り返った。
「ごめんごめん。歩くね。」
2人は本当に仲が良いのだろう。気持ちよくスキップしていたのを止められれば、気を悪くする人もいるだろうに、山田くんは嫌な顔一つせずに止まってくれた。それは竹上くんも同じで、勝手に山田くんが先に言ってしまっても止めただけで怒りはしなかった。もしかしたら、私がいなかったら止めさえしなかったかもしれない。
「2人って、仲良いんだね。」
私がそういうと、2人は顔を見合わせ、そして山田くんが
「そーでしょ?」
と笑った。竹上くんは恥ずかしいのかそっぽを向きながら
「2年になってから一緒にいるから、長い付き合いではないけれど、仲は良い方だと……おもう。」
と言った。それを聞いて山田くんがまた嬉しそうに笑って、あたりが幸せな空気で包まれていくのがわかった。
けれど、心の中で私はぽそっと呟いた。良いなあ、って。私はその一員になれているのだろうか?やっぱり、まだただのお友達なのではないだろうか?特別にはまだなれていない。そんな気がした。
心の中の私がブンブンと首を横に振る。未来はどうなるかわからない。それは、良いことも悪いこともだ。これから2人にとっての特別になれるかもしれない。そう前向きな気持ちになると、なんだか心が元気を取り戻せたような感覚がした。
「2人は何か欲しいものないの?食べたいものとか。」
2人に尋ねる。竹上くんは
「ない。」
とすぐに答えた。山田くんは少し悩んだ後、
「俺もないなあ。」
と残念そうに言った。山田くんが続けて
「平山さんは?」
ときいてくる。けれど、私も特にない。りんご飴は帰りに買って、家で食べよう。そう思った私は
「私もない。」
と笑いながら答えた。
そこで3人は立ち止まった。みたいところが特にないのなら、今日はもう帰るのはどうだろうかと竹上くんが提案する。私は花火が見れて満足だったので、家に帰るということに反対はない。お父さんの晩ご飯は一応作ってきたが、後片付けもある。
「いいよ。」
「俺ももういいかな。きたからったらまた明日もやっているし。」
お祭りは2日間やっているらしい。なら、りんご飴はまた明日でもいいかもしれない。そう思って、帰るとお父さんに連絡しようとすると、携帯を取り出すと、メールが届いていた。誰からだろうと携帯を開けると、お父さんからだった。お父さんからメールなんて、滅多にないことだ。喜んでメールを見ると、内容はこうだった。
「もう帰ってくるな。」
私はその場に固まってしまった。
「平山さん?」
「大丈夫か。」
2人が話しかけてくる。2人の前だというのに、私は関係なく呟いてしまった。
「どうしよう……帰れなくなっちゃった。」
私の呟きを聞いた山田くんが驚いたように話しかけてくる。
「え、帰れなくなったってどういうこと?何かあったの?」
けれど、竹上くんは何かを察したようだ。
「またうちに来る?」
そうするほかないのだろうが、父はきっともう二度と私を家に入れるつもりはないわけだ。ずっとお世話にはなれない。
「ど、どうしよう……。」
冷や汗が垂れる。家に戻るわけにもいかないし、誰かの家に行くのはいいがそのままずっとお世話になるのか?選択を迫られる。家に戻って父を説得するのか、誰かの家に泊まらせてもらうのか。わからなかった。どうすればいいのか、わからない。
「……まさん。平山さん!」
はっ、と、一気に現実に引き戻される。
「えっ、あっ、ごめ……。」
慌てて2人に向き直ると、山田くんが誰かに電話をかけていた。
「帰れないって、今日?ずっと?」
「え、た、多分ずっと……。」
少し強い口調の竹上くんの問いに、慌てて答える。
「最低限のものは持ってる?」
「う、うん。」
竹上くんは、腕を組みながら、はあ、と大きくため息をつくと、山田くんの方に視線を移した。その視線に気づいた山田くんは親指を立てながら
「いいって!」
と笑った。なにがいいというのだろうか?
「しばらくうちにおいで。両親に許可は取ったから。」
竹上くんの両親は厳しく、男女が2人で泊まることなど許されないだろう。内緒で泊まっても、食費とかでばれちゃうとおもうから、山田の家で、と、竹上くんはいう。そこまで考えてくれたのか、私のために。嬉しい気持ちと同時に、なんだか申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。2人にそんなに迷惑をかけてしまうなんて。友達なのに。そんな自分が、残念に感じた。
「友達なんだから、頼ってくれていいんだよ?」
そう言って山田くんが笑った。友達。友達って、頼っていいものなのだろうか?迷惑にはなっていないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?
「平山さん。」
呼ばれて、竹上くんの方を振り返ると竹上くんが私の目をしっかりと見ていた。
「いいんだよ。頼ってくれて。」
その目は、まるで信じてと訴えかけてくるように私を見ていた。頼っていいの?頼っていいんだ。友達、なんだから。頼られたら助けてやればいい。私も頼ってもらえばいい。友達って、そういうものなんだ。そういうものだったんだ。
「ありがとう。」
心は泣きそうなくらい喜んでいた。けれど、やっぱり私は泣かなかった。
そこで竹上くんとは別れ、山田くんの家にお邪魔することになった。
「夏休みが終わるまではいていいからね。」
山田くんが光る街頭の下で笑った。
「ふふっ。」
やっぱり山田くんの笑顔は花火のようだ。キラキラしていて、どこか綺麗で。
「なんだよお。」
私が笑ったのが不思議だったのか、山田くんは頬を膨らませた。
「ふふっ。」
それをみて、また笑ってしまう。なんだか山田くんが可愛く見えて仕方がないのだ。頼り甲斐がある男の子だなあとさっきまでは思っていたのに、どうしてだろうか?
「なんで笑うんだよっ。」
山田くんが不満そうにそう言う。
「頼りにしてるよ。」
突然の私の笑顔と言葉に、山田くんは驚いたような顔をしながら
「う、うん。」
と言った。そして、あ、と呟くと、
「ここだよ。」
と大きなマンションを指さした。どうやら7階建てのマンションようだ。
中に入ると、柱につけられたライトが私たちを照らす。夜の闇に溶かされて、暗すぎず、明るすぎず、いい感じに光っている。
「綺麗だね。」
「そう?さっき見た花火に比べれば、そうでもないよ。」
毎日この光景を見ている山田くんからすれば、見慣れてしまっていてあまり綺麗だとは感じないのだろう。けれど、私は初めて見るからか、その照らされた道が綺麗に見えた。
エレベーターに乗り込むと、山田くんは3階のボタンを押した。
「3階なの?」
私が尋ねると、山田くんは私の方を振り向いて
「そうだよ。」
と言って笑った。
「景色はあんまり綺麗じゃないかもしれないけど、まあ、ゆっくりして行ってね。」
エレベーターを降り、山田くんのすむ部屋に向かいながら山田くんは笑った。山田くんは本当によく笑う子だ。まるで花のように。
山田くんがポケットから鍵を取り出し、玄関の鍵を開けると、
「さ、はいって。」
と言って玄関の扉を開けた。
中に入ると、家の中は少しだが散らかっていた。竹上くんの家と比べれば、かなり散らかっているなぁと感じた。
「うわ、ごめん。散らかっているね。」
山田くんがそう言うのと同時に、奥から3人、誰かが扉を開けて出てきた。
「へー。その子が優希の彼女?」
何かを口の中に含んでいるのか、何かを口の中で転がしながら女の人が私の顔を覗き込んだ。
「違うって。友達だって言っただろ?」
山田くんがすぐに否定してくれた。
「はじめまして。山田くんのクラスメイトの平山清華です。お世話になります。」
第一印象は重要だ。悪い印象を持たれないよう、精一杯の笑顔を作りながら挨拶をする。
「まあ、礼儀正しい子なのね!」
山田くんのお母さんだろうか?先ほどの女の人より年上に見える。
「はじめまして。平山さん。優希の父の、山田浩太だ。」
私に優しい笑顔で笑いかけた男の人に、山田くんが
「ただいま、父さん。」
と笑って言った。中に上がった山田くんの後に続き、靴を脱いで中に上がる。
「これからお世話になります。」
4人に感謝の気持ちを込めて深くお辞儀をすると、4人は顔を見合わせて笑った。山田くんそっくりの笑顔だった。
まだ名前を聞いていない2人の名前を聞いておこうと、何かを食べている女の人の方から先に声をかける。
「お名前を伺ってもいいですか?」
話しかけると、口の中に入っていた何かをガリガリと砕く音がした。食べていたのは、きっと飴玉だったのだろう。
「私は優希の姉、山田春。名前の通り、春生まれ。よろしく。」
簡単に自己紹介をしてくれる。そのために舐めていた飴玉を砕いたのだとしたら、きっと礼儀正しい人なのだろう。
「よろしくお願いします。」
にっこり笑いかけると、春さんは3人のいる後ろを振り返って、
「母さんにも挨拶してきたら?」
と言うと、何処かに行ってしまった。自室に戻ったのだろうか?
