『五十円の誠意』
晩秋の雨は、いつだって青黒いインクの匂いがする。
本郷の路地裏、古ぼけた西洋館の二階にある純喫茶『白樺』の片隅で、卓上の真鍮のランプが、油煙を吐きながら小さくチリチリと爆ぜていた。窓ガラスを斜めに叩く冷たい雨脚の向こうに、落葉しきった銀杏の幹が、濡れそぼって黒々と突っ立っている。
向かいの席に腰掛けているのは、帝大出の法学士で、代議士の甥でもある佐伯俊一である。純白のカラーを糊で固め、金縁の眼鏡を鼻梁に光らせたその美男子は、銀のスプーンの柄を細い指先で弄びながら、憐憫と侮蔑が奇妙に混ざり合った薄笑いを浮かべていた。
「文子さん。君には、まことに申し訳ないことをしたと思っている。だがね、これは致し方ないことなのだ」
佐伯の声は、よく響く美声だった。だからこそ、その響きの中に潜む浅ましさが、私の耳朶をひどく不快に打つ。
「何が、致し方ないのでございますか」
私が湯気も立たなくなった冷たい珈琲のカップに目を落としたまま問うと、佐伯はさも大人の分別を説くような手つきで、卓上に両肘をついた。
「君の家――葉山家が、先代の連帯保証の件で破産宣告を受けたことは知っているね。君の父親は立派な教育者だったが、世間というものがまるで分かっていなかった。破産者の娘を妻に迎えるなど、将来の高等官たる僕の経歴に、拭いようのない泥を塗ることになる。君だって、僕の輝かしい前途を邪魔したくはあるまい?」
「泥、でございますか」
「そうだ。愛しているからこそ、言っているのだよ。君の貧乏たらしい慎ましさは、僕の書斎を飾るには相応しいが、代議士のサロンの女主人には到底務まらない。身を引いてくれたまえ。ほら、ここに手切れ金として、五十円ばかり包んできた。僕の最後の誠意だ」
彼は懐から、薄汚れた紙幣の束を白封筒ごと卓上に滑らせた。その手の甲に走る青白い血管の浅薄さに、私は胸がむかむかとした。
この男は、自分が残酷な悪役を演じているつもりで、その実、最高に寛大で悲劇的な「思慮深き紳士」に酔いしれているのだ。太宰の書く小説に出てくる、最も唾棄すべき小利口なインテリそのものだった。
「それにね」
佐伯は眼鏡の奥の切れ長の目を細め、勝ち誇ったように唇を歪めた。
「大蔵省主計局長のお嬢さんである華子さんが、僕に心を寄せてくださっている。あの家と縁を結べば、僕の栄達は約束されたも同然なのだ。君と僕とでは、見ている空の高さが違いすぎる」
私は、膝の上に置いていた黒革の手提げ鞄にそっと指を這わせた。
外の雨は、一段と激しさを増している。軒先を伝う雨垂れが、トタン屋根を乱暴に叩き続けていた。
「佐伯さん」
私は顔を上げた。化粧気のない私の青白い顔を見て、佐伯は一瞬ぎくりとしたように眉をひそめたが、すぐに侮りの色を取り戻した。
「なんだい。泣いて縋り付いても無駄だよ」
「泣く? まさか。ただ、ひとつだけお尋ねしたいのです。父が負ったとされるあの保証債務の債権者……『東洋拓殖興業』の裏の出資者が誰であるか、あなたはご存じでしたの?」
佐伯は怪訝そうに目を瞬かせた。
「興業会社? そんなやくざな金貸しのことなど、僕が知るわけがないだろう」
「まあ。ご存じなかったのですね。あなたの尊敬してやまない伯父上――佐伯剛蔵代議士の、裏の政治資金を捻出するための幽霊会社ですわ」
卓上の空気が、凍りついたように止まった。
ランプの芯が、パチリと音を立てる。
「な……何を馬鹿な出鱈目を。叔父上がそのような薄汚い真似をするはずが」
「出鱈目ではありません。父はね、佐伯代議士に騙されて判を押させられたのです。そして、その不当な抵当権の設定と、裏口座への資金洗浄の記録……」
私は鞄から、青い表紙で綴じられた一冊の大学ノートと、朱肉の鮮やかな幾通もの借用証書の写しを取り出し、卓上にとん、と置いた。
「これらはすべて、父が生前に命がけで保全していた証拠の控えです。佐伯代議士が、野党の幹部と結託して満洲の利権を不正に横流ししていた帳簿も、綺麗に揃っておりますのよ」
佐伯の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。あの糊のきいたカラーよりも白くなり、唇がぶるぶると痙攣し始める。
「な、なぜ君がそんなものを……! よせ、文子、それをどこで手に入れた!」
「父が死ぬ間際に私に託したのです。『佐伯の家の息子が、お前の境遇を知ってもなお真実の情義を持って娶るなら、この帳簿は灰にして川に流せ。だが、もしお前を踏み虙じって保身に走るような男なら、その時は迷わず東京地検の特捜部へ持ち込みなさい』と」
