第12話
4月5日、日曜日。
世界の崩壊まで、あと26日。
本来なら、小鳥のさえずりと木漏れ日で優雅に目覚めるはずの爽やかな朝だった。
しかし、私の安眠は、鼓膜をつんざくようなガラスの破砕音と、ヒステリックな女性の絶叫によって無惨にも打ち砕かれた。
「違う! そうじゃないのよ! なんでここで共有結合が切れるの!? 質量が増えてるじゃない! ラボアジェが草葉の陰で泣いてるわよ!!」
ログハウスの壁を突き抜けて響いてくるその声は、間違いなく私の愛しいマイホームの裏手にある「研修棟」から聞こえていた。
私は重い瞼をこすりながらベッドから這い出した。時計の針はまだ朝の6時を回ったばかりだ。
低血圧の頭を振って意識を覚醒させる。昨日、あの「マッドサイエンティスト」を拾ってきたことを、私は今更ながら少し後悔し始めていた。
「……朝から元気ね、まったく」
私はあくびを噛み殺しながら外へ出た。
まだ春先の冷たい空気が肌を刺すが、研修棟の換気ダクトからは、熱気と共に怪しげな紫色の煙がモクモクと吐き出されている。
環境汚染待ったなしだ。私はため息をつきながら、重厚な鉄の扉を開けた。
そこは、一晩で完全なる「魔窟」へと変貌を遂げていた。
かつて林間学校の生徒たちがカレーを作っていた広い「業務用厨房」は、見る影もない。
私が昨日、生活魔法でピカピカに修復したはずのステンレス製の調理台は、計算式が殴り書きされたレポート用紙と、得体の知れない液体が入ったフラスコの山で埋め尽くされている。
壁という壁、そして窓ガラスに至るまで、びっしりと複雑怪奇な化学式や構造式が書き連ねられ、床には何かの専門書がタワーのように積み上げられていた。
そして、その混沌の中心。
白衣を纏った一人の女が、頭を抱えてのたうち回っていた。
「ありえない……物理法則のバグだわ……。外部エネルギーの供給なしにエントロピーが減少するなんて……」
「……おはよう、ドクター。徹夜?」
私が呆れ半分で声をかけると、シノはバッと振り返った。
ひどい顔だ。
元々色白だった肌は幽霊のように青白く、目の下の隈は昨日よりさらに濃く、どす黒く沈殿している。手入れされていない腰まである黒髪は静電気で爆発し、私が支給した真新しい白衣は、すでにコーヒーと謎の薬品のシミで幾何学的な模様を描いていた。
だが、その落ち窪んだ瞳だけは、血走った眼球の中でギラギラと異様な熱を放って輝いている。
それは研究への情熱というより、何かに取り憑かれた狂気に近かった。
「あ、おはようオーナー! ちょうどいいところに来たわね!」
彼女は私を見るなり、獲物を見つけたハイエナのように飛びついてきた。
「ねえ、ちょっと身体貸して! あんたのその『魔法』とやらを使うときの、血液中の魔力濃度とATP(アデノシン三リン酸)の相関関係を調べたいの! あと脊髄液も数ミリリットルでいいから抜かせて!」
彼女の右手には、先端がキラリと光る太い注射器が握られている。
「絶対にお断りよ」
私は冷徹な手刀で、迫りくる注射器を叩き落とした。
カラン、と乾いた音が広い厨房に虚しく響く。
「い、痛ぁッ! 何すんのよ! 人類の未来のための尊い犠牲になりなさいよ!」
「私の身体は私のものよ。それに、今はあんたの研究材料になってる暇はないの」
私は床に落ちた注射器を足で遠くへ蹴り飛ばし、彼女の顔を覗き込んだ。
「……少しは休んだら? そんなカフェインとアドレナリンだけで動いてるような脳みそで研究を続けても、ミスとゴミデータが量産されるだけでしょ。効率が悪いわ」
「休む? 馬鹿言わないで」
シノは鼻で笑い、ホワイトボード代わりの窓ガラスをペンでカンカンと叩いた。
「時間がないのよ。……あんたが昨日言った通り、あと一ヶ月で『世界が終わる』なら、私はあと26日で特効薬の基礎理論と、ウイルスの変異プロセスを解明しなきゃならない。寝てる暇なんて一秒もないわ」
彼女の声には、単なる研究者の探求心や焦りを超えた、悲痛な響きがあった。
