夢を食う烏〜第三章〜
私はこの大都会に移り住む事にした。
いや、本当の事を言うと、さなえの後を追ってきたら此処にたどり着いた、それだけの話である。
大都会は障害物が蔓延り、まるで出口を見失った森のように奇妙だ。
だが、高機能な私はいとも簡単に障害物を飛び越える事が出来る。私に怖いものなどないのだ。
日の出とともに、主を目覚めさせる事から私の一日は始まる。尖った嘴が昨日より鋭く見えたら出発だ。この大都会には腐ってしまうほどの食物が所狭しと存在する。それは透明なビニイル袋の中に隠されている事もあるし、人間様が出入りしない裏道と呼ばれる所に大量に吐き出されている事だってある。まずはこの黒い私が大空を仰ぎ、そして主が鳴く。私は朝のその瞬間がたまらなく好きだ。腹を空かせて獲物を狙う瞬間が、生きていると実感出来る瞬間だからである。
そして今日も私は主と共に大空へと羽ばたいていく。昨晩吐き出されたのだろうか、白く輝くビニイルがこちらにおいでと手招きをしている。私を突き破って中に入って、奥まで来て頂戴。そんな悩ましげな声が聞こえるのだ。
私を自由自在に操る主は、心は情熱的だが頭はクールだ。遊び心とサバイバリティを忘れない。そして白いビニイルに狙いを定め、手入れを怠らない私をこれ見よがしに羽ばたかせ、朝食を調達する。
朝寝坊の仲間たちより一足早く、主は私を折り畳むと二本の足で目の前のビニイルに近づいていく。そこには人間様の残飯ばかりが詰め込まれていて、主は夢中になって胃袋に収めていく。そして満足した頃にありあまる残飯を近くのある場所に隠す。昨日隠したものは誰にも見つかっていないらしく、まだそこにあった。腐らないうちに食べて、今日調達したものを隠す。エネルギーが私と主の隅々まで行き届き、力強く飛び立つ事が出来る。
そうしているうちに、陽は頭上高くまで上り詰めた。
主は私を丁寧に嘴で手入れする。仲間のカラスたちが目の前で追いかけっこをしている。小さな子どもを脅かし持っていたアイスクリームを奪う。これが日常だ。
子どもは涙を流し、落ちたアイスクリームの側から離れようとしない。崩れ落ちた瞬間というのは何と残酷で儚く美しいものなのだろう。一度アイスクリームを拾おうとしたが、手には以前の形を止めていない変わり果てた姿のアイスクリームがあった。
子どもはさらに泣き声を強め、どこかへ行ってしまった。その足取りはフラフラと悲しみを帯び、だが憎しみもこもった影を落としながら車に轢かれる事無く歩いてゆく。
カラスたちは、子どもの涙のように甘いアイスクリームを溶けてしまう前に頬張る。
主は私の自慢の私に白い液体がついてもお構い無しだ。カラスたちの押し合い仕し合いで抜けてしまった私と、私の主張を踏みつぶしながら脇目もふらずに夢中になる。そういうところが主の嫌いなところだと悪態をつき、私は主の欲望に光らせた目を見つめていた。
カラス達の間ではここ最近、生肉の話で持ち切りだ。
私と同様に田舎から上京してきたカラスは、牛や馬の胎盤を食べると言い、それはそれはウマい食べ物だと語った。そして胎盤に飢えた頃、牛や馬の乳房を突いて食べるとも言っていた。すると牛や馬は出血多量で死ぬらしい。その死骸も贅沢なごちそうなのだと、田舎から出てきたばかりのスリムなカラスは得意げに言葉をばらまいていった。
私には味覚がないが、私を大事に抱え込んでいる主は興味津々であった。私と主も田舎生まれであり牛や馬や豚や犬などと共存してきたが、胎盤など食べた事も無い。ましてや生肉など食べる隙もなかった。あの初老の男のようにはなれなかった。
けれど主は、いつか生肉を食べてみたいと思っているようだ。ビニイル袋に包まれた綺麗な肉ではなく、血が滴る生臭い肉を、私が汚れようとお構い無しにかぶりついてみたい、そんな風に思っているのだろう。私は、エネルギーが沸いてさえくれば食事は何だって良いのだが、ただ私が汚れないように気を配って欲しいとそれだけを願った。
