義理の妹が帰ってくる ~九重美海編~
※挿絵が含まれます。
父さんが離婚してから1年近くが経とうとしている。
俺が父さんと一緒に暮らしていたのは、1年程前まで。
今では一人暮らし状態。父は自分探しの旅に出るとかなんとか言って、海外へ出たっきりだ。
半年前まではオーストラリアにいたみたいだけど、二カ月前にはカナダにいると言っていた。偶に連絡をよこすにはよこすが、どこで何をやっているのやら。
あの自由な父さんには何を言ったところで、馬の耳に念仏。俺の頼みを聞いてくれたことなどない。
もうすぐ高校生活が終わるというこのおっくうな夏、家族の支え無しに受験勉強に励む毎日。
そんな日常に慣れてきたある日、俺の下に彼女は”帰ってきた”――。
週末に久しくしてなかった家の掃除をしていたお昼頃。とりあえず家の一階の掃除を一通り終え、よし、と一息ついた時だった。
――ピンポーン。
軽快に家のチャイムが鳴った。
何かアマゾネスでも頼んでたっけ? ……いや――してないな。
ネットショップを覗くことはあるけれど、あまり父さんのお金を使いたくないので、下手に購入することはない。しかし、父さんと俺の共通趣味であるマンガにおいては例外で、偶に買うことはあった。ただ、今は特に買っていないので、配達ではないだろう。
宗教の勧誘とかだったら面倒だな……。
俺は一瞬、ドアホンの画面を見ようとしたが、最近壊れて見れなくなったのを思い出す。
そういや壊れてたんだっけか。後で修理……こういうのってどうやって修理すんだろ。……まあいいや。
――ピンポーン
そんな折、再びチャイムが鳴って家の中に音が響く。
まあ、出るか……。ばあちゃんかもしれないし……。
少し面倒ではあるものの、肩を落としながら玄関へと向かう。
途中またチャイムが聞こえ、俺は外の人に「はーい」と適当な返答を送った。
鍵を回し、扉を開けた。
外の眩い光が室内へと入ってくる。今日はかなりの晴天のようだった。
そんな晴れ晴れとした陽を背に玄関前に誰か一人立っていた。茶髪をツインテールにした学生服姿の女の子だった。
周囲を見渡しても、彼女以外誰もいない。
疑問符が生じる。何故この暑い夏の週末に、夏の学生服を着た女子高生が俺の家の前にいるのだろうか。
一瞬、近所の女の子かと思ったが、この子と彼女は別人だ。おしとやかな面では似ているが、こちらは少々緊張が勝り目が合わない。ずっと下を向いていた。
怪訝に思いながら、「はい……」と人見知りしながら訊ねる。すると少女は、おずおずと話し始めた。
「あ、あの……ひ、ひさしぶり……お、おに……」
「おに?」
――いや、俺はこの子を知っている。
見たことがある、というか話したことさえある……。
けれど、それはきっとすごく昔で、本当に朧げでしかない。なんとなく小さい頃に会ったことのある、記憶の端にいる面影がちらついた。
思い出せそうで思い出せない。たぶん小学生かそれよりもっと前。この彼女を纏う柔らかくて、今は少し違うが、”楽しそうな”雰囲気には覚えがある。
「お、おに…………――お兄ちゃん!!」
思い切って俺をそう呼ぶ彼女は、下を向きながら顔を羞恥に染めていた。
『お兄ちゃん』とは、俺にとって馴染みのある二人称だ。最近はその呼ばれ方をされなくなったので、淋しさすら感じていた。だから、そう呼ばれた瞬間、最近忘れていた感覚が戻ってきたような気がした。
しかし――
やっべ…………この子、誰だっけ……?
いや、会ったことはある、んだよ……。一緒に暮らした記憶もなんとなくある、気がする。だけど、まだ面と向かって見ていないからか、顔も名前も思い出せない。
俺は気まずいながらも、愛想笑いをしながら訊ねてみることにした。
「あ、えっと……だれ、だっけ……?」
残念そうに驚く彼女の表情を見て、罪悪感に胸を締め付けられる。
刹那、その顔がいつがしかの少女と重なった。
「もしかして……美海?」
「――うん!」
嬉しそうに花開いた無垢な表情に俺は安堵する。
あぶねえ……泣かれるかと思った……。
つか、え、なんで美海がここにいんの? もうずっと――ていうかめっちゃ大人になってる。だってこいつの最後の顔見たのなんて――
すると――少女は扉を支える俺に抱きついてきた。
「は!? えと、美海さん……!? なにしてるんでしょう、か……」
「なあにお兄ちゃん、敬語なんて使っちゃって!」
つい今しがたまであったはずの他人であるという壁が、名前を呼んだことで決壊したらしい。いきなり馴れ馴れしく、さも当然のように、海外の挨拶のようにハグをする奇行に遭った。
そこには過去の記憶にある昔のこの子の面影はなく、柔らかくもいい匂いがした。
歳の差も忘れてしまった、俺の義妹――。
いや、”元”義妹の美海。
俺が物心ついた頃から一緒にいた、二人目の母の連れ子がこの美海だ。4年ほど一緒に暮らしていたが、親の離婚によって俺たちはそれぞれの親について行くことになり、それっきりとなっていた。
まさか今更、美海と再会するとは思っていなかった。しかも、美海が会いに来るなんて……。
「ど、どうしたんだよ美海……。そっちでなにかあったのか?」
「家出してきた!」
そ、即答……。
え、なんで? ていうか、なんで……めちゃくちゃ、もう10年近く会ってなかったのにこんなに距離近いんだ?
い、いや、俺の方がおかしいのか。一応俺、兄貴だったんだし。確かに長いこと会ってなかったけども……今の答えだけでかなりの問題を抱えていそうだ。仕方ない。少し話だけでも聞いてやるか、昔の兄として。
……て言っても、外は暑い。中に入れるかあ。
「まあ話聞くから、嫌じゃなかったら上がっていくか?」
「うん!」
屈託のない笑みで返答する元妹を、俺は一抹の不安を抱きながら家の中へと上げた。
義妹だったからノーカンだよな……?
他人の異性を家に入れるという人生初の経験に直面し、俺は緊張せずにはいられなかった。
◇◇◇
リビングに通すと、美海は小首を傾げた。
「あんまり物がないんだね」
掃除をしていたため、テーブルや座椅子などは別室に置いてある。おかげでテレビと絨毯とソファしかない物悲しいリビングとなっていた。
「掃除してたからよけてあるんだ。まあ座ってろよ」
そう言って、リビングの手前すぐ左にある台所へと足を向ける。それを美海は、無言で後ろを追いかけてきた。
「お、お茶出してやるから待ってろって」
「え、あ……う、うん……」
どこか恥ずかしそうに顔を赤らめながら踵を返す。
な、なんなんだ……? 家出してきたって言ってたけど、不安とかがあるってことなのか? 家出したことねーから分からないけど……つーか、マジでどう対応したらいいんだろ。
……まあ、そのうち誰か来るか、帰るだろ。
確か美海の母親は、どっかの大手の社長なんだよな。美海と暮らしていたあの頃は、不自由なく我儘させて貰った覚えがあるけど。親が離婚してから直ぐは父さんも忙しくなって、俺はばあちゃん家にいるのが日常的になったんだっけ。
盆に麦茶の入ったガラスコップを二つ乗せて戻ると、美海はソファの上で固く座っていた。
俺はその手前の絨毯の上に腰を下ろし、コップを一つ掲げた。
美海は慌ててソファから降り、正座してコップを受け取る。
俺に合わせたんだろうけど、気にしなくていいのに。
そう思いつつ、俺は一口麦茶に口を付ける。
にしても、成長したな……。まあ最後に見たのなんて、こいつが4歳か5歳くらいだもんな。まさかこんなに可愛くなってまた会えるなんて思わなかった。さっきまで忘れてたくらいだし、マジで別人。でも、確かに可愛くなりそうだったかもな……。
身長も全然違う。てか肌白……よくあの炎天下でやけなかったな。いい日焼け止め使ってんだろうな。まだあどけなさ残るところは面影あるけど、胸もまあまあというか、結構出てるし……。Cは余裕で、D……いやE、じゃなくてF? じ――
っておい、まだ俺思春期なのか!? 見てるってバレたら兄の威厳が損なわれるぞ!!
「おほん!」
それよりもまず会話だ。ブランクデカすぎてどうコミニケーションとればいいか距離感分からなくなってるけど……。
「よ、よくこの家がわかったな。あれから何度か引っ越してんのに」
「それはね、御坂さんに教えて貰ったの」
「御坂さん? 誰だその人?」
「美海のお世話係だよ。なんでも教えてくれるの」
お世話係ってなに……。まあ金持ちだからな、いてもおかしくないか。
じゃあその御坂って人が俺たちの家を調べてくれたってことなんだろう。お世話係の無駄遣いだとは思うが、どうやって調べたんだろ。すごいな。
「でも、なんでここなんだ? 友達とかいるだろ」
「えっと……最初は友達の家にいたんだけど、その……追い出されちゃいました……にへへ」
「なんで照れてんだよ……」
「お兄ちゃんはもう高校生三年生でしょ? 美海も今年高校生になったんだ!」
「まあその恰好を見ればな」
「どう? 似合う?」
そう言って、美海はスカートをひらひらと見せびらかす。
元より丈が膝上の短いスカートを自ら靡かせたら、見えてしまうものもあり――
俺は赤面しながらも咄嗟に壁際に飾られている時計の方を見る。
めっちゃ見えた……パンツ……つかなんかクマっぽいのも見えたんだが。そっちは子供のまんまか!
って――なに元義妹のパンツにツッコミ入れてんだ俺……。
動揺していると、美海はスカートをたくしあげたまま小首を傾げていた。
「どうしたの?」
「っ――おい! パンツ見えてんだよ、スカートたくしあげるな!!」
「あ、ごめん……」
思わず説教してしまった……! なに言わせんだよ。思わずパンツ指差しちまったじゃねえか! てか、なんで俺の方が恥ずかしがってんだよっ!!
出し抜けに思い出したかのようにして、美海が無機質な表情で呟く。
「あ……エッチ」
「……なんで遅れて言うんだ!? ていうか、今のはお前の方が”それ”だろうがよ!」
「だって、御坂さんにそう言えって言われてたの忘れてたんだもん……」
不貞腐れた美海は子供の様に唇を尖らせて言い訳を述べる。
なんだその人。俺が襲うとでも思ってたのか!?
「……で、なんで家出なんてしたんだよ……!!」
「お母さんもうずっと家にいないんだもん。一人じゃ寂しいし……今ならバレないと思って!」
……――あっっっさ!
どちゃくそ理由が浅すぎる……!
なんだ? 今時の奴は寂しい、バレない、よし家出しよう! っていう軽いノリを強行できちまうもんなのか!?
美海……お前、俺が見ないうちにそんな悪いことを覚えちまったのか。……まあ、別にいいけども。
「……じゃあまあ、暗くなる前に送ってってやるから、準備しとけな」
「ちょっと待ってお兄ちゃん。美海はこれからずっとここに住むから帰らないよ!!」
「はあ? んなことできるわけ――ていうか、ここには着替えもなんもないから無理だろ。それにお前の言う御坂さんってのもきっと心配してだな……」
「それなら大丈夫だよ!」
「へ?」
口をへの字にした頃、また家のチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
すると美海は楽しげな笑みを浮かべて立ち上がり、「来た来た」と零しながら玄関へ向かう。
いそいそしい美海を他所に俺は一人剣呑な空気を感じ取っていた。
今度はなにが来るって……?
美海は玄関の扉を押し開けた。
外には暑そうな日差しの下にも関わらず、黒執事の装いをした女性が立っていた。汗一つかかず、涼し気な顔をしているのがまた怪しく固唾を呑む。
閑静な住宅街に執事服。なんともシュールな絵面だ。道歩くおばさんたちから異様な視線を感じる。
けれど、この黒執事――黒髪ボブの綺麗な顔をした女性は気にしていない。無感情に美海にシルバーのスーツケースを渡していた。
「お待たせ致しました美海お嬢様」
「うん、待ってたよー」
20代前半くらい? 30は絶対いってないと思うが、凛々しい佇まいで頭もキレそうだ。お世話係然としている。女にモテそうな女だ。
「おや」
美海の後ろで唖然していた俺に気づく。すると形式ばったらしい振る舞いで、お辞儀と共に挨拶を受けた。
「お初にお目にかかります水無瀬繋様。わたくし、美海お嬢様の世話係をさせて頂いています――御坂と申します。兼ねてよりお嬢様から伺っておりました。聞いていた通り……ぷすっ、オカッコイイ……ですね」
なぜか半笑いされる。それを誤魔化すように平坦な笑みを浮かべながらに棒読みする言は、まったく本音ではない。
なんかムカつく言い方された!?
わかってるよ、自分が冴えない顔ってことくらい。だあからって笑うことはねーだろ! バカにしてんのか!?
「それではお嬢様、わたくしはこれにて失礼します。なにかあれば、そこにいる兄もどきを――失礼、”お兄ちゃん”に申し付けください」
「うん!」
「うん、じゃねえよ! おい! 俺のことが気に入らねえんならはっきりそう言えよ! なんか勝手に小馬鹿にしてるけどな、俺はあんたにバカにされるようなことなんてなにもしてねーからな!」
「――パンツ」
「へ!?」
「胸を凝視」
「し、してませんよ……!?」
「久しぶりに会った妹、それはもう他人と呼べてしまうでしょう。異性として意識してしまうのも分かりますが、節度ある兄妹関係を切に願っております」
美海にギリギリ見えず、俺にだけ見える程度に御坂は不敵に微笑んだ。俺はそれを、警告という意味の孕んだ、嘲笑に思えた。
こ、この人……さっきまでどこかで見てたな!?
庭か!? それとも事前に侵入してどこかに監視カメラを置いてたのか!?
か、監視されてやがる……。って、なに勝手にやってんだ!?
「お嬢様、下着を入れておきましたのでどこかの誰かに盗まれぬようお願いします」
ふっ、誰が盗むかよあんな子供みたいな下着。あんなの、昔盗もうが今盗もうが変わらねえじゃねえか。
「一応ブランド品ですので」
「え、あのクマってブランド品なのか!?」
「――あ……」
つい独白してしまい、御坂はしめしめと「やはり」と零す。
「ち、ちげーよ! み、見えちまっただけで、俺がめくったりしたわけじゃないからな!?」
「そうですか、つまりむっつりスケベということですね。お母様には大きくなっておられました、と報告させて頂きます」
してやり顔でニヤつく御坂さん。
なんなんだこの人、めっちゃムカつく!!
◇◇◇
御坂さんが帰り、再び美海と二人きりとなった。
あの人のせいで恥をかいただけでなく、美海がここに泊まる――本人曰く住むことになってしまったのだが。なんか勝手に決められたし。
とはいえ、問題は他にもあるわけで。同じ高校生だけど、俺と美海は今や他人。同じ屋根の下で一緒に住む、なんてことがまかり通っているのが疑問だ。
御坂さんは美海の言う事を聞いただけ。あの人にはなんの決定権もなく、保護者の同意があるわけじゃない。
それに美海の母親にとっては、俺は元夫の息子。離婚した経緯の詳細を知っているわけじゃないが、良くは思っていないんじゃないだろうか。
そう頭を悩ませていたところ、不安気な視線に気がついた。美海が隣で眉尻を下げて見つめてきていた。
「お兄ちゃん……わたし、迷惑?」
まるで靴下を履いた猫が窮地に陥った時に敢行する命乞い。捨てないで、とでも言われているかのようなかよわい姿が目に飛び込んでくる。それもクラスの中、いや学校中探しても比肩する人を見つけるのは難しいほど顔のパーツが整っている。更には、この服の上からでも分かる豊満な胸がある。古い言い方かもしれないが、間違いなく人生において隙間なく学校のマドンナを務めてきた優女だろう。
そんな彼女の言葉に、俺は肯定することができなかった。
「そ、そんなわけないだろ! 久しぶりに会えたことも、まだ俺のことを覚えててくれたのも嬉しいよ」
「忘れるわけないもん! お兄ちゃん言ったよね、わたしのことお嫁さんにしてくれるって!」
――恥っっっず……っ!!
そんな昔の話まだ覚えてたのかよ!? いや、俺も覚えてたよ? さっき思い出したけど、流石に美海は忘れてるだろうって! でも、面と向かって言われると恥ずかしすぎるだろっ!!
「そ、それは昔の話だろ。子供の頃の約束なんてその時だけのもん――」
美海は震えていた。目には涙が浮かび、今にも泣き出しそうである。
「わ、わたしのこと嫌いになったの……?」
「い、いや、だからだな……えっとー…………」
わー……なにこれ。泣かせちまうかもって思うと、何て返していいか分からなくなるんだが……!
「お、俺も驚いたんだよ、あの時まだまだ子供だったお前がこんなに綺麗で可愛くなっててさ!」
そりゃああの時の気持ちも嬉しいけど、お前も成長してきっと色んな人からアプローチされるだろうし。されてるだろうし。やっぱり決定権は美海にあるわけで、今頃ぽっと出の兄貴もどきが昔の約束を守れって言って結婚を強制させるわけにはいかないだろ」
なに言ってんだ俺――!!? 慌てすぎてめちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってないか!?
「まだわたしのこと――好き?」
上目遣いで儚い表情を見せる妹に、俺は否定を呈せなかった。
「あ、当たり前だろ!」
人としてだ。あくまで人として! 兄として! 兄妹の一線を超えるつもりはまったくない!
そう言うと、花が開くように美海の表情が明るくなる。屈託のない笑みで、飛びついてきた。
俺の体にすっぽり収まる美海の華奢な肢体が、しなだれかかってきた。
背中に伸びる両手でしっかり捕まれ、満足そうにする顔が俺の左肩近くにある。
「やったー! ニヒヒ!」
「お、おい!」
胸を押し出す柔らかい膨らみ。肌に触れる女の子の腕や吐息、匂いが一気に押し寄せる。
――な、なんなんだ――!!?
何俺、今日死ぬの? 今死んでんの!!? 柔らかいんですけど! 柔らかいんですけど!? こ、これが天国の感触? これが女の子の匂い!? めっちゃいい匂い!!
年齢イコール彼女いない歴である不詳わたくし。今迄妹はいても彼女無し童貞。高校三年生にもなりながら、部活せずバイトする日々を送る色気ない受験生。そんな俺にもようやく春が……!!
――落ち着けよ俺!!!
勘違いするな、美海は妹だ。春はもう過ぎてる、今は夏。春じゃなく春もどき! 結婚なんてできないし、ましてや彼女にすることだって不可能! とりたてて言い及ぶことのない冴えない男が、努力せずに女を得ようなどと笑止千万の所業! 現実を見るんだ、俺は彼氏ではなく――義兄である!
「み、美海!」
美海の肩を持ち上げる。すると、美海は目を丸くした。
「会えて嬉しいのは俺も同じだけど、急にされたら痛いだろ」
「あ、うん、ごめんね……」
うんうん、これが兄だ。流石は長年兄ムーブをしてきた俺だ。咄嗟でも冷静に対処できる。
「じゃあ優しくするね?」
「え?」
そう言って美海は再び、今度はゆっくりと抱きついてくる。まるで長い間離れていた愛犬のような行動である。
ペットと思えば、まあ……。
俺は、美海の頭を大事なものを扱うようにそっと撫でた。
――パシャリ。
ん?
パシャリ。
近くからシャッター音が聞こえる。
振り向くと、そこにはさっき帰ったはずの黒執事がいた。彼女はいつの間にか家の中へと入っており、無心にカメラのシャッターをきって俺と美海の抱き合う姿を写真に納めている。
パシャリ。パシャリ。
パシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ。
うっるせえ!!