「改めまして、平山清華です。お名前を伺ってもいいですか?」
女の人に話しかけると、その女の人は嬉しそうに笑いながら
「まあ、いいわよ!私の名前は山田美里!この家みんな山田だから、名前で呼んでもいいからね。わかりにくいし。よろしくね、清華ちゃん!」
歓迎してもらえたのは嬉しいことなのだが、なんだか距離が近い人だ。初対面なのに下の名前を呼ばれたのは初めてだ。
「清華ちゃん、よかったら、一番風呂、入ってらっしゃい?人混みに入って、疲れたでしょう?」
それを聞いて、私は慌てて
「そんな!皆さんにお世話になっている立場の私が、一番風呂だなんて!」
と言って断ると、山田くんのお母さんが首を横に振った。
「あなたはお客様なの。気にしなくていいのよ。」
それでも、後ろめたい気持ちがあった。いくら客人だと言われても、お世話になる身なのに。お手伝いだって、たくさんしなくちゃと思いながらこの家に来たのに。
「母さん?どうしたの?」
いつの間にか戻ってきていた春さんが私たちの方を見てきいた。その手には、寝巻きらしき服が2セット乗せられていた。
「あっ。春。ちょうどよかった。清華さんを連れてお風呂に行ってきて頂戴。」
私は驚き、鞄を落としそうになった。けれど、そんなことはお構いなしに春さんは
「わかった。」
と言って私の腕を掴みお風呂場へ連れて行った。
「えええっ。あの……。」
「ん?ああ、安心して。下着は一回も使ってないやつがあったから、それ使って。」
私の方を目だけで振り返りながら春さんがそう返す。心配しているところはそこじゃないのに、と思いながら渋々私は春さんについて行った。
「はい、ここがお風呂。服脱いで、洗濯機に投げ込んで……ああ、制服か。脱いだら貸して。」
言われた通り、急いで制服を脱ぎ、春さんに渡すと、春さんはお風呂場にかかっていたハンガーを掴み取り、ハンガーに服をかけると
「母さーん。これ、私の部屋にかけといて!」
と叫んだ。すぐに山田くんのお母さんがやってきて、手だけを脱衣所の中に突っ込み制服を持って行ってくれた。
「母さんが気を使うなんて、珍しいな。」
多分、私たちの裸を見ないようにと顔を出さず、手だけをドアの隙間から突っ込んできたのだろう。
「じゃあ、入ろうか。」
お風呂場は広く、2人でも余裕で入れる広さだった。
「体を洗ってから湯船につかりな。それからまた体を流してあがるんだ。」
それがこの家のルールなんだ、とでも言うように春さんは言った。
春さんが手渡してきたタオルで、体をゴシゴシとこする。毎日お風呂に入って入るのだが、やっぱりアカは出てくるものだ。
「ねえ。」
同じようなタオルで体を洗いながら春さんが話しかけてくる。
「はい。」
と返事をすると、春さんはこちらを振り返って笑った。
「よろしくね、弟のこと。友達として。」
そういって笑う春さんの笑顔は、どこか嬉しそうだった。私は
「もちろんです。」
と言って笑い返した。
私が体を洗い終わる頃には、春さんも体を洗い終わっていて、一緒に湯船に浸かることになった。
「今日から一緒に寝る中だから、今のうちに仲良くしとこーな。」
そう言いながら春さんは湯船にドプンと浸かった。私は春さんの部屋で寝かせてもらうのか。考えてみれば当然だ。男の人がいる部屋に泊まるわけにはいかないのだから。
「あ、1人で寝たかった?ごめん、我慢して。」
春さんが少し申し訳なさそうな顔をしながら苦笑いをする。私は首を横に振りながら
「いいえ。そんなことないです。泊めてもらえるだけでもありがたいです。その代わり、手伝いはしっかりしますので。」
と私も笑いながら答えた。すると、春さんはそうしてくれとでも言わんばかりに笑った。やっぱりその笑顔は、山田くんにそっくりだった。
さ、あがるかと言う春さんの声と共に、私たちはお風呂を上がった。
「体拭いたら、寝巻きと下着はそこの使って。」
そう言って春さんが指さしたのは、先ほど春さんが何処かから持ってきた2セットの寝巻きだった。私の分も一緒に持ってきてくれていたのだ。
「これ、春さんの服ですか?」
私がそう尋ねると、春さんは黙ったまま頷いた。
「お借りしますね。ありがとうございます。」
私がお礼を言いながら服を手に取ると、春さんは手を左右に振りながら
「あんた、これからここでしばらく生活していくんでしょ?いちいちお礼とか言ってらんないでしょ?」
と言った。確かに、毎回言っていてはかなりの量になってしまうかもしれない。けれど。
「それでも言わせていただきます。ありがとうございます。」
言ってしまってから気がつく。毎回謝っては、迷惑なのだろうか?もしかしたら、私も何度もお礼を言われればめんどくさく感じるかもしれない。
「め、迷惑でしたらやめますが……。」
慌ててそう言うと、春さんははははと大きな声で笑った。
「そうか、あんたそう言う性格なのか!いい性格してるじゃん!私好きだよ、そう言う性格の子。」
楽しそうに笑っているから、失礼なことを言ったわけではないのだろうが、正直春さんがなぜ笑っているのかが全くわからなかった。まあ、春さんが楽しそうにしているならそれでいいだろう。
私たちは服を着、ごおおという音を立ててドライヤーで髪を乾かすと、リビングに向かった。リビングに入った途端、いい匂いが鼻の中に飛び込んでくる。晩ご飯の匂いだろうか?晩ご飯……。お父さんの晩ご飯が少し心配だ。けれど、この間も自炊できていたようだし、自分から帰ってくるなと言っていたのは、なんとかできる自信があるからこそなのだろう。そう思い直した私は、今のところは心配しなくてもいいだろうと匂いの元を辿った。
「あら、春、清華ちゃん。お風呂上がったの?晩ご飯よ。」
台所にいた美里さんが私たちの方を振り返りながら笑いかける。本当によく笑う家族だ。
「今日はハンバーグ。」
そう言いながら美里さんが食卓に手を向ける。
ハンバーグ、ハンバーグか。数日前のことを思い出す。あれは何日前だっただろうか?ハンバーグを出して、お父さんに怒られたっけ。お父さん。心配だなあ。
「さ、座って。食べて食べて。」
美里さんはなんだか楽しそうだ。ニコニコしながら私の肩を掴み、食卓の前に並べられた椅子に座らせる。周りにはみんながもう先に席についていて、私たちを待っていた。美里さんと春さんも座って、手を合わせる。
「いただきます。」
野菜から食べた方がいいと昔どこかできいたことがある。私はお皿に乗せられていたレタスから口に突っ込んだ。
「美味しい?」
美里さんが私の方を見ながら聞いてくる。レタスをごくんと飲み込んでから、美里さんの問いに答えた。
「はい、とってもおいしです。」
私の答えに、
「いや、まだレタスしか食べてないだろ。」
と山田くんがすかさず突っ込んだ。私は
「山田くんもでしょ。」
と笑いながらハンバーグを切り分け、口に含んだ。
「美味しいですよ。ありがとうございます、美里さん。」
私が作ったハンバーグとは全く違う。人に作ってもらったものは、こんなに美味しいのか。
「そう?良かったあ。」
美里さんは嬉しそうに笑って、ミニトマトを口に突っ込む。
楽しい晩ご飯の時間はすぐに終わり、後は歯を磨いて寝るだけとなった。春さんに連れられ洗面所に向かうと、私のためにに新しい歯ブラシを出してくれた。
「何から何までありがとうございます。」
私がそう言いながら受け取ると、
「だからいいって。」
と言って春さんは笑顔で歯磨き粉を渡してきた。歯磨き粉は、家族それぞれ別のものを使っているらしく、幾つもの歯ブラシと歯磨き粉が洗面所に並べられていた。
「これが私の歯磨き粉。他の人の使っても怒られないとは思うけど、一応私の使ってね?」
私ははい、と答えると歯を磨き始めた。私が今まで家で使っていた歯磨き粉とはやっぱり違う味がして、なんだか苦かった。歯を磨き終え、春さんの部屋に向かう。
「さ、どうする?ゲームでもする?それとも、寝る?」
私はなんだか疲れていたので、
「私は寝ます。」
と答えた。春さんは
「そう。」
とだけ答えると、大きくあくびをした。この様子では、春さんももう寝た方がいいかもしれない。
「ここが私の部屋。」
そう言って春さんは「春」と書かれた紙が貼ってある部屋の扉を開けた。中に入ると、部屋の中はきれいに片付けられていた。水色と青色の目立つ部屋で、静かな雰囲気を漂わせる部屋だった。春さんは寒色が好きなのだろうか?
