第19話
東京都、霞が関。首相官邸・特別会議室。
最高級のペルシャ絨毯が敷かれた豪奢な部屋で、内閣情報調査室・特別サイバー対策本部の葛城室長は、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めていた。
「……ですから大臣。現在確認されている未知のウイルスは、これまでのいかなる感染症とも異なります。三週間後、都市部は完全に機能不全に陥ります。来週予定されている政治資金パーティーは直ちに中止し、緊急事態宣言の準備を——」
「大げさなんだよ、葛城くん」
イタリア製の革張りのソファに深くふんぞり返り、甘い香りのする高級な葉巻を吹かしているのは、恰幅の良い大物閣僚だった。彼は葛城が徹夜で作成し提出した『特A級生物災害予測シミュレーション』の赤いファイルを、ろくに開きもせずにテーブルの端へ追いやった。
「ただの致死率が少し高い風邪だろう? それをいちいち国難だの崩壊だのと騒ぎ立てて。君たち情報局はいつもそうだ。予算が欲しいからって、ハリウッド映画みたいな報告書を上げてくる。パンデミックの噂のせいで、私の支援企業の株価がどれだけ下がっているか分かっているのかね?」
「ファンタジーではありません! すでに地方の指定病院では、発熱後に完全に理性を失った感染者が暴動を起こし、自衛隊が極秘裏に出動する事態に発展しています! 感染者の唾液や血液からの二次感染率は異常で、このままでは——」
「あー、分かった分かった。なら、君の言う通り『国が終わる』としてだ」
大臣は面倒くさそうに手をヒラヒラと振り、クリスタルグラスに注がれた琥珀色のウイスキーを煽った。
「私が乗る地下シェルター……『箱舟』のVIPリストだがね。銀座のクラブのママを三人ほど追加したまえ。それと、私の専用ルームには最高級のワインセラーを用意しておくように。……いいかね? 我々のような『国を動かす人間』が生き残らなければ、パニックのあとにこの国を正しく再建できないんだからな。無知な一般市民は、そのための土台に過ぎない」
葛城は、胃袋の底が煮えくり返るような錯覚を覚えた。
外では、もうすぐ何千万人という国民が地獄に叩き落とされようとしている。葛城自身の家族すら「箱舟」には乗れないのだ。それなのに、この国のトップに立つ人間たちは、自分だけが助かる特等席の座り心地や、愛人の心配しかしていない。
「……承知いたしました。手配しておきます」
「頼むよ。まったく、こんな時期にパンデミックだなんて、来月のゴルフコンペが台無しじゃないか」
これ以上この豚の顔を見ていたら、拳でその鼻っ柱をへし折ってしまいそうだった。
葛城は深く一礼し、逃げるように会議室を後にした。
◇
午後10時45分。
首相官邸からほど近い地下三十メートル。外界から完全に隔離された『内閣情報調査室・特別サイバー対策本部』。
窓一つない無機質なコンクリートの空間には、何十台もの大型サーバーが吐き出す熱気と、徹夜続きのエリート分析官たちが発する汗、そして強いカフェインと胃薬の匂いが重苦しく充満していた。
フロアに戻ってきた葛城は、冷めきった泥のようなコーヒーを胃に流し込み、深いため息をついた。
(クソッ……。こんな腐りきった国、本当に守る価値があるのか……?)
