孤独という名の風景画 ver2017
月が照らしていた。
淡く、けれど確かな強さを持つ光はバルコニーにぼんやりと立つ娘を幽玄に照らし出し、透き通った肌をなお一層透明にさせて風景に溶け込ませている。
山林に囲まれた城下町にそびえる城。そこから突き出るように存在するバルコニーはまるでおとぎ話のような神秘性を持っていて、こんな場所で純白のネグリジェを纏いながら物憂げな表情で木々を眺める姿は息を呑む程に美しい。
「……はぁ」
小さなため息。
優美な口元から吐き出された息は初秋の肌寒さを感じる空気の中に溶け込んで、昼間の熱さなど忘れるような肌寒く乾燥した風が穂先のような美しい金色の髪を揺らめかす。
緩やかな風に乗ってたなびく金糸が月光を反射して光の筋となり、やがて暗闇に溶け込むようにすぅ……と見えなくなった。
――まだ大人になりきれてはいないギリギリの年頃。
彼女はほんの僅かに少女然とした趣を残しながら、けれど凛とした雰囲気を纏っている為に年齢より幼く見られることはまずないであろう。翡翠のような透き通った瞳はどこか遠くに焦点をあわせるようにぼんやりと開かれていて、いっそ怜悧とすら思われる程に研ぎ澄まされた雰囲気を和やかなものにしていた。
風が凪ぐ。
夜風によって押し付けられたネグリジェは、豊満とは決して言えないけれど整った形をしていることが見て取れる双丘とすらりとした肢体を綺麗に浮き上がらせていた。覗く手足は白磁のように滑らかで、泡沫の夢のような儚さがある。
「せめてもう少しうまく立ち回れればいいのに……」
どこといった所を見据えているわけでもない遠い眼差し。
それはただぼんやりとしているというよりは、単に何も視界の中に入っていないかのような空虚感が漂う代物だ。どこまでも透明でどこまでも無意識。ともすれば己のことすら俯瞰してこの景色に溶け込む風景のような虚無感すら滲み出している。
「私は少し、お前がうらやましいよ」
つぶやくように漏れ出した声は夜風にまみれて溶け去った。
物憂げに立ち尽くす娘の脳裏に浮かんでいるのは、自分には天真爛漫な笑顔を見せ、民には真剣でまっすぐな眼差しを向ける妹の姿だ。己と同じ金糸の髪に翡翠色の瞳。だが自身とは違い、頭脳明晰で思慮深く、事政治に対して非常に大きな才覚を有する無類の天才。
――とてもではないが敵わない。
自分が一を考えている間に妹の方は十を考え抜いてしまっている。
「はぁ……」
またため息が漏れる。
天が妹に与えたのが文才であるなら、姉である彼女――フェイアーラ・リシテ・メイロードに与えたのは武の才だった。
だが、その才能自体は稀有なものだ。
これは周りの者が囃し立てるまでもなく彼女自身理解していたし、政に対する書物の内容はさっぱり頭に入ってこないのに、魔術書の内容は一度読めばほぼ把握できるのでは嫌でも気がつく。
実際、剣も槍も弓も使いこなし、攻撃魔法も防御魔法も補助魔法も一級品。おまけに無尽蔵とも揶揄される魔力まで持っているのだから始末に負えない。
ゆえにフェイアーラは、もしも王女という立場でなければ歴史に名を残す騎士として活躍が約束されていたと言っても過言ではなかった。
だが。
「ほんと、意味無いなぁ……」
まさか一国の姫君、それも第一王女が戦場に立つなどあってはならない。
非公式に戦闘訓練こそさせてもらえるとはいえそれはそれだ。政治の世界になど到底身を置けない彼女は取りも直さず笑顔を民に向けることしかできず、ゆえに王族の象徴として表舞台に立つことのみが要求されていた。
それがもう何年も。
すでに今、フェイアーラは民から〝王女様〟と呼ばれるただそれだけの存在だ。
「はぁ……やになっちゃう」
そんな鳥かごのような世界に閉じ込められて満足できるはずもない。
ほぼ必然の結末として、王族としての立ち振舞を強要されることに疲れた幼い彼女はよく城を抜け出していた。だが年齢が二桁になる頃からはそれもしなくなってしまっている。「いい加減己の立場を自覚せよ」という父の言葉に耳を傾けたという面もあるし、成長に伴って自身を懸命に探す兵士たちの労力を慮れるようになったという面もある。
だが何よりも――ただただ単純に、疲れてしまっていた。