「布団持ってくるから待ってて。」
春さんはそれだけ言い残すと部屋を出て行ってしまった。部屋の中をキョロキョロと見渡す。春さんは意外とかっこいいものが好きなようで、月などのチョーカーがいくつか机の上に並べられていた。
「ドア開けてー。」
春さんの声が扉の向こうからし、扉を開けると大きな布団を持った春さんがいた。その布団の分厚さは、春さんの顔が見えないほどだ。
「て、手伝います!」
慌てて布団を持ち、下に下ろす。
「ああ、助かった。ありがとね。」
「いえいえ、私のために用意してもらっている布団ですし。」
私は手を左右に振りながら、布団を広げるのを手伝った。
部屋にかけられている時計を見ると、もう10時だ。いつの間にそんなに時間が経ったのだろうか?
「じゃ、電気消すよー。」
春さんのその声を聞いて、布団に入る。
「はーい。」
布団はふかふかで、あまり使われていない感じがした。元々、客人のために置いてある布団だったのかもしれない。
「おやすみなさい、春さん。」
「おやすみ。」
私たちはお休みの挨拶をすると、ゆっくりと目を閉じた。
ぽんぽん、と肩を叩かれる感触で目を覚ます。目を開けると、そこには春さんの顔があった。
「8時半だよ。今日、出かけるんでしょ?」
どうやら時間を見計らって起こしてくれたようだ。
「はい。ありがとうございます、起こしてくれて。」
私は起き上がり、掛け布団をきれいに畳むとリビングに向かった。リビングではもう朝食が用意されていて、山田くんが席について食べ始めていた。
「おはよう、山田くん。おはようございます、美里さん。」
台所に立っていた美里さんにも挨拶をしながら、先に座った春さんの隣の席に座る。今日の朝食は、鮭とお味噌汁、ご飯、ほうれん草のお浸しなどの和食だ。
「あ、そうだ、優希。」
春さんが山田くんに話しかける。山田くんは食べていた鮭とご飯をごくんとのみこんでから、
「何?」
と返事した。
「今日は優希たち出かけるんでしょ?ついて行っていい?」
春さんがそう尋ねると、山田くんは珍しく不満そうな顔をしながら
「え、まじ?」
と答える。そして、ポケットから携帯を取り出すとメールを打ち始めた。
「待って、信二に聞く。」
山田くんがメールを送信すると、返事はすぐに返ってきた。
「いいってさ。」
山田くんが残念そうにそう告げると、春さんは大きくガッツポーズを作って喜んだ。
「ショッピングセンターに何かご用でも?」
私が尋ねると、春さんは笑いながら
「いやさ、女の子の服選びに行くのに、付き添いが男の子だけって、変な感じしない?」
と答えた。私にはよくわからないが、春さんにとっては重要なことなのだろう。
「じゃあ、さっさと食べていくか。」
山田くんがスピードを上げて食べ始めると、負けじと春さんも食べるスピードを上げた。このままでは置いていかれそうなので、私も慌ててご飯を口に詰め込む。
「こら、2人とも。ゆっくり食べないと、喉につまらせるわよ?春さんを見習いなさい!」
美里さんの声に2人の手はピタッと止まった。それにしても、早く食べようと意識したはずなのに、美里さんからはゆっくりに見えたのか。私は食べるスピードが遅いとだろうかと、なんだか心配になってくる。
今度は、ゆっくりご飯を口に運んだ。
朝ごはんを食べ終え、歯を磨いてから春さんが貸してくれるという服に着替える。何から何まで用意してもらって、申し訳ない気もしたが、制服で行くのも逆に失礼というものだろう。
「おしゃれとか興味ないの?」
春さんが私に尋ねる。
「興味はあるのですが、今までする機会がなかったので。」
そう答えると、春さんは
「アクセサリーも貸してあげるわ!」
と言って机の引き出しの中を漁っていた。きっとその引き出しの中にアクセサリーをしまっているのだろう。
私が貸してもらった服を見る。かっこいい黒色のパーカーに、ジーパンだ。この服には、どんなアクセサリーが似合うのだろうか?
「これどう?ハートのチョーカー。」
出てきたのはやっぱりチョーカー。けれど、私の嫌いな月じゃなくて良かった。渡されたのは、銀色のハートのペンダントトップがついた黒色のチョーカーだった。
「すみません。」
付けようとするものの、かなりアクセサリーなんて長い間つけていなかったのでなかなかつけることができない。
「ああ、今までする機会がなかったって言ってたもんね。つけてあげる。」
春さんは優しい声でそういうと、私の後ろに回って私の手からチョーカーを受け取って、つけてくれた。
「ありがとうございます、春さん。」
チョーカーは初めてつけるので、不思議な気分だが、久しぶりにおしゃれができて、なんだか楽しくなってきた。
「行こうか。」
春さんの部屋から出て玄関へ向かうと、山田くんが既に準備を済ませて待っていた。
「待たせてごめんね。」
私が謝ると、山田くんは
「ううん。」
と言って笑った。
3人でショッピングセンターに向かって歩く。道中は、3人で楽しく話をしていたので、着くまでに少し時間がかかってしまった。けれど、10時までには後10分の余裕がある。
「あ、きたきた。」
山田くんのむいている方を見ると、誰かが走ってこっちに向かってきているのが見えた。竹上くんだ。
「おはよう、山田、平山さん。おはようございます、山田のお姉さんも。」
4人でおはようと挨拶をすると、ショッピングセンターの中に入る。
「平山さんはどんな服か好きなの?」
私に合うお店を見つけようとしてくれているのか、ショッピングセンターの中の地図を広げながら竹上くんが私に尋ねる。
服なんか長いこと選んでいないから、私は自分の好みがわからなかった。けれど、可愛いものよりはきれいな服の方が好きな気がする。私は大人しそうな顔立ちをしているとよく言われるから、きれいな服を着てもそこまで違和感はないだろう。
「きれいな服が好きかな。」
私がそういうと、春さんが竹上くんの持っていた地図を覗き込み、二箇所を両手で指さした。
「それなら、こことここがおすすめかな?」
そのうち1件は、ファッション誌でも出てくる有名な店らしい。もう1つの店は、春さんのおすすめなんだとか。
まず、近い方の有名なお店から向かう。ゆっくり歩いて向かっていると、山田くんが私の肩を叩いて話しかけてきた。
「予算、どのくらい?」
私は財布の中身を思い出す。貯金箱なんてなかったから、私はお金を全部財布に入れていた。だから、ある程度お金は持っている。
「とりあえず、1万円くらいかな?あんまり使いたくないんだ。」
私がそう答えると、春さんが
「そうか。それなら安い上下の1セット分くらいだね。」
と指を折りながら数えた。お店について値段を見てみると、安いものでやはりかなりの値段だ。服って、高いんだなあと実感していると、後ろから誰かに話しかけられた。