その言葉は、まるで自分自身に呪いをかけるかのように重く、そして切実だった。
私は床に散らばるレポート用紙の一枚を拾い上げた。
そこには、緻密な筆跡で『感染初期における神経伝達物質の阻害』『大脳辺縁系への強制介入と自我の崩壊』といった文字列が並んでいる。
さらには、ウイルスの変異予測シミュレーションとして、感染者の肉体が壊死と再生を繰り返しながら「怪物化」していく過程まで図解されていた。
……驚いた。
彼女の予測は、私が1周目の世界で実際にこの目で見た「ゾンビ」の特徴と、恐ろしいほど正確に一致している。
まだ実物を見てすらいないのに、彼女は理論だけで真実にたどり着いているのだ。
「……すごいわね。本物のウイルスを見る前から、机上の計算だけでここまで予測できてるなんて」
私が純粋な感嘆を漏らすと、シノはふんと自慢げに胸を張った。
「当たり前でしょ。私は天才なんだから。この程度の予測、私の頭脳ならパズルみたいなものよ」
しかし、すぐにその表情は暗く陰り、自嘲的な笑みに変わった。
「……でも、この国の偉いさんたちには、私のパズルの凄さが理解できなかったみたいだけどね」
彼女は実験台に寄りかかり、窓の外の曇った空を、遠い目で見つめた。
「私、半年前まで国立感染症研究所のエースだったの。そこで国のスパコンを回してシミュレーションしたのよ。近いうちに、既存の抗ウイルス薬やワクチンが一切効かない『未知のパンデミック』が起きる。それは人類の歴史を終わらせるレベルの厄災になるって」
彼女の指が、白衣の裾を強く握りしめる。
「詳細なデータをつけて、厚生労働省と内閣府に報告書を出したわ。無駄な公共事業の予算を削ってでも、今すぐ新型ワクチンの開発ラインを作り、全国の病院に隔離病棟を増設すべきだって。手遅れになる前に手を打つべきだって」
「……それで?」
「返ってきたのは、嘲笑と冷笑だけよ」
シノは吐き捨てるように言った。
「『ハリウッド映画の見すぎだ』『君の妄想ゲームに付き合う予算はない』『恐怖を煽って予算を獲得しようとするな』……散々な言われようだったわ。私の警告は、政治的なノイズとして処理されて、シュレッダーにかけられた」
彼女の瞳に、暗い炎が宿る。
それは、誰にも理解されなかった孤独な天才の怒りだ。
「悔しかったわ。私の理論は完璧なのに。あいつらの目が節穴で、目先の利益と保身しか考えていないせいで、未来の死者数が万単位で増えていくのが目に見えていたから。……このままじゃ、世界は本当に終わるって分かっていたから」
彼女は唇を噛み締めた。血が滲むほど強く。
「だから、私は研究所の備品を横流しして、闇サイトで違法なドラッグの合成や劇薬の調合を引き受けて資金を集めた。法を犯してでも、倫理規定を無視してでも、独力で研究を続けるしかなかったの」
「その結果が、研究費横領での懲戒免職と、学会からの永久追放?」
「ええ。おまけに業界じゃ『マッドサイエンティスト』の称号付きよ。逮捕状が出なかっただけマシかしらね」
シノはケラケラと笑った。
怒りも悲しみも通り越した、乾いた、空虚な笑い声だった。
「世界中が私を『狂人』だと指差したわ。……ねえ、オーナー。世界を救おうと必死にもがく人間が狂っていて、滅びゆく世界で利権にしがみついて見て見ぬ振りをする人間が正気なら、この世界の『正しさ』って一体何なのかしらね?」
彼女の問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
私もまた、1周目の世界で同じような絶望を味わったからだ。
迫りくる破滅を誰も信じず、日常という名の正常性バイアスにしがみついて死んでいった人々。
彼女は、タイムリープという魔法を使わずに、純粋な知性だけでその絶望の淵に立っていたのだ。
彼女もまた、この世界からはじき出された「はぐれ者」。
正しすぎたが故に、世界から拒絶され、狂うしかなかった不遇の天才だ。
