karte 1 : 院長と副院長の距離
穏やかな青い海、波の音と潮風が通る道。僕らの毎日がここにある——。
「あっあっ、いっつぅーーっっ!!」
処置室から大きな声がして、看護師ユリちゃんは急いで向かった。
「ああ!院長大丈夫です!? ちょっと待っててくださいって言ったのにー!」
「いやいや、ごめんごめん。コンちゃんはいつも大人しいから、一人でも保定出来るかなと油断して…、ほら、ユリちゃんも忙しそうだし…」
腕をガーゼで抑えながら言った。
「私の仕事なので、そんなこと気にしないでください!先生が怪我した方がこちらの仕事は増えますから!」
そう言いながら、テキパキと黒猫のコンちゃんをゲージに戻し、消毒液を用意している。
「はい、先生手出してください。消毒しましょう」
おずおずと手を出そうとすると、ガラリとドアが空いた。副院長が顔をだした。
「…大きな声出して、どうしたんですか?… 今、受付に人が足りないからお願いしたいんですが…」
「院長が猫ちゃんに引っ掻かれて血が出て…、ああ!そうでした!お待たせしてる飼い主さんがぁ!」
「そしたら、院長は僕に任せて、飼い主さんの対応を…」
「はい、お願いします!」
ユリちゃんは手にしていたピンセットを忙しく副院長に手渡し、急いで受付へ走って行った。
「…いやいや面目ない…」
院長はバツの悪そうに笑っている。
「…ほんとにもう、先生は…っ」
副院長はちょっとムッとした顔をしながら院長の手を取って、ムッとした顔とは裏腹に優しく処置した。
◇——ここはとある海の街にある「あおぎり動物病院」。
兄弟で開業し、かかりつけ医として地域の動物医療を担っている。
院長の兄「梧颯真」は包容力のある優しい人柄で親しみやすく、相談しやすいと飼い主達にも慕われている。
副院長の弟「梧碧玖」口数は多くないが何事も真面目に丁寧に対応し、動物への優しい対応が飼い主達に信頼されている。
二人ともそれぞれの個性を持ち寄りバランスのとれた仕事をしている。
そんな彼らには秘密があった。
二人はなんと、義兄弟であり『夫夫』であった!——◇
「…ごめんよ、碧玖」
「…危うくユリさんに先生の手を握られるところでしたっ!」
「あ、そこかぁ!ククク…」
院長はデレデレ笑った。
「何喜んでるんですか! 当たり前です!ボクの先生なんですからっ」
そう言って、碧玖はマスクを下ろして院長の唇に軽くキスをした。
◇——そんな二人の、仲睦まじい愛の軌跡、開幕す!——◇
*****
パチンッ、パチンッ、パチンッ…
休日、朝食の後ののんびりとした空気の中僕は手の爪を切っていた。
「…先生、爪切ってるんですか?…」
「…?うん、仕事柄も短くしておかないとねぇ?でしょ?碧玖だって」
「…先生は深爪しそうなくらい短くしますよね。…なんか、エッチです」
「ちょっ、ちょっ、急に何を言ってるの!?」
「昨日の夜、チョット伸びてるなと思ったので…」
碧玖は含みを持った色気のある目付きで僕を見た。
「んー、そうだね、キミを傷付けるワケにはいかないからね…。…ねぇ、でもさ、キミの方がエッチだよね?爪切ってるだけだよ僕は。ふふふっ」
「…!んーーっ、ボクはそんなことないです!」
碧玖は恥ずかしそうに顔を赤らめ、ちょっと拗ねた表情になった。何度見ても可愛いと思ってしまう。
優しく頬を撫でて、キスをする。まだ少しご機嫌ナナメな表情だけれど、くるりと丸い目を向ける。もう一度唇を重ねれば、満足気にいつもどうりの控え目な笑みを浮かべた。
そう、碧玖は昔から僕の中で可愛い存在だ。
*****
僕たちが出逢ったのはお見合いだった。