「お客様。」
振り返ると、ニコニコと営業スマイルを光らせるお姉さんがいた。私のことをお客様と呼んでいたから、きっとこの店の店員なのだろう。
「どんな服をお探しですか?」
私は少し困ってしまった。今まで店員さんに話しかけられた経験があまりないのだ。制服を買う時だって、はい、それでお願いしますなどと頷いてばかりだった。
「えと、あの。」
それしか答えられなくなってしまう。私の笑顔は引きつりそうになっていた。
「清華。こっちきて。」
横からぐいっと手を引っ張られる。春さんだ。春さんは店員さんにペコリと頭を下げると、私を店から出してくれた。
「困ってるなら、私たちに助けを求めなきゃダメでしょ?」
春さんが表情を変えないまま私をみる。なんだか、少し怖かった。
「ごめんなさい……。」
小さな謝りの声が漏れた。それを聞いて春さんは驚いたような顔をして、
「謝らなくていいんだよ。」
と言って私の頭を撫でてくれた。驚いた。どうすればいいのかわからず、私はピタリと止まってしまった。
「姉さん。平山さん困ってるよ。」
「何かあったんですか?」
2人が私たちの方に駆け寄りながら言う。それを聞いた春さんが、私の頭からぱっと手を離した。
「ごめんね、清華。」
春さんはそっぽを向きながらそう言った。
「あれ?姉さん、平山さんのこと名前で呼んでたっけ?」
山田くんが春さんの前に回り込んで尋ねると、春さんは
「うるさい!」
と言って歩き出してしまった。慌てて3人で後についていくと、春さんは急にピタリと止まった。
「ここだ。次はここをみよう。」
春さんが指さしたのは、きれいな服がたくさん置いてある服だった。店名を見ると、さっき春さんがおすすめだといっていた店だ。春さんと一緒に店の中に足を踏み入れる。
服を見た途端、私の笑顔は歓喜の笑顔に変わった。店の中に置かれていた服は、私の好みにバッチリあったのだ。それに、値段もそこまで高くない。
「ここいいですね。」
後ろにいた春さんに笑顔で話しかけると、春さんは少し自慢げに
「そうでしょ?」
と笑った。
一度店内の服を見て回ろうと歩き出したら、後ろからポンと肩を叩かれた。また店員さんかとビクビクしながら後ろを振り返ると、そこにいたのは緑色のワンピースを抱えた春さんだった。春さんは満面の笑みで、
「これ着てみて!」
と言いながら私を試着室まで連れて行った。
「店員さーん。試着室借りまーす!」
春さんは店員さんに声をかけ、店員さんが
「はい」
と言いながら頷いたのを見ると私を試着室に押し込んだ。
「さっ、きてみて。にあうとおもって。」
着替えながら、こっそり値段を確認する。8000円だ。これなら十分買える値段だ。
春さんはカーテンの向こうで待ってくれているようなので、カーテンをシャッという音とともに開け、
「どうでしょう?」
と春さんに声をかけた。すると、春さんは私をみて本当に嬉しそうな顔をして
「2人ともー。おいでー。」
と店の外で待っていた2人を呼んだ。
「どうかな?2人とも。」
スカートの裾を少し持ち上げながら2人に尋ねる。山田くんは少し慌てながら
「にににににあってると思うよ!」
と大きな声で言った。そんなに焦った声で言われると、何だか似合っていないのかなと思ってしまう。
顔を真っ赤にする山田くんを横目に見ながら竹上くんが私に
「大丈夫。ちゃんと似合ってるよ。」
と言ってくれた。その隣で春さんは、何が面白いのか口元を隠しながら楽しそうに笑い、
「似合ってるよ。」
と私に言った。
そこまで言われると、似合っているのかなという気になってくる。色も好きだし、私はこれを買おうと決めた。
「これにします。」
と試着室のカーテンを閉めながら春さんにそう話しかけると、春さんは驚いた声をしながら
「いいの?私が選んだ服で。」
とカーテンの向こうから聞いてきた。私は、
「好きな色でしたし、好みにあいましたので。」
と返した。みんなはカーテンの向こうで笑顔を作る必要なんてないのに、私は笑顔だった。なんだか、嬉しかったから。
脱いだ服を店員さんに手渡しながら後ろで待ってくれている3人に話しかける。
「この後どうします?」
すると、竹上くんがショッピングセンターの中に置かれている時計を見ながら答えた。
「そろそろ12時だ。お昼にしよう。」
振り返って時計を見ると、もう11時50分だった。
「ねえ、どこで食べる?」
山田くんが竹上くんから受け取った地図を広げながらきいてくる。今朝はお魚だったし、昨日の夜はハンバーグだった。今日のお昼はそれ以外のものがいいなと頭の中で想像する。何がいいだろうか?浮かんできたのはスパゲッティやうどんだった。けれど、私はどちらかと言えば
スパゲッティの方が好きだ。
「私はスパゲッティが食べたいな。」
私がそう提案すると3人も、
「いいよ。」
「どこにある?」
「ここだ。」
などと言いながら頷いてくれた。
私たちはショッピングセンター内のスパゲッティが食べられるお店へ歩き出した。
「ここみたいだね。」
その店はおしゃれな店で、私たちのお小遣いだけで支払えるのか少し不安になる店だった。
「あ、思ったより安いよ。」
山田くんが店の外に立てかけてあったメニューを見ながら私たちに手招きをする。山田くんの持っているメニューを横から覗き込むと、千円から千4、5百円のものがほとんどで、私たちでも払えそうだ。さっきお財布の中身を見たときには、少なくとも五千円は入っていたから大丈夫なはずだと思いながら中に入る。
中には他のお客さんも多くいて、繁盛しているようだった。
「何頼む?」
「私カルボナーラ。」
「姉さん、いっつもそれだね。」
3人の会話をニコニコしながらきいていると、なんだか不思議な気分だ。この間まで友達と呼べる人なんていなかったのに、今はもうこの3人をそう呼んでも許されるような気がする。急に3人も友達ができてしまった。これは私の自慢できるところだ。こんなにいい友達がいるんだよって。
「平山さんは何頼むの?」
山田くんからメニューを受け取る。たくさんの種類があって、私は少し迷った。
「じゃあ、トマトスパゲッティにしようかな。」
一番値段が安かったからだ。財布にあんまり負担はかけたくない。せっかくお父さんがくれたお小遣いなのだから。
4人で注文をすると、スパゲッティは思ったよりもすぐに届けられた。ちなみに、山田くんはナポリタン、竹上くんはボロネーゼだった。
「食べ終わったらどうする?」
山田くんが一口目を飲み込んでから私たち3人にきいてきた。今日の目的は私の服探しだったわけだが、その目的はもう果たした。次は、みんなに楽しんでもらうべきではないだろうか?