「……私は、あなたのその『狂気』を買ったのよ」
私は彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、はっきりと言った。
「常識人の作ったお行儀のいいワクチンじゃ、これから来る地獄は救えない。毒を以て毒を制す。……狂った世界を生き抜くには、あなたみたいな『狂った毒薬師』がどうしても必要なの」
シノは少し驚いたように目を見開き、それから口の端をニヤリと吊り上げた。
それは、初めて見せる素直な笑顔だったかもしれない。
「……本当に口が上手いわね、オーナー。私みたいなひねくれた女を落とすには、最高の殺し文句だわ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
その時だった。
――グゥゥゥゥルルルル……。
シノの腹から、怪獣の唸り声のような、全く可愛げのない音が盛大に鳴り響いた。
せっかくのシリアスでエモーショナルな空気が、一瞬にして霧散する。
「……あー、思考にブドウ糖使いすぎたわね。低血糖で手が震えてきたわ」
「何か食べる? って言っても、まだ朝ごはん作ってないけど」
「いいえ、固形物を消化するエネルギーすら惜しいわ。私の特製ドリンクがあるから」
シノは白衣のポケットから、ドス紫色の粘着質な液体が入ったビーカーを取り出した。
フタを開けた瞬間、ツンとした刺激臭が漂う。
「カフェイン、ブドウ糖、タウリン、必須アミノ酸、あと微量のニコチンと神経を叩き起こすカプサイシンを合成した完全栄養食よ。味はゴムタイヤと雑巾の絞り汁を煮込んで砂糖をぶちまけたような味がするけど、これ一杯で3日は不眠不休で戦えるわ。……オーナーも飲む?」
「……絶対に飲みたくないわね。臭いだけで寿命が縮みそうよ」
私は露骨に顔をしかめた。
こんなものを常飲していたら、世界を救う前に彼女の内臓が死んでしまう。
やはり、まともな食事が急務だ。この拠点の「食」のレベルを上げなければ、私たちの未来はない。
私はシノを連れて、厨房の隣にある、元食堂だった広い「ホール」へと向かった。
そこには、すでに二人の男が死体のように転がっていた。
「……オーナー。俺の筋肉が分解されていく音が聞こえる……。プロテイン……鶏肉……」
長机に突っ伏しているのは、巨漢のゲンタだ。
彼の顔色は土気色で、自慢の筋肉もどこか張りがないように見える。
「ゲンタ、静かにしろ。……カロリーの無駄だ。俺はさっきからブラックコーヒーで胃を誤魔化してるが、そろそろ限界だ。指先が震えて、照準がブレる……」
向かいの席では、蒼が虚ろな目で愛銃のメンテナンスをしていた。
手元には大量の空き缶コーヒーが転がっている。
昨晩のカップ麺と乾パンだけでは、この屈強な男たちの基礎代謝を支えきれないのだ。
インフラは整った。ラボもできた。
しかし、肝心の「燃料」が圧倒的に足りていない。
私はパンパンと手を叩いて、彼らを奮い立たせた。
「よし、全員着替えて。……狩りに行くわよ」
「狩り? 鹿か? 猪か? なんでもいい、肉を食わせろ……!」
ゲンタがゾンビのように立ち上がる。
「いいえ。……もっと美味しくて、毎日新鮮な野菜を作ってくれる『神様』を捕獲しに行くの」
私はゲンタと蒼、そして白衣を翻して出てきたシノを見回した。
要塞建築士、天才スナイパー、毒薬師。
戦闘と防衛、そして医療の最強の布陣は揃っている。あとは「食」だけだ。
私は窓の外、キャンプ場のさらに奥に広がる深い森を指差した。
「場所はキャンプ場裏の森の奥……かつてこの施設の『体験農園』として使われていた、今は蔦に覆われた『開かずの温室』よ。相手はちょっと『様子がおかしい』かもしれないから、気をつけてね」
こうして私たちは、空腹という最大のデバフを抱えたまま、農業担当を求めて、不気味な静寂に包まれた森へと足を踏み出そうとした。
――この直後、空腹と徒歩移動の限界に気づき、方針転換を余儀なくされるとも知らずに。




