第2話
「いらっしゃいませー。……おや、お若いお客さんだ」
駅前にある古びた不動産屋『朝日不動産』のドアを開けると、暇そうに新聞を読んでいた中年男性が顔を上げた。
私が息を切らせて立っているのを見て、彼は不思議そうな顔をする。
無理もない。
今の私は、カフェから走ってきたせいで髪はボサボサ、目は血走っているかもしれない。
でも、身なりなんて気にしている時間は1秒もない。
「あの! 物件を探しているんです!」
「はあ……。アパートですか? 学生さん向けのワンルームなら、いいのが……」
「いいえ、違います」
私はカウンターに身を乗り出し、震える声で告げた。
「山を、買いたいんです」
「……は?」
店主のおじさんが、間の抜けた声を上げた。
◇
「えーと、お嬢さん。本当にここにするの?」
店主は呆れたように、1枚の物件資料を指差した。
そこには、色褪せた写真と共に、悲惨なキャッチコピーが踊っている。
【格安! 自然豊かな山奥のキャンプ場跡地! 要修繕、電気・水道なし】
場所は、ここからバスで1時間ほどの山奥。
『星降る森キャンプ場』。
かつてはバブル期に開発されたリゾート地だったらしいが、運営会社が倒産し、長年放置されていた「負動産」だ。
「ここ、もう10年以上も買い手がつかなくてねぇ。建物はボロボロだし、夏は虫が出るし、たまに熊も出る。正直、タダでもいらないって地主が泣いてるような場所だよ?」
店主は親切心からか、それとも「こんなゴミを売って後でクレームになっても面倒だ」と思っているのか、しきりに難色を示している。
だが、私にとっては好都合だ。
彼らは知らないのだ。
このボロボロの山が、1ヶ月後に世界が一変した時、システムによって『聖域』に認定される唯一の場所だということを。
ダンジョンが発生すると同時に、世界にはゲームのようなシステムが介入する。
その際、特定の条件を満たした土地は「安全地帯」となり、魔物が物理的に侵入できなくなる結界が張られるのだ。
そして重要なのは、その結界の主になれるのは、『正当な手続きで土地を所有している者』だけということ。
だからこそ、私は今、何としてでもここを「購入」し、名義変更を済ませなければならない。
力ずくで占拠するだけではダメなのだ。日本の法律と、この世界のシステムの相乗効果が必要なのだから。
「いいんです。私、どうしても静かな場所で……その、小説を執筆したくて! 世俗から離れたいんです!」
「はあ、作家志望かぁ。変わってるねぇ」
「それに、ボロボロなのも味があっていいじゃないですか。テレビで見た開拓村みたいで」
私は適当な嘘をついて、前のめりに聞いた。
「でおいくらですか? 土地と建物、山林の権利も全部含めて!」
「うーん、現状渡しでいいなら……地主さんも処分に困ってるからなぁ。税金対策で手放したがってるし、諸経費込みで300万ってとこかな」
『300万円』。
私の心臓が跳ね上がった。
銀行口座の残高は、315万円。
ギリギリだ。本当にギリギリで足りる。
今後の食料備蓄などを考えると不安だが、まずは「城」を手に入れなければ話が始まらない。
「買います! 今すぐ! 現金一括で!!」
「ええっ!? いやいや、現地も見ないで!?」
「見なくていいです! 時間が惜しいので!」
私はリュックから銀行の印鑑を取り出し、カウンターに叩きつけた。
「契約書を作ってください。今日中に登記の手続きもお願いします。……誰かに横取りされたくないので」
店主は「こんなゴミ山、誰も欲しがらないよ……」とボソボソ呟きながらも、カモが逃げないうちにと思ったのか、慌てて書類の準備を始めた。
◇
1時間後。
私は分厚い権利書の束と、錆びついた鍵の束を受け取っていた。
「まいどあり。……ま、クーリングオフはできないからね。後悔しないようにね」
「ええ、絶対にしません。……むしろ、後悔するのはそっちだと思いますよ」
私は心の中でそう呟き、店主に満面の笑みを向けた。
「ありがとうございました。素晴らしい買い物ができました」
店を出た私の手には、残高の減った通帳と、世界最強の「盾」の鍵が握られている。
これで勝った。
第1段階クリアだ。
後からその価値に気づいた政府や大企業が、数百億円を積んでも買い取れなかった「伝説の土地」。それを私は、たった300万円で手に入れたのだ。
私はすぐさま駅前からタクシーを拾った。