「2人はどこに行きたいの?春さんも、どこに行きたいですか?」
私が尋ねると、2人はうーんと悩んだ。そして
「ないな。」
「ないね。」
と答えた。春さんもないのだろうかと
「春さんは?」
ときくと、春さんは目を輝かせながら
「アクセサリーショップ!」
と答えた。この間行ったところか、と3人で行った数日前を思い出す。
「いいですよ。行きましょうか。」
私がそういうと、よっぽど行きたかったのか春さんはものすごいスピードで食べ始めた。この様子を美里さんが見れば怒るだろうな、と、私は心の中で少し笑った。
みんなが急いで食べたので、食べ終わるまでに長い時間はかからなかった。
「じゃあ、行きましょうか。アクセサリーショップ。」
最後にお金を払った竹上くんが、店から出てきながらそう言った。その声を合図に、私たちは歩き出した。
「アクセサリーショップで何見るんですか?」
私がそう春さんに尋ねると、春さんはぱっと笑顔になった後、すぐに悩み始めて、
「内緒!」
と答えた。私は少し残念に思いながらも、春さんの隣に並んで歩いた。
アクセサリーショップに着くと、春さんは真っ直ぐにブレスレットのあるコーナーに向かった。てっきりチョーカーのあるコーナーに行くと思っていた私は少し驚いたが、あまり気にせずネックレスを見始めた。
「女の子って、こういうの好きな子多いよね?」
「……お前だってかっこいい服憧れるってよく言ってるじゃないか。」
「う。」
店の前で待っている2人の会話が聞こえてきて、クスクスと笑ってしまう。
「ねえねえ。」
春さんが私の横から話しかけてきた。
「これどう?」
春さんが差し出したのは、水色と黄緑のビーズが一途ずつつけられたブレスレットだった。ビーズを通している糸は太い白色の糸で、その色合いはどこか夏を感じさせる。
「いいですね。きれいだと思います。」
春さんはこれを買うのだろうか?値札までは見れなかったが、安そうには見えなかった。
「待ってて。買ってくるから。」
春さんはそういうとレジに向かって歩いて行った。春さんは、やっぱりああいう色合いが好きなのだろう。私は、先に2人の方に行って春さんを待つことにした。
「2人とも。待っててくれてありがとう。」
2人のもとに駆け寄ると、山田くんが
「姉さん、何か買ってた?」
ときいてきた。
「うん。ブレスレットをひとつ。」
と答えると、山田くんは
「よかったな。」
と言って私を見ながら笑った。訳がわからず、竹上くんの方を見ると、竹上くんは目を少しだけ見開いて山田くんの方を見ていた。きっと、竹上くんも意味が分からないのだろう。
「お待たせー。」
振り返ると、春さんがお金を払い終わって私たちの後ろまで来ていた。
「はい、清華。」
渡されたのは、透明な袋に入れられたブレスレットだ。それも、さっき春さんが買っていたブレスレット。
「え、あの、春さんのために買ったのでは……?」
私がそういうと、春さんは優しい笑顔で
「それは清華のために買ったの。清華が使っていいんだよ。」
と言って、私の手をそっと包みこみ、ブレスレットを握らせた。
「受け取って。」
その笑顔は太陽なように優しかった。最近は、こんな笑顔によく触れる。嬉しかった。一生大事にしていこうと、優しくブレスレットを握りしめた。
今日回りたいところはもうないかと尋ねると、全員がないと答えたので、今日はもう家に帰ることにした。ショッピングセンターの前で、竹上くんと別れる。
「じゃあ、また明日。」
「またなー。」
山田くんと私の挨拶に、竹上くんは表情を変えることなく
「うん。」
と手を振りながら答えた。
明日、というのは、春さんが友達からもらったという遊園地のチケットを3人分くれて、明日いくことになったからだ。
明日が楽しみだなあ、と、遊園地に行った私たち3人の姿を想像する。
「帰ろっか、平山さん。」
竹上くんの後ろ姿を見届けると、山田くんの家がある方向に向かって歩き出した。まだ日は高く、お日様が燦々とさしていた。今は何時なのだろうか?ポケットから携帯を取り出し、時間を見ると2時になっていた。
「家に帰ったら何しましょうか?」
春さんと山田くんを交互に見ながら尋ねる。2人は
「「ゲーム!」」
それ一択だった。おすすめのゲームがあるんだ、と、山田くんが楽しそうに話す。春さんも、わかる、というような笑顔をしながら楽しそうにきいていた。2人はゲームが大好きなのだろう。何か好きなことがあるというのはいいことだ。
家に着くと、早速ゲーム大会が始まった。リズムに合わせてボタンを押したり、体を大きく動かしながら遊ぶゲームもあった。ゲームは色々な種類があって、何時間遊んでも飽きなかった。5時くらいになった頃、美里さんが
「そろそろやめなさい。」
と私たちに声をかけた。私たちはそれに素直に従い、ゲームを片付ける。美里さんのいうことに自然に従う2人を見ると、やっぱり美里さんたちの子供なんだなと可愛らしく思えてくる。
私はゲームの片付けを終えると、
「少し出てきますね。」
と言って家を出た。そして、川のある方向に向かう。私の目当ては、りんご飴だ。懐かしい思い出を匂わせるりんご飴は、どうしても諦め難かったのだ。フルーツ飴の屋台の前に差し掛かり、足を止める。
「すみません。りんご飴一つください。」
と言いながら、屋台のお姉さんに500円玉を手渡す。お姉さんは
「そこから選んで一つ持って行ってね。」
と言いながらお金を片付けた。私はいくつか置かれていたりんご飴の中から、いい色をしていたりんご飴を一つ選び、手に取った。久しぶりにりんご飴の重さが手にのしかかる。なんだか嬉しい気分だった。
昨日花火を見た川岸に移動し、りんご飴にがぶりとかぶりつく。今日は花火は上がらないからか、昨日に比べるとほとんど人はいなかった。パリパリと音を立てながらりんご飴を食べる。なんだかその音が面白く、いつの間にか楽しい気持ちになっていた。この重さも、この匂いも、この食感も、この音も。全て懐かしい。笑顔でもう飴とは呼べないりんごに最後の一口とかぶりつくと、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこに居たのは、
「ねえ。」
竹上くんだった。心の底から驚き、心臓が口から出てしまいそうだった。友達にはりんご飴にかぶり付く姿は見られたくないと、今日もう一度お祭りに来たというのに、見られてしまった。これでは今日もう一度来た意味がないではないか。驚くと同時に、少しショックだった。
「ど、どうしてここに?」
動揺を隠せないまま尋ねると、彼は
「なんとなく。暇だったから。」
と言いながら私の横に腰掛けた。そして、
「俺もきいていい?」
と私にきいてくる。私が頷くと、彼は
「平山さんこそ、なんでここにいるの?どうして昨日、そのりんご飴食べなかったの?」
と尋ねてきた。私は内心どきっとした気持ちで、慌てて答えた。
「は、恥ずかしくて……。」
先程食べ終わったりんごの芯をりんご飴が包まれていた袋に戻しながらそう言った。まだ続きがあると思ったのか、彼は黙ってきいていた。仕方なく、理由を話す。
「あのね、りんご飴にかぶりついてるところを見られるのが……恥ずかしかったの。」
少しだけだけれど、顔が赤くなっているのがわかる。どんどん恥ずかしさが湧き上がってくる。
「なんだ、そうだったんだ。」
竹上くんが自分の手を触りながらか答えた。え、と、彼の方を振りかえる。
「一瞬、嫌われていたのかと思ったんだ。一緒にお祭りも楽しみたくないくらい、俺たちのこと嫌いだったのかなって。」
そういう彼の目はどこか落ち着いたような目をしていた。
「山田くんたちが待ってるから、そろそろ行かなきゃ。」
私がそう言って立ち上がると、彼も立ち上がった。私を見送ってくれるらしい。
「じゃあね。」
「うん。また明日。」
何度も何度も振り返る。振り返って、彼がいると、なんだか安心した気分になった。けれど、次に振り返った時には、彼はいなくなっていた。いくら目で探しても、彼の姿はそこにはなかった。
ピンポーンとチャイムを鳴らすと、すぐに春さんが出てきてくれた。
「おかえり。どこ行ってたの?」
春さんはまた飴玉を舐めていた。飴が好きなのだろうか?
「お祭りに。もう一度回りたくなってしまって。」
そう答えると、春さんはふうんと言いながら私に家に上がるよう促した。
家に上がり、りんご飴の棒をゴミ箱に捨てていると、春さんが小声で話しかけてきた。
「明日、3人で遊園地に行くんだよね?」
私は頷きながら
「はい。」
と答えた。春さんは楽しそうな笑顔で
「めいいっぱいおしゃれして行って、驚かせようよ?」
と言って、今日買ってきた服の入った袋を指さした。
翌朝。山田くんが私の姿を見て歓喜の声を上げた。
「綺麗だよ、平山さん!」
緑色のワンピースに、山田くんと竹上くんが買ってくれたネックレス、そして春さんがくれたブレスレット。肩の少し下まである髪の毛は、綺麗に左サイドでまとめられ、三つ編みが施されていた。
私も初めて自分の姿を見た時、驚いた。春さんは
「清華の元々の素材がよかったのよ。」
と褒めてくれたが、私はみんなのおかげだと首を横に振った。みんなが買ってくれたアクセサリー。春さんがしてくれたヘアアレンジ。みんなが私のためにいろんなことをしてくれたことが嬉しかった。
「ありがとうございます、春さん。」
春さんは嬉しそうに
「お礼を言ってもらうほどのことじゃないよ。」
と言って笑った。
春さんと美里さん、山田くんのお父さん、浩太さんに見送られながら、早くから家を出る。今日の待ち合わせ場所は、竹上くんの家の前だ。
竹上くんの家に向かう途中、山田くんは私が山田くんたちからもらったネックレスをつけたのがよっぽど嬉しかったのか、ずっと私のおしゃれの話をしていた。
「本当に綺麗だよ!お姉さんって感じ!」
私は褒めてもらうたびに、
「そうかなあ。」
と言って曖昧な返事を返した。春さんが頑張って綺麗にしてくれた私を綺麗じゃないとは言えないし、自分で自分が綺麗だとも恥ずかしくて言えなかったからだ。
竹上くんの家に着くと、竹上くんはすでに家の前で待ってくれていた。そして、私を見て、一瞬驚いたような表情を見せた。山田くんの方をチラッと見ると、山田くんは口を開けて茫然としていた。山田くんは竹上くんの表情が変わるところを見たことがないのだろうか?