姫という立場に縛られて己の才覚を伸ばすことはできず、さりとて求められる世界で生き抜くための適性は全くない。求められているのは命ぜられるままに象徴として立ち振る舞うことであり、やがて政略結婚という形でこの地を離れることになるだろう。
――無気力。
今彼女に纏わりついているのはそんな諦観にも似た無常観に等しいものだった。日中こそニコニコと仮面を纏わりつかせてはいるものの、その本質は己の生死すらもはやどうでもいいという無力感だ。
他人の為に生き、他人が求める姿で日々を過ごす。
ゆえに彼女の瞳はもはや何も映さず、ただの風景画として入ってくる光を処理していた。
「ふぅ…………」
暫くの間そうしてぼぅ……っとしていたフェイアーラはそこで短く息を吐き出すと目を閉じる。
己の心臓の鼓動でも聞くように集中し、瞑目し、そしてゆっくりと目を開く。
その表情は先程までのような無感動で無機質なものではなく、朗らかな雰囲気でどこか柔和で慈愛すら感じさせる〝第一王女〟のそれだった。
「さて、寝ましょうか」
気を取り直すように「うーん……!」と腕を目一杯頭上に伸ばして身体のコリを取り、彼女は踵を返して部屋の中へと向かった。
気弱な姿を見せるのはもうおしまい。
眠って、朝が来ればまた一日が始まる。
ロクに政治には関われない身といえど、それでも王女としてやるべき事はたくさんあるのだから。明日は何をしなければいけないんだっけ……?
彼女は自分に言い聞かせるように頭の中で言葉を反芻しながら部屋の中に足を踏み入れて――二歩目で違和感に気がついた。
「んー、明日って何があったっけなぁ……」
だがフェイアーラは歩みを止めない。
首筋の辺りにチクチクと感じる殺気に気づかないふりをしながらベッドの方へと足を進める。扉の外には衛兵の気配がしていて、招かれざる客は天板の上にでもいるようだった。
一歩。
二歩。
三歩。
少しでも身を固くすれば侵入者に怪しまれる。だが身構えていなければ対応できない。
バレないギリギリの辺りを模索しながら、ひりつく緊張感をどうにか拡散させつつフェイアーラは歩き続けた。
そして。
「――ッ、ふっ!!」
ほんの一瞬風が凪いだように感じたその刹那、背後から明確な殺意の籠もった一撃が放たれていた。
フェイアーラは咄嗟に足に力を籠めて身を進ませる事で初撃を躱し、振り向きざまに火炎弾を放つ。
「――!?」
黒衣を纏った侵入者のほんの少しだけ驚いたような気配。
だがそれはすぐに霧散し、男は襲いかかる火の玉を冷静にナイフで切り飛ばす――と同時に前進。
「この――っ!」
流れるような所作で前に突っ込んで心臓にナイフを突き立てようとする男の一撃を、今度は氷の剣を現出させることで弾き飛ばす。
一閃。二閃。
魔力で練り上げられた氷の強度はその辺の鋼鉄よりは遥かに硬く、金属同士がこすり合わさるような音が響きながら火花が散った。
「姫様っ! 今の音は――!」
「来るなっ!」
「――っ、がふっ!?」
部屋の中から諍いの音がすれば誰でも異常に気づく。
緊急事態と判断した二人の兵士が血相を変えて飛び込んでくると同時、男の放ったナイフが正確に彼らの喉元に突き刺さった。
フェイアーラの警告など間に合うはずもない。
彼らは周辺に異常を知らせるような大声を出すこともできず、自身に何が起きたのかすら理解できないままその場に崩れ落ちた。
「………………」
フェイアーラは何も言わない。
瞳は絶え間なく動いて状況を懸命に把握しようとしてはいるが、いかんせんわずかでも意識を他に向ければ目の前にいる黒衣の男から致命の一撃を食らう確信があった。
おまけに、これだけの騒動があれば誰かが駆けつけてきてもおかしくないのに城内は静まり返ったままだ。恐らくは廊下に静寂か防音の魔法が展開されていて、外部にこの喧騒は漏れていない。衛兵が気づけたのはまさに扉の前にいたからであろう。
――まいったなぁ。
油断なく男を見据えながらフェイアーラは内心で冷や汗をかく。自分では上手く攻防を成し遂げたつもりだったのに気がつけば侵入者は扉の方を確保していて、自分の背後にはバルコニーしかない。
空中に飛び出して逃げることもできないことはないが、浮かんでいる間は回避行動ができない為にリスクが高すぎる。あの正確無比なナイフの投擲技術を見る限り、その全てを落下しながらいなし続けるのは無理があるだろう。