「な、なにやってんだあんた!?」
「あれ、御坂さん?」
「お疲れ様ですお嬢様」
「お疲れ様です、じゃねえよ! どうやって入ったんだよ。鍵かけたぞ!? 不法侵入だぞ!!」
「落ち着いてください泥棒犬」
「わん……って誰が犬だ!!?」
「どうしたの?」
「お渡しするのを忘れたものがありまして、戻って参りました」
御坂さんはさも今直ぐに使うかのように、純白のバスタオルを美海に渡した。
「なんでタオル……」
「この家は元々あなたとあなたのお父様の二人暮しで、女性はいらっしゃらない。おそらく洗濯物もテキトウでしょう。お嬢様の肌に他人の、しかも男性が使用したおぶ……失礼――タオルを触れさせることはできませんので」
「いま汚物って言わなかったか?」
「お嬢様の洗濯は私にお任せ下さい。朝に取りに来ます。ですので、くすねたりすれば分かりますからね」
「す、するわけないだろ!? あんたの中で俺はどれだけ変態なんだよ……」
「例え実だろうと実でなかろうと、妹であったとしてもなかったとしても、年がら年中発情期の獣の如くナニをいれるのにも躊躇わないケダモノくらいには変態だと思っております」
「そんなことしねーよ!!?」
「愚鈍な……いえ、そのうどんのような怪獣一号に免じ、うどんな兄と呼ばせて頂きますが、到底知能の足りない猿――ホモサピエンス程度に警戒していますのであしからず」
「いやもう何言ってんのかわかんねえよ。あと、変なこと教えんなよな……」
「これはまた失敬しました。よもやうどんな兄に諭されるとは……」
「あんた、今なんつった!?」
この人もう俺を罵倒することに託けて、下ネタ言いたいだけのような気がしてきたんだが……。
「……だったらあんたの家に美海を泊めてやったらいいだろ。家出なら、別にうちじゃなくても……」
「やだ!」
愚痴を吐いて直ぐに美海からの拒絶が入る。離れない、という意思を表すかのように再び強くくっついてきた。
「お兄ちゃんと一緒にいるもん! お兄ちゃんと一緒がいいの!」
「……」
「……本当に残念ですが、これですので。それに、わたくしは暫く午後はお暇を頂くことになっています。偶に私以外の世話役が来ることもあると思いますが、その際にはわたくしは丸一日休んでいるものと思ってください」
「……わかったって言いたくない……」
もういないなんて思えないくらいの衝撃を味わったしな……。
「まあ、美海は俺の妹だしな。うちにいるのも普通だろ」
ってことにしておいてください……。
「いえ、今はあくまで他人ですので普通ではありません」
「……頭固いな……」
「ですから、妹と思い込んでなんでもしていいとは思わないことです。お嬢様は繊細なお方。なにかあればわたくしはお嬢様の――包丁にも日本刀にもなります。あなたを社会から抹消する策も用意していますので、お忘れなきように」
冷たい眼差しが降り注ぐ。
なんだよ包丁とか日本刀とかって、怖えぇ……。
俺は正直、彼女の脅しにひれ伏していただろう。余計なものを背負い込んでしまった、と一瞬思って忘れた。そう決めてしまっては、美海に悪いと思ったからだ。
◇◇◇
懐かしい昔話で夕食に花を添えた。
美海は、今も変わらず九重美海らしい。美海の母は離婚してから一度再婚したらしいが、その後また離婚したようだ。ゆえに、美海はまた母の旧姓に戻ったのだそうだ。あっちもあっちで色々とあったのだろう、と美海の話を聞きながら思った。
お腹いっぱいになっていい時間となった。
ただの訪問であれば、そろそろ帰るという流れになっただろう。だけど、美海は今日この家に泊まることになる。まずは寝床の準備をしなくてはならない。
御坂さんにできる限り綺麗なベッドで寝かせて欲しいと依頼された。丁度まだ開けていないシーツがあったし、使っていない毛布もあるからそれでいいだろう。
「俺は寝る準備してくるから、お前は風呂でも入ってろ。着替えは持ってきてるんだろ」
「うん!」
いちいち調子のいい返事は哄笑してしまいそうになる。すると直ぐに美海はもじもじとし始めた。なにか言いたそうだ。
「ん、なんだ? 言っておくけど、一緒には寝ないからな。御坂さんになんて言われるか分からないし……」
「ち、ちが…………」
「じゃあなんだよ?」
そういえば、今日まだ一度もトイレに行くところを見ていないな。場所が聞きづらいのか?
「トイレならそこの廊下の右にある扉だぞ」
「えっと……そう、なんだけどね……」
苦笑いしているが、どういう意味なのかさっぱりだ。
「なんなのかちゃんと言ってもらわないと分からないぞ」
「…………その、と……」
……トイレだろ?
「トイレに行きたいの!」
「うん。だから、廊下の――」
「違くて! トイレ………………ない……」
顔を赤く染めて強く否定したかと思えば、声量がだんだんと小さくなり、トイレ以外聞き取れなかった。
そこまで恥ずかしがることか? ……いやまあ、美海も女の子だ。表じゃ普通以上に距離が近く思えるけれど、それは無理矢理なだけで、本当は俺を異性として意識するところもあるだろう。
ここは妹の意志を汲んでやるのが、いい兄貴というものだろう。
「俺は……暫く二階に行ってるから、好きにしてろ」
ふっ、お前の元兄貴は、大人な対応のできる奴になったんだぜ。
「と、トイレ一人でできないの……」
「…………はい?」
固い笑みで振り返ると、美海は両手で耳まで赤くした顔を隠し、悶えるように縮こまっていた。
――え……マジに言ってんの?
「お、おい……なに言ってんだよ。そりゃあ昔はそうだったかもしれないけど、お前もう高校生だろ? 俺の2歳歳下で…………。冗談、だよな?」
首を振って答える。
……何故…………。
疑問に思って想起する。あの御坂さんの警告は、俺が美海の世話をするから、というのが前提にあったのかもしれないと。
言葉が出ない。じゃあこうしよう、という案が一切出ない。いや、あったとして、それが法律またはモラルに準ずるかという境界線が思考を惑わせている。
――俺にいったいどうしろと?
「い、いつもどうしてんだよ……?」
「御坂さんたちに脱がせてもらって、拭いてもらって……」
どこのお嬢様だよ!? なに、なんで? 世話する前に教える努力をしろよ!!
……え? なにこれ、なんですかこの状況……俺に今言ったことをしろと? 脱がせるまでは……まあセーフとしよう。セーフとしたとして、拭くってなに? ナニを拭けと!?
いいやおかしい…………落ち着けよ俺! 冗談じゃないにしろ、自分でトイレできないのはどう考えてもおかしい! ふ、ふふふ……そんな嘘には騙されない!!
「ま、まあ一人でやってみたらいいんじゃないか? できないことも積み重ねればできるようになるのさ。うんうん」
ノリには乗ってやるが、犬の散歩はしないからな。
そう息巻いたものの、美海は切実で嘘とは思えない。今にも泣き出しそうな表情で、袖を引っ張ってくる。
「で、でも……御坂さんがお兄ちゃんにお世話してもらうようにって……」
「うっ……」
言ってたけども……。お世話ってそういうことなのかよ!!?
「わたしもね、一人で頑張ろうとしたんだよ。お兄ちゃんに迷惑掛けたくなかったし、家で練習してきたの」
トイレの練習とはなんてシュールな……。
「ごめんねお兄ちゃん、やっぱり迷惑……だよね」
またもや捨てられた子猫のような儚い表情。
こんなの……買収問題発展レベルだろ!!
「……仕方ないな、とりあえずやってみるか。お前が嫌じゃなければ、だけどな……」
「うん! 全然嫌じゃないよ!」
かっこつけて了解してしまった。
しおらしさが吹き飛ぶ満面の笑み。嬉しそうなのはいいけど、本当に大丈夫なのだろうか……。
卵形の円の中に穴の空いた、洋式のトイレ。
うちのトイレは特に便座に敷物はなかったはずだが、座り心地の良さそうなピンクの便座カバーが敷かれていた。十中八九、御坂さんの仕業なのだろう。いつの間に……。
週に2度掃除をするので、汚くはない。ちゃんと芳香剤も置いて匂い面も抜かりはない。
しかし――妹、だった女の子と共に一畳程度の個室に入るというのは、なかなか勇気がいる。
ゆえに、俺は美海を便座の前に向かい合うように立たせて数秒、決意を固める時間を貰った。とりたてて合図をした訳ではないので、もじもじ悶々と待たせてしまっている。
頭の中では、天使と悪魔が討論していた。
天使側の主張はこうだ。
――優しく教え、まずは自分でできるように導いてあげるべきです。それでもしダメでも、どこまでできてなにがいけないのか把握することができる。それは今後の参考になります。妹だからこそ、立派な兄の姿を示すことで、頑張る意欲を持たせるようにしましょう。
ただ俺も男。社会的な変態に位置づけられる者たちほどではないにしろ、悪魔的な思考も過るわけで。
スカート脱がせ! パンツ脱がせ! 昔とは違う、大人の体を見るチャンスだ。生涯、今後こんな機会はやってこな――
アホ――――ッ!!
妹になにさせるきだ馬鹿野郎!! そんなことはしない、絶対にだ!!
悪魔を殴りつけ、決意は固まった。
「じゃ、じゃあ……まずは自分で脱いでみろ。どれくらいできるか見てやるよ」
「う、うん……」
見てやるよって何!? 俺は今、変態的な言動をしたんじゃないのか?
い、いや違う……今のは本当にそういう意味で言ったんじゃないんだ!!
美海は自信なさそうに頷く。
美海は手を胸元の紐リボンに手をかけ、なんとか解こうとし始めた。
「お、おい?」
「だ、大丈夫……これはね。これだけは家でも取れたの」
一生懸命に紐リボンを解こうとする様に、これまでの葛藤を忘れさせられてしまった。
「いや、紐はいいから……スカートを脱ごうか」
「へ?」
沈黙が流れる。
ポカンとした口が塞がらず、俺の言っている意味を理解していないようだった。
俺は思わず頭を抱える。
嘘だろ、いったいどう育ったらこうなんだよ……! 美海を最後に見たのは4歳くらいで、まだオムツだった。でも、今とあの時の差が正直わからない。
「トイレするんだろ。だったら上は脱がなくていいんだよ」
「……あ、そっか」
恥ずかしそうに顔を赤らめているがらこれは世間知らずじゃ収まらないレベルだ。全てできる気がしない。
こいつ、さっき友達に追い出されたって言ってたけど、これが原因だろうな。学校ではどうしてんだよ……。
「ごめんお兄ちゃん……その、スカートは一度もできたことなくて……」
「…………っても、俺もスカートの構造は知らないな。どうなってんだ、それ? ちょっと見せてみろ」
「うん……」
好奇心にかられ、半袖のシャツを全てスカートから引き抜く。
シャツの裾を「持ってろ」と頼み、腰周りを確認する。
予想していたが、やはりスカートにはベルトのようなものはない。学生服だからかもしれないが、それならどうやっていつも脱いでいるのか。女子の着替えを覗いたことのない俺には分からない。今の状況を傍から見ればアレだが、いつもは健全な男児なのだ。
かと思えば、左側にフックとチャックが付いていた。
へえ、男子のスラックスの股の部分とほとんど同じ感じか。
納得して外すと、スカートは気力を失ったようにすとんと床に落ちる。
「よし、脱げたな。後はでき――」
言い終わる前に気づく。
美海はシャツの裾を持ち上げており、綺麗な臍と熊の描かれた白いパンツが露となっている。
――パンタローネ!!? ※パンツの語源
パンツに描かれた熊が、なにかお強請りをするようにこちらを見てきている。
み、見るな……そんな純粋な顔で俺を見るな……。仕方なかったんだ。俺は、俺は兄として!
「お兄ちゃん?」
「はっ!」
「下は? これじゃあまだトイレできないよ……」
し、したァアアアアアア!??
「ぱ、パンツも脱げないのか……?」
「うん」
無感情に頷く美海。さっきの羞恥心はどこかに消え去っており、胡乱な目を向けられる。
ば、バカな……理性に目覚めた俺にこれ以上を求めるのか!?
いや、落ち着けよ俺! 大丈夫だ、ここはトイレ。誰も、御坂さんだって見ちゃいない。言わなければ女子のパンツを脱がした変態だというレッテルからは逃れることができる。美海だって了承の上だ、合法、これは合法なんだよ俺!
焦るな……冷静になれ。色々考えるから変態なのであって、なにも考えなければただ大変だということ。それだけだ。
落ち着け俺……。
少し屈んで、美海のパンツに指を掛ける。
その瞬間――
「ひうっ!」
ごふっ……!!?
頭上から聞こえてくる反応が、天と地がひっくり返るほどのアッパーを俺の心臓にぶちかましてきた。
体が若干揺れて、また元に戻る。
俺は一旦両手を床に置いた。
「や、やめようか……」
廃人のような気持ちで訊ねると、美海は首を振る。
「ごめん、もう声出さないようにするから――大丈夫だよ」
「あ、そうですか……」
やめよう、という類の言葉を切に願ったが、逆の回答に一つ精神がやられた気がした。
俺は再びパンツに手をかけようとして、止まる。すうっと立ち上がった。
「お兄ちゃん?」
分かっている。そろそろ限界なことは美海の足の震えでなんとなく。しかしそれが羞恥心や恐怖心からのものであるという気がして、
「そのままお待ちください」
そう言ってトイレから出て、直ぐに戻る。
「お待たせ」
フェイスタオルを持ってきた。それを自分の目元を覆い隠すようにして巻く。
「それは?」
「これで見えない。大丈夫だ」
そう自分に言い聞かせる。
もはや美海がどんな反応しているかも分からない。
俺は早速屈んでそこにあるだろう太股に触れる。
パンツを探してそのまま手を上にスライドさせた。
「んっ……お兄ちゃん、くすぐったいよ……」
「が、我慢、しろさい……」
煩悩退散!
その言葉を反芻し、俺はようやく手でパンツの感触を捉えた。
――これで終わりだっ!! パンツよさらば、お世話よさらば!!
すっ、とパンツを下ろした感触があり、俺は達成感に震える。
終わった……やったぞ俺……!!
――やっちまった…………。
自己嫌悪しながら、俺は「外で待ってて」と言う美海が事を済ませるのを待った。
やべえ……御坂さんに怒られる。殺される。というか、はあ……美海のお母さん、古奈美さんに顔向けできねえ……。
あなたの娘さんのパンツを脱がせました!
そうぬかそうものなら――「死んで償いなさい」と汚物を見るような目で見られるに違いない。
「お兄ちゃん、終わったよ」
扉の奥から、美海からの声が掛かる。ついでにトイレの流す音も聞こえてきた。
妄想の古奈美さんに百回謝りながら、俺は重い腰を上げた。
「そうか」
「うん、だからね。今度は……拭いて欲しいなって……」
「おいマジか!?」
「う、うん……」
「…………」
――本当にすみません……。すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません…………
俺はニヒルに妄想の古奈美さんに千回土下座をしながら、美海の局部をトイレットペーパーで拭った。
俺が現実に戻ったのは、背後でトイレの流し音が消えた頃である。
事の重大さに俺はまだ気づけていないのではないか、と不安が立ち込めてくる。そんな俺の不安感を他所に、美海は恥ずかしそうに「ありがとう」と感謝してきた。
ものごころがついた頃、美海は既に俺の家族だった。
俺が3歳の時に美海は1歳。2歳年下の妹だった。
当時から俺は妹の世話をやいていた。食事にお遊び、一緒に泣いてやったこともあったし、自分のデザートあげるなど兄としての矜恃を全うした。
懐かれていた自覚はある。妹は、自分の友達よりも俺と一緒にいることを求めた。俺もそんな妹が可愛く、俺の友達の輪の中に入れてあげたりもした。
――将来お兄ちゃんと結婚する。
懐かしいチビな妹の笑顔が想起する。
そんな小さな頃のありがちな約束は、とっくに忘れたものと思っていた。美海もとっくに忘れているだろう。
なぜならそんな約束をした女の子が、自らの衣服が脱げず、「脱がして」などとしおらしい我侭を言うはずかないのだから。
脱衣所で、怯えるように縮こまる女の子の体。その中心に掛かるボタンを外す。
一つ、二つ、次々と外していき、露となる昔では考えられなかった下着――俗に言うブラジャー。こちらには下に描かれていた熊が見当たらない。代わりに純白の、花の絵柄が薄ら見える。その奥に所狭しと佇む豊かな谷間。
なんでシャツの下直ぐにそれなんだよ!!
無言のツッコミを入れながらも、次を考えてしまう。
小さな頃、4歳くらいの美海が「お兄ちゃん」と呼ぶ声が聞こえる。その体には、こんな凹凸はなかったはずだ。
俺は逡巡する。
――本当にいいのか?
いいと思いますよ、ええ。なんたって彼女がそれを求めているんですから。合法、というかもはやそれ以前に私兄なんでね、ええ。まったく問題ありませんよ、ええ。
昔オムツ変えてやったことがあるんですよ、それと同じです。子供の着替えを手伝ってなにか悪いんでしょうか? やましくないことを、やましいと考えるその思考こそ私は変態的と思うわけですよ、ええ。
いいや、異議あり!
オムツを変えてあげたのは子供、それも幼少の頃の話です。今の美海さんはもう大人の体へと成熟しているのです。思春期であり、例え兄とはいえ、異性を意識せずにはいられない年頃。
肌を見られるのと、女性特有の局部を見られるのとは圧倒的に意識に差が出ます! これを破れば、美海さんに今後、自分のあられも無い姿を見られた異性の一人として意識されること間違いなしです!
お前らいったい誰なんだよ!!?
エセ悪魔と天使が脳内で議論を見ろげる中、俺は決断を下した。
「んじゃあここ、袖通してね」
無になること。全てを意識せず普通にすることで、いつも御坂さんにされているかのように錯覚させようとした。
しかし、それが無理なことくらい考えずとも分かった。
シャツを脱がせると、目が合ってしまう。顔を赤く染め、なすがままとなる美海は色っぽかった。
…………無です。なにも考えないでぐだざい。
脳内であげる警笛が伝わるはずもなく、目が離れない。
「あ、あの……あんまり見られると恥ずかしい、かも……」
いや。そういうこと言われるとね……できないんですよこっちは……。
なんて地獄だ! 前提がアレなだけに、手を出せない。のに、なんで俺はこんなことをしてんだ!!
情緒不安定な頭の中の俺をぶん殴り、美海に後ろを向かせる。
「分かったからあっち向いてろ!」
さっさと終わらせてやる! こんな生地獄さっさと終わらせてやる!!
恥ずかしかったところで変わんないんだ。だったらいつまでもこんなことしていられるか!
スカートを脱がせ、パンツを脱がせ、初めてのブラ脱がしをする。我ながら手早かったと思う。
終わったと安堵する間もなく、俺は風呂への扉を開けて美海を押し込んだ。
「ちょ、お兄ちゃん!?」
ふぅ……なに考えてんだよバカが。妹に欲情とか、マジでありえねえ……。
俺はその場に座り込んだ。
どのくらいそうしていただろうか。体の熱が冷えていく途中、扉の奥から美海に呼ばれる。
「ねえ、お兄ちゃんってば!」
「ん、あ? なんだ?」
「あ、お兄ちゃん。体洗ってよ」
「…………――へ?」
再びフェイスタオルで目隠しをして、浴場へと入る。
元々半袖半ズボンということもあり、着替えは必要なかった。
まだシャワーすら出した形跡はない。湿度がそれほどなかった。
目隠しの先に美海がいるのがなんとなくわかる。
それがなんの隔たりもないまっぱだと思うと、急に羞恥心が込み上げてくる。
「そ、そこにいるか?」
「うん……だけど、なんでまた目隠ししてるの?」
「そりゃあお前だって見られたくないだろうし……」
「お兄ちゃんになら見られてもいいけど?」
美海は恥ずかしげもなく疑問のように答える。
……なんと?