「し、信二の表情が変わった……?」
竹上くんの表情が変わったのは、私がおしゃれをしたからだろうか?そう思うと、なんだか楽しい気持ちになった。
山田くんに指を刺されて、竹上くんは慌てて腕で顔を隠した。
「いーや、隠しても無駄だ。見たからな!」
山田くんは楽しそうに笑って竹上くんの腕を掴み、下ろした。竹上くんの頬は少し赤くなっている。表情が変わったのを見られたのが恥ずかしいのだろうか?
「意外と可愛いところもあるんだなあ、信二も。平山さんの美しさにいつも変えない表情を変えるとは。」
「えっ。」
私は慌てて手を横に振りながら否定する。
「私はそんなに綺麗じゃないよ!」
私がおしゃれをして驚いたのかと思っていたのだが、私の美しさからだと言われると、なんだか恥ずかしかった。
「……だよ。」
竹上くんが横を向きながら小さく呟く。
「綺麗だよ、平山さんは。」
それをきいた瞬間、私の心臓が大きな音を立ててなった。まるで緊張しているように。一体私は何に緊張しているというのだろうか?
山田くんが竹上くんの腕から手を離す。その時、山田くんが表情を曇らせたのを私は見逃さなかった。
電車に乗り込み、3人で並んで席に座る。竹上くんも、山田くんももう表情はいつもの表情に戻っていた。
「楽しみだね、遊園地。」
私が2人に声をかけると、2人とも私の方を見て
「そうだな。」
「そうだね!どこから回ろうか?」
と答えた。山田くんの表情からは心の底から楽しみにしていることが伝わってきた。
「そういえば、気になってたんだけどさ。」
山田くんが竹上くんの方を向きながら尋ねる。
「信二って、お兄さんいないのにどうして二がつくの?」
山田くんが不思議そうな顔をしてそうきいた。そういえば、と思い出す。ご両親の話は聞いたが、兄弟がいるという話は聞いていなかった。
「お父さんが信一だからだ。」
竹上くんのお父さんは双子だったらしく、名前に一がつくらしいが、それを竹上くんのお母さんが面白がって信二と名付けたらしい。
「面白いお母さんだな。」
そういう山田くんはたいして面白く感じていなさそうだ。顔がそこまで笑っていなかった。
電車を降り、駅から出て少し歩くと、そこに遊園地はあった。山田くんは春さんときたことがあるらしく、道に迷うことなくたどり着くことができた。ゲートをくぐると、そこはもう遊びの世界だ。多くの人で賑わっていた。夏休みだからか、子供も多い。
「まずどこから行こうか?」
「なにに乗りたいの?」
2人が私に聞いてくる。小さい頃に行った遊園地を思い浮かべる。私が喜んで乗っていたのは。
「ジェットコースター!」
私はジェットコースターが好きで、その時は3回も連続で乗っていた気がする。とはいっても、並ぶ時間があるのできちんと休憩はできていたが。
「げっ。」
山田くんが嫌そうな顔を作る。山田くんはジェットコースターが嫌いなのだろうか?
「そういえば山田、ジェットコースター苦手だっていってたもんな。」
竹上くんが入り口近くにあるジェットコースターを指差しながらそういう。山田くんはそれを見ただけでも嫌そうな顔をしていた。
「下で待ってるか?俺と平山さんで行ってくるし。」
竹上くんが提案する。私もいい案だと思ったのだが、
「だめっ。俺も行く!」
と、すぐに山田くんに否定されてしまった。一人ぼっちになるのが嫌なのだろう。
「平山さん!隣に座ってね。……マジ怖いから。」
なぜ竹上くんに隣に座ってもらわないのだろうと思いながら、
「いいよ。」
と笑顔で笑う。まあ、誰が隣でもジェットコースターは楽しいだろう。友達と遊園地に来るのは初めてで、少し緊張する。
3人でジェットコースターの並び口に向かうと、そこには「2時間待ち」と書かれていた。
「うわ、かなり待つなあ。……そんな時のために!」
山田くんがそう言いながら鞄からスマホを取り出した。スマホの画面を覗き込むと、色々なゲームのアプリが落とされていた。
「交代でやろうぜ。」
スマホのゲームをしたり、目が疲れればしりとりをしたり。待ち時間も楽しく過ごすことができた。
「つぎの方、どうぞ。」
係の人の案内でジェットコースターの席に座る。2人ずつ座るジェットコースターだったので、山田くんと私が一番前の席に、その後ろの席に竹上くんが座った。
「1番先頭とかいちばん怖いやつじゃん!」
山田くんが頭をかきむしりながら大きな声で言う。私は笑いながら
「景色が見えるから?」
と聞いてみた。山田くんは涙目になりながら
「うん、そう。」
と言う。今更降りるわけにも行かないので、山田くんには我慢してもらうしかなさそうだ。
「では、行ってらっしゃーい。」
その声を合図に、ジェットコースターが進んでいく。最初はゆっくりゆっくり登っていく。
「もうすぐ頂点だね。」
ニコニコして2人に話しかけるが、2人ともなにも言うことはなかった。横を見てみると、山田くんは今にも泣きそうな顔をしていて、小さな声で何かをぶつぶつと呟いている。
「イヤダイヤダイヤダ。」
そんなに苦手だったのか。それならば、乗らなければよかったのに。心のなかで呆れながら、山田くんを慰める。
「大丈夫よ。死んだりしないから。」
「イヤダイヤダイヤダ。」
……山田くんはどうしてジェットコースターに乗ったのだろうか?こんなに苦手なのに。
ジェットコースターが頂点に達し、一気に落下する。風が吹き付け、宙に浮いたような感覚が私たちを襲った。
「うわあああああああ!」
山田くんの声が耳の中に響く。横でこんなに大きな声を出されてはたまらない。けれど、すぐにそんなことを考える余裕は無くなった。
グルンと横に曲がり、体が傾けられる。ふと横を見ると、山田くんの目からはまみだが溢れていた。
「大丈夫ー?」
声をかけるけれど、山田くんには返事をするよう湯などないようだ。
ジェットコースターがゆっくり止まる。なんだか耳が痛い気がする。
「山田、お前叫びすぎだろ。」
竹上くんが耳を押さえながら山田くんに不満を述べた。山田くんは未だに少し放心状態で
「うん、ごめん。」
と情けない声で答えた。
ベンチに座りながら、美里さんが持たせてくれたお茶を飲む。山田くんがしんどそうだったので、少し休憩しようと言うことになったのだ。
「大丈夫?山田くん。」
私が山田くんを心配してそう尋ねると、山田くんは下を向いたまま
「うん。ありがとう。」
と答えた。竹上くんの方を見ると、竹上くんは空を見上げていた。
「なに見てるの?竹上くん。」
竹上くんはなにも答えない。もしかしたら、竹上くんもジェットコースターが苦手だったのだろうか?どうしてジェットコースターにのったのだろうか?他のところで遊んでくれていれば1人で行ってきたのに。
「うん、よし。休憩しよう。」
山田くんが満面の笑みでそういった。
「なんか食べる?」
山田くんがお店の方を指差しながら私たち2人に尋ねた。左から順番に見ていく。
ハンバーガー。お昼ご飯にはまだ少し早いだろう。
ジュース。お茶があるので特に必要はない。
アイスクリーム。昔、お母さんがよく買ってくれていたなあ。
「じゃあ、私はアイスクリームにしようかな。買ってくるね。2人は?」
私がそういって立ち上がると、2人はふるふると首を横に振った。2人はいらないのだろう。
「なら、私もいいや。」
