第18話
4月10日、金曜日。
世界の崩壊まで、あと21日。
朝の6時。
研修棟のホールに漂うのは、出汁の香りと、モグが採れたてで持ってきた長ネギの爽やかな匂いだ。
「今日の朝飯は何だ?」
ゲンタが目をこすりながら食堂に入ってきた。昨日の壁建設で全力を尽くしたはずなのに、その巨体に疲れは見えない。化け物だ。
「お味噌汁と、炊き込みご飯よ」
私はモグが採ってきたシメジとゴボウ、ニンジンを炊き込んだご飯を、土鍋ごとテーブルに運んだ。
「おおう、いい香りだ」
「……腹が鳴る」
後ろからは蒼が、さらにその後ろからはシノが半目で続いてくる。
「ちょっと、目が死んでるわよシノ。また徹夜?」
「……『生活魔法の量子力学的解釈』を書いてたら夜が明けてたわ。人間の睡眠なんて脳の老廃物処理に過ぎないから——」
「椅子に座りなさい。食べてから言いなさい」
私は力ずくでシノを椅子に押し込み、全員分の茶碗によそった。
「「「いただきます」」」
モグだけがすでにネギの端っこを齧りながら「美味しいモグ!」とピョンピョン跳ねていた。
食事が落ち着いたところで、私は全員の顔を見回した。
「ねえ、みんな。今日の話をするわ」
「昨日言ってた『最後のメンバー』か?」
蒼がコーヒーのカップを置いた。
「ええ。……私たちの要塞は、物理的な防衛能力でいえばほぼ完成した。でも、まだ決定的に足りないものがある」
「情報、か」
さすがは元SATだ。蒼は即座に理解した。
「そう。今は私のスマホで外のSNSや報道を追ってるけど、それはあくまで大衆向けの情報よ。真に重要な情報——軍や政府の対応、ダンジョンの発生予測地点、他の生存者グループの動向、そして何より『カイトたち』の動き——」
ゲンタが顔をしかめた。
「……そのカイトってのが、前世でお前を捨てたやつか」
「ええ。1周目では、あいつらは最終的にこの聖域の情報を嗅ぎつけて押しかけてきた。今回は事前にその動きを把握して、先手を打ちたいの」
「なるほど。それで神の目が必要と」
私は頷き、リュックからメモ用紙を取り出した。そこには一つの住所が書いてある。
「迎えに行くのは、ネロ。20歳の引きこもりよ」
「……引きこもり?」
「ええ。正式な肩書きは『無職』。でも彼の本当の顔は——世界中の政府機関、軍事衛星、金融システム、監視カメラネットワークに自由にアクセスできる、天才ハッカーよ」
場が静まり返った。
「1周目の世界で、彼は神の目と呼ばれていた。電力が生きている間、あらゆる電子機器を遠隔操作し、情報を収集し、通信を暗号化する。……私たちが安全に引きこもるための『耳と目』として、彼は絶対に必要なの」
「……すごい経歴だが、なんで引きこもりなんだ?」ゲンタが不思議そうに首をかしげる。
「才能がありすぎたせいよ。中学の頃にアメリカ国防省のシステムに侵入して、危うく国際指名手配されかけた。それ以来、怖くなって部屋から出られなくなったみたい」
「アメリカ国防省……」蒼の目が細くなる。
「でも今は、自分のアパートで妹と二人暮らし。妹のために細々とフリーランスのプログラミング案件をこなしながら、インターネットだけが唯一の窓口という生活を送っているわ」
「で、その人をどうやって説得するんだ? 引きこもりなら、ドアすら開けないんじゃないか」
「もちろん対策は考えてある」
私はニヤリと笑い、立ち上がった。
「……まずは腕まくりして、キッチンに戻るわよ」
◇
1時間後。
ホール中に、バターと醤油の焦げる香ばしい匂いが充満していた。
テーブルの上には、ぎっしりと詰まったタッパーが7つ。断熱ケースに入れた熱々のお弁当が3段重ね。
「ゲンタをスカウトした時は『建築できる場所』で釣った。蒼には『食事と銃』。シノには『研究環境とお金』。モグには『浄化魔法』。……全員、それぞれ欲しいものが違ったでしょ?」
「ああ」
「ネロの場合、食べ物だけで釣れるか、正直自信がない。でも、彼には特別な事情があるから」
私はタッパーの上に、小さな封筒を乗せた。中には、1枚の手書きのメモが入っている。
「?」
「行けばわかるわ。……さあ、出発よ」
◇
ブラック・アークに全員を乗せ、山道を下る。今日ばかりは、シノと蒼も大人しく後部座席に収まっていた。
到着したのは、都心から外れた郊外の住宅地。駅から10分歩いたところにある、古い6階建てアパートだ。外壁はくすんだクリーム色で、郵便受けの半分は錆びている。