い、いや……動揺するな。そう、動揺するな。悟るんだ、正道を悟るんだ。
「ま、まあこのまま洗ってくぞ」
「うん……」
生返事の後、俺は美海の手に誘導してもらい、シャワーを出す。
シャワーの出る向きを計算していなかったせいで、俺の左肩がずぶ濡れになるのはよかったが、美海が頭から冷たい水をかけられて驚いた。
ただらを踏んだ美海の背中に押され、俺はバランスを失い後ろへと倒れる。豪快な尻もちをつきつつ、美海の体を支える。
「きゃっ!」
「ぐおっ!!?」
硬い床に打ちつけた知りに鈍痛がはしり、太股には美海の全体重が乗せられ痛かった。
倒れた拍子に目隠しのタオルが緩み、明るい視界が晴れる。
「悪い美海、冷たかったよ――な…………っ!!?」
俺の左腕はちゃんと美海の体を支えることに成功していた。左半身と腕で背中を覆うことで、床にぶつけることなく俺の上に仰向けになっている美海。
しかし、咄嗟のことで俺もなにか支えるものを探したのだろう。左手は美海の左半身、それも豊かで柔らかい、先端のあるそれを掴んでいた。
俺の左手は思う。今だ――と。
俺の意思に反して動く左手は、水かきをほどよく拡げ、母指球及び小指球、手の平に指の腹全てを使い、すぼめてまた戻すように動き、その感触を刻み込む。
すると耳元で美海の嬌声があがり、俺ははっと我に返った。
「お兄ちゃんそこ……ダメだよ」
涙目で見つめてくる美海に、俺は罪悪感を感じた。
「ご、ごごご、ごめんなさいっ!」
手を離し、起き上がるのを待つ。頭が真っ白になっていた。
ゆえに、立ち上がる美海のあられもない姿をその目に焼き付けてしまった。緩やかな放物線を描くヒップ、引き締まったボディライン、先端の覗ける乳房、寂しげでもシミひとつない白い背中。
視覚情報が、俺に前傾姿勢を余儀なくさせる。
顔を真っ赤にしながらも涙目になる彼女に俺は謝罪以外できなかった。
「ほ、本当にごめん……」
「……ううん、わたしが驚いたのが悪いんだもん。お兄ちゃんのせいじゃないよ。それにいゃじゃ…………し……」
「ん?」
最後声が小さくて聞こえなかった。
「や、やっぱり今日はもうやめとこうぜ。こんなんじゃ、やっぱりできないだろ……」
「お兄ちゃん、わたしね……昔みたいに一緒にお風呂入りたかったの」
「え……」
「でも、お兄ちゃんは嫌だよね。こんな迷惑な娘、嫌になっちゃうよね……」
…………それはずるいだろっ!!
「……バカだな美海は。俺も一緒に入りたいに決まっているだろ。久しぶりに会って距離感が分からなくなっているだけさ。
そうだよな……うんうん、美海も俺のことを考えてくれてたんだな。よし、お兄ちゃんに任せとけ!」
俺は慣れたプレイボーイの如くカッコつけた。
その後も俺はプレイボーイお兄ちゃんを続けた。もはやなりきり、モノマネ芸人のような境地に辿り着き、淡々と美海の体を洗った。
なりきりに慣れると、先程までの羞恥心や罪悪感が消えていた。むしろ美海に泣かれる方が嫌だと思った。
そして、今に至る。
大人一人が足を少し曲げる程度の広さの、ごく一般の浴槽に、裸になった俺と美海が重なり入る。
一応、背中やお尻に触れまいと気遣ってはいるが、浴槽がこの狭さだ。太股が触れてしまうのは仕方ない。されど、俺にはもうそれ程思うところはない。
二人入って溢れ出すほどのお湯の中に体を沈めることに注力する。
「なんか昔を思い出すな。横に並んだもんだけど、今は縦が限界だな」
「うん、大きくなったよね」
そう言って、美海はしなだれかかってくる。
うっ……ま、まあいいだろう。ただの背中だ、気にすることはない……大丈夫。
言外でそう言うが、本当の所はドキドキしてしまっていた。義妹と言えど、シミ一つ無い絹の様に白い肌と綺麗なうなじという色香が刺激的すぎた。
「ちゃ、ちゃんと小学とか中学とか行けてたか? 今の美海を見てると不安になるけど」
「うん、大丈夫だったよ。2つ年上にお世話してくれる子がいたから……。卒業までには新しい友達できてたし」
それは、友達という名の下僕では? と思うのは俺の悪い心がいけないのだろう。おそらくその年上の子も、友達も、良心で世話をやいてくれたのだ。手が掛かるかもしれないが、美海は天真爛漫で世話を焼きたくなる雰囲気を持っている。
それにしても、なんていい人たちなんだ……。
「でも、お兄ちゃんもいてくれたら、もっとよかったって思うよ」
「……まあその頃はもう離れ離れになっていたからな」
「寂しかった……お兄ちゃんともっと一緒にいたかった。楽しい時はいつもお兄ちゃんがいたらって考えてた。ずっとずっと、会いたかった」
ぽつりぽつりと物悲しそうにしているかと思えば、最期には「にひひ」と俺の顔を見て笑いかけてくる。
「……それだけ会いたいって思ってくれたのなら、兄貴冥利に尽きるよ」
「お兄ちゃん!」
美海はこちらを振り返りながら、豪快に抱きついてきた。
お互いに裸だという自覚があるのかは知らないが、事実として、柔らかくも温かい人肌に包まれる。
胸の弾力が胸部にじわりと拡がり、後ろに回される手には優しさが感じられる。左肩の上に乗せられた顎は、俺への信頼や安心感を表している気がした。
――俺は、のぼせてしまった。
◇◇◇
俺たちは床に就くことになった。
美海には父さんの部屋のベットを使ってもらい、俺は自分の部屋。
久しぶりに一人になることができた、となんとなく安心してしまっている自分がいることに気づいた。
「美海のやつ、風呂での話……マジで言ってないよな……?」
俺は今まで彼女なんてできたことはない。友達なら結構いるし、中には女の子もちらほらいる。けして多くはないが、恋をしたことだってある。けれど、どれも高嶺の花。冴えない俺には似つかわしくない子ばかりだった。
そんな俺が美海に好かれるなんてこと、あるわけないよな……。あいつこそ、俺と比べたら比較するなんておこがましいほどの高嶺の花――お嬢様だしな。
そんな思惟をしながら、俺はベットに横になった。
考え事もほどほどに、部屋の電気を消す。
暫く脳内から美海の裸がまだ離れないところ、ガチャという部屋の扉が開く音が聞こえる。
照明のついた廊下から顔を出す美海がいた。
先程着替えさせた、朱色の水玉模様をしたパジャマ姿は昔懐かしい感じがする。
「どうした? トイレか?」
首を振る美海。声を出さないのは、眠ろうとした俺への配慮だろうか。
夜目に慣れた視界では、影に潜む彼女の表情は分からない。ゆえに俺は率直に聞くことにする。
「じゃあ、どうした?」
「……一緒に寝てもいい?」
少し戸惑うような間の後に、ぽつりと呟く声は細々としていた。
「まあ、いいよ」
一緒に寝るくらい今更だろ。
寝ぼけ頭で考えられたのは、適当な言い訳だった。
仕方ないな……。
そう言外で思いながら、俺は布団を押し上げ、たどたどしい足並みの美海を迎えに行く。
俺は部屋の明かりをつけ、廊下の明かりを消した。
「いつも誰かと一緒に寝てんのか?」
「う、うん……」
目が泳ぎ、はっきりしない返答である。
美海が嘯くのがなんとなくわかった。
「んじゃ、さっさと寝ようぜ。明日はお前も学校だろ」
頭があまり働かない俺は、既に睡魔に侵されており、早いところこの鬱陶しい照明を消したかった。
美海に適当に横になるよう急かすようにゼスチャーする。
無言で仰向けに寝そべるのを見送り、俺は明かりを消した。
真っ暗闇となった部屋は静かだが、はっきりと美海の存在が感じられる。女性らしい匂いが香り、俺以外の気配がある。まるで自分の部屋じゃないみたいだ。
俺は美海の体を避けるように間を取ってベッドに着地する。
美海にも掛かるように布団を被せ、再び横になった。俺は寝顔を見られるのが嫌だろうと思い、妹に背を向けるように寝返る。
すると、美海は俺の背中に左手を当ててきた。
「…………どうした?」
暫時手を当てるだけでなにも言わない美海に訊ねる。
「お兄ちゃんの背中、大きいね。大きくて……かたい」
「んなもん、大人になったからだろ」
「うん。でも、わたしも大人になったから丁度いいよね」
「なにが……」
美海が腕を前に回してくる。存在が近づいてくるのが分かった。俺の腕を伝うようにして手を見つけ出し、握ってくる。自然と胸が背中に当たった。じんわりと体温が拡がっていくのが判る。
俺は眠気を払われ、生唾を飲み込んだ。
美海を美海と認識できないこの状況で、後ろにいる女性を、妹ではなく一人の女性と認識する俺がいた。
緊張する俺は、声が裏返ってしまう。
「ナニをしてん、だ……?」
「お兄ちゃんといるとね、温かいんだよ。なんだかポカポカするの。
一度ね、他にお兄ちゃんができたんだ。お兄ちゃんじゃない、お兄ちゃん……。その人はね、無口で私のこともあまりかまってくれなかった。そこにいるのに、いないような感じ。余計に寂しくなって……あんなお兄ちゃん嫌だよ」
「再婚してたんだな……」
「だけどもうずっと前にいなくなってるよ」
ああ……離婚したのね。二度あることは三度あるというが、たぶん親父の方が経験は上だろうな……。
「でもね、お兄ちゃんは違うの。繋お兄ちゃんだけがわたしにとって本当のお兄ちゃん。一緒にいると、もっともっと一緒にいたいって思う。こうしてギュってすると幸せになれるの。お兄ちゃんだけなんだよ、こんな面倒な妹でも一緒にいてくれて、笑ってくれるの」
「…………そうかよ」
仕方ねえな。俺は、お兄ちゃんだから。
なんて俺ってやつはこうもチョロいんだろうな。
思っちゃいけないんだろうってどこか罪悪感っぽいものはあるけど、他人と比較されて、それでいて唯一無二とか言われたら……嬉しいって思っちまった。
ゆっくりと体を返し、美海と向き合う。
眠気の孕んだとろんとした表情は今にも睡魔にかっさわれそうだ。
「好きなだけいろよ。俺でよければ面倒見てやるよ、お前は俺の大切な妹だしな」
「うん。お兄ちゃん、大好き」
そう言いながら、美海は俺の手を握って瞼を下ろした。
――妹にしては、可愛すぎだ。
◇◇◇
学校――。
義務教育が終わった後も、高等学校に通うのは半ば自然な流れだろう。俺も美海も、そして全国の高校生のほとんどはその流れに乗った普通。
勿論、目的や夢、やりたい事があって流れに乗る者もいるだろう。しかし、それすらも社会の縮図を考えれば流れに乗るしかない。
俺は、大学へ行く為に高校に通っている。特進クラスではないものの、ちゃんとして高校生活というものを送っていれば自ずと辿り着ける。そう思っている。
ただ、この理由でさえ俺はどこか物足りなさを感じている。大学の先、社会人になった時に大学生であった方が有利だと思うから行くだけで、大学という場所に執着しているわけではないし、行きたい大学があるか、と聞かれれば、無いと答える。
漠然とした将来像しか描けない俺の想像力が欠けている。とはいえ、皆たぶんそんなものだ。
――だから思う。夢や希望を持つ者たちが、輝かしいって。
俺は部活動も委員会もしていない。高校三年の夏だ、周りもそういった活動は徐々に無くなってきているが、繋がりが消えるわけではなく、後輩や他クラスの人達がやってきたりはよくあることだ。
俺は、俺たちはそれを特別示し合わせるでもなく、第三者視点で傍から見守るようになっていた。
自分の教室から一歩出ると、騒然とした廊下が拡がっている。
学校の昼休み、俺は別教室の友達と廊下でぼんやりしていた。
このジメジメとした暑い時期、半袖を余儀なくされ、汗をほのかに滲ませている。
俺がいつも話すのは、基本的にこの三人。
一人は、頭に整髪剤をつけているのに、つけていないと豪語するモヒカン頭のナルシスト――美濃部遥斗。こういう真顔の時、変顔になるから面白いのだが、そのネタも飽きてしまっている。
二人目は、半袖を更にまくって肩まで出した、ひょろ長くて顔がイカつい影山健一。道行く女子生徒のスカートの丈や胸元を史観しており、若干距離を取りたくなるが、一応友達なので「やめろよ」と思いながら横腹を突く。
三人目、身長190センチ越えでぽっちゃり体型の丸永遊星。この巨体に驚かされるが、実はガリ勉で喧嘩はできない真面目くんだ。
三人共第一印象はヤンキーみたいで悪いけれど、根は優しい俺のイツメンというヤツだ。
俺はいつものようにこの三人と休み中の話をしていた。たわいない話をし、時に一喜一憂する高校生の日常。俺にとって今は大切な時間だ。
数年前までは引越しが多く、友達をつくる暇もなかった。ようやく高校生になって、足場も固まり、このままこいつらと卒業するという目標をもって三年。
三人含めて俺も色恋沙汰はなく、どこの誰が誰と付き合って、という話を心の中で羨ましがりながら「ふーん」と興味無いフリをするというのがド定番である日常。
そこに現れたのが――彼女である。
初め、周りの人達の視線が一点に集まっているような気がした。
すぐ隣にいた美濃部が振り返り、目がハートになってようやく、俺も後ろを振り返った。
日差しを浴びて茶髪が映えるツインテールを横に揺らしながら歩く少女がいた。
彼女は難しい顔をしながら近くの教室の前で足を止めると、中を覗き、「違う」とでも言いたげな表情でまた歩き出す。
その様子を周囲の皆が見惚れる格好で見守っていた。男女問わず、そこらじゅうから彼女が何者なのか、問い不明の声が耳に届く。
その子とほぼ目の前で、目が合った。
――ギクリ。
胸中で効果音を鳴らすのと、彼女が口を開くのは同時だっただろう。
「お兄ちゃん!」
彼女――九重美海が、俺を見つけて輝かしい笑顔となる。
いつもと変わらないのんびりとした日常。ほとんどが灰色ではあるが、このテリトリーだけは暖色を帯びている……気がしていた。
しかし、美海が目の前に現れただけで俺の世界は一気に拡がってしまう。美海という燦然と輝く光が俺たちの居場所に華を咲かせた。
特に気にすることの無かった他人の視線が集中砲火するかのように注がれ、緊張を露わにした。
美濃部、影山の二人が「お兄ちゃん!?」と驚き笑う。
俺は口を噤んだ。否定したいけどできない状況に葛藤する。そうしている間に、美海は俺に腕を絡めてきた。
「お兄ちゃん、会いたかった!」
「会いたかった……だと!?」
三人が俺と美海の顔を見比べる。
「お、おい……繋、これはどういうことだってばよ?」
胡乱な目で睨まれ、諦める以外の選択肢はなかった。
「えっと……俺の妹です……」
悲鳴のような感嘆の声があがり、廊下中の俺を知る者全員が驚いていた。
すると、影山が涙目で俺の襟を掴んできた。
「お前、繋、お前ふざけるなよ!? 俺たち四人全員で彼女なしのニートになるって決めたじゃねえかっ!」
「いや、そんな約束はしていない。っていうか、彼女じゃねーから!」
「本当か?」
「当たり前だろ。妹だよ妹! 俺にこんな可愛い彼女ができると思うか」
「自分で自分の妹を可愛いというのはどうだろうか……」
「うっ……」
確かに……。
美海は今日、この学校に転校してきた。ただの家出で転校……と呆れたが、美海の現在の家は割とうちの高校に近いらしい。これに至っては俺がいることを伏せ、親にも承諾を得ているようだ。
自分の友達がいただろうに転校してしまうとは、なんというか少し心配になってしまう。
そんなことを思っているところ、頬を膨らませて機嫌の損なわれた美海が腕を引っ張ってきた。
「なんだよ」
「むう……お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「えっとね、次体育の時間だから、きがっ――」
「わーっ! わーわーわーわー!」
場所を選ばず美海がまた変なことを言おうとしていると悟り、俺は咄嗟に美海の口を塞いだ。
「え、なんだ、きが? お腹すいてるのかー?」
「なんだお腹すいてるのか。にしても飢餓なんて難しい言葉使うなー!」
美濃部が勘違いしてくれたおかげで、皆もそうだと思ったらしい。多少変な言葉を使うイタイ子みたいになったが。
あぶねえ……いきなりなに言うんだお前は!? 危うく変態だって学校の生徒全員に思われるところだったじゃねーかっ!
美海はきょとんとしていてまるで自覚がない。小首を傾げるほどである。
「お、おう……そうか! お腹すいてんのか! なら俺が美味いもん食わせてやるよっ!」
「おっ! 食堂行くのか?」
「なら、俺たちも一緒に行こーぜ。今俺、財布持ってくるから!」
「おいも財布。弁当だけじゃやっぱ足りんよなー」
「いや! ……ほらこいつ今日転校してきたばかりだからよ。俺が案内しないとだろ! 少し寄り道していくから、お前らは先に言ってろよ。こっちはこっちでゆっくり行くから〜」
「ん、そうか? 了解――」
そう言って俺は美海の手を取り、早足でその場を後にした。
悪いお前ら! バックレる!
◇◇◇
暗くてなにも見えない、身動きも取れないほど狭い個室。
両腕の肘あたりまでは向かいの薄そうな鉄の壁に置き、背中をできるだけ後ろに離そうとする。
しかし、これだけの狭い場所にいれば、それが難しいことも徐々に理解する。
暗い場所に目が慣れれば、目の前の存在がこちらを見つめてきていることも分かる。
俺は、美海と一緒に女子更衣室のロッカーに押し込められていた。
美海は着替えをしていた最中で、スクール水着を着ているが、全部上げきっておらず、上半身が無防備な状態だ。
というのも、俺のシャツ越しでも生の肌が当たる感触があるのだ。
……あるのだ……。
外からは女子生徒達の声が、騒がしく聞こえてくる。ロッカーを開け閉めする雑音に紛れて女子生徒の身体事情がダイレクトに聞こえてきた。
「あんたまた胸大きくなった!?」
「ちょ、見んなよ!」
「あたしやっぱ太ったかなー……」
「いや、あたしも人のこと言えない……昨日唐揚げ食べ過ぎたかもー」
「そういやあたし、カップ上がってた」
「「マジ!!?」」
姦しい情景を頭の中で描いてしまう罪悪感を感じながら、誰もこのロッカーを開けるなと切に願う。
これバレたら退学かな……。いや、少年院行きも考慮しないといけないか。少なくとも女子たちにボコボコにされるのは言わずもがなで。彼女たちの記憶に覗き魔として残ることになる。
違うんです……美海の着替えを手伝ってただけなんです……。
憂鬱に浸ると、美海に頭を撫でられる。
「よしよし、大丈夫だよ」
なにがだよ……。
とは思いつつも、こいつだけは味方になってくれるかもしれないとは思えた。
――その時だった。
完全閉切だった俺たちのいるロッカーが開かれる。
暗い中に僅かながらの光が刺した。
――終わった。
開けた本人と目が合った。
美海と同じくらいの背丈をした黒髪の少女が、荷物を入れようとして顔を上げた時だ。目を丸めて数秒静止する。
俺たちも銅像のように固まった。彼女の一挙手一投足に注目しながら固唾を呑み、脂汗がまるで風邪に魘されている時のように出てくる。
彼女は無言で勢いよくロッカーの扉を閉める。
バンッとした音が周囲からの注目を浴びたようで。
「んー、シノちゃんどしたー?」
「あ、えと……め、メガネ……じゃなくてゴーグルを忘れちゃって……。少し探すから先に行ってて」
「んー、りょかーい」
慌てて誤魔化す声色がすぐ近くから飛んでいた。
なんか……助けてくれったっぽい?
って考えるのはポジティブすぎ、だよな……。
暫くして周囲の音が静かになった頃。
再び扉が開かれる。
先程扉を開けた少女が冷たい眼差しをもって現れた。
俺は他の人がいないか周囲を確認した後、美海と共にロッカーの中から脱出した。
「なにをしているんですか、繋さん」
「あ、えっと…………」
反応が意外で逡巡し、とっさに言い訳を考え、そのまま口に出した。
「ち、違うんだよこれは! こいつは俺の妹で――さっきまでそこら辺で話してたんだけど、そしたら皆が来たから、仕方な〜くここに隠れることにしたんだよ……!」
無理矢理感の拭えない言い訳だが、頭の回らない今じゃ愛想笑いで精一杯だ。
少女は怪訝そうに目を細めた。
「彼女、あたしと同じクラスの美海さんですよね」
「そ、そうなのか……! 同じクラスなのか……!」
「繋さん、一人暮らしじゃなかったでしたっけ?」
「いや、父親と二人だけど……」
「じゃあ妹がいるというのは?」
「あ……お、親父のやつが再婚することになって……でもまだ籍――を入れたかどうだか分からないけど、だからまだ苗字は変わってないんだよ!」
「ふーん?」
俺はこの子を知っている。
清楚な顔立ちで可愛らしい少女は、篠宮蒼華という。
彼女は俺の家の近所に住んでいて、なにかと交流もあった。
最近、高校生になって同じ学校に通うことになったが、自転車通学の俺とは違いバス通学なので話す機会が増えたということはない。
けれど俺は、顔見知りということもあって見逃してくれる、という希望を持ってしまっていた――
のだが、この反応は警戒した方がいいだろう。
篠宮はゆっくりと指をさして的確に指摘してきた。
「では、どうして美海さんの水着がはだけているのですか?」
「お、おう――そうだったのか! 駄目だぞ美海、人の前じゃちゃんと服は着ないと!」
そう誤魔化しながら、俺はさっと美海のスクール水着を肩まで上げきった。
だが、それは俺の慌てた行動だった。俺が直したのを怪しんだ篠宮はより疑いの目を強める。
くっ……にしても、なんでこいつ黙ってんだよ……!