まだ僕が獣医を目指す大学生で、碧玖は高校生だった。20歳と16歳、こんな若さで男同士のお見合いなんてどうかしているとしか思えなかった。
僕の親も碧玖の親も、息子がゲイだったことが分かり混乱し、どうすれば良いのかも分からず手を尽くした中で、LGBTQについての勉強会に通うようになった。
そこで母親同士意気投合し、信頼出来る素性の相手と、親の目の届く中でお付き合いするのなら安心出来るという身勝手な理由でお見合いに至った。
普通ならこんな親の敷いたレールになんか乗る気もさらさらなかったのに。
……そう思ったのに、お見合い写真に映るキミは僕の特別だった。
お見合い当日、お見合いらしくお堅い料亭で、お互いの両親と共に顔合わせとなった。
慣れない袴姿で現れたキミは、185cmある僕を超える高身長で、顔は小さくモデルのようなスタイルだった。
柔らかそうで艶のある茶色の髪に透けるような白い肌、誰が見ても整っている綺麗な顔立ちの美少年だった。その中でも目を奪われたのは、透明で凛とした真っ直ぐな瞳だった。
僕には一瞥もくれず、母親同士の今更な挨拶も耳に入れている風も無かった。僕はその間、キミの瞳に映らないように、時々こっそりと目を向けていた。
会席料理の味も分からないまま食事が終わると、僕たちは急に「では、若いもの同士で…」なんて言う前時代然とした言葉と共に二人だけの時間を渡された。
僕は内心緊張から落ち着かなかったが、年上として口を開いた。
「碧玖くん、変なことになっちゃってごめんね…、碧玖くんも母親には逆らえず来てみたのかな…?俺はさあ——」
碧玖は遮るように話し出した。
「ボク、梧さん…、颯真さんだから逢いに来たんです!…あの、ボク、颯真さんのこと前から知ってるんです」
情熱の籠った、曇りのない瞳だった。
「ボク、ずっとバレーボールやってるんです。それで、まだ小学生の頃にテレビでバレーボール強豪校の特集をやってて、そこで颯真さんを見たんです」
言われてみれば、何度かテレビの取材が来たことがあった。
「うわ!よくそんな前の覚えてたね。それに俺花形スパイカーとかじゃなくてセッターだよ?誰かと間違えてない!? 」
「間違えるわけありません。ずっと颯真さんを追っていたんですから」
そう言って碧玖は古い雑誌を持ち出し、僕が写っている記事を見せてくれた。僕の試合も見に来てくれたことがあったとも楽しそうに話してくれた。
「ボクの憧れだったんです。チームの司令塔としての颯真さんも、ムードメーカーの颯真さんも、いつも周りの人のために何が出来るかを考えて実行する人だなと思って、素敵だと思ったんです。勿論…、爽やかでかっこいいなって。だから今回名前を聞いた時に嬉しくて…」
碧玖はそこまで言い切ると、自分の熱に急に恥ずかしくなったようにうつむいた。目に掛かる黒く長い睫毛が美しかった。
「え、あ、そんなこともあるんだ…。碧玖くんは、憧れと恋愛、同じ線上に並べてしまってそれでいいの?俺とそういうこともするってことだよ?」
こんな真っ直ぐで可愛い少年に何を言うのかとも思ったけれど、お見合いをして、お付き合いをして、その先には身体の関係は必ずある。
それに僕だって、ずっと聖人でいられるわけも無い。こんな好みの子を前に、ずっと我慢を決め込むなんて出来るわけが無い。僕は立派な成人男性なわけだし!しっかり現実も話しておかないと。
もう一歩踏み込んでみた。
「俺はリバはちょっと、される方は無理だから…意味わかるかな?」
「わかります。ボク、どちらでもいいです」
即答だった。どんな形であれ、心はもう決めて来ていたのかもしれない。