「……ここか」ゲンタが建物を見上げた。
「402号室よ。……今回は全員で行かないで。私と蒼だけ行く。ゲンタとシノは外で待機」
「は? なんで俺が留守番なんだ」
「あなたがドアの前に立つだけで、誰でも恐怖で気絶するから。……悪いことを言ってるんじゃないのよ、体格の話よ」
ゲンタは不満そうにしたが、「まあ俺がデカすぎるのは事実だな」と素直に認めた。
「シノは車内でラボ用の計算でもしてて」
「了解。ちょうど昨日の魔法反応の解析データが気になってたのよ」
シノはすでにノートパソコンを開いて自分の世界に入っていた。
私と蒼は、薄暗い廊下を4階まで上がった。ここはエレベーターがない。
「……静かだな」蒼が呟く。
「ええ。昼夜逆転生活だから、今ごろはちょうど活動時間のはずよ」
402号室のドアの前に立つ。インターフォンを押す前に、私は耳を澄ませた。
カタカタカタカタカタカタカタカタ……
聞こえる。休みなく打ち続けられる、キーボードの高速打鍵音。
私はインターフォンを押した。ピンポン。
打鍵音は止まらない。
もう一度。ピンポン。
今度は音が止まった。
「……宅配ですか? 置いといてください」
くぐもった声。若い男性の声だ。でも、人と話し慣れていない感じがにじんでいる。
「宅配じゃないわ。ネロさん? 少しだけお話聞いてほしいんだけど」
「……セールスは結構です。宗教も政治も」
「違うわよ。私はあなたの妹さんのことで来たの。ユリさん、最近ずっと心配してて」
長い沈黙。
「……ユリが?」
食いついた。
「ええ。『お兄ちゃんが一人で抱え込んでる気がして不安』って。……私、ちょっと変わった場所を運営してるマナっていうんだけど」
ガチャ、ガチャ……。
チェーンが何本も外される音がした。
そして、ドアが10センチほど、恐る恐る開いた。隙間から見えたのは、大きな瞳をした青白い顔だ。目の下に濃い隈。乱れた黒髪。大きすぎる白いTシャツ。年齢は20歳のはずだが、栄養不足のせいか、実際よりずっと幼く見える。
「……ユリの、知り合い?」
「ええ。……それと、これを持ってきたわ」
私は断熱ボックスを差し出し、蓋を開けた。温かな湯気が漂い出す。
「鶏の親子丼よ。出汁は昆布と鰹節。鶏肉はモモを厚切りにして、半熟の玉子をたっぷりかけてある」
「……なんで急に飯を——」
「ユリさんから聞いたの。『お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてないみたいで心配』って」
これは少し嘘だ。でも、外れてはいないはずだ。
「……少し、待ってください」
ドアが閉まった。チェーンが二本外れ、再びドアが開く。今度は全開だ。
「……どうぞ」
◇
室内に入った瞬間、私と蒼は思わず立ち止まった。
壁一面を覆うモニター群。
8枚のディスプレイが並び、それぞれに異なるウィンドウが映し出されている。
株価チャート、衛星写真、英語のニュースサイト、そして——政府の内部通信とおぼしき、暗号化されたログ。
「……趣味の延長、ってことかしら」私はとぼけて呟いた。
「見ないでください」
ネロがさっと別のウィンドウを前面に出す。だが私はちゃんと見ていた。
彼は今、世界各地の「不審な電磁波の異常」をモニタリングしていた。
まだ誰も気づいていない——ダンジョン出現の前兆現象だ。
(やっぱり。彼、もう気づいてる)
私は温かい親子丼をネロに手渡した。彼はためらいがちに一口食べ、目を見開いた。
「……美味しい」
「でしょ? ねえ、一つ聞いていい?」
「……何ですか」
「そのモニターに映ってるデータ、3週間後に何が起きるか、もう答えが出てるんじゃない?」
ネロの動きが止まった。
「……何のことですか」
「見ればわかるわよ。あなたは今、世界中で同時多発的に起きてる電磁波の異常をトラッキングしてる。それが何を意味するか、もう分かってるんでしょ?」
長い沈黙。
「……分かっていても、どうにもならない。発信できるような信頼できる人間が、どこにもいないから」
彼の声は小さく、静かだった。
「……ユリに、外に出てほしいって言われたのも、そのことか?」
「妹さんを安全な場所に連れて行きたい。でも自分が外に出られない。……そうじゃないの?」
ネロは顔を上げた。その瞳には、隠せない痛みがあった。
「……あなた、本当にユリの知り合いですか?」