この状況なんだし普通のことにも思えるけど、同じクラスなんだからフォローくらいあってもいいじゃんか。
美海は俺の体の影に隠れた。
助ける気ゼロ!? というかなんでお前が助けて欲しいみたいなムーブ!?
「なんか怪しいですね。まさか本当にいかがわしいことでもしていたんじゃないでしょうね?」
「そ、そんなわけないだろ!?」
「話していたという割に水着ですし」
「うぐ!」
「最近できた妹にしては仲が良すぎる気がします」
「ぐはっ!」
「まあ、詮索をする気はありませんが、せめて感謝してくださいね。あなたが1年生の水着を覗き見しながら妹の身体を弄んでいた、という嫌な噂が流れずに済んだのですから」
「そ、それは……本当に……」
「感謝の言葉なんて要りませんよ。そういうのは聞き飽きているので」
「そうですか。流石篠宮家長女様」
「なんですかその変なあだ名は……。あたしが積極的に噂を流してもいいのですよ!」
「いやいやいや、すみません!」
「では、今度パフェかなんか奢ってください。それでチャラにしてあげます」
「勿論!」
「じゃあ早急に出て行ってください! あたしの裸まで見たらどんな手を使っても退学処分にさせますからね!」
やれやれとため息をついた後、篠宮はキッと威嚇しながら出口を指さした。
年下ながらも威圧感のある面立ちに背筋が伸びる。
「は、はい!」
「あ、お兄ちゃん!」
俺はただの木に成り下がっていた愁眉を開いた妹を置き去りにし、その場から逃げた。
◇◇◇
放課後、俺は部活もなく真っ直ぐ帰路に就いていた。
空はまだ明るいが、日が傾き始めている薄暮。昼間熱めだった気温が段々とマシになってきている。
今日はいつも以上に疲れた。
美濃部たちが美海について調べたようで、苗字が違うことに違和感を感じたらしく、休み時間や放課後にかなり追求された。適当な嘘をついて誤魔化したが、俺には想像力がないようで言い訳がましく、あまり信じてもらえていないだろう。
美海が俺の彼女だってのを隠そうとしてるって思われてんだろうな……。もしそうならそこまでして隠すかよ……。
その後はなに騒いでんだって担任に責められて、クラスの数学のノート全部運ばせられたんだ。あいつらマジ覚えてろよ……!
頭の中で愚痴を延々と吐いていると、家に着いた。
今日も美海がいるんだろうな……。
憂鬱になりながらも俺はチャイムを鳴らす。
鍵は鞄の中にあるが、いちいち出すのは面倒だ。美海に開けてもらおうと思った。
扉が開き、中に入ろうとすると見慣れない光景が目に飛び込んでくる。
扉を開けたのは美海ではなく、篠宮だった。しかも制服ではなく、長い丈のボーダーを着用している。しかもなにかいい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい」
さも当たり前のような科白に困惑し、俺は後ろを振り返って自分の家か確かめた。
「……あれ?」
「なに鳩が豆鉄砲食らったようなマヌケな顔してつったっているんですか。暑いんですから、早く入ってください」
「あれ? い、いや……え?」
「あ、お兄ちゃんおかえりー!」
遅れて奥から美海の声が聞こえてくる。
お前か……なんでこいつがここにいるんだよ美海……!
◇◇◇
俺はソファに腰掛ける篠宮の前で正座させられている。
これは篠宮が脅すような声色で命令してきたからである。
なぜか美海が篠宮の後ろで同じく追求してくるような構図になっているのが解せないが。しかし、彼女の殺意めいた思惑が見え隠れする目に睨まれれば、なにも言うことはできないわけで。
「繋さん、聞きましたよ。美海さんに着替えをさせてあげてるんですよね……」
「うっ……」
美海、白状したのか……!?
「体育の授業が終わった後、何故かもじもじしていまして、まさか自分で着替えができないお嬢様だったなんて……」
「あ……そうか、授業終わり……。美海、悪い忘れてた……」
「うん、蒼華ちゃんがやってくれたの」
「ああ……」
だからか……。悪いの、俺じゃん……。
「どうしてそんなすぐバレるような嘘をついたんですか。おまけに忘れるとか、美海さんが可哀想でした!」
「面目次第もございません……」
俺は二人に深々と頭を下げた。
「というかあなた、美海さんのその……は、裸とか……見たんですか……?」
声が徐々に小さくなっていき、羞恥心が表情に表れる。
彼女も乙女だ。思春期ともあって言い難いのだろう。分かるが、できれば言われたくはなかった。俺も恥ずかしくなってしまい、篠宮に言えない程度に声が狭まる。
「ま、まあ……着替えさせるし……」
互いに目を合わせられず、沈黙が流れる。
それに耐えられなかった俺は間を振り切った。
「しょうがないだろ! 今まで自分で着替えしたことないとか言うし! どこのお嬢様だ、誰だコイツに着替えという当たり前のことを教えなかった奴はってずっと思ってるよ!!」
「……トイレも?」
「そうだよ自分で脱げないとか言うから、仕方ないんだよ!
だが勘違いはするな。こっちだってれっきとした純粋無垢な男児だ。着せ脱がしをするのにガン見なんてやわな事はしない……俺だってちゃんとそういう雰囲気の時に。そういう関係の人としたいという願望はあるわけで。目隠しなりしてなんとか昨日を乗り切ったんだよっ!!」
「ふーん……あんまり信じられませんね」
「なんでだよ!?
言っておきますけど。俺は至って紳士で健全な男性ですよ。もし俺がやんちゃで度の越した不埒なプレイボーイだったなら、もうとっくに美海を俺のものにしてる頃ですよ! なんたって、そういう大義名分? みたいなのがありますから、揉んだり触ったりやりたい放題――」
俺は自然と手がいやらしい動きとなっていた。すると、昂ってペラペラと喋る口を塞ぐように、顎を蹴りあげられる。
ですよね!?
その時、俺は思わず彼女の太股の隙間から見えるストライプのパンツを見てしまった。
やっぱり美海は、出遅れているんだな…………がくっ。
俺は自分の顎を押さえ、篠宮は自分の体を守るように掴んだ。
「や、やっぱり繋さんは変態なんですね! 美海さんをその……そんな不埒な人に任せておけませんっ!!」
「うお、おい待て……! 今のは俺じゃなかったらの話で、別に俺がそうしたいとか思ってるわけじゃない!」
「信じられるわけないでしょ、この変態! 脱がし魔! お兄ちゃん!」
「脱がし魔ってなんだよ!? お兄ちゃんですけど?」
「蒼華ちゃん、お兄ちゃんは悪くないの。わたしがお願いして……」
「いいんですよ、美海さんはなにも悪くありません。ちゃんとあたしが守りますから!」
いや、全然分かってない……。
「俺は美海の兄なんだ。美海が困ってるなら助けてあげたい、その想いだけなんだよ! だから変態呼ばわりされるのは納得いかないからな!!」
「それは……そうかもしれませんけど、そういう時はあたしに言ってくれてもよかったじゃないですか。ただの近所さんですけど、あたしは繋さんの力になれるなら、妹さんのお世話くらい代わりますよ。繋さんにはいつも助けられていますから……。
それに、美海さんはもうお友達ですし、これからはあたしに任せてください」
「……ん?」
「あなたに同年代女子の露わな姿を毎回毎回見せられるわけないじゃないですか! よかったですね、あたしが近所に住んでいて。夜も朝もあたしが美海さんを着替えさせてあげますから安心してください!」
「あ、えっと……ん? 夜も朝もって、お前どれだけうちに出入りする気だよ……」
「じゃないと美海さんの身が心配すぎて眠れませんから。できるだけこちらで寝泊まりするつもりですから、これからよろしくお願いしますね」
「…………は? ここで寝泊まり? おい待てよ、流石にそこまでは……」
「いいですよね?」
「いや……」
「いいですよね!?」
お、押しが強い……! というか怖い!!
「…………いいのかよ。ここには俺が住んでるんだぞ?」
「あなたがいるからこそですよ」
「?」
「美海さんになにかあっては友達として夢見が悪いというものですから。まあ、あなたにとっては自分がまともだと証明するいい機会になると思ってください」
「はあ……」
これ……いいのか? 美海だけでも怪しいものだと思ってたのに、篠宮もって、本当にいいのか?
それから篠宮がうちに泊まることになった。篠宮の家は二軒隣の家で、布団を持ってきて美海が寝泊まりしている部屋に居座るつもりらしい。
正直に言えば、美海の世話をほとんど焼かなくなると思えばプラスなのかもしれない。だけど、この家の主人が変わったような気がしてしまうのは頂けない。
せめて俺が家主であると主張はしたいわけで。
――と、言ったものの……。
風呂に入ろうと浴室の扉を開けた。
さっき美海が出ていたので、俺は篠宮も風呂から出たものと思ってしまっていた。
しかし、扉を開けると篠宮は下着姿で、丁度ブラをはずそうというところで静止している。
髪は濡れておらず、肌は絹のように白い。しかし、顔だけがとっくに風呂を終えたかのように赤らんでいる。
徐々に見開かれる目とバッチリかち合い、互いに唖然とした。
「な、なな……」
「っ――落ち着け!」
「なん……!!?」
俺は叫ぼうとしてるだろうところに待ったをかけた。
まだ状況が理解しきれていないが、それは篠宮も同じ。直ぐに行動を起こせず、驚いたままなのが助かった。少しだけ時間ができて、その間に言い訳を捲し立てる。
「これは違うんだよ! たまたまで……いや、というか美海が出たからてっきりお前もと――」
「問答無用ですっ!!」
「ごふっ」
サッカー選手顔負けの素早い右脚が、俺のみぞおちを蹴りつけた。
膝から崩れ落ち、許しを乞うように手を上げるが、扉を勢いよく閉められてしまう。その時見た冷たい眼差しは、殺意が込められているようだった。
ち、違うんだ…………変態じゃないんだ……。
◇◇◇
夕食の時間、食卓には居たたまれない空気が漂っていた。
先程の事件のせいで、篠宮の目が恐ろしいことになっている。眼圧が強いだけじゃなく、怨念が発せられているような気がする。
目の前にあるカレーライスの匂いがまったく感じられないのは、それが気になりすぎるからだろう。
「どうしたの? 二人共元気ないみたいだけど?」
「い、いや……そんなことないぞ」
「はい。変態と同じ空気を吸っていることに少し、吐き気をもよおしただけです」
「ぶっ……」
「吐き気?」
「な、なんでもないさ。さ、温かいうちに食っちまおうぜ」
「あのね、お兄ちゃん!」
美海が俺の手を握ってきた。
唐突に何だ、とドキドキしてしまう。それも、美海の神妙な面持ちを見て告白されるんじゃないかと錯覚してしまったからだ。
とほぼ同時に鋭い視線が棘を刺してくる。俺は自然と目が泳いでしまった。
「えっと……ど、どうしたんだよ美海?」
「いつもわたしがお世話されてるから、今度はわたしがお兄ちゃんのお世話をするね」
「はい?」
美海はカレーライスをスプーンで運んでくる。今にも零れ落ちそうな量だった。
「なん!?」
「ちょっと待って美海さん!」
「どうしたの、蒼華ちゃん!?」
篠宮が美海の腕を取り、ゆっくりとスプーンを戻す。
びっくりした……美海のやつ、何考えてんだよ……。
「……繋さんなんかの世話を美海さんがする必要ありませんよ」
「むっ! 蒼華ちゃん、わたしができないと思ってるんでしょ。わたしだって食べ物の食べ方くらい知ってるよ!」
「美海、俺は自分で食べられるから大丈夫だ」
「むっ! お兄ちゃんもできないと思ってるの!?」
「自分で食べられることくらい知ってるよ。昨日だって見てただろ」
「じゃあいいよね?」
「美海さん、そんな事しなくても……」
「はい、お兄ちゃん」
美海が再びスプーンを持ってくる。
「そ、それならあたしも!」
篠宮は性急に美海とは逆の、俺の左側に座った。
もしかしたら俺は今、岐路に立っているのかもしれない。
右には元妹の九重美海、左にはご近所さんの篠宮蒼華。その二人に、「あーん」をされている。
二人とも誰もが認める容姿の整った美女たちだ。この現場を学校の誰かに見られたならば、部族抗争を招くかもしれない……。
…………ちょっと何言ってるか分からなくなってきた!
「お兄ちゃん?」
「早くしてください。零れてしまいます」
「い、いや…………ていうか、なんでお前まで!?」
むっ、と顔を顰めると、篠宮は無理矢理スプーンを口に入れてきた。
「ん!?」
こいつ……さっきは怒ってたんじゃないのかよ……。
「お兄ちゃん、こっちも!」
「へいへい」
美海は俺が食べると嬉しそうに笑った。自分がお世話する側になることが、新鮮で嬉しいのだろう。
――美海が笑っているなら、それでいい。
いつしか思ったことを思い出した。
「ん!」
篠宮が仏頂面で「食べろ」と持ってくる。
言外で「まだやるのかよ……」と思ったが、この二人を前に、それぞれ違う意味で断ることはできなかった。
これは罰ゲームだ――。
そう思うことにした。
俺は、全てを食べ終えて「次からは全部自分で食う」と窘めた。
今日は酷く疲れる一日だ。
美海は我侭で、篠宮は強引だ。俺の気持ちなんてどうでもいいみたいに。だけどそれがなんとなく、心地いいと思ってしまっている。
俺こそ我侭なのかもしれないな……。
そう勘考しながら、俺は自分のベットに横になった。
半袖のシャツに半ズボンでもやや暑い。少し裾を捲り、エアコンをつける。
美海と篠宮の二人は同じ部屋に寝ているようだけど、あっちもエアコンをつけているだろう。女子の話に男子である俺は入れないが、興味がある。特に、美海はそういう話ができるのか、というところが……。
あいつ、何もできなそうなんだよな……。
ガチャリ。
静かに部屋の扉が開く音がした。
またか――。
そう思ったのは、昨日あんなことがあったからだ。
視線を向ければ、やっぱり、だった。美海がもじもじしながら入ってきた。
俺は体を起こして同じように訊ねる。
「どうした?」
「今日も……一緒に寝ていい、お兄ちゃん?」
しおらしく、それでいて儚い雰囲気を纏っている。
ノースリーブのパジャマは色っぽく、不思議と俺の視線は服の上にできた丘に向けられる。
胸が騒ぎ、俺は咄嗟に明後日の方を向いた。
なに美海にドキドキしてんだよ、俺!? 相手は美海だ……俺は兄貴で、美海は妹。ちょっと手間は掛かるけれど、そこが可愛いとこで……。
いやいや、そこじゃなくて! 俺は美海の兄貴で……。
クソ……昼間の着替えといい、食事の時といい美海のことを意識することが増えて本格的におかしくなってきたのか!?
「お兄ちゃん?」
いつの間にか美海が近くに来ていた。
前屈みとなり、俺の顔色を窺うように顔を近づけている。
自然と目が下へ向く。緩いパジャマから覗く純白の谷間が艶めかしく、誘われてしまった。
「お、おう……!? て、なんだよ。お前のところには篠宮がいるだろ。あいつと一緒に寝ればいいじゃない?」
「お兄ちゃんと一緒がいいの!」
ぐっ……おい待てよ美海。いや俺! 目が勝手に下に行く……!!?
なんだよ、なんなんだよ!? どうなってんの俺の体〰〰!!?
美海は隣に座った。強請るように肩で肩を叩いてくる。
「お前なあ……」
篠宮がいるのにそんなことできるわけないだろ……。
俺は美海の頭を流れる髪をなぞるように優しく撫でた。
「……普通の兄妹は一緒に寝るなんてことないんだぞ……多分」
「わたしたち、普通の兄妹じゃないもん。お兄ちゃんとずっと離れ離れになってて、少しでもお兄ちゃんに近づきたくて。だから、少しでも早くお兄ちゃんとの距離を埋めたいって思うの。
――それって、ダメ? お兄ちゃん……」
ぱっちりとした目を潤ませながら問いかけてくる。
いつものツインテールがないからか、より一層切なく見えた。
まるでバケツの靴を履いた猫が、窮地に女々しくなるのを、怒り混じりに見下ろす賊の心境。
こんな時、ダメと言えるのは、少なくとも兄貴ではないだろう。
俺は親指を立て、目配せしながら調子よく答えた。
「いいぞ!」
「やったー!」
美海は両手を上げて喜んだ。かと思えば、そのまま俺にしなだれかかってくる。
薄着のせいで胸の感触がダイレクトに伝わってくる気がする。柔らかい……。
匂いもいい。香水とはまた別の、頭をくらくらさせるような柔らかい、まさしく色香がある。
ずっとこうしてくっついていたい。そう思わせるほどの強い誘惑が放たれている気がする。
「お兄ちゃん大好き」
「お、おう……」
無邪気かつ愚直なセリフに、俺は我に返った。
世話を焼く。俺の場合、それは捉え方によっては助けているのではなく、助けられているともとれる。なぜなら、俺の方が美海が喜ぶと嬉しくなるからだ。
「たく、調子のいいやつめ」
「お兄ちゃんのおかげだよー」
「そうかよ。
まあ仕方ないな……篠宮には明日なんとか言い訳して――」
「あなたに明日なんてありませんけど?」
すぅっと開いていく扉の奥から篠宮が殺意をむき出しにした目で睨んできていた。
まあ、ですよねー…………。怪しんで来るかもな、とは思いましたけども。早いなー。
中に入ってくるが、歩き方は何本もの弓矢が刺さった戦国武将のようで、ゆっくりゆらゆらと近づいてくる。
俺は咄嗟に美海に助けを求めた。しかし、美海もまた怯えるように俺にしがみついてきた。
「ちょ、ちょっと待てよ篠宮! ほら、話してただけだって! 別にいかがわしいことなんて何もしてないぞ。な、な!?」
美海に同意を求めると、素早く「うんうん」と頷いてくれる。それでも篠宮の足は止まらなかった。
「皆そうやって嘘ついて罰を免れようとするんですよ」
「違う違う違う! これは本当なんだって!」
「命乞いはその辺にしてください! この変質者! 朴念仁! お兄ちゃん!」
「変質者じゃねーし! お兄ちゃんですよ!?」
「むん!」
篠宮は俺に襲いかかってきた。
俺は篠宮と揉み合うようにして倒れる。叩こうとしてきた腕を掴んだところ、篠宮に馬乗りにされた。
咄嗟に目を庇うように瞼を閉ざした。
だが、動きがないので開いたところ――。
今にも泣きだしそうな、悲し気な表情があった。
言葉にならない疑問が、渦のように頭を交錯する。
「……どう、したんだよ……?」
「……」
「蒼華ちゃん?」
無言の間に耐えかねた美海が呼び掛け、篠宮はゆっくりと体を起き上がらせた。
「ごめんなさい。ちょっと冗談が過ぎましたね」
「冗談って……」
「そうなの? もう、蒼華ちゃんびっくりしたよー」
ほっとする美海を尻目に、俺は疑問符を生じさせていた。
本当にそうなのか……? 篠宮のさっきの表情は本当に、冗談だったんだろうか。
「美海さん、部屋に戻りますよ。ここは少し厚いですから」
「……えっと……ごめんね、蒼華ちゃん。わたし、お兄ちゃんと一緒に寝るから」
「はい?」
「だから、その、ね……」
「なら、あたしもここで寝ます」
「はあ!?」
無表情な篠宮から吐き出される言葉に、俺は思わず驚嘆の声が漏れた。
美海ならまだ、妹だから、という言い訳ができる。けれど篠宮は、妹でもなければ親戚というわけでもない。
なにを言ってんだ!?
