Prologue ぬくもりの記憶
あたたかい声が、僕を呼んだ。
「そんなところにいたの。おいで、ノエル。」
夢を見ているのだと、これは現ではないのだと、分かっていた。
「母さん……?」
だって、僕は母の顔を知らないのだから。
それでも、しばらくはこの夢の中にいたかった。
「母さん!」
僕は駆け寄って、幼子のように母の胸に甘えた。母の腕は優しく、あたたかく、しっかりと僕の体を包む。頬を、知らぬ間にあふれた涙がぬらした。
「ごめんなさい、ノエル。ごめんね……本当にごめんね……」
母も泣いていた。ただただ僕に謝り続けて。自分が、母が、どうして泣いているのかは分からない。ただ、哀しくて、苦しい。
やがて顔を上げた母は、まっすぐに僕の目を見つめた。やさしい微笑み。
僕も母の綺麗な瞳を見つめる。けれどその顔は涙で滲むようにぼやけて、よく見えなかった。
「ノエル。これを母様と思い、ずっと持っていらっしゃい。」
そう言いながら、身に着けていた何かを外して僕の手に握らせた。そっと開いた掌に、青く透き通る石の輝き。母の目と同じ色の……
「母様の、指環?」
「そうよ。決して手放してはなりません。母様はずっといつでも、ノエルの傍にいますからね。」
母の温かい手が、そっと肩に置かれる。それだけで不思議と安心できた。けれど。
「指環なんかいらない。ノエルは、母様と離れたりなんかしないよ。」
なぜか不安にかられて、指環を握り締めて母の顔を見上げる。母の顔が哀しげに歪んだ。
「そう出来ればどんなに良いか。でも駄目。さあ、早くお行きなさい。」
「いやだ!」
叫んだ途端、あたりの様子が変わった。すべての光が失われ、闇が威圧するように迫る。
その中で、母は僕をそっと抱き締めた。周囲の闇から守るように。そして、耳元で囁く。
「大丈夫。怖いことは、全て忘れてしまいなさい。そしてとにかく生きるの。強く生きるのよ、ノエル。そうすれば、必ずまた会えるからね。」
「母様……」
「さあ、早くお行き。」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、不意に僕を抱き締めていたぬくもりが消えた。目を開けても、母の姿はおろか何一つ無い。真の、闇。
「母様!?」
叫んでも、木霊すら返らない。漆黒の空間にあるのはただ己の身体と、
手の中の指環。
「母様! いやだよ、独りにしないで! 」
目から再び涙がこぼれる。怖くて仕方なかった。母を必死で探し回る。そんな僕を、
「ノエル!」
また、呼ぶ声がした。
闇の中の、一筋の光のような。
「ノエル兄!」
その光の中、差し伸べられた手。
僕は、その手を――