なけなしの残金を使うのは痛いが、一刻も早く現地を確認し、システムの「所有者登録」を済ませなければならない。
「お客さん、こんな山奥に何しに行くんだい? ハイキング?」
「ええ、まあ。……別荘を買いまして」
「へぇ、優雅だねぇ。そういえば、来月から消費税が上がるってニュース見たかい? まったく、嫌な世の中になったもんだよ」
運転手さんの呑気な会話を聞き流しながら、私は窓の外を流れる景色を見つめた。
平和な街並み。のんびりと歩く老人。ランドセルを背負った子供たち。
彼らは知らない。
あと30日もすれば、この空は毒々しい紫色に染まり、ビルの間をワイバーンが飛び交う地獄へと変わることを。
消費税なんて可愛いものだ。「命の税金」を払わされる日が来るのだから。
ふと、道沿いにコンビニの看板が見えた。
私は慌てて身を乗り出す。
「あっ、運転手さん! そこのコンビニに寄ってください! 5分で戻りますから!」
「へいへい」
タクシーが駐車場に滑り込むや否や、私は店内に駆け込んだ。
カゴをひっつかみ、棚を走る。
まずは水。2リットルのペットボトルを2本。これ以上は重くて持てない。
次に食料。おにぎりとサンドイッチ、カロリーメイトを適当に掴む。
あとは衛生用品だ。
お風呂に入れない時のためのボディシートと、お泊まり用の歯ブラシセット。とりあえず今夜はこれで凌ぐしかない。
そして日用品コーナーへ。
電池式のLEDランタンと、予備の乾電池。これが一番重要だ。電気のない夜は想像以上に暗くて怖いから。
最後に、自分へのご褒美としてドリップコーヒーのパックを一つカゴに入れた。
会計を済ませ、パンパンになったレジ袋を抱えてタクシーに戻る。
「お待たせしました!」
「すごい荷物だねぇ。山籠りでもするのかい?」
「……まあ、そんなところです」
あながち間違いではないので、私は苦笑いで誤魔化した。
◇
再びタクシーは山道を登り、舗装が剥がれたガタガタの砂利道へと入っていく。
車体が激しく揺れる。
やがて、鬱蒼とした森の中に、朽ち果てた木のゲートが見えてきた。
看板の文字は禿げ落ち、辛うじて『……る森……ンプ場』と読める。
雑草は腰の高さまで伸び放題。管理棟の窓ガラスは割れ、屋根には苔が生えている。
奥に見えるバンガローも、風が吹けば倒壊しそうなほど傾いていた。
「うわぁ、こりゃまた酷い廃墟だねぇ。お化け屋敷かい?」
運転手さんが顔をしかめる。
確かに、一般人の目にはただの「粗大ゴミ」にしか見えないだろう。
カイトたちが見たら、「こんな場所で暮らすなんて正気か?」と鼻で笑うに違いない。
けれど、私には見えていた。
ゲートをくぐった瞬間、視界の端に半透明の青いウィンドウが浮かび上がったのを。
【システム通知:管理者権限を確認しました】
【ようこそ、オーナー。初期セットアップを開始しますか?】
【 YES / NO 】
(……よかった。噂は本当だったんだ)
私は胸を撫で下ろし、心の中でガッツポーズをした。
本来、このシステムウィンドウは1ヶ月後の「世界崩壊」と同時に全人類に表示されるものだ。今の時期には、まだ影も形もないはず。
だが、前世の避難所で、古参のサバイバーたちがこんな話をしていたのを思い出したのだ。
――『星降る森』は、ダンジョンが出る前から「なにか」がおかしかったらしいぞ。
――あそこだけ、最初からシステムが稼働していたって話だ。
あれは単なる都市伝説じゃなかった。
この場所だけは、システムの先行実装エリアみたいなものだったのだ。だからこそ、世界が壊れる前の「今」でも、ウィンドウが表示されている。
ふと横を見ると、運転手さんは「早く帰りたいなあ」という顔で欠伸をしている。
目の前にこんなに大きなウィンドウが輝いているのに、彼にはまったく気づいている様子がない。
おそらく、管理者権限を持つ人間にだけ視認できる、拡張現実(AR)のようなものなのだろう。
「……ふふっ」
タクシーを降り、その場に立ち尽くす。
私の目には、この廃墟が、黄金に輝く難攻不落の要塞に見えていた。
ここが、私の国。
誰にも邪魔されない、私だけの楽園。
「YESに決まってるじゃない」
私は虚空に向かって、力強く指を突き立てた。
運転手さんが「えっ、何もない空中に指を……?」とギョッとした顔で見ていたが、そんなことはもうどうでもよかった。