「冷房を複数の部屋でつけると電気代がもったいないですから」
「いや、俺と一緒に寝るってことなんだぞ!?」
「構いませんよ。美海さんを護るにはそれしか方法がなさそうですから。わたしがいれば、下手に手出しできないでしょう」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ……」
「そうと決まれば、さっさと寝てください」
「……だったら俺は床でいいよ。適当に布団持ってくるから、ちょっと待ってろ」
「殊勝な心掛けですね」
「お前に殺されたくないからな」
俺はベッドの横に布団を敷いて、そこに横になる。
部屋を暗くし、ベッドの上の存在を感じながら暗澹な夜に肩を落とす。
美海も篠宮も何を考えているのかさっぱりだ。本当になにを――
今さっき明かりを消したばかりだというのに、トイレだろうかベッドから立つ者がいた。
場所からして美海だろう。この分なら、篠宮も一緒にトイレに立つのか。
と思われたが、美海は直ぐに俺の右隣にやってきて寝転がった。
「お兄ちゃん起きてる?」
小さな声だ。篠宮に聞かれないようにしているのだろう。
「なんだよ、寝るんじゃないのかよ」
「お兄ちゃんと一緒に寝るって言ったじゃん」
「……一緒の部屋に寝るじゃダメなのか?」
「ダメだよ。お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ、ダメだもん」
理屈が分からないんだが……。
「まあ勝手にしろよ。物好きな妹だな、お前は。俺だったらこんな兄貴、嫌でしょうがないだろうに」
「お兄ちゃんのこと、全然嫌じゃないよ!? お兄ちゃんだから、一緒に寝たいって思うんだもん」
「……はいはい。明日も学校だ、寝るぞ」
「うん」
ドキドキする感覚を思い出しながらも自らを諫めて答える。すると、美海は満足そうに瞼を閉ざした。
美海が物好きなのか、俺が物好きに好かれやすいのか。もしそうなら、篠宮がここにいるのも頷けるんだけどな。
いや、篠宮は美海を護るためか。護るため、なんだよな……?
さっきのあの表情が、脳裏にずっと焼き付いて離れない。なんで篠宮はあんなことを……。
美海が寝息を搔いて間もなく、美海と篠宮の存在に落ち着かないところ、左側に気配を感じてビビる。
その人は俺の服の袖を掴んで自分の存在を誇示した。
「繋さん……」
「……篠宮か……。驚かすなよ……!」
目が慣れて、暗い中に彼女の表情が見える。
相変わらずの仏頂面をこちらに向けていた。
ただし、俺の左肩に手が触れるほど近い。
「言った方がいいのか……どうした? お前までこっちに来ることないだろ……」
「ずっとあなたを見ていないと、何をしでかすか分からないので」
「おいおい……。美海は妹だぞ?」
「女の子です」
「そうですね……」
「……分かっていますよ、あなたにそんな度胸がないことくらい」
「え……?」
「どれだけあなたを見てきたと思っているんですか」
「……それってどういう……?」
「近くに同年代の学生がいたら身構えてしまうものですよ」
「お前にとって同年代は犯罪者か何かかよ……。
あ、だからお前俺のことそんなに警戒してんのか!? まあ別にいいけど、あんまりつっかかるなよ。美海だって自分の兄貴が恨まれるのは良い気がしないだろうし、俺だっていい気持ちじゃないからな。敵を作るぞ」
「いえ、警戒というほどまでには。ただ、どんな人なのか気になって、ついつい見てしまっていました。それなのに、あなたはあたしのことに気づかないし……」
「声が小さすぎてきこえねーよ。なんて言ったんだ?」
「あなたなんて、あたしが見張っていなければ変質者も同然ですって言ったんです!」
「なんでだよ……」
ムキになって強い口調を使うと、篠宮は反対方向に寝返ってしまった。
本当にわけわからん……。
◇◇◇
次の週末、篠宮から提案があるとリビングで家族会議が開かれた。
出席者は俺と美海、そして篠宮の三人だ。
ただし、篠宮はどう頑張っても家族ではないので、家族会議と呼べないだろう。俺はそれが気になって仕方がない。
というか、ここには俺と本当の家族は誰一人いない。それは他二人も同様で、これはただの会議とも言えない話し合いの場である。
「それでは家族会議を始めます」
俺は篠宮に指摘することはできない。ここ一週間、篠宮とは色々あってまだ折り合いがついていない。
ゆえに、俺は篠宮の提案を否定することもできなければ、気まずく俯くしかないのである。
「はい!」
美海が乗り気なようで、高らかに挙手した。
「はい、なんでしょうか美海さん」
「家族会議って何を決めるのでしょうか!」
「よく聞いてくれました。美海さんにはマイナス100点差し上げましょう」
「マイナス……?」
突如、篠宮の目から光が消え、説教ムードへとエリアチェンジが行われる。まだ昼間だというのに、カーテンを閉め切った暗い部屋に変わったような錯覚を思わせる。
「議題といえばこれしかありません。美海さんに自立してもらうことです!!!」
だからマイナス100点なのか。自分で言うなと……。
「それなら俺も考えたけど、こいつオンチでまったく音が合わないのとおんなじくらい日常生活がオンチだぜ?」
「それで諦めたら美海さんはこの先籠の中の鳥から一生抜け出すことはできませんよ。それにあなたは兄なのですから、もう少し真面目に考えてください! 人は死の淵に立たされれば、苦手なことでもやってのけるものです。つまり、人間に不可能はないということ!」
例えが極端だけど……まあできないことはないとは思ったんだよな、俺も。着替えも風呂も、教えればできるはずなんだけど……。
「と、いうわけで、美海さんにはこれから日常生活に必要なあれこれを自分でできるようになってもらいます。着替えからはじまり、洗濯やお料理に至るまで、なんでもです」
「お、お料理……も?」
「最終的にはの話です。自分でなんでもできるようにならなければ、兄離れができないでしょう」
「わたし、お兄ちゃんから離れたくないよ!」
「それはダメです。よく考えてください、あなたがソレに奉仕できるのは食事だけ。ですがお料理もできるとなれば、また変わってくるというものです。いつもソレに世話になって分、恩返しができるようになるというのは、あなたにとってもプラスになるとは思いませんか?」
「ソレってなんだよ……」
「変態の方がよろしかったでしょうか?」
「ソレで結構です!」
「お兄ちゃん、わたしやるよ! お兄ちゃんのお世話係になる!」
「いや、篠宮が言ったのは――」
「し〜のみや〜!?」
「……篠宮様が言ったのは、例えであってお前が世話係になる必要はないんだぞ……」
篠宮に鼻で笑われた。
くそう……なんて扱いだ!!
「やだ! わたしはお兄ちゃんとずっと一緒にいたい。支え合えるようになりたいよ!」
「そ、そうか……」
率直な返答に思わず照れてしまう。美海のこういう素直さがずるいと思うのは俺だけじゃないだろう。
「…………では、早速計画を練りましょう。時は金なり、今日から美海さんをソレとあたしで教育します」
「へーい……」
「はい!」
それから美海にやってもらうこと、のリストが作られ、俺と篠宮はそれを基に美海を教育することになった。
俺は料理が得意ということはないが、一人暮らしできるだけの知恵は持っている。自炊もしていたし、役に立てることはある。篠宮が着替えや風呂など、女性にしか教えられないことをやってもらう。だから、その分俺は他で教えられることを教えようと思った。
篠宮は教え上手だ。丁寧で、優しくて、美海の成すことを理解しようとしながら……俺も嫉妬してしまうほどだ。
彼女たちはもうかなり仲良くなったようで、俺がいないところで笑っていると、まるで自分の家じゃないみたいに思える。
だけど、ふと顔を合わせると美海を先頭に俺を引き入れてくれるから、それで安心する。仲間外れをするつもりはないようだ。
美海が来てから約一週間。前とは生活がかなり変わったが、その変化を俺は心地よいと思ってしまっている。こうして美海になにかを教えるのも、篠宮に睨まれるのも、何も無かった俺には過ぎたことなのかもしれない。
夕食を終え、二人が風呂に入っている間、静寂の間にこれまでの生活を思い出して、そんなことを考えてしまった。
「ねえお兄ちゃん!」
「あ、ちょっと待って美海さん!!」
なにか嫌な予感のする声に振り返る。
すると美海が、バスタオル姿で浴室から出てきた。髪を後ろで巻き、体は熱を帯びてやや濡れている。やれやれ、と言いたくなってしまう姿だ。
「なにやってんだよ……」
兄として落ち着かせるのが義務だろう、と初めは思った。だが、それよりも、俺の視線はほとんど一点に集約されていた。
シミ一つないきめ細かな肌が露出しているのを理解し、では、と鎖骨あたりに目が行った。そこには豊かな胸の凹凸が描かれており、すんでのところで白いタオルに阻まれている。安堵すればいいのか。しかし、それはこちらに移動するまでに持たなかった。
両手を広げ、抱きつこうとしているのだろう体勢。それを他所に、身体を纏うタオルがハラリと緩んだ。
とほぼ同時、篠宮の「きゃっ!」という驚き声が響く。
尻目に視線が移れば、美海を追いかけてくる過程で彼女のタオルもはだけていく。
「なんっ!!?」
次の瞬間、美海の胸が横から追突してきた。視界の端に桃色の突起物が映り、柔らかい感触が顔を覆う。
ほのかに香るシャンプーか、ボディソープの匂いが脳を刺激する。
俺は美海に触れることができず、倒れてしまった。
腰を痛めながらも、瞼を開く。
美海が覆いかぶさるようにしていた。ニタニタと嬉しそうで楽しそうだ。
「うっ……お、襲われる!?」
「お兄ちゃん、わたしね、自分の髪の毛と体洗えた!!」
「…………お、おう……そうか」
なんでこいつは恥ずかしげもなく、裸で抱き着いて来るんだよ〰〰……!!?
「美海さん、早く戻って! 体隠す!」
「ええ!? お兄ちゃんに褒めてもらいたいのに〰〰!」
頬を薄紅色に染めた篠宮が美海を脱衣所に引っ張っていってくれた。
二人して恥ずかしくないのかよ……。
◇◇◇
美海は自分でできることを増やしていった。少しずつだが、それでも着実に成長する妹の姿に俺は内心嬉しかった。自分が教えていることならば特にだ。美海は物覚えが悪いわけじゃない。それが分かっただけでも収獲で、このままいけば美海が今回の目的の及第点を取るのはそう遠くないと思えた。
だけど、そうしている内にあの人がうちに訪れた――。
篠宮がまだ帰ってこない週末の昼下がり、家のチャイムが鳴った。
玄関に出ると――そこには懐かしい顔があった。
歳で言えば、もう四十近いだろうはずなのに、まったく皴の見えない綺麗な顔立ち。似たというなら、美海はこの人に似ただろう。しかしこの人は、美海と違って切れ長の目で厳かな印象を受ける。
このボブカットの女性が美海の母――九重古奈美さんだ。
一見怖い面持ちだけれど、昔の印象は優しくて暖かい雰囲気だった。今は、こうして面と向かって立つとなんともしがたい恐怖を覚える。
「久しぶりね、繋さん」
この人は昔から他人行儀に俺を繋”さん”と呼ぶ。俺はなんとなく壁を感じていて、それは今でも変わらない。
「あ……はい、久しぶりです……」
「美海はいるかしら?」
雰囲気とは裏腹に彼女の口調は柔和で徐々に警戒心も薄まっていくような不思議な感じがする。
俺は、彼女を中へ通した。
俺の隣に美海、テーブルを挟んだ向かいに古奈美さん。古奈美さんの後ろには石のような無表情の御坂さんが立っている。
ここは自分の家だというのに、まるで結婚報告をしにきたかのような気まずい雰囲気が漂っている。
それも美海のせいだろう。何故か俯いて、まるで叱られている子供のようだ。
「あの……美海を連れ帰りに来た、ということでしょうか?」
しんと静まった空気に耐えられず、俺はおずおずと訊ねる。
というか、それ以外ないと思うけど。まさかまた親父に会いに来た、なんて訳はないだろうし。
「ええ、まあ。それもありますが、改めて繋さんにご挨拶しなければならないと思い、なんとか日を開けてお迎えに参った次第です」
「あはは……本当に久しぶりですね。その、以前は本当に……」
「いいんですよ。私は母でしたし、あなたは私の息子でした。当たり前のことをしていただけですから」
「そ、そうですよね……」
「だから、もうあなたは美海の我侭に付き合う必要はないのです」
「え――」
「美海はもうあなたの妹でもなければ、家族でもないのですから。赤の他人も同然です。そんな他人の言う事を聞くのは不条理であり不義理です。あなたに美海に対する責任を負わせるわけにはいきません」
「お兄ちゃんは他人じゃないよ! お兄ちゃんは美海にとって――」
「美海!」
「っ……!」
美海が否定しようとしたが、古奈美さんは大声でそれを掻き消した。
美海はそれ以上声を出すことができず、俺に縋るように手を握ってくる。
古奈美さん……俺と美海を引き離すつもりなのか。古奈美さんにとって、俺たちとの思い出は苦いものなんだろうか……。
「繋さんには美海の世話を焼いて頂いて感謝しております。あの時の面影が、今でも鮮明に思い出されます。
ですが、あなたに美海を押し付けるような今の状況はよくありません。これ以上、あなたの重荷を増やしては、こちらも責任を負いかねますから」
「ということはやっぱり……」
「美海を連れて帰ります。これ以上、あなたに関わらせないよう釘を打っておきますので、ご心配ありません」
「やだ! わたしはお兄ちゃんと一緒にいるもん。お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌!」
「あなたは……もう我侭はやめるんじゃなかったの?」
「お兄ちゃんと一緒にいるためだったらなんだってするもん! だってもう一人は嫌だから!!」
「美海……」
美海は俺に抱き着いてきた。
それはいつもの甘えたものではなく、俺という居場所を誰にも盗られたくないかのようだ。
俺は、美海の言葉に色々な想像をしてしまった。
俺の前では明るくて誰でも世話をやきたがる無垢な少女のように振舞っている。でも本当の赤の他人、それこそ学校のクラスとかでは違うのだろうか。もしかしたら美海は一人ぼっちなんじゃないか――。
それはビジュアルなんて関係ない。他人が美海に対して好意的に接していても、それがイコール美海が良い気分になるというわけじゃない。
学校での美海がどんななのか、これまでの美海がどんなだったのか、俺は知らない。知ろうともしなかった……。
「古奈美さん……」
「なんでしょうか」
「暫く美海を預かってもいいでしょうか!」
俺は声を大きく覚悟を決めて叫んだ。
古奈美さんにとって、御坂さんにとって、他の誰にとって俺と美海が赤の他人だろうが関係ない。それは俺にとっての理由になりえない。
「繋さん……あなたはもう関係ない他人なんですよ!?」
「すみません、言い方を間違えました……。
もう少しだけ美海を預からせてください!!」
「え……?」
俺は頭を下げた。
美海を他人と言われたのが嫌だった。俺と美海の繋がりが無いものとされるのが嫌だった。
俺は美海の兄貴だ……。美海が嫌ならさせなきゃいい。とんだワガママ妹だけど、俺の妹なんだよ美海は!!
「お兄ちゃん……」
「今、こいつ頑張ってるんです。着替えとか、料理とかなんにもできなかったですけど、この前から一人で風呂に入れるようになったんです! まだ全然危なっかしいですけど、それでもこいつにとっては今が一番楽しいところだと思うんですよ。だって、なにかができるようになるって、すごいことじゃないですか。嬉しいじゃないですか。それにこいつ楽しそうに笑うんですよ。俺、もっと美海が楽しそうに笑ってるところ見ていたいんです。俺が教えたことをできるようになってもらいたいんですよ! だから、これはお願いです。頼みます、もう少しだけ俺が美海に教える機会をいただけないでしょうか!!」
隣で美海が俺と同じく頭を下げるのが分かった。
俺たちは、返答があるまで頭を下げ続けた。
暫くして、折れてくれたように零れる言葉を俺は聞き逃さなかった。
「……いいですよ」
「本当ですか!?」
ゆっくり顔を上げて機嫌を伺う。
変わらずの威厳ある面相だけれど、口角が少しだけ上がっていた。それはまるでなにかを楽しんでいるかのように柔らかい。
「こちらからお願いさせていただきます。お兄ちゃんですから、いいですよね」
「は、はいっ! もちろんです!」
あの頃の柔和な笑み。心温まる懐かしい表情だ。
俺は彼女の寛容な心に感謝しなくてはならないだろう。
美海は俺の顔を見て微笑み、俺も安心するように笑った。
繋がりと言えば古い繋がりだ。しかし確かな繋がりだった。おかげで俺はもう少しだけ孤独じゃなくなる。
あのバカな親父に、感謝しないとな。
◇
◇
◇
「お兄ちゃんありがとー!!!」
古奈美さんたちが帰った後、美海は豪快に抱き着いてきた。
感情爆発という感じで、それまで大人しかったのにいつもの美海に戻ったようだ。
「にひひ」と何かを堪能するかのように俺の胸に頬擦りしてくる。
「ああ……まあ、今更居なくなられても家が寂しくなるからな。お前ももう少しここで学ぶことがあるだろうし……」
「お兄ちゃん、ぎゅってして?」
言い訳がましくなってしまった俺の話そっちのけで、美海は甘えたそうに上目遣いをしてくる。まるでしなかったら泣いてしまいそうなしおらしい雰囲気だ。
こんなに甘えさせていいんだろうか……。
そう思いつつも、俺は美海抱き返す。
すると美海は「んふふ」と繰り返し小さく嬉し声を出していた。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん♪ お兄ちゃんはやっぱりお兄ちゃんだ。わたしね、お兄ちゃんとずっと一緒にいるからね。だから、お母さんのこともなんとかする」
「え、なんて言ったんだ?」
途中、声が小さすぎて聞こえなかったが、美海は「なんでもない」とまた笑みを浮かべた。
こいつはホント、いったい何歳なのか分からなくなる。
だけど、そんな甘えた口調や言葉がまるで昔がつい最近みたいな感覚にさせてくれて、俺も兄貴としての矜恃を思い出せる。
それに美海をあの時守れなかった俺の……。
◇◇◇
夏休みに入り、俺は受験モードまっしぐら――かと思われたのだが、妹のおねだりに始まり、友人の悪質な誘惑、最後の一発としてご近所さんからの脅し。
――いうなれば無理矢理に、俺は海へと連れてこられた。
暑い日差しが燦然と空から降り注ぐ今日。
何を考えているのか知らないが、海に接するビーチでは多くの観光客が賑わっている。家族連れに、俺たちと同じく友人グループで、もしくはデートと疎らである。
鬱陶しい日差しは海の砂を焼き、裸足で歩こうものなら火傷もの。だというのに、俺はなぜかビーチサンダルで来てしまった。少しでも砂に触れてしまうと痛いので、歩くだけで気をつけなければならない。
だって海行くって言ったらビーチサンダルじゃないですか? あってるでしょ。
しかし、彼女曰くそれは命を無駄にする行為だとか。
この胸の前で腕組みしながらドヤ顔を決める篠宮蒼華。
俺でさえ上着は着ているものの、下は水着だ。なのに完全防熱と言わんばかりの学校の長袖長ズボンの運動着という残念な格好。靴もランニングシューズで、風情というか――遊び心がまるで無い。もしこの中で何かを言うなら――。
「麦わら帽子似合ってるな」
呆れ果てた上に指摘するところとすれば、頭の上に乗っけているこれくらいしかない。
「まあね〜♪」
なんか楽しそう……なんで?
