第7話
翌朝。
私は、トントントン……というリズミカルな包丁の音と、出汁の香りで目を覚ましたわけではない。
自分で起き、自分でキッチンに立っていた。
時刻は早朝5時。
窓の外はまだ薄暗いが、私の意識は冴え渡っている。
「よし、ご飯の炊け具合は……完璧」
カセットコンロに乗せた土鍋の蓋を開けると、ふわりと甘い湯気が立ち上った。
昨日、ゲンタとの買い出しのついでにホームセンターで、「炊飯器より安いし美味しいから」という理由で衝動買いした一人用土鍋だ。
中身は、同じく昨日買い込んだ「新潟県産コシヒカリ」。
電気は通ったが、炊飯器はまだない。でも、土鍋で炊いたご飯のほうが何倍も美味しいことを私は知っている。
今日のミッションは、この「白米」にかかっていると言っても過言ではないのだ。
「待っててね、未来の相棒。……今の君が、お腹を空かせた野良猫だってことは知ってるんだから」
私は独り言を呟きながら、炊きたてのご飯をボウルに移した。
手に塩をつけ、熱さを我慢して握る。
具は、昨日業務スーパーで「冷蔵庫が動くならこれも買える!」と歓喜してカゴに入れた、厚切りの塩鮭。
こんがりと焼いてほぐした身を、たっぷりと中に詰める。
あとは定番の昆布と、変化球の「おかかチーズ」。
そう、今日はこれから「スカウト」に向かうのだ。
ターゲットは、鷹城 蒼。
後に『千里眼の死神』と呼ばれることになる、天才スナイパー。
1周目の世界で、彼は私の数少ない理解者だった。
カイトたちが私を「家政婦」扱いする中、彼だけは「マナの飯があるから、俺はこのパーティにいるんだ」と言ってくれた。
口数は少なく、愛想もない。単独行動を好む一匹狼。
けれど、誰よりも義理堅く、そして何より――とんでもない「食いしん坊」だった。
(今の時期、彼はまだフリーの傭兵として、ヤクザや半グレの抗争の助っ人をしていたはず……)
報酬は悪くないはずなのに、彼はいつも金欠だった。
なぜなら、稼いだ金をすべて「最新の銃器」と「カスタマイズパーツ」に注ぎ込んでしまう、重度のガンマニアだからだ。
そのせいで食費を削り、いつも栄養失調寸前でふらついている。
「……バカなんだから、本当に」
懐かしさと呆れが入り混じった感情が込み上げる。
私は愛情(という名の殺意に近い執念)を込めて、海苔をパリッと巻いた。
巨大なおにぎりが10個。
おかずは、これまた昨日買い込んだ「徳用・鶏もも肉(2kg)」を使った、ニンニク醤油漬けの唐揚げ。
そして「ビタミンも大事!」とゲンタに言われて買ったブロッコリーとミニトマト、卵パックを使った厚焼き玉子。
タッパーに詰め込むと、それはまるで男子高校生の部活弁当のような重量感になった。
「よし、準備完了!」
私は重たいリュックを背負い、ログハウスの外に出た。
◇
「うお、なんだこれ!?」
外に出た瞬間、私はのけぞった。
昨日の夜はただの暗闇だった森の景色が、一変していたからだ。
ウィィィィン!! ガガガガッ!!
