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私は今日、主人を殺す

作者: こてな ゆひ
掲載日:2026/05/08

 私は今日、主人を殺す。

 前々からずっと考えていた、いつ殺してしまおうか。そしてついに今日、その日が来た。


 私が何を言っても返事はろくにしないし、家にも帰ってこない。家族で遊びに行ったのなんていつが最後か分からない。そんな生活が続いていた。

 22年間夫婦として共に連れ添ってきた相手だ。思い入れが無い訳ではないけど仕方がない。



 大学で初めて会って、映画の趣味が合うことからすぐに仲良くなった。

 懐かしいな。ふたりで映画を観に行って三回目、あなたは映画のセリフを真似て告白してくれたっけ。

 ふと思い出した時にそれをネタにからかうと顔を真っ赤にして照れてたね。

 でも、私も本当に嬉しかったよ。大好きな人に憧れのセリフを言って貰えて。



 大学を卒業して共働きの中過ごした、忙しない時間もとても楽しかったよ。ボロアパートの一室でひとつの布団で寝たりしてね。あなたの寝相には困らされたものだわ。


 社会人になりたての頃はふたりとも不安定でよく喧嘩もしたっけ。

 あなたは謝り出すのが苦手だからって、リビングで私の好きな映画を観て私の気を許そうとして……エンドロール中にボソッと「ごめん」だなんて。子どもみたいな謝り方に笑っちゃって、でも安心して泣いちゃって。



 お金が無い中で週末にはよくレンタカーを借りて出かけてたっけ。

 ピクニックに行って私のお弁当を「世界一おいしい」って必死に食べるあなたはまるで無邪気な子どもみたいで。必ず卵焼きから食べる癖はずっと変わらなかったね。



 それから何よりも結婚式。頑張ってお金を貯めて、豪勢とまでは言えないけど華やかな式が挙げられたんじゃないかな?

 付き合ってから8年間も待たされたのはちょっと不満だったけれど、あの日の景色は未だに忘れられません。


 

「これからは俺が支えていくから任せろ」なんて言って、仕事にもより必死になってたっけ。お陰様で私は専業主婦になれたわけだけれど、あなたの帰りが遅くなって少し寂しかったです。


 楽しみにしていた映画のレイトショー。いつまで経っても帰ってこないあなたに電話したら「仕事中に電話してくんなよ」なんて言ってきて……私は裕福じゃなくても、あなたと一緒ならそれだけでよかったのに。

 そうして始まった、結婚してから初めての大喧嘩は離婚を覚悟しました。

 それが初めてだったかな。あなたが真正面から謝罪してきたのは。

 それまで謝ったことなんてなかったのにギャップで攻めるなんてずるい人だ、って思うけど私も安心で泣きじゃくっちゃったっけ。



 そして私たちの可愛い娘、詩織(しおり)の誕生。

 仕事の合間だってのに抜け出してきて病院に来てくれたのは嬉しかったな。あなた、私よりも泣いていたんじゃないかしら。

 目元が俺にそっくりだ、なんて言って喜んでて呆れたものだけど、あなたが手を握ってくれていたから、ずっとそばにいてくれたから、こんなに可愛い子が無事に産まれたのよ。


 それでも、それからは詩織にべったりで困ったものだったわ。

 詩織が可愛いから会社を休む、なんて言い出した時はどうしようかと思ったもの。


 幼稚園の卒園式ですら大号泣していて恥ずかしかったのも覚えてるわ。この子がウェディングドレスを着たらこの人はどうなっちゃうんだろう、って心配にもなったものだし。


 

 そして夢のマイホーム。

 これからはここが3人の城だ、なんて言って。ふたりでアイディアを出しあってこだわって建てたっけ。あんまり大きくないけど映写機なんて買ったりして、私たちの幸せの形に似合った素敵な家だと思うわ。


 詩織が壁に落書きした時は青ざめて初めて詩織に説教してたっけ。

 詩織に甘々で困ってたんだけど、それからは甘やかさずにしっかり説教してくれるようになったし、詩織の落書きは必要なものだったわね。




 ねぇ……いつからかな。私が何を言っても返事をしてくれなくなったのは。あなたが大好きだった詩織の話をしても、映画の話をしても黙って過ごすようになったのは。

 私のご飯も食べてくれなくなって……私の料理は世界一なんでしょ?


 毎週遊びに行っていたのが嘘みたいね。最後に遊びに行ったのなんて何年も前じゃない。毎年夏休みは3人で旅行に行くって決めてたのに。


 帰りが遅くなって寂しかったなんて、今ではもう家に帰ってきてすらいないじゃない。私たちのお城なんでしょ? 城主が帰ってこなくてどうするのよ。


 詩織の顔を見たのなんていつが最後なのよ。高校では彼氏が出来たみたいで毎日嬉しそうに教えてくれるの。ねぇ、あなたの大事な詩織に彼氏が出来たのよ。

 来年には詩織は大学生にもなるの。まだ春先だっていうのにやりたいことがあるからって勉強を頑張っていて、私立の大学を受験するみたい。


 

 だから、ねぇ。もう苦しませたくない。……違う、私が、苦しみたくない。



「ごめん、なさい。ごめんなさい。いつまでも待っていたかった。それでも……私には⋯⋯」

 

「お母さん⋯⋯」


 そう啜り泣きながら言う詩織の声色はどこまでもあなたにそっくりで……


 涙が……止まらない。もう最後なのに、あなたの顔を見られるのも、話しかけられるのも。

 もっと話がしたい。映画を観たい。ただ……ただ、一緒にいたい。それだけでいいのに。


 

 6年前、最後の家族旅行。会社へのお土産をどうするかで喧嘩をした。してしまった。謝るためにお菓子を買って主人の元へ向かうと、赤く染ったアスファルトにあなたのスマートフォンが転がっていた。


 

「奥様、それではよろしいでしょうか」

 

「お願い……します」


「ねぇ、やっぱり!」


 詩織が声をあげる。


「ううん、いいの。いつかこうしなきゃいけなかったの。決めるのが少し遅れちゃっただけ……」

 

 どうにか、首を横に振る。私が決めなきゃいけない。こんな決断を娘に任せちゃいけない。


 主人の手を強く、強く握る。

 弱々しく、反応もない骨の浮かんだその手は私の知っている頑丈な手とは大きくかけ離れていた。


 主人の身体から器具が外されていく。人工呼吸器が外され、胃ろうも取れていく。

 その姿は、痩せこけてみすぼらしいものだった。

 


「ごめんなさい、もっと早くに殺してあげるべきだったのかしらね。


 ねぇ……苦しかったよね、辛かったよね。


 ごめんなさい、ごめんなさい⋯⋯」



 ……ねぇ、あなた。もう一回だけ映画を見て、もう一回だけピクニックをして、もう一回だけ旅行をして、もう一回だけ喧嘩もして、もう一回謝りたい。なんてことない顔して一緒に……




 主人が植物状態になってから6年、私は今日主人を殺した。

 私たちが出会った、桜の季節の日に。

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