まあ、本人がいいならいいのだろう。正直、傍から見たら関わらなくていいくらいの格好なのだが。
俺の友人たち――美濃部、丸永、影山の三人は、周囲に見える彼たち曰く楽園の――美女のプロポーションを撫で回すように見ていた。
「白い肌に浮かぶ谷、いや二つの島を発見! 大きいです、これはかなり大きいですっ! もう一度言う、おっき――」
「何を言うか、こちらは色黒を更に黒い水着が包む素晴らしい丘を発見している! 我の見つけた御仁こそが秀逸だ!」
「なにやってんだよお前ら……」
呆れる以上に恥ずかしく、止める意味も込めて訊ねる。すると三人はいきいきしながら望遠レンズを下ろし、鼻血の垂れた情けない顔で振り返った。
ダメだコイツら……エロにしか興味無い変態集団だわ。
「うう……」と汚物でも見るような篠宮の表情には納得するしかない。
「お前ら、問題だけは起こさないでくれよ!」
「聞き捨てならないな繋氏!」
「氏……?」
アロハシャツを着て黒いサングラスを掛けた美濃部が、似合わない変な口調になり始めた。まるでどこかのオタクのような雰囲気で熱く語り始める。
「よいか、海へ来たならば見るべきは海でも砂浜でも、ましてやそこら辺を歩くカニでもない!!」
なんか始まったよ……。
篠宮が我関せずと他人を装い始めた。
俺一人で聞けと?
「海とは、ビーチとは、お姉さんが来るのだ……っ! 夏に向け、夜の女性は異性に見てもらうべく、ダイエットやヨガ、食事管理などを徹底し自分のプロポーションに気を遣って、その末にこの戦場へやって来る!!
見ろ! この熱き戦場に降り立った美を求めたる勇姿を! 我々はそれを見て、素晴らしい、綺麗だ、大好きですぅ――っと大声で叫ぶことで、彼女たちの努力を評価して差し上げるのだ!! それが漢というものだろう!!!」
かっこよさげに言っているが、正直言い訳にしか聞こえない。だが、そういった一面があるかもしれないと思わせるには十分な論理だ。
いいだろう美濃部。理解はしないが、見逃しはしよう!
ただ、俺は関係無い、関係無い。
「いや、違う!」
「なに!?」
影山だと!? このチャラ男、まさか……!?
「俺はおっぱいだ……。おっパイが見たい。ッッッパイが見たいのだ!!」
「なんて正直なんだ!!」
「いいか美濃部よ……。言い訳や建前など捨ておけ! 男として、女の胸を見たいというのは古代から存在する一つの欲求だ。人は欲求に抗うと餓死してしまう。ゆえに、俺は正直になるっ!!
――すぅ――ふぅ――お姉様、おっぱいを我が手に!!」
「アウトだよ!!」
大声で主張する影山を丸永が頭を叩いてツッこんでくれた。
俺は他人と思い込んで篠宮と共に離れることにした。
見なかったことにしよう……。
「お兄ちゃん!」
どこからともなく走ってきた美海が俺の腕を掴んできた。かと思えば、背中に隠れた。
「ん? ん?」
「なんだそいつはよ~。男連れだったのかあ?」
「そんな奴放っておいて、こっちで遊ぼうぜ」
上裸、色黒、金髪のチャラそうな、いかにもな男二人組が近づいてきた。特徴が同じ二人は背丈や骨格の違いはあれど、まるで恋人がやるようなお揃いをやっているようで、少し笑える風貌だった。
な、なんだよこいつら……。
「あの、なんなんですかあなたたちは!」
篠宮が俺たちの前に出て威嚇するように発言する。しかし、二人は篠宮の格好を下から上へと見て笑った。
「ぷはっ!」
「ぷぁはっ、なんだよお前その格好!? 海で運動着とかどこの学校の生徒ですかぁってか!? わりぃけど、俺たちキミみたいな残念な子には用がねーんだわ。どいてくれっかな」
「篠宮下がれ!」
俺は、篠宮の腕を引いて背中へと隠した。
なんだか嫌な予感がする。けど、妹同然の二人に何かあるわけにはいかない。
「すみません。どっちも俺の大切な妹なので、どっか行ってもらえますか」
「はあ? なに、お前その子の兄貴なわけ?」
「んじゃあお兄さん、あなたの妹ちゃん借りていきますね~」
俺は前に出て美海を後ろに隠した。
すると男たちの目が暗く移り変わる。俺を敵と認識したのが分かった。
「あん?」
「妹を渡す兄はいませんよ。だから、どっかいけって言ってんだよ……!!」
「っ――お兄ちゃん!」
声の調子から美海が安堵するのが判った。
心臓バクバク、脚ガクガクのお祭り騒ぎが起きているのを俺だけが知っている。
ああ……言っちまった……。
でも、美海がいなかったらこんな事言わなかったんだろうなって思う。力を貰えている気がする。
「んだとこのガキ……」
眼圧を強めた男が、次の瞬間物怖じした。
「ガキですけどなにか~?」
「なんですかコラ~?」
「コラ……!」
俺の後ろから美濃部、丸永、影山の三人がいかつい風貌に似合った、いかつい顔でやってくる。
傍から見ればヤクザと言っても通るナリだ。俺でも怖気づく。
中でも怖いのは丸永だ。大きな体格に身長、目付きはクマをも震え上がらせるほどに鋭利なものだ。
二人は引きつった笑みをしながらたたらを踏んだ。
「ひっ」というありきたりな声が漏れたと同時、俺は胸をなでおろした。
「ちょっと、あっちの女の子狙いにいかないか~?」
「そ、そうだな……。それがいい、な、なっ!」
「う、うん!」
二人は棒読みのセリフを残し、慌ただしく去っていった。
「んだよ、張り合いねえなあ。なあ?」
「俺の男気をこのビーチ中に広めたかったのだがなあ……。いやあ仕方が無い!」
「挑発しない。何もなくて良かったじゃないか」
丸永には同意見だ。こいつがいてくれて助かった。
暑い夏だ。けれど、今の一瞬は肝を冷やされた。
だんだんと体温が戻って来て、通常よりも暑く感じる。アドレナリンのせいだろう。
――夏だなあ。
「妹、大丈夫か繋?」
「お、おう……ありがとなお前ら……」
とは言ったものの、我が妹はさっきから俺のことを後ろから抱きしめて放してくれないのだが。今も後ろから前に回された手が俺の服を握り締めている。
俺から離れようとすれば、付いて来ながら再び俺の背中に柔らかくも温かい弾力を感じさせるのだ。
「おい、大丈夫か美海?」
「お、お兄ちゃん……」
声が震えている。よっぽど怖かったのだろう。
「水着が脱げそう……!!」
「そっちかっ!!?
し、篠宮! 篠宮さん! おおお、お願いします!!」
「……いいですけど」
篠宮の顔色が悪い。どちらかといえば機嫌が悪いという意味だが、篠宮もああいった輩は嫌悪する対象だったのだろう。
勇気を出して前に出てくれたけれど、あまり危ない真似はして欲しくない。俺が意見するのが遅いというのが原因だが、篠宮が俺たちのためにあそこまでしてくれるとは思わなかった。やっぱり篠宮はいい娘だ。
篠宮は美海の水着を着直すのに背後に回ってくれた。
暫くして、美海の水着も直せたということで、改めて美海の水着姿を拝むことができた。
純白のビキニ。それ以上でも以下でもない。ツインテールはいつも通りだし、服装が制服から水着に変わっただけ――。
そう済ませるには難しい圧倒的な迫力が、至る所から放たれている。
日差しに負けてしまいそうな絹の様に白い肌。引き締まったお腹周りや太股が露わとなり、なにより――ふくよかな胸部、谷間からは目が離れない。
おっぱ……。
先程の影山の言葉が脳裏をよぎる。
『白い肌に浮かぶ谷、いや二つの島を発見! 大きいです、これはかなり大きいですっ! もう一度言う、おっき――』
『おっパイが見たい。ッッッパイが見たいのだ!!』
待て待て待て待て…………俺はいつからおっぱい信者になったんだ!? これが思春期か。思春期の呪いなのかっ! 美海を見ようとすると、初めに胸に目が行ってしまう……! ちょっと目を離してまた見ようとすると、また目が! 目ッッッがッ!!!
やめろ! ダメだ! 俺は、俺は妹のおっぱいを見たいがために海に来たんじゃない。俺は皆とただ海を楽しむために来ただけだ――だけなんだッ!!
『おっパイが見たい。ッッッパイが見たいのだ!!』
違う! 俺は断じて、そんな邪な気持ちを表に出して妹に拒絶される兄では……兄なのか俺は!!?
「お兄ちゃん?」
おどおどしたおっぱい……ではなく美海が、上目遣いで見つめてきた。
「な、なにかね?」
「わたしの水着……どう?」
水着だと!?
い、いや、違う……水着だ。水着の話だ……水着……水着ってなんで局部しか隠していないんだ!? 水着の話イコールおっぱいの話しかできなくなるではないかっ!!
「い、いいんじゃないか……その、俺は好きだぞ」
――言ってしまった!!
い、いや落ち着け俺。俺が言ったのは水着に対してであって、おっぱいにじゃない。断じて美海のおっぱいが好きなどと口走ったわけじゃない!! 大丈夫だ、大丈夫のはず――。
冷たい視線を感じて見れば、篠宮が恨めしそうにこちらを見ていた。
ま、まさか……心を読まれているのか? 篠宮、お、お前まさか……俺がおっぱいに対して好きだと言ったと思っているのか!!?
「う、うん……よかった。ありがとうお兄ちゃん」
礼をいいながら恥ずかしそうに視線を逸らされる。
「お、おう……」
大丈夫だ。美海が嬉しそうだから、ひとまず大丈夫だ……。
どうしたんだよ俺の体……美海が女性に見えて仕方が無い。あれだけ小さくてただの妹でしかなかった美海が、まるで恋愛対象であるかのように胸がうるさく波打っている。
「やっぱり繋の妹……いいなあ」
寒気がした。篠宮とは別の意味で警戒しなければならないと鳥肌が立つ。
俺は美海を隠すように立った。
「な、なんだよ……女の子として言っただけだろ!」
警戒したのが分かったらしく、言い訳が聞こえるが、俺はどうしても美濃部の言い分が信じられない。
「丸永、美濃部のことをちゃんと見ていろよ! こいつには絶対近づけさせない!!」
「お、おう! 任せろ!」
丸永は完全な常識人だ。丸永だけは信頼できる。
俺は影山にも警戒するように視線を送った。しかし、彼は別の女性――もう少し大人の女性が目に映っていた。
「影山は熟女好きだからなあ……」
「……まさか影山の性癖に助けられる時が来るなんて。美濃部、お前だけは美海に近づけさせない!!」
「俺は犯罪者ですかあ!!? 助けてやったのにこの仕打ちはないぜ……」
「……それはありがたいと思っている。けど、変な目で見る輩を妹に近づけさせるのは、兄として許せるわけがない!! 近寄るな!!」
「な……変な目……」
美濃部はがっくりと肩を落とした。自慢のリーゼントも萎びれていく。
「ちょっと、シスコンさん!」
すると、篠宮に耳を引っ張られる。
「な、なにすんだよ篠宮!?」
「公然と何言っているんですか! 注目が集まっていますよ、シスコンの兄として!」
「げ……」
篠宮の言う通り注目が集まっていた。
◇◇◇
シスコン――それはシスターコンプレックスのことだ。姉や妹に対して強い愛着や執着を持つ人や兄弟に対して使われる言葉だ。
俺がシスコン……ありえないが、兄である以上はそう言われても仕方が無いだろう。妹を守る姿はかっこいいものだけれど、一方では行き過ぎた愛着ではないかと揶揄されるからだ。そう、今回の騒動もそれに起因している……はずだ。断じて俺がシスコンであるわけじゃない。
だが気になる点はある。俺は同級生や上級生の異性と話す時、正常ではいられない。基本的にたどたどしい日本語になるし、動揺してしまう。より大人な女性、たとえば中年くらいの女性――先生などであればその範疇ではない。けれど、美海や篠宮といった年下とは自然に話すことができるのだ。だから、もし俺が将来結婚するとすれば、年下だろうと常々思っている。そういうところがシスコンになりやすい原因なのかもしれない……。
「なにを考えているのですか?」
隣にいる篠宮が仏頂面で訊ねてきた。
ビーチパラソルの下で、俺は反省中である。海で遊ぶつもりがあるのか分からない篠宮と共に、美濃部、丸永、影山の三人と美海が海で遊ぶ様子を遠くから眺めていた。
「くっ……美濃部の奴、美海のおっぱい絶対見てやがる……と思っています」
「なんですか、聞き取れませんが」
もやもや任せにちょっと本音の小言を言ってみたが、聞き取られてなくて良かった。
「なんでもないです」
「それだからあなたはシスコンなんですよ。もっと他の女性を見てはどうですか」
確かにそうだ。何故俺は美濃部たちのように周辺にいる見目麗しい女性たちに目が行かないのだろう。年下の女性だってそこら中にいるはずなのに……。
やっぱりおっぱいなのか俺は!? 美海は、あの歳にしては大きい方だ。いや、大人と比べても上の下か中の上に入るほどかもしれない。
つまり、俺は年下でおっぱいの大きい女性とでないと愛せない男なのか!?
「新しい発見だ……」
「ということで――ひとまずはあたしを見てください」
「え――?」
篠宮は麦わら帽子を置くと、運動着を脱ぎ始めた。
立ち上がってズボンに手を掛け、何の躊躇いもなく下ろしていく。
「な、なにやってんだお前っ!!?」
俺は目を隠そうとしたが、着替えという事象に美海以外の人がすると思えば気にならざるを得なかった。他の人はどうやるのだろう――一瞬でその好奇心が芽吹き、完全に目を覆うことはせず、指の間から目を見開く。
「か、勘違いしないでください。水着ですっ!」
恥ずかしそうに言いながら、ズボンを脱ぎ、続いて上着も脱ぐ。
水着と判っていても、脱ぐという動作はドキドキするもので、俺も羞恥心で顔が熱くなった。
勘違いするだろうが……。つか、宣言するんなら、初めから水着だって言えってんだよ!
篠宮は脱ぎ終えると、上着とズボンを畳んで傍に置き、明後日の方を見ながら再び俺の隣に座った。
目が泳ぎ、口は波打つ。
かと思えば、唇を尖らせ訊ねてきた。
「ど、どうなんですか……その、感想くらい聞いてあげますけど?」
少々声が裏返っていた。彼女も彼女で恥ずかしいのだろうか……。
正直な感想としては――意外と篠宮もあるんだな、と思った。
美海と比べるとあれだが、谷間も色気も見劣りしない。むしろ色気という意味では何故か篠宮に軍配が上がる。
普段清楚な篠宮が青と白のスプライトビキニを着用しているというだけで、くるものがある。
「可愛い……けど……」
「へ?」
驚いたように篠宮はこちらに振り返った。
目がバッチリ合った。顔が近い。
息遣いも分かってしまうだろうと思った俺は息を止めた。鼻息の荒い男は嫌悪されてしまうだろうと気遣った結果だ。
「そ、そうですか……賢明な言葉選び感謝します」
いつもながら生意気な科白だが、前を向いた口元が緩んだのを見逃さなかった。
たとえ俺が意識の対象でない異性であっても、自分を褒められるのは嬉しいものだ。
それに、今の言葉に嘘はない。心から出た言葉だった。
確かに俺は胸が好きなのかもしれない。だがそれ以上に篠宮を見て感じたのが「可愛い」ということに間違いはない。
「言っておくけど、冗談とかじゃないからな。本当に、そう思って勝手に言葉が出ていたんだ」
「にへえ……おっと………うん……よし……繋さん、お願いがあるんですけど!」
「お、おう……?」
なんか『にへえ』って聞こえたような気がするが。気にしないのが篠宮のためだな。
篠宮は意を決したように俺の服の袖を掴みながら嘆願してくる。
「日焼け止めを……塗って頂けますか?」
「おう、任せろ! ……………………え、今なんて?」
人は時折思っても無いことを口にしてしまうものだ。
そこからの行動パターンは大きく二つに分かれる。一つ目は訂正すること。「今のは違うんです」と始め、理由もしくは言い訳を述べるか、気にしないよう言い含める。二つ目は訂正することができず、そのまま進めてしまうこと。
――篠宮は後者なのかもしれない。
レジャーシートの上で仰向けになり、神妙になった篠宮を前に俺はそう思った。
俺の手には日焼け止めが握り締められ、篠宮は薄く瞼を開き、抵抗せず楽にしている。
仰向けになるとおっぱいが若干小さく見えるのは重力によるものか――って、なに考えてんだ俺……!!
「……では……お願いします……」
「ほ、本当にいいのか……?」
「わたしは肌が弱いほうなので念入りにお願いします」
「ああ、だからさっきまで運動着で……」
念入りにとおっしゃいました!??
「実は昔、日差しで肌を焼いて痛い想いをしてから海が苦手になっていたんですが。数年前に来た時から日焼け止めをすれば大丈夫なのだと判り、それからは母にお願いしていたんです。でも、今日は頼める人がいなくて、だから仕方なく繋さんに……。繋さんはシスコンなので、変なことはしないと思われますので……」
念入り……念入りだと!!? 念入りということは? 念入りということですよね???
それはあれか、アレなのか? アレということですか篠宮さん、いえ、先生!!?
なんか変なテンションになってきた。いや、元々だけども! だって海だもの! ビーチだもの! 見えるものが見えて、いつも見えないもんが見えているからね!!
俺は了解を得た、ということでいいのか……いいんですよね。いいということにしていいんですよね!
俺は、考え事に耽って篠宮の言ったことがほとんど耳に入ってこなかった。
「聞いていますか? 早く始めてください。ずっと見られるのは恥ずかしいですから……」
「あ、はい……シスコンお兄ちゃんに任せなさい!!」
ノリに乗った俺は、見たこともないホストのお兄さんに似せていい声で言い切る。
「意気揚々ということじゃありませんけど!?」
俺は頼まれたのだ。美海の兄として、シスコンの兄として、だから裏切るわけにはいかない。
最初は――そうだな……腕にしよう。ここなら意識せずにやれるはず。
「やれる」だと!?
煩悩が昇って来そうになるところ、俺は額に日焼け止めのキャップを打ち付けた。
「な、なにしているんですか!?」
「い、いや……どうやって開けるのかなって……」
「大丈夫ですか……しっかりしてください。美海さんのお兄さんでしょう?」
「はい……」
あぶねえ……あまりにも無防備だからつい……耐えろ、俺! これは年下でも目が胸にいかないための修行と思うんだ!!
日焼け止めを手に出し、両手をこすり合わせる。
こんな感じで……。
「じゃあ失礼しまっすっす!!」
「はい……本当に大丈夫ですか……?」
次第に胡乱な目となっているような気がするが、俺はそんなの気にしないぜ!
「シスコンお兄ちゃんに任せろ♪」
「ちょっと気持ち悪いです……」
大丈夫であることを証明するためにノリに乗ったが、気持ち悪いと言われてしまった……。
白く細い左腕を両手で包んだ。
「んっ!」
「だ、大丈夫ですか――ッ!!??」
触れた途端震えあがる躰と共に零れる反応に悪寒がした。
「うるさいです。少し冷たかっただけじゃないですか、気にしないでください」
「で、ですよね……はあい」
無だ……無になれ、シスコンお兄ちゃん。
両手を上下させ、まんべんなく塗っていく。
柔らかな二の腕だが、家事をしているだけあってそれなりの硬さもあるか。手の平に近づくにつれて更に細くなっていく気がする。
指の間も塗った方がいいだろう。
そう安易に思ったが、指の間に指を入れるのが……なんとなく――。
「っ……」
嬌声が聞こえて咄嗟に顔を上げる。
「す、すみません……冷たかったのでつい……」
「……」
落ち着け……落ち着け……っ!!
その後両腕を終え、次に脚へと移る。
「なかなかいいじゃないですか。……その調子です」
なんか……変なゲームやっているみたい!
いや違う……相手は篠宮だ。ゲームじゃない。可愛くは――
篠宮の安堵するような顔を見て俺は思った。
――可愛すぎる!!
「どうしました?」
「い、いや、次足行くぞ」
「あ、はい……お願いします」
ふう……ゲームじゃなくて医者の手術の真似事をしていると思いこめ。俺は医者だ……。
昔美海にやらされたじゃないか……。あの時、俺はほとんど患者役だった気もするが。気のせいだ。
足の裏はこそばゆかったらしく、少し暴れた。
「あはっ……あははははは! ちょ、繋さんそこは……」
「へ、へんな声出すなよ……!」
こっちの身になって貰いたいってーの!
続いて脹脛、太股となにもなく終わるかに思えたが――。
太股ってどこまでやればいいんだあ……!!?
いいのか……行き止まりまで行っていいんですか!?
「あの、繋さん……そこは自分でやりますから……」
「はい……」
じゃあ全部自分でやってもらえませんかっ!!