今朝も日の出とともに主を睡眠から目覚めさせると、私はいつものコースを回った。ビニイル袋の数は増える事はあっても減る事はない。その中身もまた、野菜や果物など見当たらず人工的な油の臭いを発しているばかりだ。それでは主の食欲は刺激される一方である。人間様は、思考停止状態のように高カロリーなものばかりを好む様になった。パサパサしたしょっぱいものや、トロトロした甘い液体や、肉の味が分からなくなる程のソースがかかったもの。それらを毎日毎日摂取すると、あのデブカラスみたいになるのだろう。あいつは長時間空を飛ぶ事が出来ないのだ。そんなのは一切ご免だ。
私の隣で私と同じように人間様の残飯を探す人間様がいた。
その姿は人間様とは思えない様な死臭をまき散らし、しまいには小さな小さな虫が髪の毛にへばりついている。私ですら私につく小さな虫など許さないと言うのに、この人間様は何をどう狂ってしまったのだろう。
彼は探し物を探しているようには見えない。人間様の出した残飯を人間様が漁る。どうしてこのような現象が起きているのか、私には分からないが、この人間様は人間様を諦められないから私と同じ事をしているという事だけは分かった。
私はひとまず人間様にその場所を譲る事にした。そして上の方から人間様の行動を観察した。彼はまず残飯の臭いを嗅ぎ、そして少しだけ口に運ぶ。味わうように食べて、危険が無いと察知したら残りを一気に口へ運ぶ。
その繰り返しだ。
残飯だけではなく、棄てられた新聞も拾っている。目を細めて新聞を読む様は、どうみてもこの国のシステムに乗り遅れた人間様ににしか映らない。たまに小銭を拾うと、それをアルコールに使う。私にとっては意味の分からない行動である。
そして袋の中から革靴を見つけた。早速足にはめてみるがどう考えても小さい革靴だった。それを人間様はかかとを踏みつぶして履いている。右足は革靴を踏みつぶし、左足は茶色のサンダルという何とも不格好な状態だったが、人間様はというとそんな事はお構い無しなようだ。
私は、段ボールの中で小さくなっている人間様を時々お見かけすることがあるが、段ボールの中は本当に暗いのだ。真っ暗で、暗闇に目が慣れることもないから困った物である。
そんな段ボールの中で一晩を過ごす人間様は、何を考えて生きているのだろうか。人間様に階級があると知ったのは、私が都会へ出てきてからである。田舎では階級などなく、段ボールで暮らす人間様などお目にかかったことはなく、皆が同じような生活をしていた。
都会という巨大なゴミ溜めは、どんなモンスターでも安易に産んでしまうような気がする。それらはいずれ自らの首を絞めることになるのだろうか。
都会の曇った雰囲気に滅入っている主は、私に働けと命じた。食べていれば気にならないのだ、とも言った。
段ボールの中で暮らす人間様は、細長い棒の様な物に火を付け、口で吸っていた。私はこの煙の臭いが大嫌いだ。羽に付く血液や臭いには触れたくもない。私はこの人間様を、観察するに値しない人物だと決めつけて、次の場所へと移動した。どうせあの人間様は、一日観察しても同じ事しか行わないだろう。つまりは、私たちカラスと同じだと言う事だ。
都会には美しい人間様が少ない。
脂肪を纏い、ズルズルと引きずっている人間様と、脂肪を無くし、キシキシと音をさせた身体を無表情で横たえる人間様。美しい黒髪には滅多にお目にかかれないし、脱色した髪と同時に心まで脱色してしまった人間様がぞろぞろ歩いているだけである。そんな錆びて艶の失われた人間様がお似合いな街なのかもしれない。
蜜柑色をしたアパートの屋上で私が陽の光を浴びていると、滅多にお見かけする事の出来ない艶やかな人間様が真っ黒なビニイル袋を抱えて出てきた。
「上からも下からもそんなに光を浴びていると、たちまち蜜柑色になってしまうわよ。私だって、蜜柑を食べ過ぎると蜜柑色になってしまうのだからね。」
懐かしく穏やかな声は、さなえの声だった。彼女は外界と内界の区別をハッキリと付けて、成長した身体と伸びた黒髪を美しく輝かせている。
蜜柑色になるなど、あるわけがない。
動物たちに語りかけるさなえは健在であり、またさなえの声に反応する動物たちも相変わらず沢山いた。
さなえに見とれていると鬼嫁がこつんと私を叩く。すると主は決まってこう言った。
「君も髪の毛を伸ばしたらどうだい」