お互いに微動だにしない。
沈黙だけがずっと流れ続けて――けれど意外なことに、それを破ったのは侵入者の方だった。
「…………お前、誰だ?」
「はい?」
侵入者は口元こそマフラーのようなもので覆ってはいるが、目元やおでこ、そして吸い込まれるような漆黒の髪も表に出ていた。月明かりが十分に差し込んでいるので、額にシワを寄せながら訝しげにフェイアーラの方を見据えているのがよく見える。
声に抑揚はない。特に感情が籠もっているというわけでもない。
だが声音から推測するに男は青年と呼ぶにふさわしい年齢のようだ。彼は油断なくナイフを構えて身を屈めた暗殺者然とした格好こそ崩さないものの、先程までの刺すような殺気は鳴りを潜めている。
「あなたが標的を間違えるような間抜けだというのなら、私としても狙われ損なのでこのままお帰りいただきたいのですが」
唐突に破られた沈黙にフェイアーラは若干動揺していた。まさか暗殺者の方から口を開くとは露ほども想像しておらず、状況が状況でなければ思わず肩から力を抜いてしまいそうな程には気が抜けそうだ。
それではいけない、と思い直した彼女の意識は改めて青年の方に向く。
闇色のマントに漆黒のマフラー。比較的サイズに余裕のある服ではあるが、その身のこなしや所作からしなやかなバネのような筋肉を纏っているのは容易に想像ができた。身長は恐らく自分より頭ひとつかもう少し高い。
「標的は間違えていない。……が、俺が知っている王女はもっと綺麗な笑みを浮かべるはずだ」
言われて、フェイアーラはようやく自分が薄く笑っていたことに気がつく。それは見るものを凍りつかせるような怖気を纏った笑みで、青年の言う通り、普段の彼女であれば決して浮かべないモノであった。
理由は簡単だ。
彼女は興奮していた。
ひりつくような緊張感の中で薄皮一枚の攻防を演じ、ヘマを打てば確実に命を落とすという極限のやりとり。頬に汗が垂れ、一挙手一投足に全神経を張り巡らせる。訓練では到底得られない張り詰めた気配に心臓は早鐘を打ち、けれどそれに反比例するように頭の中は冷静に静まり返ってゆく。
――否が応にも自覚する。
自分が生きる場所は本来こういう世界なのだと。冴え渡った視界と澄みきった思考の中でせせら笑う。
ゆえに。
フェイアーラはその笑みを消すこと無く、むしろもっと怜悧な、あるいは氷雨のような印象を与えるようなものへと変化させていった。
「まったく……おしゃべりな暗殺者もいたものですね」
呆れるような響きすら滲んだ声。あるいは可哀想なものでも見るかのような視線。
挑発し、一撃を誘発してそれを逆手に取ることを目指した、捕食者の甘言。
本能的にそれを理解している彼女は言い聞かせるように訥々と口を言葉を紡ぐ。
「あなたは本来なら何人も立ち入れない場所に足を踏み入れたのです。そこにいるのがフェイアーラ・リシテ・メイロードではなく、ただのフェイアーラであっても不思議はないでしょう?」
王族として仮面を被り、自分を殺し、ただ与えられた役割を果たすだけの存在。
暗殺者といえど思い描いていたのはそんな嘘だらけのフェイアーラであったらしく、ゆえに無気力で無感動、それどころか冷淡かつ冷徹に状況を把握し敵対者の命を刈り取ろうと模索している素の彼女は、〝思わず標的に問いかけてしまうほど〟衝撃的なことであったらしい。
「ああ、なるほど……同じなのか」
「……はい?」
ほんの僅かな時間見極めるように細められた青年の瞳。
その黒曜石のような瞳をじっと見据えながら緊張感を維持していたフェイアーラは、虚を衝かれたようにとぼけた声をあげてしまった。
――青年が構えを解いたのだ。
「なんのつもりです?」
けれどフェイアーラの方は戦闘態勢を崩さない。むしろより一層意識を張り詰めて青年の方を見据える。
そもそも、青年は構えこそ解いたし殺気もすでに放出していないが、それでも隙が無かった。もしも飛び込めばあっさりと攻撃をいなされて首を掻っ切られる位の想像は容易に働く位には油断ならない。
「少し興味が湧いた。――お前、孤独だろう」
「なっ――!?」