疲労のあまり、自嘲気味に笑いかけた、その時だ。
『——警告! 第一種異常通信を検知!』
無機質で甲高いアラート音が、重苦しい地下室の空気を切り裂いた。
正面の壁面を覆う巨大なメインモニターが、国家の最高危機を知らせる鮮血のような赤色に点滅し、フロアの中央に座っていた主任分析官が、バネで弾かれたように立ち上がる。
「室長! 対象コード『Ghost』がオンラインになりました! 二日間の沈黙を破り、活動を再開しています!」
「なんだと!?」
葛城は疲労も忘れ、指揮デスクへと駆け寄った。
そのただならぬ反応に、事態の全貌を知らない若手の分析官が悲鳴のように問う。
「し、室長! なぜこの国家存亡の非常事態に、たかが一人のハッカーの動向を特別警戒アラートにしているのですか!? 今はウイルスの情報統制に全力を——」
葛城は血走った目で若手を怒鳴りつけた。
「たかがハッカーだと!? 奴はただのクラッカーじゃない、電脳空間に君臨する神だ! 数年前、防衛省の『物理的に外部と切り離されていたはず』のクローズド・ネットワークに侵入し、全機密データをコピーした上で、『セキュリティの脆弱性レポート』をデスクトップに置いて消えた本物のバケモノだぞ!」
フロアの空気が凍りついた。物理切断されたネットワークへの侵入など、魔法でも使わない限り不可能だからだ。
「それだけじゃない。ペンタゴン、NSA……世界中の最高機密に指紋一つ残さず出入りしている。我々が奴を血眼で追っていたのは、この迫り来る『厄災』の情報を奴がいち早く嗅ぎつけ、ネットに暴露してパニックを前倒しにする危険があったからだ。……いや、それ以上に、我々の『箱舟計画』のシステムを完璧に管理し、崩壊後の世界で優位に立つために、どうしても奴の頭脳を国家の管理下に置く必要があったんだ!」
国家存亡の危機において、政府はゴーストを「最大の脅威」であると同時に、「喉から手が出るほど欲しい最強の駒」として狙い続けていた。
「なぜこのタイミングで現れた! ついに箱舟のシェルターリストを嗅ぎつけたか!」
「いえ、違います! 奴の通信帯域……異常です! 下り20Gbpsという、民生用ではあり得ない速度を計測! 米軍のミサイル早期警戒用の低軌道軍事衛星回線の暗号プロトコルを完全に掌握して、自前のプライベート・インフラとして使用しています!」
「一個人が軍事衛星の帯域を丸ごと乗っ取っただと……? ふざけるな、一体何が目的だ!」
数十人の分析官たちのキーボードを叩く音が、まるで悲鳴のようにフロアに響き渡る。
「現在、ゴーストは国内のインフラサーバーへ同時多発的に侵入を開始! ……第一の標的は、国土地理院のデータベースです!」
「地図情報? テロの標的でも探しているのか?」
「違います、データの『改ざん』を行っています! ……現在、〇〇県の山間部にある『星降る森キャンプ場』という広大な私有地のポリゴンデータと座標情報が……『昨年の大規模な土砂崩れにより完全に消滅した立ち入り禁止の危険地帯』へと上書きされました! 同時に、過去のニュースサイトのアーカイブにも架空の土砂崩れの報道記事を植え付けて、歴史の辻褄を合わせています!」
葛城は眉間を激しく揉んだ。地図を消した? そんなことのために、わざわざ国際問題になりかねない軍事衛星を使ったというのか。
「それだけではありません! 続いて法務局の不動産登記簿ネットワーク、および民間の大手マップアプリのデータセンター群にも侵入! 該当エリアの航空写真と所有権データをすべて『黒塗り』で消去、または樹木だけのフェイク画像に差し替えています!」
「……山を一つ、地図上から物理的にも法学的にも『完全に消した』というのか?」
唖然とする葛城をよそに、信じがたい被害報告はさらに続く。
「続いて、住民基本台帳ネットワークの強固なファイアウォールが突破されました! ……特定の男女六名分の戸籍データが、次々と『行方不明』および『死亡』扱いへと静かに書き換えられていきます! 納税記録、医療履歴、運転免許証……社会に存在するあらゆる足跡が、スクリプトによって今この瞬間も漂白されています!」
「——追跡しろ!!」
葛城は我に返り、フロア全体に響き渡る怒号を飛ばした。
あの『ゴースト』が、未曾有のパンデミックの混乱に乗じて、特定の人間たちと特定の土地を、国家の監視網から完全に切り離そうとしている。彼らはこの世界から『ログアウト』しようとしているのだ。
「逆探知プログラムをフル稼働させろ! 物理座標を特定して、警察の特殊部隊(SAT)を即座に送り込むんだ! 奴はこれからの世界に必要な『絶対的な安全地帯』を作ろうとしているのかもしれない!」
「や、やってます! ですが、奴の通信経路は世界中の数万台のIoTデバイスを0.01秒単位で経由していて、まったく尻尾が掴めません!」
分析官が絶望的な声を上げた、次の瞬間だった。
『——警告。防壁への逆侵入を検知。システム権限が変更されました』
無機質な音声と共に、サイバー対策本部にある数十台のモニターが、一斉に不快な砂嵐のノイズに包まれた。
分析官たちが必死に叩くキーボードの操作を一切受け付けなくなり、マウスのカーソルがまるで意思を持ったように画面上を勝手に動き出す。
「なっ……こちらの追跡用に仕掛けていた裏口が、逆に利用されています! メインサーバーの深層部に、未知の自己増殖型ウイルスが侵入! ……ダメです、防壁が突破されます! システムが内側から焼かれます!」
バチッ!!