「と、特捜部……? 馬鹿な、そんなことをしたら、叔父上は……」
「ええ。代議士先生は今夕にも収賄と背任の容疑で家宅捜索を受け、明日の朝刊の一面を華々しく飾ることでしょう。そして、その叔父上の庇護と政治資金を頼りにして大蔵省の高官令嬢へ婿入りを企てていた『優秀な法学士』のあなたの前途も、きれいに消し炭になりますわね」
佐伯はガタガタと音を立てて椅子から腰を浮かせ、脂汗の浮いた額を手で押さえた。
さっきまでの冷酷な美男子の面影など、どこにもない。そこにあるのは、ただ保身の破綻に怯える、滑稽な青白い獣の貌だった。
「ま、待ってくれ文子! 冗談だ、さっきの話は全部冗談だったんだよ! 僕は君を試したのだ! 僕が愛しているのは君だけだ、あの華子さんという女の傲慢さには辟易していたところで……そうだ、すぐに祝言を挙げよう! 破産など何だ、僕が君を一生養ってみせる!」
彼は身を乗り出し、私の手首を掴もうと見苦しく腕を伸ばした。
私はその手を、扇子でピシャリと打ち払った。
「おやめなさい。見苦しい」
「文子! 頼む、後生だからその帳簿を僕に渡してくれ! 僕の人生がかかっているんだ! 君だって、僕が破滅したら悲しいだろう!?」
「いいえ。ちっとも悲しくありません」
私は冷めきった珈琲を一口、唇を湿らせる程度に含んだ。舌の上に、ただひたすら平坦な苦味だけが残る。
「私はね、佐伯さん。人間が己の弱さのあまり過ちを犯すのは、痛いほど理解できるのです。太宰の言葉を借りるなら、人間はみな、生まれてきたこと自体に怯え、罪を背負って生きているのだから。けれどね――自分が助かるために他人の誇りを土足で踏みにじり、それを『現実的な知恵』だと誇るような手合いの卑しさは、神仏に代わって軽蔑いたします」
「文子……!」
「五十円、ありがとうございました。今日の珈琲代と、検事総長へ届けるタクシーの代金として、ありがたく使わせていただきますわ」
私は伝票と、帳簿の写しを鞄にしまい、すっきりと立ち上がった。
外套の襟を立て、濡れた傘を手に取る。
佐伯は崩れ落ちるように椅子へへたり込み、両手で頭を抱えて、呻き声とも嗚咽ともつかぬ息を漏らしていた。卓上にこぼれた水滴が、真鍮のランプの光を浴びて、濁った涙のように鈍く光っている。
純喫茶の真鍮のドア鈴が、カランと高く澄んだ音を立てた。
表に出ると、雨は小降りになり、灰色の雲の切れ間から、鋭く冷たい晩秋の光が濡れた舗道を白く照らし出していた。
私は大きく息を吸い込んだ。
冷たい外気が、肺の隅々まで清らかに満ちていく。
もう、あの男の吐く嘘の匂いは、どこにも残っていなかった。
◇◇◇
あれから半年も経たぬ、弥生の薄ら寒い夜のことである。
神田川沿いの吹きさらしに立つ粗末な縄のれんの前に、膝の抜けた薄汚い縞の着物に、泥のはね返った下駄をひきずった男が、幽霊のように佇んでいた。
かつて帝大の銀時計を自慢し、糊のきいた純白のカラーで首を固めていた佐伯俊一の面影は、もはやその薄汚れた襟首の垢の下にすら見出すことはできなかった。
「……もう一杯。おい、もう一杯だけ、冷や酒を頼む」
佐伯のかすれた声に、屋台の主人は顔も上げず、ふきんで卓を乱暴に拭いながら鼻を鳴らした。
「冗談言っちゃいけねえ。付けが五円も溜まってるんだ。金のない奴に飲ませる酒は、うちには一滴もありゃしねえよ。さっさとけえんな」
「金なら、すぐに工面できるんだ……! 僕を誰だと思っている。代議士の……いや、司法官試補の……」
「代議士? あの新聞を大騒がせして獄中でくたばり損ねてる汚職代議士のことかい? へっ、親類縁者まで捜査が入って、どこぞのお嬢さんとの縁談も夜逃げ同然に破談になったって町中の噂だぜ。偉そうな法学士様が、今じゃ安酒場の隅で油紙の原稿書きの小遣い稼ぎじゃあ、世話ねえや」
佐伯はカッと目を見張り、何かを怒鳴りつけようと口を開いたが、喉から漏れ出たのは、引きつった乾いた咳だけだった。
反論など、できるはずもなかった。
東京地検の強制捜索が入ったあの夜を境に、佐伯の誇り高き「前途」とやらは、木っ端微塵に吹き飛んだのだ。大蔵省主計局長の一家からは門前払いを食らい、帝大時代の学友たちは路地ですれ違っても見知らぬ他人のように目を逸らして足早に立ち去った。
今や彼に残されたのは、本郷の木賃宿の湿っぽい煎餅布団と、夜ごとに胸を掻きむしる酒焼けの渇きだけだった。
(文子……)