暗殺者が対象に〝興味が湧いた〟などと、そんなことがありうるのか。そんなことを考えていたフェイアーラは、けれど続く言葉を聞いて眦をつり上げた。咄嗟に何か反撃しようとしてけれど言葉が思い浮かばず、ただぱくぱくと口元を動かして瞳が落ち着き無く彷徨う。
「いきなり何を言い出すのです……!」
あまりにも無防備な状態で図星を衝かれてしまった。
動揺は彼女が想像していた以上に大きく、あっさりと内心を制御し損ねた結果その言葉には明確な怒気と戸惑いが滲み出してしまっている。
気づいた時にはもう遅い。
それは明確に青年の問に対する答えになってしまっていて、いたたまれなくなったフェイアーラは目を逸らしてしまった。暗殺者にとっては絶好の好機。だが彼はそれでも動かない。
「やはりか。……お前のその目はあまりに昔の俺によく似ている」
「……なんですって?」
「誰も信じず、誰も頼らず、そして己の意志すら持たず。要求された仕事をただ淡々とこなす。そんなところだろう?」
言い返さなければいけない。この青年の思うままにさせるわけにはいかない。
頭の中ではそのような警告が鳴り響いているが、けれどフェイアーラは動くことも喋ることもできなかった。
なぜならそれは事実で、そして今まで誰も見抜きはしなかったことだからだ。
近衛兵も、メイドも、教育係も。誰一人として彼女の素の部分に立ち入りはしなかったし、そもそも気づきもしなかった。家族など――論外だ。
「思考を停止し、己の心に蓋をし」
「だまり……なさい……」
「全てを俯瞰視することで己を含めて〝一風景〟として現状を認識する」
「だま……れ…………!」
淡々と紡がれる青年の言葉に歯を食いしばりながら耐えていたフェイアーラだが、それでも続く言葉に耐えきれずそのまま飛びかかる。
攻撃というほど洗練されたモノではまるで無く、ただ己の感情をぶつけるための行為。
青年はそんな彼女の突貫をさも当然のように受け止め、手首をぎりりと掴み上げた。痛みにフェイアーラの口元が少し歪む。
「お前が生きる世界にお前はいない。……そんなヤツを殺しても、意味がない」
「――っ!」
吐き捨てるようにそう言い切った青年が腕を振りほどく。
だが彼女はふらふらと後ずさるだけだ。俯いたままぶつぶつと単語を口走っている。
「なん……で……」
勝手に人の部屋に押し入って命を狙っておきながら〝意味がない〟などと言われ。
そのくせ一生懸命心にかけていた蓋を引き剥がされて己の内心までズカズカと踏み込まれてしまった。
「なんで……!」
手の平に魔力を展開。そのまま氷のナイフを作り出して、ただ無我夢中で青年に突き立てる。
だが青年の方は全く動じること無くそれをはたき落としてしまった。
からんっ……と、固いものが床を滑る音がする。
青年にとっては当然ながらフェイアーラの命を奪う絶好の好機。だが彼は言葉通り殺意を向けることはない。それどころか哀れみの視線すら向けている。
「――っ、ぐぅ…………!」
暗殺者に全てを見抜かれた上に憐憫すら纏われているという状況。
あまりに情けなく、惨めで、ふがいない。フェイアーラの目からはいつの間にか大粒の涙がぽろぽろと溢れ出し、そして頬を伝って純白のネグリジェの上にシミを作っていた。
「……してよ。殺してよ! そのための貴方でしょう……!!」
胸ぐらに掴みかかるような勢いで懇願する。
何度も何度も胸板を叩き、己の悔しさをぶちまける。
――過去、妹が成長してから自分に書類が回ってきたことがあっただろうか。
――現在、自分に両親の目が向くことがあるだろうか。
全ては彼女の外側の出来事で、それらは全部自分がいなくても回ること。求められているのは常に象徴としての存在で、フェイアーラ・リシテ・メイロードとしての自分自身ではない。
そんなことはとっくに知っていた。
いかに武に対して天賦の才があろうと結局そこに意味はなく、自分がただ政局に使われるためのコマであることなどとっくに理解していた。
それでも彼女はそれでいいと受け入れていた。自分の意志など無くとも国が回るのならばそれでいいと諦めていた。
だというのに。
「うぁぁあああっ! あああああっ!!」
よりにもよって、暗殺者。己の命を狙ったものにすら見限られた。
お前の命にも、人生にも価値はない、と。
よりにもよって死神からそう宣告されてしまった。
