リバー・リビジテッド 〜川と深海魚とトランス感について〜
都市に住むと自然に敏感になる。地方に生まれ海や山への距離が子供の身でも近かったせいかもしれない。それでもそこを早く離れたいと思っていた。わざわざ立ち止まり自然の対象物を写真に収め愛でるような事はなかった。少なくとも十代の頃はそうだった。正確にはカメラを持っていなかった。いつの頃からか都市で学びたいと思うようになり、そこに自由があると感じた。そしてカメラはその自由に近づける方法だと感じた。
外国で暮らし始めて一年半経った頃、西海岸の短大から東海岸の大学への編入が決まる。とりあえず身の周りにある荷物を小さな車に詰め込み、一週間かけて反対岸へと向けて移動する。この時初めてこの土地が地続きの大陸だと腑に落ちる。これだけの長い距離を自らハンドルを手に初めて車移動した。その時には気付かなかったが、飛行機移動では得られない時間の経過と空間の移動で生じる摩擦が、少しだけ肉体に刻まれていた。
「人生は振り返ることでしか理解できない」キュルケゴールは言います。好きな言葉の一つです。なかなか目の前で起きている事象を、この事象がどのように将来の自分の血肉になるかなど、人生経験少ない感覚で推測しようと思ってもよくはわかりません。直観に頼るだけの反応になります。若さによくありがちな、自分自身への揺るぎない自信がそれを後押しします。そこでの経験は精査なく暗室に持ち込まれ「一時忘却」というラベルを貼られます。とりあえずいちいち細かく迷いません。だから時として記憶に映り込む残像には、あぶなっかしい混乱を含む映像が含まれます。
暗室で現像液に浸した印画紙からゆっくりと映像が浮かび上がる。デジタル写真以前の現像です。現像液の中で印画紙を漂わせ、ある一定の時間が経過すると映像の輪郭がそこに浮かび上がります。キュルケゴールの言葉はこの現象に似ています。撮影時の露出や焦点の不正確さもそのまま現れる。そして動機としての直観が痕跡として残る気がします。知覚という写真機、記憶という暗室を持って、事象の起きた時間、空間から一時的に離れて、写真と記憶は相互作用を及ぼしながら事象を見直す装置です。その装置には飛躍という摩擦が生じる瞬間があります。この瞬間にはエクスタシー、トランス感、脱魂感が備わっている気がします。ちなみにこれからプルーストの話をしようと試みているわけではありません。
この時間と空間を『離れる』事を、どう他の言葉に置き換えるのがよいかいま考えています。それは「飛び越える」にもなり、「消失」にもなり、「間接的に置き換える」にも当てはまる気がします。この表現が確かかどうか分かりませんが、肉体という乗り物で運ばれている魂、自己とかいう捉え難い存在があるとします。ある一カ所の時間と空間から次なる時間と空間にこの乗り物が飛び越える瞬間、その移動には微かなトランス感が生まれる気がします。推測の範疇ですが魂という常に手に取って理解しにくい対象は、常に事象に呼応して変化していると私は仮定しています。「事象」という言葉を「生活」に置き換えてもらっても構いません。飛び越えられた点と点の距離の分だけ、時間差による肉体の変化が生じるように、魂の輪郭も前後で微妙に変化しているかもしれません。そこで生じた差異、ズレが摩擦となってトランス感を置いていくのではと思うのです。逆説的にはそのトランス感が与えるのは、捉え難い対象の存在がそこに実在すると言うことです。そしてこれが魂という存在なのではないか、その存在の柔軟な変質をも気付かせてくれると思います。
大陸横断で生まれた残像。「一時忘却」というラベルを貼られたその残像はいくつかありました。大陸を分断する川。川を横断するフェリーで食べたフライド・フィッシュ。川を渡りきった波止場で食べたボイルド・クロウフィッシュ。どちらの料理にも添えられていたタバスコ。
幸運なことに大学では映像制作を学ぶ事が出来、この記憶の残像はフィルム映像で何かを物質化しようとするモチーフになりました。その時に気付いたのですが、この残像はいつでも都合の良いときに引き出せる映像ではないと言うことです。この残像は記憶の奥深くにいつも沈潜しているので、呼び覚まされる機会がない限り、永遠に忘却の中に佇んでいます。そして写真はその忘却の暗闇をさまよう深海魚を捕らえる釣り針になります。
写真を見ながらこの文章を書いています。釣り糸を垂らしそして巻いています。まだ見えない深海魚が、文字という水面に現れてくるのを実況しているつもりです。この文字の配列という水面に深海魚の影を捉えられるか、この文章、写真を見る人たちにその魚の印象を伝えられるか。自信はありません。何か重要なメッセージがあるかというとそうでもありません。ただはっきり言えることはこの文章を書く前に、写真があったという事です。
僕の場合だけかもしれませんが、写真は一瞬何かが心に走った際にシャッターを押します。出来上がった写真を見ながら、あるいはリタッチ・加工しながら(最近はデジタル写真なのでこのリタッチ・加工のプロセスが暗室での現像作業になっています)、この写真に映り込んでいるはずのあの痕跡を探します。心によぎった興味ある信号はなんだったのか。単なる勘違いだったのか。それを考えるのは三度の食事よりも好きです。ときとしてその微かな信号が、映像制作の設計図と言える脚本になる可能性も秘めています(最近全く映画作っていないので説得力ありませんが)。いのちの喜びをそこに見出すほどです。この知覚を与えてくれる温もりを持った身体に対しても、ささやかな感謝が生まれます。きっと肉体を離れた瞬間、この感覚をも手放さなければならない時が来るに違いないと、そこまで思い浮かびます。