半泣きしながら思ったけれど、ここまでやっておいてそうは言えなかった。
「じゃあ次はお腹をお願いします」
「お、お腹……」
俺は篠宮の腹部近くに移動し、日焼け止めを付け足した。
お臍近くに手を置くと、また篠宮は冷たいゆえの反応を漏らす。
少し慣れた……。
篠宮を美海と思うのが一番楽かもしれない。美海の世話をする時もなにかと反応があるしな。
しかし、その先に聳える丘については触れられん。俺は、犯罪者にだけはなりたくない……!!
「きゃあ!!」
遠くで悲鳴が聞こえた。
俺は美海かと思い振り返るが、悲鳴を出したのは美海じゃなかった。一般女性が転んだところだった。
なんだ、美海じゃなかったか。よかった……。
美海のやつは――いた。
「!!?」
美海は丁度美濃部と影山の二人に立ち上がらせられるところだった。おそらく転倒したのだろう。二人に腕を取られ、申し訳なさそうに立ち上がっている。
俺の中でなにか燃え上がるものがあった。怒りと恐怖と猜疑心だ。
あいつら……まさか美海を……!!
俺がいない間になにかにかこつけて美海の体触ろうとしてんのか!? 許せん!!
「ちょ、やめ……繋さん……!!」
篠宮が俺の腕を掴んできた。
俺はそこで初めて自分の手の平の感触を実感した。
柔らかく手に吸い付くような触り心地。日焼け止めのおかげでぬるぬる感もある中、押し込めば反発して返ってくるまずまずの弾力。指の間に掛かる突起物に触れようものなら、篠宮が啜り出す息が漏れ出す。
俺の手はそれを手に馴染ませるかのように転がしていた。
「ぶっ……」
俺は思わず噴き出したが、手がビキニの中から抜け出してくれない。
死ぬ前にこの心地良い感触を忘れないために揉んで、揉んで、揉んだ……。
「こ、この……シスコン! 変態! 朴念仁!!」
案の定、篠宮が胸を押さえながら殴ってきた。固く握りしめられた拳は、俺の顔面にクリーンヒットし、殴り倒される。
顔を羞恥に染める篠宮は声ともならな声をあげ、涙目ながらにキッと睨み付けてきた。
「他の人の胸見ながらあたしの胸を揉むってどういうことですかっ!? あなたは本当に、ほんっとうに最低な人ですね!!
もう知らない、嫌い、大っ嫌いですっ!!」
そう捲し立て、篠宮は靴を履いて走り去っていく。
「ちょ、待って! 篠宮!!」
なんとか必死に呼びかけるが、篠宮は涙を流しながら一目散に遠のいていく。
ビーチサンダルを履き、俺は美海の方を一瞥した。
一瞬美海と目が合った。篠宮がどこかに行くところも見られただろう。戸惑いが見られた。
俺は篠宮を追いかけることにした。
砂浜は焼けるように熱く、走ろうものならビーチサンダルの横から砂が入って痛熱い。
「篠宮待てって! 篠宮!!」
俺、最低だ。なんでこうも篠宮がいるとやらかしちまうんだよ!!
途中、篠宮が足を止めた。
誰かにぶつかったようで後退っている。
良かった……。
「しのみ――や……!!?」
走っている最中にビーチサンダルの先端が砂にハマってコケてしまった。
すると、目の前に篠宮がいた。
心配しての追走。そこに邪心は微塵も無かったはずが、いざ目の前に篠宮の尻が現れると、つい見てしまう。水着がくい込んだラインが綺麗で見惚れそうになってしまった。
俺は咄嗟に首を九十度回転させ、雑念を振り払う。
「し、篠宮その……さっきは……」
申し訳なさに謝罪しようとするが、聞き覚えのある声が聞こえてハッとする。
「なんだ、さっきのお兄様じゃねえか」
顔を上げると、さっき美海を追いかけていた二人組がニヤニヤと佇んでいた。
「あーれ、この子さっきの運動着ちゃんじゃん? なんだ水着中に着てたのか!」
「うわマジだ……さっきは麦わら帽子で全然顔見えなかったけど、俺けっこうタイプかも!」
「さっきから良さげな娘いなかったしよ。この娘でいいんじゃね?」
「おう、全然アリだわ。つか俺の彼女にすんわ!」
「な、なんですか……近寄らないでください!!」
「なに、泣いてるの? もしかしてお兄様に泣かされちゃった? そんなら俺が慰めてあげるから、こっち来なよ」
「っ……待て! 俺の妹に近寄るなって言っただろ!!」
男が無理矢理篠宮の手を取ったのを見て、焦燥感を煽られた俺は間に割って入った。
「……なに。俺たちは泣いてる女の子に奉仕しようとしただけですけど。なんか文句あるんすか?」
「大ありだよ! それは兄の務めだ、アンタたちに用はないんだよ!」
「……繋さん……」
と、篠宮を妹扱いして大見栄を張ってしまったが、言外では小心者もいいところだった。
足が震えるのを抑えようとするが、できている自信はまったくない。声も震えている。だが、そんなことは気にしていられなかった。
うわあ……やあべ、殺されるわ俺……。やっちまった……なんでいつもいつも口だけでなんにもできないんだろ。
嗚呼……こんな事になるなら、マジで家で勉強してた方がよかっ……。
「兄貴面で邪魔してんじゃねえよ゛!!」
肩を押され、たじろぐ。だけどなんとか倒れはしなかった。
お、おお……こいつ、それほど力強くないぞ。
俺が戻ってくると、男はたたらを踏んだ。戦々恐々とする面持ちにたじろいだのだろう反応である。
「俺の手を取れ、逃げるぞ!!」
「は、はい!」
差し出した手を篠宮は握ってくれた。
俺は篠宮の手を引き、男たちの傍から逃げるように走った。そして騒然とした群衆の中に紛れ込んだ。
「あ、ちょっと待て!」
遠くに聞こえる男の声がどんどん遠ざかっていくのを感じた。
けれど、俺は一応篠宮を連れて浅瀬にある大きな岩陰へと隠れたのだった。
◇
◇
◇
俺も篠宮も息を切らせていた。全然落ち着かない呼吸の中、顔を見合わせて笑い合った。
よかった……なんとか一人でも篠宮も守ることができた。
俺は、上着を脱いで篠宮に羽織らせる。
「え……?」
「まだ日焼け止め塗り終えて無かっただろ。途中でどっか行くなよな……」
我ながらキザ、だったかもしれない。
すると篠宮はニヤけながら揶揄ってきた。
「……誰が妹なんですか?」
「あ、あはは……いいだろ。歳は美海と同じだし、妹みたいなもんじゃないか」
「お兄さんの妹とか、色々と大変そうでわたしは嫌ですけど!」
お、お兄さん……か。
「俺は、篠宮が妹だったらよかったな……」
「え、な、なんでですか……」
「美海の面倒見てくれるだろ」
「……はあ……」
篠宮はがっかりするようにしてため息を吐いた。
「な、なんだよ。いいだろ! お前ら二人姉妹みたいに仲良いじゃんか!」
「まあ、いいですけど……。
それと一応お礼を言っておきますね。ありがとうございます」
「お前を守れなかったらお前の親に顔向けできないからな。ここまで付き合って貰ってるし、当然だろ。お礼なんか要らねーよ」
「あたしが感謝するなんてめったにないんですから、素直に受け取ってください。さもないと、また殴り飛ばしますよ」
「……どんな感謝の仕方だよ……」
その時、俺はさっきの不祥事を思い出した。殴り飛ばすという科白で、さっき殴り飛ばされたことを思い出したのだ。
篠宮も同じく一連の騒動で忘れてしまっていたが、何故こんな状況になっているのかを思い出し、顔を赤らめた。
「そ、その……さっきは本当にごめん。俺がマジで最低な奴だってのは分かり切ってることだけど、それでもあれはわざとじゃないんだ。本当にごめん……」
「謝って済んだら、警察はいりませんよ」
「……」
「仕方ないですね。では、さっき助けてくれたので許してあげます。でも、今度あんなことしたら、次は責任を取って貰いますから覚悟してください!」
「お、おう! 任せろ!」
ん? なんの責任だって??
「……またやる気なんですか!?」
「ち、ちが……今のはそういう意味じゃなくて……」
「くすっ、冗談ですよ」
「あ……あはははは」
この後、俺と篠宮は笑い合いながら仲直りした後、皆と合流した。
その後は何事もなく、俺たちは六人で海を満喫したのだった。
◇◇◇
朝目が覚めると、金縛りにあったかのように体が重かった。
カーテンの隙間からは日差しが見える。
もう朝だというのに金縛り……。俺は相当疲れているのか?
海で遊んでの筋肉痛かとも思ったが、視線を下へ向けてようやく原因が分かった。
美海が仰向けに寝ている俺の上で寝ていた。
昨日、篠宮は美海を風呂に入れた後、家に帰って行った。俺も美海のことを気に掛ける間もなく泥のように眠ってしまった。ゆえに、美海が俺の部屋に来たことに気づかなかったのだ。
こいつ、いい加減一人で寝れるようになれよな……。
「おい、美海……」
なんとか自分の体を美海の下から引きずり出し、体を起こす。
美海の頬をつついて起こそうとするが、寝心地良さそうな顔をして気づく様子はない。
今度は頬をつねってみる。柔らかく滑らかで艶のある肌は触り心地がいい。
暫くつねった頬を動かしてみるが。しかし、やはり起きることはなかった。
「おい美海……おーい! おいって言ってんだろ。我儘妹の美海ー……。マジで起きないなこいつ。
……おい、いいのか? 早く起きないとイタズラしちゃうぞ。いいのか? いいんだな?」
「いいわけないでしょう」
「!!?」
部屋の扉から説教混じりな声が聞こえてくる。
白のワンピース姿の篠宮が腕を組んで立っていた。
相変わらずの顰め面だ。
「い、いつからいたんだ!?」
「イタズラって何をしようとしたんですか繋さん……?」
笑った顔が怖い。
一番聞かれたくないセリフを一番聞かれたくない人に聞かれてしまった。
「あ、えっと……じょ、冗談に決まってるだろ! こう言えば起きるかなって、そう思っただけで……」
「朝から変態晒さないでくれますか変態シスコン勇者。繋さんはみっちり情操教育について学ぶ必要があると思います。美海さんに変なことを教えないでください!」
変態シスコン勇者ってなんだよ……。
「わ、わかってるって……。だからみっちりとか、教育とかは要らないからな?」
「後で覚えておいてくださいね」
「うっ……。
で、なんで朝っぱらからお前がいるんだよ……」
「美海さんに着替えを教えるためです。美海さんには早く自立できてもらわないと困りますから」
「ん? なんで篠宮が困るんだ?」
「はい!? は、早くできるようになってもらわないと、あなたに何されるか分からないからに決まってます!!」
声が裏返った。そんなに驚く質問だったのだろうか?
「……もし本当に俺にその気があったらとっくにやってるだろ」
「や、やってるんですか……」
「うえ」と聞こえてきそうな、青ざめた表情になる篠宮。まるで腐臭をばらまくゲテモノを見ているかのような蔑みを感じる。
「おいおい、人をゴミみたいに見るのやめろよ……」
「あなたを一瞬でもお兄さんと呼称した過去のわたしをぶん殴りたくなっただけです」
「お、おう……手加減してあげなさい?」
「ん……二人共おはよう……」
美海が漸く目を擦りながら体を起こした。
パジャマがはだけ、隙間から下着が見えてしまっている。
「ちょ、おま……!!」
次の瞬間、篠宮に頭部を思い切り叩かれた。
「いったー! な、なにすんだ篠宮! これは俺のせいじゃねーだろ!?」
「これとか言って見ないでください! 変態! シスコン! お兄ちゃん!!」
「変態じゃな――お兄ちゃんですけど!?」
「シスコンは否定しないんですね……」
「あ……し、シスコンではないですよ……」
「……」
篠宮のじっとりとした眼差しは俺を罪人へと陥れる。
今のは変態じゃなく、不可抗力じゃないですかー…………。
◇◇◇
「繋さん、いくつか届け物が来ていますよ」
家に入る時に郵便受けから取ってきてくれたのだろう郵便物を篠宮が手渡してきた。
封筒やハガキ、中には手紙もあった。ご丁寧に【K】の文字があしらわれたシーリングスタンプが押されている。珍しく俺宛てのようだ。
この家の家主は親父だから、親父宛てが多いのだ。
ハガキは親父からだったが、俺はそれを無関心に放り投げる。
「なんですかあのハガキ……」
篠宮が訝しみながら訊ねるが、俺は「気にするな」と自分に言い聞かせるようにして答えた。
手紙の方を見てみると、裏に九重古奈美と書いてあった。
その名前を見た途端、悪寒がよぎった。
「美海の……古奈美さんからだ」
「お母さん?」
「美海さんの、ということは繋さんのお母さんでもあるわけですよね。名前で呼んでいるんですか?」
「あ、ああ……」
まだ篠宮には複雑な家族事情を話していない。とりあえずの返答をしておくことにした。
中には一通の文がある。
俺に宛てたのだから、まずは俺一人で読むべきだろう。
美海をいい加減返せ、とか勉強させろ、とか書いてあんのかな……。
◇
◇
◇
一読したところ、内容は――
近日、また家へやってきて美海がどれほど成長しているか見せてもらうということだ。日付は別途連絡があるみたいだが、気になるのは自立だけじゃなく勉強の方も見るらしい。
「これはなんですか……? 美海さん、誰かにテストされるのでしょうか?」
静かに背後に忍び寄っていた篠宮が、手紙を読んでいた。
美海についての内容が書いてあるから篠宮には見られたくなかった。俺は驚いて手紙を隠した。
「な、何見てんだよ!?」
「そんなに隠そうとしていたら気になりますよ」
「だったら見るなよ!」
「むっ、そんなに拒絶されるとなにやましい事がないか勘ぐってしまいますよ」
「お前は嫉妬深い女房かよ……」
「だ、誰があなたのお嫁さんなんてなるものですかっ!」
「そんなこと言ってねえぞ!!?」
「お兄ちゃん……お母さんなんて言ってたの!?」
美海が服の裾を引っ張ってごねていた。
「あ? ああ……」
俺は美海と篠宮に手紙の内容を伝えた。ただ一文を除いて。
手紙の内容はそれだけじゃなかった。もし、美海が合格でなければ、という注釈がついていたのだ。しかし、それを俺は見なかったことにした。
「ということであれば、美海さんのお勉強も少し駆け足にした方が良さそうですね」
「そうだな」
「じゃあまずはお兄ちゃんと――」
「お着替えですね」
「だな。じゃあ篠宮、頼んだぞ」
「分かりました。美海さん、脱衣所に行きますよ」
「え、ええ――!? お、お兄ちゃんは?」
「俺は……お前が一人で着替えできるようになってからかな。一番そこが難題みたいだし」
「だったら、お兄ちゃんと着替えする!」
「ダメに決まってます!」
「……俺は、まあ……男だからなあ」
「じゃ、じゃあ……」
「ダメですよ、お兄さ――繋さんを困らせては。我侭ばかり言っていると、手紙の約束を果たせませんからね」
「で、でも……」
「じゃあ終わったら三人でなんかゲームでもしようぜ。それじゃダメか?」
「……うん……わかった。約束だからね」
寂しげに笑う美海。
我侭というか、甘えん坊が偶に爆発することがある。今がそうなんだろう。我慢させることになったが、おそらく母親が忙しくて心の拠り所が無かった分、俺に甘えたいんだろう。後で甘えさせてやるか。
◇◇◇
俺がテレビを見ていると、風呂から上がってきた美海が白いぶかぶかのシャツ一枚で静かに近付いてきた。
ぐずっているようだ。しかし甘えたいらしく、俺の膝の上に頭を乗せて横になった。
尚も俺はテレビに夢中だった。テレビに映っているソロアイドル――Aneが歌う歌番組を録画していたものだ。
彼女の歌に合わせ、鼻歌まじりに俺は横に揺れていた。
「お兄ちゃんのいじわる……。そんなにテレビの中の人がいいの?」
「え……あのなあ……」
「なんですか! なんですか! もしかしてアネちゃんですか!!?」
肌が火照り上がった篠宮が音に食い付いてにじり寄って来た。
「ああ……Aneちゃんですぅ! 可愛い! 顔小さい! 耳がほぐれちゃいますう!!」
……なんだこの篠宮の変わりよう……。
お前も顔小さいだろうが。何言ってんだ……。
恍惚な表情を浮かべ、テレビに食いつている。おかげで見えないんだが……。
「おい、テレビは離れて見るもんだぞ。美海がいるんだ、変なこと教えんなよ」
「だ、黙っててください! Aneちゃんの美声が聞こえないじゃないですか。バカなんですか!?」
美海を我侭と言えないくらいの我侭だ……!?
かと思えば、篠宮は鼻歌まじりに横に揺れる。テレビの音量も上げ、やりたい放題。
俺と同じことしてる……。
「むぅ、お兄ちゃん!」
下から胸倉を掴まれ、引っ張られる。
俺は、美海に覆いかぶさるような形となった。美海の下から膝が抜け、背中を打っているようで涙目になっている。
まずい……これは俺が襲っているみたいになっているじゃんか――!!?
篠宮にはバレていないようだ。テレビに夢中でこっちのことはそっちのけだ。
よし、まずは離れ――
離れようとしたが、美海が俺の頭の後ろに両手を置き、離れることができない。
「な、なんだよ……お前今日おかしいぞ。どうかしたのか?」
「だって……お兄ちゃんが他の娘ばかり見るから……。昨日だって、蒼華ちゃんと手繋いで走ってた……」
海での事、見られてたのか……?
脈動が早まる。俺は咄嗟に言い訳がましくなってしまった。
「べ、別に篠宮のことだけかまってるわけじゃないだろ。お前の面倒も見てるじゃないか。朝だって……」
「わたしは――お兄ちゃんが他の娘と楽しそうにしてるの嫌なの! お兄ちゃんがわたしのお兄ちゃんじゃなくなっちゃうような気がして……」
そんなこと考えてたのか……。
「……そんなわけないだろ。俺はお前の兄貴だよ、誰だなんと言ってもな。もしお前が嫌なら、無理に兄貴面するつもりはねえけどな」
「…………それなら、キスしてよ」
「…………っ……はあ!!?」
聞き間違いじゃないよな? Aneちゃんの曲のフレーズじゃないよな?
おもむろに瞼を閉じ、唇を差し出してきた。
お、おい……冗談だよな? なんか言えよ……驚いたらいいのか? そしたら終わるのか?
「な、なに言ってんだよ。俺たち兄妹だろ? そんなこと言われても……」
頑なに目を開こうとしない美海。
本当に俺にキスを要求してるってのか……?
――生を受けてから約18年。彼女がいたことはあるかと問われれば、俺の答えは勿論NOだ。しかし、キスをしたことはあるかという問に対して、俺はYESと答える。ファーストキスは既に済ませているのだ。
ただ――その相手は誰かと問われると、俺は言葉を失ってしまう。
俺のファーストキスの相手は九重美海――ここにいる義妹だ。
美海が三歳で、俺は五歳。子供のお遊びのような感覚だった。家で見た映画の真似をした記憶がある。
だから――既に一度しているのなら、俺は美海とまたキスをしてもいいんじゃないだろうか。
――いいや、ダメだ!!
おお、俺の理性。まだいたのか!?
妹の、美海の将来を考えるんだ! 変な関係をこの歳で作ると、後にしこりを残すぞ!