早朝の静寂を切り裂く、チェーンソーとインパクトドライバーの音。
「おうオーナー! 遅えぞ、もう一仕事終わっちまった!」
声の主は、丸太の上に仁王立ちしているゲンタだった。
彼の背後には、高さ3メートルはあろうかという巨大な「木の壁」が、すでに10メートルほどの幅で完成していたのだ。
「えっ、これ……一人でやったの!?」
「当たり前だ。森の木を切り倒して、皮を剥いで、杭として打ち込む。重機がねぇから手作業だが、いい筋トレになるわ!」
ゲンタは玉のような汗を拭いながら、白い歯を見せて笑った。
化け物だ。
この人は建築士じゃなくて、建築重機そのものなんじゃないだろうか。
「す、すごい……。これなら本当に、1ヶ月で要塞ができるかも」
「おうよ。だが、釘とカスガイが足りねぇ。それと、セメントも欲しいな。基礎を固めねぇと、ドラゴンの体当たりには耐えられん」
彼はすでに「ドラゴン対策」を考えていた。頼もしすぎる。
「わかった。帰りにまた買ってくる。……今日は私は、メンバーを探しに行ってくるから」
「おう、気をつけてな。……見るからに美味そうな匂いをさせてるが、熊に襲われるなよ?」
ゲンタは私のリュックを鼻でスンと嗅ぎ、ニヤリと笑った。
「これは熊用じゃないわよ。……もっと凶暴な『猫』を捕まえるための罠」
「ハッ、そいつは楽しみだ」
私はゲンタに留守を任せ、山を下りた。
◇
電車に揺られること2時間。
私は都内でも有数の繁華街、その裏側にある「倉庫街」に来ていた。
表通りはきらびやかなビルが立ち並んでいるが、一本路地を入れば、そこは不法投棄されたゴミと、室外機の熱風が淀むグレーゾーンだ。
昼間だというのに薄暗く、カラスの鳴き声だけが響いている。
(記憶が正しければ、この辺りの廃倉庫を根城にしているはず……)
1周目の時、蒼が酔っ払って昔話をしていたのを思い出す。
『2026年の2月頃は、確か××埠頭の近くの廃倉庫に住んでたな。家賃タダだし、試射もし放題だったから』
私はスマホの地図アプリを見ながら、慎重に足を進めた。
一般人が立ち入ってはいけないエリアだ。
すれ違う人々も、どこか目が鋭かったり、挙動不審だったりする。
私はなるべく気配を消し、目的の「第3倉庫」を目指した。
その時だった。
「――ッ! だ、誰か!!」
路地の奥から、悲鳴のような怒号が聞こえた。
続いて、鈍い衝撃音。ドカッ、バキッ。
(喧嘩……? いや、あれは)
私は物陰からそっと覗き込んだ。
廃工場の敷地内で、数人の男たちが乱闘……いや、一方的な「狩り」が行われていた。
男たちは5人。手に鉄パイプやバタフライナイフを持っている。明らかにカタギではない、半グレ集団だ。
そして、彼らが囲んでいる中心に、一人の青年がいた。
黒いパーカーのフードを目深にかぶり、ボロボロのジーンズを穿いている。
背中には、布でぐるぐる巻きにされた細長い棒状のもの――おそらくライフル――を背負っていた。
「テメェ! ウチのシマで勝手な商売してんじゃねぇぞ!」
「挨拶料もなしに用心棒だと? ナメてんのかコラ!」
チンピラの一人が、鉄パイプをフルスイングする。
普通の人間なら頭蓋骨粉砕コースだ。
だが、青年は動かなかった。
鉄パイプが当たる直前、最小限の動きで半歩、体をずらす。
空を切った鉄パイプが地面を叩くより早く、青年の足がチンピラの膝関節を蹴り抜いた。
「グアッ!?」
ボキッ、という嫌な音がして、男が崩れ落ちる。
速い。目にも止まらない。
「くそっ、やっちまえ!!」
残りの4人が一斉に襲いかかる。
ナイフが閃き、拳が唸る。
しかし、青年はまるで柳のようにゆらりと体を揺らし、すべての攻撃を紙一重で回避していく。
そして、すれ違いざまに肘打ち、ローキック、鳩尾への掌底。
無駄な動きが一切ない。
ただ淡々と、作業のように敵を無力化していく。
(……間違いない。あの動き)
私の背筋がゾクゾクと震えた。
鷹城 蒼だ。
まだ『千里眼の死神』と呼ばれる前の、荒削りだが鋭利な刃物のような彼が、そこにいた。
だが。
最後の男を投げ飛ばした後、彼はふらりとよろめき、膝をついた。
「ハァ……ハァ……」
肩で息をしている。
圧倒的な戦闘力に見合わず、その顔色は驚くほど白い。
フードの下から覗く頬はこけ、目の下には濃い隈がある。
(やっぱり……空腹なんだ)
彼は地面に座り込むと、ポケットから何かを取り出した。
それは、しわくちゃになったカロリーメイトの空き箱だった。
中身がないことを確認し、彼は舌打ちをして箱を握りつぶした。
「……クソ。弾代が高すぎたか」
独り言が聞こえる。