「嘘をついたわ。ごめんなさい」
私は正直に言った。
「でも、あなたと妹さんに、本当に安全な場所を用意できる。物理的な壁も、食料も、電力も、全部整ってる場所を。……あなたのその技術と、ここにある全てのデータを持ってきてくれれば」
ネロはしばらく私を見つめた。そして——もう一口、親子丼を食べた。
「……証拠を見せてください。その『安全な場所』とやらの」
私はスマホを取り出し、昨日撮影した動画を再生した。
高さ20メートルの白亜の城壁。幅50メートルの大峡谷。青々とした森に囲まれた拠点。シノのラボで煌めくモニターたち。
「……本物ですか? CGとかじゃなくて?」
「ええ。私の生活魔法で作ったの。見たければ実際に来ていいわ。……妹さんも一緒に」
「ユリも?」
「もちろん。住民名簿に登録すれば、誰でもこの聖域のシステム保護を受けられる。妹さんも、絶対に守ってあげる」
ネロは親子丼の空になった器を見下ろした。やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……条件があります」
「どうぞ」
「ネット環境の保証。サーバーラックを3台と、アンテナを好きな場所に設置させてください。あと——」
彼は少し赤くなって、続けた。
「……この親子丼を、定期的に食べさせてもらえますか」
私は思わず吹き出した。
「もちろんよ。毎週でも、毎日でも」
「……わかりました。行きます」
【システム通知:ネロ を「住人」として登録しますか?】
【 YES / NO 】
私は迷わず【YES】を押した。
【住人登録完了:ネロ(ハッカー Lv.15)】
【特殊スキル:電脳干渉・上 を確認しました】
【称号:『神の目』を確認しました】
Lv.15。私のパーティで最高レベルだ。
「……いいわね。では、荷造りしましょうか。妹さんへの連絡はできる?」
「今日、学校からまっすぐここに帰ってくる予定です。……迎えに来てもらえますか?」
「任せて」
◇
夕方。
星降る森のホールに、新しい顔が二人増えた。
ネロ——20歳、引きこもりハッカー。
そして、ユリ——16歳、その妹。くりくりとした目が兄によく似ている。
「わあ……すごい、お城みたい!」
ユリは城壁を見上げて歓声を上げた。
「でしょ? ようこそ、私たちの聖域へ」
「……でかい穴があるな」
ゲンタが得意げに胸を張った。
「俺とモグで掘ったんだ!」
「おいらも! おいら主役モグ!」
モグがユリの足元でピョンと跳ねる。
「きゃー! なにこれ可愛い!!」
ユリがしゃがんでモグを抱き上げ、ほっぺたをスリスリする。モグは完全に骨抜きになって「好きモグ……」とろけている。
一方、ネロはホールに持ち込んだサーバーラックの設置場所を、真剣な目で選定していた。
「……ここに、衛星通信アンテナを立てていいですか? 壁の上が一番いい」
「ゲンタ、手伝ってあげて」
「おう、任せろ! あと30分で設置完了だ!」
蒼はネロの手荷物の中に「ガジェットの山」を見つけ、少し目を細めた。
「……これはなんだ?」
「改造したドローンです。カメラ付きで、半径10キロを自律偵察できます。夜間赤外線モードもあります」
「……採用だ」
ゲンタとシノには全く理解できない早口の技術談義が始まり、私は呆れながらも微笑んだ。
夕食の時間。
今夜は、ユリの「初めての夕食希望」を聞いて、肉じゃがにした。
「うわあ、家みたいな匂い!」
「ユリさん、大盛りにする?」
「はい! ……あの、マナさん」
「なに?」
ユリは少し恥ずかしそうにして、それから真っ直ぐ私を見た。
「……お兄ちゃんを、連れてきてくれてありがとうございます。ずっと一人で不安そうにしてたから、心配してたんです」
「いいのよ。……ネロの力が、これから絶対に必要になるから」
隣では、ネロがサーバーに接続しながら、器用に肉じゃがを頬張っていた。
スマホのカレンダーを見る。4月10日。
世界崩壊まで、あと21日。
全員が揃った。
防御のゲンタ。
狙撃の蒼。
毒薬のシノ。
大地のモグ。
そして——情報のネロ。
物理の城は完成した。次は「情報」という名の目が、外の世界を見張り始める。
「ねえ、ネロ。今夜から頼んでいい?」
「もうやってます」
彼の8枚のモニターが、星降る森の研修棟に煌々と光を放ち始めた。
世界崩壊まで、あと21日。
私たちの「聖域」は今夜から——耳と目を手に入れた。