将来的に僕の親の籍に入ってもらうことも一つ返事だった。
「ボクにはもう、あの家に帰るところはありませんから。その方がいいです」
碧玖は家族にゲイであることをカミングアウトしたことで、兄弟と溝が生まれてしまい、自分が家にいるべきでは無いと判断していた。そのことがあり、地元から遠く離れた高校で寮生活を送っていた。
彼の心は逢う前から決まっていた。碧玖は僕を選んだ。
この重い決断をこの時僕はそこまでしっかり理解出来ていなかったかもしれない。
下心もあってここにやってきていた僕は、少年の一途で熱い眼差しに少しいい気分になっていた。それを見透かしたように、碧玖は厳しくピシャっと釘を刺すように言葉を投げた。
「…けど浮気は嫌です。それだけは許せないんで」
芯のある強い言葉に、僕は少々怯んだ。
そう、ゲイ界隈ではケツの軽い奴が時々いる。碧玖はまっさらで純粋であっても、そういう大人な現実なんていう部分を、しっかりと知っているのが分かった。
——まぁ、ケツが軽いも何も、俺は絶対にケツは無理なのだが…、いや、そういう話しではなくて…くく…——
「…あの、ちゃんと聞いてますか?そこは約束してください」
僕は顔を引きしめ「もちろん!」とクールに返した。碧玖は少し鼻で笑ったような気もした。
こうして僕たちの婚約は成立した。
ここから若い男同士がお付き合いしたらどうなっていくのか、想像に容易いと思われるが、残念なことにここから僕たちの間には長い期間、遠距離恋愛という壁が立ちはだかるのだった——。
*****
「…?、先生、何か考え事ですか?」
碧玖が僕の顔を覗いた。
「ああ、うん。碧玖と初めて会った時のことを思い出してた」
ソファーに深く座り、窓の外の遠い空を見ながら応えた。
「もう10年以上前かぁ…。袴姿で初々しくて可愛かったな〜…」
「!! 今のボクは違うってことですか?」
「過去の自分に妬いてるの?」
「…そういうことではないですけど…!」
碧玖はまた可愛い顔をした。僕は何度だってこの顔を見たくなってしまうんだ。
「…おいで、碧玖」
そう言って碧玖を膝の上に乗せ、そっと後ろから抱きしめた。
碧玖があの時僕を選んで託してくれたこの時間は、一秒たりとも無駄にしたくない。
「碧玖さん、今も変わらず可愛いですよ…」
「…もう30も近いのにですか?」
「うんうん、幾つになっても、ずっと僕の年下の可愛い恋人ですよ…。あ、でも、あの時、碧玖さんの袴の下に手を伸ばしておけばよかったなぁー、ふふふ」
ちょっとわざとらしく、碧玖の太ももから腰骨に手を這わせた。
「無垢だったボクへの冒涜はやめてください」
そう言って、僕に優しい肘鉄をかました。
屈託なく笑う碧玖の顔に僕の幸せが詰まっていると思った。
僕たちは身体を絡ませ合いながらソファーに倒れ込む。太陽の光が碧玖の金色の髪を透かしてキラキラと眩しい。
ソファーの端から迷惑そうにうちの猫が下りて行った。
「…あっ…んっんっ…!…先生、まだ昼前ですよ…」
「うん、知ってる。…碧玖はこのまま僕が始めると思ってるの…?エッチだなぁ…」
「…!!ボ、ボクはそんなこと思ってません…」
また僕が大好きな碧玖の可愛い顔が見れて満足だった。
そっと唇から舌を差し込むと、碧玖は応えるように僕の舌に熱い舌を絡めた。
このソファーから、キミと見上げる空はもう数え切れないけれど、キミとなら何度だって僕の目には愛しく映る。
明日の空も、キミと予約しておこう——。
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【番外編/碧玖サイド①』憧れだった人 へ つづく




