灰色の虚空(そら)に舞う鎮魂花
――花びら、か。
僕は握りしめた手のひらをゆっくりと開く。
そこには、少しだけ朱を帯びた白い花びらがひとひら、安らかに眠るように横たわっている。
僕は目線を前に向けた。
それと同時に、手のひらの花びらもまた宙に舞う。
淡い桃色の奔流が、視界のすべてを覆いつくしている。
音もなく吹く激しい風はやむことなく続き、それによって舞い上げられる花びらもまた、舞うことをやめない。
裏になり表になり、光を受け影をまとい、ひらりひらりと空を舞う。
始まりも終わりもないその様には、時間を奪われた虚無が漂っていた。
近く遠くに、灰色をした過去がそびえたっている。
そのうつろな窓の一つ一つから、風は自由に舞い踊っていた。
もはやだれも乗ることのない三輪車が見える。
ぼろぼろに錆びたそれが、まさに今朽ちて崩れた。
車輪を支えていた軸がアスファルトを叩いて、くわんと音を立てる。
一つ車輪がはずれ、少し転がった後でくるくると円をえがき、最後には倒れた。
辺りにからんからんと音が響く。
しかし、それもすぐに搔き消える。
そこかしこに、じっと何かに耐えるように、あるいは何かを待つように大きな桜が根を張っている。
その根は大地を穿ち、枝は壁を突き抜け、うねり、ねじ曲がり、それでも空へ向かっていた。
それはまるで灰色の虚無をつかみ取ろうとする巨人の腕のように見えた。
その枝という枝に、鮮やかに桜が咲き茂っている。
終わりを知らず、無限の輪廻を繰り返し、咲き続ける花々。
そのさまに、僕は驚きを覚えた。
それから、にじみたつような悲しさを憐れんで――
――最後に僕はそれを恐れた。
心の奥深くを、暗くて冷たいものが横切ったような気がした。
人が魔に抗うには、ここまでしなくてはならないのだろうか。
呆然と立ち尽くしていると、どこか遠くで足音がした。
いつのまにか、そこには男が立っていた。
この場にふさわしくない闇が、男の姿を取って立っている。
その男に、すでに敵意がないのを僕は知っていた。
「――貴方は、どうするつもりですか」
僕は尋ねた。
「――そうだな。随分と長い時間を旅してきたが、そろそろそれを終えるべき時が来たのかもしれない」
闇は答えた。
僕と闇との間を、幾重にも層をなして花びらが舞う。
右に左に。
規則性のないその動きに、僕は惑う。
それを察知してか、男が言った。
「迷うことはない。君は、随分と強くなった」
僕は答える。
「そんなことはありません。ただ、時代が僕に役割を与えたに過ぎない。それは――」
僕は言葉を継げなくなる。
渦を巻いた風の向こうに、闇の姿は搔き消える。
僕は、闇がそのまま消えてしまうのではないかと憂う。
僕はその渦に抗うように、言葉を紡いだ。
「――あなたも同じでしょう」
花びらと風の向こうで、男が微かにほほ笑んだ気がした。
その気配すら、一瞬の後には跡形もない。
「僕を呪う気か?」
男は言う。
闇は甦っていた。
僕は何故かそれに心が安まるのを覚える。
「そんなことを僕ができないのは、重々承知のはずでしょう。おそらくあなたは、僕よりも前から、僕を知っている」
僕は闇の輪郭が移ろわないのに力を得て言葉を投げかける。
闇は再び笑う。
今度ははっきりと。
「そうかもしれないね」
闇は言った。
僕は提案する。
だがそれに闇が同意しないのを僕は知っている。
「僕らと一緒に……行きませんか。たぶん――昔みたいに」
闇は一瞬驚いたような顔をする。
「――君は本当に優しいんだな」
闇はそれだけ言った。
光が無ければ闇は生まれない。
闇のないところでは光は在ることができない。
しかし、その二つは重なり合うことはできない。
僕はそのことを識っている。
それでも僕は言わずにはおれなかった。
「君のその優しさが、いつか奇跡を起こすときが来るかもしれないね。許されるなら、その時まで僕は闇に潜んでいる事にしよう。いつかあの男が言ったように、闇の方にいて、そこに逃げ込んできたものを救うことができるようにね」
闇は凝縮して男の姿をはっきりととった。
僕は、頷いた。
「ではその時まで」
「ああ」
――そうして、僕は闇と別れた。