夢よりも長い夜
還暦の恋を書いてみます。
——こういうのを、たぶん運命って呼ぶのだろう。
あの夜、わたしは久しぶりにひとりで旅に出ていた。夫の仕事も落ち着き、子どもたちもそれぞれ自立し、母の四十九日を終えたちょうどその日だった。
ホテルは老舗の観光地にある格式ある洋館で、和室付きのスイートルームに通された。女将が恐縮するほどの丁寧な案内に、思わず微笑んでしまった。「上等な女将芝居を受け止められる女に、私はなれたのだろうか」と、そんなことを思った。
浴衣に着替え、髪を軽く結い上げたまま、ひとりバーに向かったのは午後八時を過ぎたころだった。少しの酔いと、ほんの少しの寂しさが、背中を押した。
そこに、彼がいた。
カウンターでウイスキーを傾けていた男——スーツ姿の若いその青年は、ふとわたしの視線を捉えると、驚くほど自然に隣の席をすすめてきた。
「よかったら、ご一緒しても?」
最初は店のスタッフか何かかと思った。けれど彼の言葉遣いには、どこか洗練された遊びの匂いがあった。わたしは微笑みながら頷き、ひとつ隣の席に腰を下ろした。
名前は川島慎也——大学四年生で、家は代々不動産業を営んでいるらしい。驚くほど流暢に会話を進めながら、彼はあたりまえのようにわたしを褒める。
「着物、素敵ですね。和服が似合う人って、今はもうほとんど見かけない」 「いまどきの大学生が、そんなことを言うの?」 「いまどきの、じゃないから。ちょっと古い人間なんです」
そのやりとりの滑らかさに、わたしは戸惑いながらも惹かれていった。肌にしっとりと馴染む着物の感触。耳元に触れる彼の声。グラスの中で揺れる氷の音さえ、夜の深まりとともに甘くなっていく。
「部屋、戻りますか?」
そう囁かれたとき、心はすでに「はい」と言っていた。頷いたのはわたしの首であり、体であって、理性ではなかった。
——女であることを、こんなふうに思い出すなんて。
彼の部屋は、わたしの部屋の階下だった。扉が閉まった瞬間から、彼の指先がわたしの髪に、襟元に、そして背に触れる。
「ずっと見てました、あなたのこと」
そんな嘘を、どうしてこんなに信じたくなるのだろう。きっと、信じたかったのだと思う。女として抱かれることが、もう一度、わたしに許されているのだと。
長い夜だった。 肌と肌が触れるたびに、何かが剥がれていくようだった。 羞恥も、戸惑いも、そして、品格までも——
「こんなに綺麗な人が、なぜ独りなんですか」
そう言われて、涙が出そうになった。
わたしは、誰の女にもなっていなかった。 夫の妻であり、子の母であり、社会の顔役でありながら、ただ一度も「誰かの女」であったことはなかったのだ。
そして翌朝。
彼は何も言わずに、コーヒーを淹れてくれた。 わたしは着物を整えながら、鏡の前でそっと紅を差した。
「また、来てもいいかしら」
そう訊く声は、自分のものではないようだった。
彼は静かに頷いた。 それがすべてだった。
それから、月に一度。 わたしは彼に会うために、理由をつけて旅に出る。
——女に戻るために。
初投稿です。