夜風が路地を吹き抜け、佐伯の痩せこけた肩を容赦なく震わせる。
あの雨の午後、冷めきった珈琲の向こうで、毅然と立ち上がった女の涼やかな瞳が、今になって胸の奥を焼きごてのように苛むのだった。
あの時、もし自分が五十円の切れ端で尊大ぶることなく、彼女の足元に膝をついて詫びていたなら。
いや、そもそも彼女の貧しさを侮らず、ただひと言「共に生きよう」と手を取っていたなら――。
父の汚名も雪がれ、あの名誉ある教育者の残した莫大な正義の手柄とともに、自分は誇り高き青年紳士として、彼女の清らかな微笑みを生涯の伴侶に得ていたはずだったのだ。
「文子……頼む、僕を助けてくれ……僕を見捨てないでおくれよ……」
佐伯は電信柱に額を押し当て、みっともなくしゃくり上げた。
涙と鼻水が混ざり合い、無精髭の生えた顎をつたって、泥水たまりの中へとポタリと落ちる。
どれほど叫ぼうと、どれほど後悔に身をよじろうと、差し伸べられる手など、この冷たい夜の底にはどこにも存在しなかった。
ふと、大通りを滑るように走る一台の黒塗りハイヤーのヘッドライトが、佐伯のみすぼらしい影を泥壁に長く、醜く焼き付けた。
車内には、新進気鋭の女流文筆家として文壇で確かな地歩を固めつつある葉山文子が、背筋をすっきりと伸ばして前を見据えている姿があったが――もちろん、闇の吹きだまりにうずくまる哀れな男の姿など、彼女の澄んだ視界には、塵ひとつほども映っていなかった。
◇◇◇
春の陽射しが、銀座の大通りに敷き詰められた真新しい煉瓦を白く照らし出していた。
ショーウィンドーの硝子に映る葉山文子の姿は、かつて本郷の寒々しい喫茶店で冷え切った指先を組んでいた娘とは、まるで別人のようだった。
濃紺の縮緬の羽織に、すっきりとした縞の銘仙。派手な虚飾は一切ないが、衣擦れのひとつひとつに凛とした知性と清潔な誇りが宿っている。手には、装幀の打ち合わせ用と思しき幾束かの校正刷りと、父の遺品である金ペンの万年筆。
佐伯剛蔵代議士の汚職摘発を皮切りに、父・葉山清一郎の無念は天下に雪がれた。清廉潔白を貫き通した老教育者の日記と告発の記録は、文子の手によって丹念に整理され、大手出版社の文芸誌に『或る教育者の遺言――仮面の紳士たちへ』と題して掲載された。
その文章は、世の虚偽や権力におもねる男たちの浅ましさを、静謐かつ鋭利な刃で切り裂くような名文として文壇の注目を一気に集めた。太宰の如き陰影を湛えながらも、決して自虐の泥濘に沈み込まず、背筋を正して光へ向かうその筆致は、「新時代の女流の誕生」と新聞の学芸欄を賑わせたのである。
「葉山先生、こちらへどうぞ」
文藝春秋社の編集者が、慇懃にサロンの重厚な扉を開ける。
室内にいた名だたる批評家や老大家たちが、一斉に顔を上げ、穏やかな敬意をもって彼女を迎えた。かつて佐伯が「代議士のサロンの女主人には務まらない」と嘲笑った貧しき娘は、男たちの庇護を待つ飾り人形としてではなく、一本のペンで自らの足場を築いたひとりの表現者として、堂々と彼らの輪の中心に迎え入れられていた。
文子はただ静かに一礼し、卓上の花瓶に生けられた白薔薇に視線を落とした。
父が残した借財は、原稿料と父の名誉回復に伴う管財金の返還によって、すでに最後の一銭まで綺麗に清算されていた。それどころか、彼女は父の志を継ぎ、困窮する若い女性たちの自立を支援する小さなタイピスト学校の設立にも着手している。
「葉山さん、噂の佐伯の甥ですがね……」
雑談の折、ある編集者が声を潜めて耳打ちした。
「どこかの安酒場で、君の名を呼んで泣き言を垂れ流しているそうですよ。かつての婚約者だったと吹聴して回っているとか。警察を呼びますか?」
文子は、手にした白磁のティーカップから立ちのぼるダージリンの香りを静かに吸い込んだ。
その睫毛の奥の黒い瞳には、怒りも、恨みも、憐憫の情すらも浮かんでいない。
「いいえ、その必要はありませんわ」
ふわりと、春風のような柔らかい微笑がその端正な口元に咲いた。
「風が吹けば吹き溜まりに塵が集まるように、過去の影もいずれ自ら消え去るものでございます。私には、今日書くべき原稿と、明日を生きる教え子たちの顔しか、見えておりませんから」
あの雨の日の屈辱も、冷たい珈琲の苦みも、すべては己の魂を濁りなき水晶へと研ぎ澄ますための砥石に過ぎなかった。
サロンの大きなガラス窓の向こうには、どこまでも果てしなく広がる東京の青空。
自分の力で切り拓いたその空の高さに眩暈を覚えることもなく、文子はただ誇り高く、真っ直ぐに前を見据えてペンを執った。