彼は空を見上げ、虚ろな目で呟いた。
「腹減った……」
今だ。
ここが運命の分かれ道。
私は深呼吸をして、リュックのベルトを握りしめた。
怖がるな。あいつは猛獣だけど、餌付けさえ成功すれば、世界で一番頼りになる番犬になる。
私は物陰から姿を現し、わざとらしく砂利を踏みしめて音を立てた。
ジャリッ。
「……誰だ」
一瞬で空気が凍る。
蒼が私を睨みつけた。
その目は、先ほどのチンピラたちに向けるものより遥かに冷たく、そして鋭い。
殺気。
肌がチリチリとするほどのプレッシャー。
普通なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すところだ。
でも、私は逃げない。
ニッコリと営業スマイルを浮かべて、彼に近づいていく。
「こんにちは。……いい腕ね」
「一般人か。見世物じゃねえぞ、消えろ」
彼は興味なさそうに視線を逸らし、立ち上がろうとして――またよろめいた。
「おっと、無理しないほうがいいですよ。低血糖で倒れる寸前じゃないですか」
「……お前には関係ない」
「関係ありますよ。だって私、あなたをスカウトしに来たんですから」
「スカウト?」
彼は怪訝な顔をした。
「どこの組の回し者だ。俺は組織には属さねえ」
「いえいえ、ヤクザ屋さんじゃありません。……私の組織は、もっとホワイトですよ? 福利厚生完備、住み込み可、そして何より――」
私はリュックを下ろし、中から巨大なタッパーを取り出した。
蓋を少しだけ開ける。
ふわっ。
あたりに漂っていた鉄錆とカビの臭いを押しのけて、強烈な「暴力」が解き放たれた。
ニンニク醤油の香ばしい匂い。
焼けた鮭の芳醇な香り。
そして、何よりも抗いがたい、炊きたてのご飯の甘い湯気。
グゥゥゥゥゥゥゥ……。
雷のような音が鳴り響いた。
空じゃない。蒼の腹の虫だ。
「……っ!?」
蒼の目が、私の顔からタッパーへと釘付けになった。
喉仏がゴクリと動く。
先ほどの殺気はどこへやら、今の彼は完全に「マタタビを前にした猫」だった。
「何だ……それは……」
「特製のお弁当です。コシヒカリの新米で作ったおにぎりと、揚げたての唐揚げ。……食べます?」
私がタッパーを差し出すと、彼は無意識に手を伸ばし――ハッと我に返って手を引っ込めた。
「……何のつもりだ。タダより高いものはない」
「鋭いですね。もちろんタダじゃありません」
私はタッパーの蓋を閉じた。
蒼の視線が、捨てられた子犬のように悲しげに揺れる。
よし、主導権は握った。
「これをあげる代わりに、私の話を聞いてください。5分でいいです」
「……話?」
「ええ。単刀直入に言います。……私に、雇われませんか?」
蒼は眉をひそめた。
「断る。俺は自由を愛して……」
「食事付きです」
私はかぶせ気味に言った。
「1日3食、私が作ります。お米は食べ放題。お肉も野菜も、栄養バランスを考えた温かい手料理を保証します。冷たいカロリーメイト生活とはおさらばです」
ゴクリ。
再び喉が鳴る音が聞こえた。
彼の「自由への意志」と「食欲」が、激しく葛藤しているのが手に取るようにわかる。
「……お前の料理なんて、美味い保証はない」
「あら、そうですか? じゃあ、味見してみます?」
私はタッパーから唐揚げを一つ取り出し、指でつまんで彼の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
「なっ……! バカにするな!」
彼は顔を真っ赤にして怒ったが、唐揚げの匂いが鼻先をくすぐった瞬間、本能が理性に勝ったらしい。
パクッ。
彼は私の指ごと食べる勢いで、唐揚げを口に入れた。
カリッ、ジュワッ。
衣の音と、溢れる肉汁。
蒼の動きが止まった。
咀嚼するたびに、彼の表情から険しさが抜け、代わりに恍惚とした色が広がっていく。
コンビニ弁当しか食べてこなかった彼の舌に、厳選素材の手作り料理は劇薬だ。
「……美味い」
彼は小さく呟いた。
その声は震えていた。
「でしょう? これ、毎日食べられますよ」
私はニッコリと微笑み、彼にタッパーを丸ごと渡した。
「さあ、全部食べていいですよ。話の続きは、お腹がいっぱいになってからにしましょう」
「……くそっ」
彼は悔しそうに唸ったが、もう我慢できなかった。
タッパーをひったくり、おにぎりを鷲掴みにして頬張り始める。
一心不乱。
まるで何日も食べていなかった野生動物のように。
私はその様子を眺めながら、心の中で勝利宣言をした。
(チョロい。……いえ、可愛い相棒さん)
第2のメンバー、鷹城 蒼。
胃袋掴んで、確保完了だ。