フロアの照明が一瞬暗転し、不快な電子の破裂音と共に、本部のメインモニターが真っ暗に落ちた。機材からショートした火花が散り、焦げ臭い匂いが漂う。
数秒後、その真っ黒な画面の中央に、カタカタと白いテキストが打ち込まれていく。
『——404 Not Found.(指定された世界は存在しません)』
『——Have a good end of the world.(良い終末を)』
それを最後に、サイバー対策本部と外部を繋ぐすべての通信は完全に途絶した。
軍事衛星からの信号も、国土地理院へのアクセス履歴も、何もかもが電子の深い海へ溶けるように消え去った。
「……完全に、ロストしました」
分析官が、椅子から崩れ落ちるようにして虚脱した声で報告する。
国家が喉から手が出るほど欲しがった最高峰の頭脳は、国家の数百億円のシステムを赤子のように捻り潰し、彼らの目の前で永遠に消え去ったのだ。
「クソッ!! ナメやがって……っ!」
葛城は机を力任せに殴りつけた。
すぐにでも全システムを物理的に再起動し、意地でもゴーストの足取りを追いたかった。先ほどの、愛人とワインのことしか頭にない大臣の顔がフラッシュバックする。こんな腐った国でも、彼には守るべき秩序があった。
だが——葛城の視線は、再び手元の赤いファイルへと落ちた。
(……ゴースト一人に構っている暇は、今のこの国にはないのだ)
あと三週間。
三週間後には、地図から消えた一つの山や、戸籍から消えた六人の人間など、どうでもよくなるほどの地獄がこの国を覆い尽くす。
医療は崩壊し、街には火が放たれ、生き残った人々は食料を求めて殺し合う。一部の特権階級だけを逃がす手配で、すでに国のリソースは限界を迎えていた。
「……追跡は打ち切れ」
葛城は血を吐くような思いで、敗北を宣言した。
「全システムを復旧後、直ちにウイルスの情報統制任務に戻れ。……ゴーストの件は、すべて無かったことにする」
こうして、国家すら見捨てるほどの巨大な絶望を前に、日本政府は『星降る森キャンプ場』の異変から完全に目を背けた。
彼らは知らない。自分たちが今、世界で最も安全な『絶対領域』を、自らの手で監視対象から永遠に外してしまったことに。
◇
同刻。
星降る森キャンプ場の地下深くに作られた「高度情報処理室」。
「ふぅ……。ちょろいもんですね」
完璧に除湿・恒温化された冷涼な空気と、新しい電子機器が発する微かなオゾンの匂いの中。
ネロは、二十三万円の高級アーロンチェアに深く背中を預け、氷の浮かんだ冷えたコーラをストローで啜った。
目の前に並んだ8枚の湾曲型4Kモニターは、彼の神業とも言えるタイピングによって、すでに『世界からのログアウト』を完璧に完了させている。
少し前まで、狭いアパートの安物ルーターと低スペックのパソコンで、隣人のWiーFiを拝借しながら国家の監視網に怯えていた日々が嘘のようだ。
「……完璧です、マナさん。地図からも、戸籍のデータベースからも、空からの目からも、僕たちの痕跡はすべて消え去りました」
ネロが椅子を回転させて振り返ると、そこには風呂上がりでほんのりとヒノキの香りをさせたマナが、フルーツ牛乳を飲みながら満足そうに微笑んでいた。その後ろでは、真新しいパジャマを着た妹のユリが、ふかふかのソファで気持ちよさそうに深い寝息を立てている。
「お疲れ様、ネロ。……これで私たちは、誰にも邪魔されない本物の『透明人間』ね」
マナは空になったフルーツ牛乳の瓶をテーブルに置き、静かにモニターを見上げた。
そこには、ネロがハッキングしている各国のニュース映像や、不穏な動きを見せる都市部の監視カメラの映像が無数に分割表示されている。
深夜の病院の廊下で暴れ回る血まみれの患者。それを必死に押さえつけようとする防護服姿の機動隊。ネットの海から拾い上げた、テレビでは決して報道されない世界の『真実』の姿だ。
狂い始める世界。
しかし、分厚い城壁と巨大な堀に守られたこの地下室には、ただ静かで心地よいサーバーの冷却ファンの駆動音だけが響いていた。