2人が食べないのなら、お金はお昼ご飯の時まで取っておこう。お小遣いをあんまり無駄遣いするのはよくない。最近はよく使っていたから、また節約しなくてはならない。
「え、いいの?買ってきていいんだよ?」
山田くんが顔を上げて私の方を見ながら尋ねる。私は
「節約しようと思って。」
と笑って答えた。
「アイスクリームが好きなの?」
竹上くんが口を開く。私は
「うん。」
と答え、私は2人の横にまた腰掛けた。すると、竹上くんがポンポンと、私の頭を撫でた。
「えっ!?」
驚いて声が漏れる。これには山田くんも驚いて、竹上くんを手を私の頭から引き離した。
「なにしてんの!信二!」
山田くんが大きな声でそう言うと、竹上くんはまるで目が覚めたかのように
「えっ。」
と目を見開いて、私に謝ってきた。
「本当にごめん。自分でも、なに考えてたんだか……。」
私は
「いいよいいよ。」
と手を横に振りながら答えた。山田くんは未だに竹上くんの腕を握り締めている。食い込んでいて、少し痛そうだ。
「山田くん。腕、離してあげて。」
山田くんは
「あ、ごめん。」
と言いながら竹上くんの腕を離した。私はふふふと笑うと、
「次はどこに行こうか?」
と2人にきいた。
その後は3人でたくさん遊んだ。メリーゴーランドに乗ったり、もう一度ジェットコースターに乗ったり、お昼ご飯にハンバーガーを食べたり。その中でも、いちばんと面白かったのはお化け屋敷だ。
「ぎゃー!なに、なに!?」
何かあるたびに叫び声を上げる山田くんに、それを
「うるさい。」
と言って止める竹上くん。山田くんの声は少し大きかったかなと思うが、誰かの叫び声が聞こえる方がより恐ろしく感じて楽しかった。
楽しい1日はあっという間に終わってしまって、帰る時間となった。
「じゃあ、帰るか。」
山田くんが最後にゲートをくぐってそう言った。駅に向かって歩き出す。
「今日は楽しかったね。」
山田くんが笑う。竹上くんは何も言わずにただ頷いた。
「そうだね。また来ようね。」
私がそう返すと、山田くんはぱっと花が咲いたような笑顔になり、竹上くんは
「ああ。」
と言ってまた頷いた。
竹上くんと別れ、山田くんの家に着くと、春さんがお風呂に誘ってきた。
「一緒に入ろう。」
そう言った後、私の耳元に顔を寄せ、
「聞きたいことがあるの。」
と小さな声でポソリと呟いた。私はなんだろうと疑問に思いながらもうなずき、春さんの後についてお風呂場に向かった。
服を脱ぎ、お風呂場に入る。
「話ってなんですか?」
気になっていた私は体を洗うタオルをお湯で濡らしながら尋ねた。春さんは、悲しそうな顔をしながら
「それ。」
と言って、私の体を指さした。正確には、私の打撲痕を。私は慌ててそれを隠すも、もう遅かった。
「前に一緒にお風呂に入った時から気になってたの。それ、なに?」
きっと言いにくい事情だと察してくれたからお風呂場まで話をするのを堪えてくれたのだろう。優しい人だ。この人なら、信用できるかもしれない。けれど。
「すみません、言えません。」
私は俯きながらそう答えた。どうしても言うことができなかった。春さんは優しい人だ。優しい人だからこそ、私を助けようとしてどこかに相談に行くかもしれない。そうしたら、私はもうお父さんと一緒にいられなくなる。お父さんとは暮らせなくなる。
「どうしても……言えません。」
春さんには感謝しきれないほど感謝しているし、いい人だと言うのもわかっている。だからこそ、言えなかった。
春さんは
「そう。」
とだけ言うと、もう何も言わなかった。そのあとは春さんとは一言も話さず、眠りについた。
朝、部屋の扉を叩く音で目を覚ます。隣を見ると、春さんもこの音で起こされたようだ。
「なに?誰?」
春さんが眠たそうに目を擦る。
「おはよー!ゲームしよっ。」
聞こえてきたのは山田くんの声だった。部屋の壁にかけてある時計を見ると、まだ6時だ。
「清華……どうする?」
昨日は夕方まではしゃいでいたので、正直私は疲れていた。
「そうですね……もう少し寝たいですね。」
私がそう答えると、春さんは少し眠たげな声で
「優希、寝かせろ。」
とだけ言うと、枕に顔をうずめ、そのまま眠ってしまった。私ももう一度、と横になり目を閉じると、扉の向こうから去っていく足音がした。安心して眠ろうとしたのだが、眠れない。もう目が覚めてしまったのだ。私は仕方なく起き上がり、昨日春さんが用意してくれた服に着替えた。
「なに?起きるの?」
物音を立ててしまったのか、春さんが目を擦りながらこっちを見ていた。
「すみません。起こしましたか?目が覚めてしまって……。」
春さんに近づきながらそう言うと、春さんはゆっくり起き上がって
「よし、優希を怒りに行こう。」
「いやいや、なんでですか?」
眠いところを起こされたのが気に食わなかったのだろう。春さんは
「ちょっとここでゆっくりしてて。」
と言うと、部屋を出ていってしまった。山田くんが少し心配だが、待っていろと言われたのだ。素直にここで待っていよう。2人も姉弟なのだから、喧嘩もするだろう。それは暖かく見守ってあげて、やりすぎたと感じたら止めてやればいい。
待っていると、向こうから大きな声が聞こえてきた。やっぱり、喧嘩をしているのだろうか?山田くんの声がほとんどだから、山田くんの方が優勢なのかもしれない。心の中で、劣勢であろう春さんを応援する。がんばれ、春さん!と。
しばらく声を聞きながら部屋で待っていると、急に声がピタリと止んだ。その代わりに、こちらに向かってくる足音がする。春さんだろうか?
ガチャリと勢いよく扉が開く。そこにいたのは、春さんではなく山田くんだった。
「平山さん、どう言うこと?」
その表情は、怒りに燃えていた。
後から山田くんを追いかけてきた春さんと一緒に山田くんをなだめる。なにがあったのかを尋ねると、春さんが口を開いた。
「よくも起こしたわねって、怒ってやろうと思っていったら、逆に問い詰められて……。」
春さんの目からは、今にも涙がこぼれ出そうだった。
「姉さん、平山さんが家に来てからたまに変な顔してたから……平山さんのことで何かあったのかと思って、聞いてみたんだ。」
山田くんが俯きながらそう言う。その手は、震えていた。
「そしたら、体に打撲痕があったって言うから……。」
ポタ、ポタと、水の垂れる音がする。泣いているんだ、山田くんが。
バッと、山田くんが顔を上げ、私の方を見た。
「何か隠してるんでしょ?」
何かを私に求めてくる目だった。冷や汗が垂れる。人生最大のピンチかもしれない。そう思った。
山田くんが私の肩を掴み、揺さぶる。
「ねえ、話してよ!」
その声を聞きつけ、美里さんが駆けつける。
「どうしたの?!」
春さんが私たちを指差し、
「優希を止めて!」
と叫んだ。どうしようもなかった。美里さんが山田くんを私から引き離すのを、ただただ呆然とみていた。もう、どうすればいいのかわからなかった。
春さんと美里さんが頭を下げてきた。
「うちの息子が、本当にごめんなさい!」
「誰にだって話したくない事情くらいあるのに……。」
本当に申し訳なさそうな顔をして、2人は私に謝ってきた。どうして?2人はなにも悪くないのに。山田くんだって悪くない。隠し事をしている私が全部悪いのに、どうして……?