「なんでっ! どうしてっ! あなた私を殺しに来たんでしょう!?」
感情の制御などもはや効かない。
青年にもたれかかるようにして目元を彼の胸元に押し付け、肩の辺りをドンドンと拳で叩く。
殺してくれ、と。
役立たずで己の才覚も磨けず、誰にも期待されず生きる価値すら見つけられない愚かな自分をどうか殺してくれ、と。
「なんで……なんで…………」
慟哭、悲痛、怨讐、憤慨……その他多種多様な感情が溢れ出しては懇願として言葉になるが、けれど青年は動かなかった。
フェイアーラはただただ泣き叫び、己の心に蓋をし始めて以来初めて言いたい放題に自分の思いをぶちまけ続ける。
「……落ち着いたか」
やがて、フェイアーラの心に溜まっていたドス黒い感情全てが吐き出された頃。
ひっくひっくと静かに泣き続ける彼女の肩を〝とんっ〟と押して数歩下がらせて強制的に距離を取り、青年は淡々と口を開いた。
「どれだけ毎日が無意味に思えても、そこから逃げるな。そうでなければ――殺すだけの価値もない」
青年の方はもう完全にフェイアーラを手に掛けるつもりはないらしい。
立ち尽くす彼女の脇をゆうゆうと歩いてバルコニーの方へと向かう。
「ねえ……なんで私にそんなことを言うの?」
「さあな。……ただ強いて言うなら、お前みたいな高貴なヤツが俺と同じような目をしていたのが許せなかった」
背中合わせ。互いに振り向くこともない。
バルコニーから差した月光は暗殺者の影をフェイアーラの方に伸ばし、それが彼女の足元を黒く塗り染めていた。
「――行くの?」
「ああ」
フェイアーラは今なお無防備だ。けれど青年の方もその背中に対して殺意を向けることは無く、淡々としたやり取りだけが紡がれてゆく。
「私はまだ生きているけど」
暗殺者である青年にとって失敗というのがどれほどの重みを持つのか……などフェイアーラに想像できるはずもないが、あまりよろしくない事くらいは分かる。
無論彼の気が変われば今度こそフェイアーラは命を落とすことになるが、不思議と彼女はその可能性を全く考えてはいなかった。少なくともこの機会に青年が己の命を狙ってくることはないという確信にも似た自信がある。
「何度も言わせるな。初めから死んでいる人間を殺しても意味はない」
「そうですか」
「ああ。だから――お前が殺すに値する所まで登ってきた時、今度こそ息の根を止めてやる」
くすり、とフェイアーラは笑った。
わけの分からない青年の理論。恐らくはただ、〝気まぐれ〟だけで生かすことにしたのであろうに、それを懸命に取り繕っている様がなんだかおかしかった。
「一つだけ教えてください」
「……なんだ?」
「名前はなんと言うんです?」
僅かに息を呑む音が聞こえた。
フェイアーラは振り向かない。静寂の中に二人の息遣いの音だけが響いている。
「……ゼイ。ゼイ・ニーフォン」
それだけを告げて、彼女の背後に広がっていた気配は〝ふっ……〟と掻き消えた。それと同時に足元に伸びていた影も消滅し、夜半に訪れた招かねざる客が闇夜に紛れたことを教えてくれる。
「そうですか。――私は、フェイアーラ・リシテ・メイロード。今度相対する事があれば、そのときは……」
――必ず捕まえる。
プライドを粉々に砕かれて当たり散らした挙句、情けまでかけられた。このままで済ませられるはずもない。
だがもちろん、今のままでは到底あの暗殺者には敵わない。今回最初の数撃をやり過ごせたのが偶然なのは実際に刃を交えたから知っている。
だから彼女は今、ひたすらに悔しかった。
暗殺者に憐れまれた事以上に、己の力が全く通用しないまま完封されてしまったことが許せなかった。自分が得意だと思っていた分野で歯が立たなかったことが腹立たしかった。
「……うん。もう、なりふりなんて構ってられない」
自らに与えられた才能が戦うことだというのなら。ひりつくような命のやり取りを内心で求めてしまっているというのなら。
それならもう、そこには蓋をせずに精一杯自分らしく生きる。生きてみせる。
「待っていなさい……!」
フェイアーラはバルコニーの方は決して振り返らず、意志を感じさせる凛とした瞳で明日に向かって歩き始めた。
――fin
題材が題材なので書き直してもこんな感じにしかならんかった……。