話が逸れました。川の写真です。西海岸の都市から東海岸の都市まで大陸を横断しました。僕は前述の自由に対して飢餓状態だったため最短距離を選択しました。その自由とは映画制作について学ぶ機会でした。一日平均14時間ぐらい運転したと思います。人に接する機会は給油の際のガソリンスタンド、食事をするときのダイナー、寝るときのモーテルに限られました。この横断で一カ所だけ寄り道をしたのを覚えています。この大陸を分断する大きな川です。橋ではなくフェリーで渡ろうという小さな寄り道でした。その時の理由はよく分かりません。改めて述べますが、僕にはこの年代によくありがちな、自分自身への揺るぎない自信、直観だけが強くありました(同時に勘違いという結果に悩まされたのも事実です)。この川をこの目でじっくり見ておきたかっただけなのでしょう。写真も残っていません。この文章で僕は地名を明記しないことにしてしまったので不親切極まりないですが、このフェリーは偶然にも今も残っています。
釣り糸を少し二十年分ほど巻き上げると、今ではいくつか思い当たる節があります。ただここから益々不安を抱きます。書き手が身勝手に記憶を紐解き、「懐かしく親密な部屋」だと共有を強い、そこで読み手が辟易させられる、カッコワルイ予感です。そのバッドフィーリングを避け、読み手に興味深い深海魚をお見せできるかどうか不確かです。そんな暗くて深い水面が目の前にあります。ただそう感じたからと言ってここで釣り糸を手放すわけにもいきません。このまま続けます。そうここまである一定の文字数を既に費やしてしまったのだし、それ以前に読むのを止めてしまった読み手はいるにしても、まだこの文字の水面に現れるかも知れない深海魚を忍耐強く待っている方が少しでもいるとしたら、失礼があってはいけないです。少しだけ変な気持ちを奮い立たせて、もう少し釣り糸を巻き上げてみることにします。
僕自身が育った地方には大きな活火山が三つあります。活火山の形成でできたカルデラ湖がいくつもあります。海につながる内湾型のものまであります。育った家の前にはこの内湾があり、対岸にはもう一つの半島が見えました。そこでよく釣りをしました。キスやボラ、ハマチにスズキまで釣った記憶があります。子供の頃この海を小さいとも大きいとも思わなかったし、海とはこういうものを海と呼ぶのだと思っていました。大陸を分断するこの土地の大きな川は、対岸が見えない程川幅が広くこの大陸で一番長い川ということでした。この川をこの目で見てみたかった。出来ることなら対岸が見えない場所でフェリーに乗りたかった。当時通っていた短大の図書館で、拙い英語を駆使してリサーチして知り得た事実は、川幅は最大で1マイル程(1.6km)ということだけでした。最短距離でたどり着いた川手前の都市のモーテルで、近くにフェリーがあるかどうか尋ねました。そこで願いを達成するという安易な手段でした。そこにあるのはドラマ的な演出はなく、あるのは場当たり的な判断です。でもそれはあまり重要な事ではありませんでした。その時の直観は正しかったのでしょう。フェリーの波止場から対岸は見えました。けれどその川幅は生まれ育った土地の内湾で見た対岸ぐらいの距離に思えました。想像していたよりは近く、郷里の内湾が比較対象物として浮かびました。フェリーで食べたキャットフィッシュのフライド・フィッシュ、そして川を渡りきった波止場で食べた茹でたクロウフィッシュ。どちらもこの川で取れた魚だと知らされました。どちらの料理もタバスコにあい、それ以来この香辛料はよく使うようになりました。魚名の英語がよくわからず、白身の魚介類としかその時は分かりませんでした。キャットフィッシュはナマズ、クロウフィッシュはザリガニです。こう聞くと美味しいイメージは少し揺らぎます。海のような大きな川を感じながら、そこで育まれた魚介類をその土地で食べる。タバスコもこの川の下流で生まれた香辛料の一つです。
こうやってこの土地への親しみが増えてきたのかも知れません。その土地でその土地の食物を自身の肉体に取り込む。「時間と空間を間接的に置き換える」(と言葉に変換すると、なんだか訳が分からなくなりますね)。外国人が外国の土地を好きになるには人の数ほど方法があると思います。育った土地での感覚、時間や空間を点と点で飛躍する自由、「川」を「海」として捉える自由で僕自身は育まれたように思います。自分らしい性質に則って自身にとっての「真・有」と「知」のズレを修正していく自己措定運動。音楽を聴く、ダンスや映画や絵画を観る。常ではないにしても「時間と空間を間接的に置き換える」は視聴後のトランス感を実感する時に起きていると思います。この知覚がますますこれから必要になっていくのではないかと川は語りかけます。飛躍のない分かり易さだけでは、この地球を十分に理解できない。魂は固定化を嫌い、揺れ動くことを糧に、飛躍によって摩擦を生じさせ、命の喜びを与えるからだと思います。
水面に現れた深海魚はどちらかというとリュウグウノツカイやダイオウグソクムシではなくて、カワハギだったかもしれません(カワハギは深海魚じゃありません)。最後まで読んで頂き感謝しています、また肩すかしさせてしまったらご容赦下さい。もし良かったらどんな深海魚だったか教えて頂ければ嬉しい限りです。この土地にはまだまだ不思議ないのちが息を潜めています。いつかこれらの深海生物を釣れる程の技量、飛躍した点と点を結びつけられるような技術を持ちたいと思っています。