「頭をあげてください。お2人は悪くないですよ。」
いつもの笑顔を作り頭をあげてもらおうとすると、山田くんが大声で
「ほら、その顔!」
と叫んだ。一体なにを言われているのかわからなかった。いつものように笑顔を作れていたはずだ。違和感など、なかったはずだ。
「竹上が言ってたぞ!平山さんの笑顔は本当の笑顔じゃないって!平山さんは何かを隠してるって!平山さんは……
「優希!」
美里さんの怒涛で、山田くんの声は一気に小さくなった。
「……本心を、隠してるって。」
ショックだった。2人に、そんなふうに思われていたなんて。信じられなかった。私のうその笑顔が、バレていただなんて。でも、私は冷静にならなくてはならなかった。感情のままに行動してはいけない。母の行動から、学んだのだ。感情のままに家を出ていった母から。
「そういえば、山田くんから謝罪の電話を受けた時、そんなこと言ってたね。」
言ってしまってから、はっと気がつく。電話で謝罪を受ける前、学校で謝罪を受けた時。山田くんの両親は、いなかった。
「謝罪?なんのこと?」
美里さんが涙目になりながら山田くんを見る。知らなかったんだ。山田くんの両親は。学校から連絡が行っていなかったのだ。多分、見ていただけだったから。
「そ、それは……。」
「気にしないでください、美里さん。」
山田くんの言葉を止める。山田くんはもう十分反省している。もうこれ以上怒られる必要はないはずだ。
「俺たちには、教えられない事情なんだね?」
山田くんが悲しそうな顔をして私を見る。その目から、涙が次々に溢れ出る。なにをそんなに泣くことがあるのだろうか?友達とはいえ、所詮、他人のことなのに。
「ええ。ごめんなさい。」
山田くんのことは信用している。春さんのように、優しい人だと思っている。けれど、その優しさが裏目に出ることだってあるのだ。
私はにっこり笑いながら、山田くんに謝った。
全員が少し落ち着き、泣き止んだ頃。山田くんが
「ちょっと顔を洗ってくる。」
と言って部屋を出た。美里さんはいまだに私に頭を下げていた。
「ごめんなさい。あの子、あなたに謝罪しなくちゃいけないことを他にもしてたのよね?本当に申し訳ないわ。」
そして私がもう一度
「お2人は悪くないですよ。」
と答える。このやりとりは、もう何回目だろうか?
美里さんを慰めていると、山田くんが部屋に戻ってきた。
「公園に行かない?信二も来るって。」
どうやら竹上くんと連絡をとってきたらしく、山田くんのポケットにはさっきまではなにも入っていなかったのに、スマホが入れられていた。
「わかったわ。行きましょう。」
落ち着くために、いったん別れるのはいい案だ。お互いに頭を冷やせるいい機会になるだろう。そう思って、私は立ち上がり、山田くんと公園に向かった。
公園に着くと、竹上くんがすでにブランコに腰掛けながら待っていた。
「おはよう、竹上くん。」
「おはよ、信二。」
竹上くんに挨拶をすると、竹上くんはブランコから立ち上がりながら
「おはよう。2人とも。」
と挨拶を返してきた。4つあるブランコに、3人で腰掛ける。
「なにがあったかは、山田から聞いたよ。」
竹上くんはそう言うと私たちの方を振り返り、
「大丈夫?」
と尋ねてきた。私は笑顔で
「大丈夫。」
と返す。けれど、山田くんは返事をしなかった。また泣きそうな顔になっている。大丈夫ではないのだろう。
「平山さん。家には帰らないの?」
そういえば、と言うふうに竹上くんが尋ねてきた。家に帰れと言われているのだろうか?
「荷物とかあるだろ?」
その言葉を聞き、少し安心する。帰れと言われているわけではなかったから。でも、私は困ってしまった。家に帰ろうにも帰ることができないから困っているのだ。お父さんにも会いたいし、心配だ。けれど、帰れば確実に怒られるだろう。確かに、せめて最低限のものは取りにいきたいものだ。
「ついて行こうか?」
竹上くんが私に提案してきた。お客さんを連れて帰ればお父さんもおとなしくして居られるだろうか?けれど、それはお父さんに負担をかけることにはならないだろうか?
「行きたい!」
先ほどまで元気を失っていた山田くんが、急に大きな声を出した。
「平山さんの家、行ってみたい!」
ここまで友達を期待させておいていかないと言うのも少しかわいそうだ。家の前くらいまで入ってみるのもいいかもしれない。
「とりあえず、行くだけ行ってみようかな……?」
私がそう言うと、山田くんは飛び上がって喜び、竹上くんは頷いた。
ゆっくりと歩きながら家へと向かう。家が近づくに連れ、私は緊張していった。また怒られはしないだろうか?家に入らなくても、見つかったらどうしよう?私の中に沸き立ってきたのは、紛れもない恐れだった。家に帰るだけなのに。私の家なのに。お父さんに会いに行くだけなのに。どうして私はこんなにも恐れているのだろうか?
「……ついた。ここよ。」
自分の家を指差す。怖くなって、後ろを歩いていた2人を振り返ると、山田くんは楽しそうに笑い、竹上くんはスマホを触っていた。
「入ろ、入ろ!」
山田くんが楽しそうに玄関の前に立つ。静かにして欲しいなと思いながら、鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。カチャリ。音を立てて玄関の鍵が開いた。恐る恐る中に入ると、山田くんが
「お邪魔しまーす。」
と大きな声で言った。思わず、
「しっ。」
と止める。山田くんは手で口を塞ぎながらキョトンとした顔で私をみていた。ゆっくりと階段に近づいていく。ちらりとリビングを覗くと、お父さんが眠っていた。よかった、眠ってくれていた。これなら安心だと、
「お父さんが寝ているから、静かにね。」
と2人に伝えると、2人は黙って頷いた。ぎしぎしと階段を上り、自分の部屋の扉を開ける。中には……女の人がいた。
「え?」
「え?」
女の人も困惑していた。どうして私の部屋にいるのだろうか?知らない女の人が。
「誰?」
山田くんが女の人を指差しながら私に聞く。けれど、いくら聞かれても知らないものは知らないのだ。
「……誰ですか?」
「あっ、あんたこそ誰よ!」
女の人が大きな声を出す。しまった。お父さんが起きる。後ろからドスドスと歩いてくる音がする。お父さんが起きてしまったんだ。
「2人とも、奥に入って!」
2人を部屋の奥に押しやる。女の人は相変わらず
「あんたたち誰なのよ!」
と喚いている。閉めた扉が、ゆっくりと開かれた。
「お前、なんで家にいる?そいつらは誰だ?」
その目は、確かに私をを睨んでいた。
「あなた、この子たちは誰?」
女の人がお父さんに駆け寄りながら私たちをお父さんのように睨んだ。
「俺の娘……いや、今はもう関係ない奴だ。」
身体中に、衝撃が走る。娘じゃ、ない?もう、私は娘でさえないの?私は見捨てられたの?
お父さんがゆっくり私に近づき、腕を振り上げた。殴られる。覚悟した。避ける気なんて、もう起こってこず、目を閉じた。けれど、私にその拳が当たることはなかった。竹上くんが私の腕を引っ張って、助けてくれたのだ。
「山田!走るぞ!」
竹上くんはそう言うと私の腕を引っ張って玄関まで連れていった。靴を履いていく余裕などなく、靴下のまま外に飛び出す。
「このまま警察まで行くぞ!証拠のビデオはとった!」
竹上くんがスマホをポケットにしまいながらそう言った。
「おう、わかった!」
私は2人に手を掴まれながら走っている。私は2人に、初めて抵抗した。
「嫌!」
足を止め、腕を引っ張る。2人は止まり、私の方を振り返った。その顔は、焦りで満ちていた。
「どうして!早く逃げなきゃ!」
そう叫ぶ山田くんに私は叫び返した。
「ダメ!警察はダメ!」
ポタ、と水が落ちる音がした。雨?いや、私が泣いているんだ。ずっと泣けなかった私は、お父さんのピンチに久しぶりに泣いた。
「お父さんと私はずっと一緒にいるの!警察に行ったら、お父さんと離ればなれになっちゃう!」
必死の抵抗だった。最後の家族を失わないための、最後の抵抗。それでも、竹上くんは私の腕を引っ張った。
「ずっとそうやって生きていくつもり?娘じゃないと言われてまで、ずっとそうやって生きていくつもり!?」
ずっと、そうやって。その言葉が頭の中に響いた。私はこれからどうやって生きていくのだろう?お父さんと一緒に?……お父さんに、殴られ続けながら?家に、帰れないまま?そう思うと、私の足は自然と動き出していた。ただ、呆然としながら泣いていた。