……まあ、そうだよな……。
「――美海、やめろ。俺は、お前とキスしない」
「っ……」
美海の目から涙が零れる。涙は横に流れ、潤んだ瞳は俺を罪人と蔑むようだった。
俺は罪悪感に駆られた。おそらくどっちを選んでも俺は自分を卑下しただろう。
それでも俺は、選ばなければいけないのなら、何度でもこの選択をしないといけない。なぜなら俺は――
「俺は――兄貴だからな」
「お兄ちゃんなんて大嫌い!!」
美海は俺の胸を押すと、逃げ出すように家を出て行ってしまった。
…………美海……。
「……何をしているんですか、繋さん……? 美海さんが血相を変えて出ていったようですが――兄妹喧嘩でもしたんですか?」
呆気にとられた篠宮に訊ねられ、一瞬答えを失くしていたが、直ぐに決断する。
「……まあ、そんな所だ。ちょっと出てくるから、お前はアネちゃんの勇姿を見届けてろ」
「はい……それはもちろんですけど……。喧嘩をしたのでしたら早く解決したほうがいいですよ。お二人は、ここで数少ない家族なのでしょう?」
「言われなくても分かってるよ」
篠宮も少しはなにか感づいているだろう。けれど、それを言わないということは、あいつなりの気遣いだ。家にまで上がり込むが、家族の事情にまでは踏み込まない。あいつもあいつで何を考えてんのかわかんねーな。
◇◇◇
朝起きると、親父も母さんも家にいなかった。親父も母さんも仕事で、それが当たり前の日常になりつつあった。
俺は6歳で、美海は4歳。世話役がいるはずだったが、どうやら買い物に出ているらしくその時は俺と美海の二人だけが家に取り残される形となっていた。
美海が風邪を引いたらしくて、美海の額には熱冷ますシートが付けられていた。
その日、俺は近所の子供と遊ぶ約束をしていて。美海はそのうち世話役が返ってくるだろうって思って……。
――美海を放って、俺は家を出た。
その日はいつも以上に暑くて、外に出れば夏らしい暑さと湿っぽさで鬱陶しいとまで思った。
友達と遊んでいるとどれくらい時間が経ったか正確にはわからなかったけれど、気づけば日が傾いていて、俺は踵を返すことになった。
その道中、救急車が近くに来ていることが人混みの様子と音で気付いた。
近づいてみると、どうやら女の子が道端で倒れていたらしい。
その原因が風邪だと聞いて俺は、はっとした。
美海はいつも俺の後ろについてきた。だから友人は俺と美海はいつもセットで、いないと逆に不思議に思うほどだった。
家を出る時、美海が起きたのがわかった。目も合った。
けれど、あいつは風邪だからどうせついてきやしないって勝手に思って。だけどあいつは俺のこと追いかけて。その途中であいつは……。
――俺のせいだった。
俺のせいだったのに、問い詰められたのはその日世話役になってた人だった。
俺はその人が追い詰められている間もずっと自分を卑下していた――。
◇◇◇
公園のベンチに座り込む一人の少女の姿は稀有に映った。
その愛くるしいまでの美貌はさておき、涙ぐみながら俯く姿は儚いもので、母性本能がかき乱される。
周辺の道行く男性たちは彼女を気遣うべく足を向けようとした。
だが、その必要を失くすべく俺は急ぎ声を掛けた。
「美海!!」
この公園に入る姿を見たわけじゃなかったが、近くの公園といえばここしかない。美海はあの時も公園の傍にいた。おそらく美海にとって思い出が強い場所だろうから、探す場所の第一目標だった。
美海は俺の顔を見るや直ぐに反対を向き直り、下を向く。
「ぐす……何しに来たの」
「……来ない訳にはいかねーだろ。俺はお前の兄貴だぞ」
「嫌いって言ったもん!」
「たかが嫌いの一言で、俺がどっかに行くと思ってんのかよ。こう見えて俺は、シスコンらしいぞ」
「……へ?」
振り返り際、美海の目に涙が浮かんでいるのが見える。
かと思えば、首元に冷たい感覚があった。すると次々と雨が降り始めた。
「風邪引くといけないから、あっちに行くぞ」
そう言って、俺は屋根のあるベンチを指さした。
家族ぐるみの人たちや子供たちが傘をさしながら掃けていく所、俺たちは公園に残ることを選んだ。
急に強くなった雨は屋根に当たる音がうるさいほどだった。
屋根を支える一本の柱を囲うようにできたベンチに、俺と美海は人一人分の隙間を空けて座った。
聞こえてくるのは雨音だけで、美海の方からは何もない。俺からも何も言うことはなかった。
いつ雨がやむだろう、そんなことしか考えられない自分が嫌になり、俺は美海の向ける背中を見た。
先程少し雨が当たったせいで、白シャツが透けていた。背中からはブラのホックが丸見えで、俺は再び首を九十度戻す。
こいつ……中下着だけなのかよ! まあ暑いし、普通なのか?
いやいやいや、今考えるのはそこじゃねえだろ! なんなんだよこの空気。誰なんですかこの美海は!?
まさか美海とこんな居心地の悪い空気を共にする日が来るなんて思わなかった。美海は純粋で、社会知らずで、いつも明るい空気だけだと思ってたのに。
普段こいつとの距離が近すぎて忘れてるけど、俺は兄貴なのに美海の気持ちが全然分からない……。
「なあ美海……」
呼び掛けると、美海の肩が若干揺れた。
「お前、ここに来る前はどういう生活してたんだよ?
……いや、ほら、俺全然お前のこと知らないし。どうなのかなって……」
美海は暫く黙った後、ほつほつと話し始めた。
「…………何度も、引っ越ししてたよ。お母さんも一度再婚したし、仕事関係もあって……。お世話係も代わる代わるで。だから、わたしが信頼できる人はそんなに多くなくて……学校でも一人ぼっち。中学の時には部活も始めようとしたんだけど、やっぱり引っ越ししちゃうと途中から入ることになるから、気まずくて。友達と呼べる人は多くなかったんだ……。
寂しくなる度にお兄ちゃんのこと思い出してた。お兄ちゃんが近くにいたら、きっと一緒にいてくれるのになって……」
声色と雰囲気が暗くなっていく。以前を思い出して空いた穴がまた拡がっているんじゃないかと不安になる。
「っ……俺さ、お前の兄貴になれて凄い嬉しいんだぜ! お前と一緒にいると、マジで気が楽っていうか……ほら、俺って何も取柄もないし、モテないし……。だから、なんかお前だけは俺のことを認めてくれてる感じがしてよ。助かってるっていうか、安心するんだぜホントに。
でも、それに甘えるわけにはいかないと思うんだ。そんなことしたら、俺がお前のかあさ――古奈美さんにぶん殴られるだろ。親父にも顔向けできねえし、だから――」
だから――その続きを遮られるように服を引っ張られた。
振り返ると空いていた間が消えていて、すぐそこに美海がいた。雨に濡れたシャツはブラの花の絵柄まで透けている。
驚きと恥ずかしさで身を引こうとしたが、その瞬間に胸倉を掴まれた。
「いいじゃん……怒られてよ! 美海のために怒られて!!」
――不意打ちだった。
不思議と抵抗できなかった。
俺は美海に唇を奪われていた――。
あれほど葛藤に葛藤を重ね、なんとか守った美海の唇が自分の浅はかな意志によって奪われてしまった。
美海の目から涙が溢れだしていた。
ここに雨は降ってこない。けれど、彼女の頬はまるで雨に濡れているかのように涙を受けていた。
「なん……!!?」
「しょうがないじゃん……。だって、お兄ちゃんのこと、好きで好きでしょうがないんだもん……! 他の女の子に目を奪われてたら胸がチクチクするんだもん! お兄ちゃんと蒼華ちゃんが仲良くしてるだけでもやもやするんだもん! お兄ちゃんと一緒にいられないだけで寂しいんだもん!!
――お兄ちゃんのせいだよ。お兄ちゃんがわたしの傍からいなくなるから……!!」
俺は、妹が分からない。
だけどおそらく、これは妹の言動じゃない。美海は本当は、妹じゃない。もはや義理の妹ですらない。
だったらいいんじゃないのか――。
俺は、美海を妹と思って、妹にしてはいけないことをしてはいけないのだと思っていた。
だけどこの長い月日は、美海を妹だと思いこもうといていた俺にでさえ長すぎた。
俺と美海が兄妹だったのはついこの前のことじゃない。最後に俺と美海が兄妹だったのはもう十年以上も、半生も前の話だ。久しぶりに会って、美海が美海であることさえ気づくのが遅れた。距離感だって忘れてた。それを俺は――認めたくなかっただけじゃないのか?
「わたしの中にあるのは、お兄ちゃんのことだけだよ」
ああ……ずるい――と思った。
今そんなことを言われたら、俺は美海を拒めない。
美海の体は冷たかったが、それにしては柔らかくて触れる感触は嫌じゃない。俺は自然と美海の体を抱きしめていた。
なにも言えない。答えられる気はしない。だからこれは俺の我侭だ。
「美海……バカな兄貴でごめんな……」
「お兄ちゃんはバカじゃないよ。だってお兄ちゃんはまた、わたしのことを救ってくれたもん。海での事、嬉しかった。ありがとう」
俺たちは兄妹だった。
だけどそれは――十数年も前の話。
今の俺と美海の関係は、兄妹じゃない。ただの赤の他人で、所謂……ただの男と女だ。そして、そこには兄妹以上の想いがある。
ただそれだけの話だ。
もう俺と美海の間に何者かの入る隙間はない。美海は俺から離れないと言いたげに腕を絡めている。表情に憂いもなく、安心感に満ちていた。
「美海、俺のことはもうお兄ちゃんなんて呼ぶな」
「え?」
「繋でいい。俺ももうお前のこと、妹としては見ないから。そしたら少しはお互いその……変な壁みたいなのなくせるだろ? たぶん……。
だけど勘違いすんなよ、俺は兄貴じゃなくてもお前のことちゃんと守るし、世話してやるからな……!」
「――うん! おに……えっと繋くん!」
少し照れるな……美海に名前で呼ばれるの。
「じゃあ繋くんは、わたしのことミーたんって呼んで!」
「はあ!? な、なんで!?」
「だって好き同士だし、いいでしょ?」
「す、好き同士なわけじゃねえ!」
「え、違うの!?」
しゅんと一気にしおらしくなる美海。
「いや、えっと……その……だから、俺はお前のこと好きになるように努力するってだけで。ほら、今迄はお前のこと妹として見てただろ。だから好きとかそういうんじゃなかった。だけどこれからは違う。俺も、ちゃんとお前のこと女として見るからってことで……」
って言わせんなよ……。言いたくないから、あえて言わなかったのに。
「うんわかった! お兄ちゃんのこと、好きにさせてみせる!!」
「切り替え早いな……つーかもうお兄ちゃん呼びはやめろって言っただろ」
「あ、そうだった! 繋くん! でも、きっと繋くんはすぐにわたしのこと好きになるよ」
「な、なんでだよ……」
「だってわたしが繋くんのこと大大大大好きなんだもん! 繋くんはわたしのこと、好きで好きで仕方なくなるよ!」
「どういう理屈だよ。それならなんでお前、さっき出て行ったんだよ?」
「さあ?」
「さあって……お前は鶏かっ!?」
「だって繋くんがキスしてくれたんだもん。全部ふっとんじゃったよ! あ、ねえ、今度は繋くんキスして!」
「ダメだ! なんでもかんでもやってやったらつけ上がるからな。我慢を覚えろ、我慢を!」
「ええ〰〰! 繋くんのケチぃ!! ぶーぶー!」
「俺にお前のこと好きにさせるんだろ? だったら、そん時させればいいだろうが。もっと自分で努力することを学べ。そしたら俺も少しは考えてやるよ……」
「うん、わかった! じゃあ明日させる!!」
「急だな!? そんな簡単に好きになるわけねーだろ!」
「だって繋くんはもうわたしのこと好きだもん。明日にはしてくれるよ」
「おーおいおいおい、なあに俺が繋じゃないみたいな話になってんだ!? 明日なんてしねーぞ!」
「じゃあ誘惑する! 繋くんは狼だからわたしのこと好きでしょ!」
そう言うと、美海はシャツをたくし上げてブラに乗った胸を見せびらかしてきた。
俺はすぐさまシャツを降ろす。
「なん!? なにやってんだお前ェえええええ!!? お前、そんなことどこで覚えてきた!?」
「蒼華ちゃんが言ってたよ、繋くんは狼だって。狼は女の子のおっぱいが好きだから不用意に見せちゃダメだって!」
「じゃあ見せるなよ……」
「繋くんにはなんでもしていいルールなのです!」
「変なルールを作るな! 俺じゃなかったらアレだぞ、襲われてるところだかんな!?」
「繋くんになら襲われたい!!」
こいつ……何言ってもどうにもなんねえ……。
純粋って怖え〰〰…………。
これまで生きてきた半分以上の苦労が今ここでやってきたと思ってしまった。
◇◇◇
俺と篠宮は、美海に出来る限りのことを教えた。
そして――その時が来てしまった。
古奈美さんと約束した日は思った以上に早くやってきたけれど、美海の上達は思った以上のもので、準備万端に臨んだはずだったのだが……。
「――では、始めます」
我が家のリビングで御坂さんが出してきたのは予想外のものだった。
――それはたった一枚の紙である。
学生であれば夏休み中に見ることはなによりも億劫であるその対象――テスト用紙だ。
ソファもとい、観覧席には美海の母、古奈美さんもいる。相変わらず厳かな雰囲気を纏うビジネスウーマンな女性だ。
俺たちは忘れていたのだ。
あ、やべ……自立だけ進めてて勉強一切見てねえ!!
…………やべえどうしよう、どうしよう!!?
「あの……」
「なにか?」
嫌悪感のある御坂さんの目付きは怖気づかせるのに十分だったが、玉砕覚悟で訊ねた。
「その……勉強もできていないとやっぱり……ダメ、なんですかね?」
「当然でしょう。何を言っているのですか?
そればかりをして、学業を疎かにしていたのでは意味がありません。当たり前のことを当たり前にできるようになる。しかしそれは当たり前であって、このテストの第一の目的は美海様の勉学にあります」
――ヤバすぎる!!!
夏休みも中盤だが、この二週間あまり……美海が勉強をしているところなんて一度も見てねえ!!
美海って頭いいのか? いいよな? お嬢様だし、頭いいんだよな!?
俺は、美海の顔色を窺う。
美海は絶望を露わにしながら冷や汗を流していた。
――絶対無理だね!!
嘘だろ……おい、嘘だろォ……親ァ…………。
「こ、古奈美さん……どうかテストは延期に……」
「ダメですよ。現実から目を逸らして足下が見れなければ、前を向くことすらできません。繋さんも現実を一度見ておくべきです」
大人の言い分に俺は成す術はなかった――。
◇
◇
◇
案の定、美海のテスト結果は残酷なまでに大敗といったところだ。国語、数学、理科、社会、英語の五教科。一科目満点が100点のところ、合わせて100点で、平均20点の赤点。
その後、日常的なテストもしたが、及第点と言われただけで感動もなかった。ただその結果関係なく、学業が疎かになっているという理由で、美海は家へ強制送還されることが決まったのである。
俺は終始目を点にして見届けた……。
◇◇◇
次の日――。
篠宮にはテスト日に起こったあらましを粗方伝えた。戸惑ってはいたが、確かにと納得されてしまった。
いや、確かにそうだよな……。手紙、篠宮にちゃんと見せればよかったし、忘れていた俺に非がある。
…………俺のせいじゃん。
美海は今日、御坂さんに連れられて家を出ることになった。
元々変な居候だったが、楽しかったのは事実だ。俺も美海がいてくれたおかげで寂しい夏休みにならないと思っていた。残り半分も美海ともっと楽しいことができると浅はかにも思ってしまっていたんだ。
家の前で俺と篠宮は、駐車場に置かれた御坂さんの車の前で美海の見送りに出た。
美海は悔しそうな顔をしていた。ぐずった顔は今も昔も変わらないみたいだ。
愚痴はまだいくらか残っているけれど、そんなの言ったって何にもならない。美海もそれを分かっていて、従っているんだ。俺が駄々をこねる意味はないし、必要もない。
謝ろうと思ったが、今は違うと改める。
「……また来いよ、美海。今度はもうちょっと早く会おうぜ」
「うん……」
「少しはできること増えただろ。楽しかったよな?」
「うん……」
「だったら、俺も篠宮も役割は果たせたわけだ。つっても、俺が教えられたのなんてほんの僅かだ。御坂さんにもなんか料理とか、掃除の仕方とか教えてもらえ。御坂さんの方が色々知ってるだろうしな」
「うん……」
「……」
「……わたしがまた来るまで、誰とも結婚しないでね」
「はっはっはっ! 非モテ男の俺が、誰と結婚するってんだよ。冗談でも、笑えねーよ!
……それにそんなに長く離れるわけじゃねーだろ。どうせすぐに再開できるんだ、そんな寂しそうな顔すんな」
まったく勘違いもいいところだ。期限が決まっていないからといって、そんなに長く離れ離れになるわけでもないってのに。
まったく俺も――バカじゃねえのって思う。
最後に俺は美海を抱きしめた。
御坂さんは何も言わずに美海を連れて行ってしまった。
あの人もあの人で、どうせ俺たちをバカにしてたんだろう。だけど、夏休みはまだ半分しか終わっていないし、美海と一緒にいられたのはたったの一カ月前後。そう――まだ美海と一緒にいられている時間は、人生のほんの僅かでしかないんだ。
「兄妹にしては別れ際が長かったですね」
「うっせ!」
篠宮の指摘に俺は急に恥ずかしくなった。
「これであたしの役目も終わりですね。美海さんがいなくなったのでしたら、あたしがこの家に来る理由もなくなってしまいましたから」
「そういえば、そうだな。家が静かになるな」
「あたしは別にうるさくありませんが……」
「冗談だって……。でも、お前にも感謝してるよ。最初はお隣さんってだけで妙に入り込んでくるから戸惑ったけどな!」
「そ、それは、美海さんが危ないと思ったからですから!」
篠宮の顔も赤くなる。
「じゃあお前も美海が戻るまではただのお隣さんに戻っちまうのか?」
「……偶にお母さんの実家から果物が届くんです。二人家族だと多いので、偶になら持ってこないでもないです……」
「おお! マジ!? それは助かるよ。食べたいとは思うんだけど、価格的に手が出にくくてさ!」
「と、届いたらですから! あんまりずうずうしくしないでください、通報しますよ!!」
「なんで!?」
「で、では、あたしもこれでお暇します。せいぜい残りの夏休みを寂しい勉強に精を出せばいいじゃないですか……」
「お、おう……。寂しいとか言うなよ……。
――あ! そうだ、そう言えば聞こうと思ってたんだけどさ――」
「え!? な、なん……いえ、ちょっと……待ってください」
「ん?」
篠宮は、びくっと体を震わせたかと思えば、背中を見せて深呼吸をしていた。
な、なにしてんだ……?
暫くすると何か決心がついたように振り返る。
表情は硬く、視線は合わない。かと思えば、こんな暑い中寒そうに腕組みをしている。
「な、なんでしょうか……?」
いや、それを聞きたいのはこっちなんだけど――……まあいいか。
「最近よく俺のパンツとか下着が無くなってる気がするんだけど、お前洗濯物どっか別の場所にしまってたりするか?」
「――…………知りません……!!」
更に顔が赤くなった気がする。
洗濯は基本俺がするんだが、偶に篠宮が勝手に洗濯機を回してたり畳んでいたりしてたからもしかしたらと思ったんだけど……。やっぱり気のせいだったのかな。
「……ていうか、外でそんな……き、気持ち悪いこと言わないでください! 変態ですか!? 変態言わないでください!!」
急に挙動不審になり始めた。
何を言ってんだ……?
「とにかく、あたしは知りませんから! 自分のくらい自分で管理してください。バカなんですか、知ってますけど!!」
「お、おう……悪かったよ……」
「では、もう行きますので。これ以上引き留められたらあたしの身に危険が及びかねませんので!!」
「お、俺ってそんなに悪い人に見えんのか……」
「いえ、ただ……す…………す……すけこましにしか見えないだけです!!」
すけこまし……?
なんだそれ?
篠宮は怒った足取りで踵を返した。
俺も家に入るか。暑い暑い……篠宮が顔を赤くしたのはこの暑さのせいだな。ホント、夏だよマジで。クーラーさん、この俺に癒しを!
玄関から家の中に入り、サンダルを脱ごうとして止まる。
家の鍵を閉めようと扉の方を振り返った。
「あっ……」
次の瞬間、俺は驚いて尻もちをついた。
玄関に俺だけしかいないと思ったけれど、そこに更に二人いた。それも背後に突然現れるのだからぞっとするのも分かって欲しい。
一瞬美海と篠宮が返ってきたのかと想起させたが――さっき別れたばかりだ。そんなはずはない。
俺は、改めて顔を見る。
「お兄さん、わたしたち帰ってきちゃいました!」
俺には妹がいる。
しかし俺と妹は血が繋がっていない。義理の妹というやつだ。美海も義理の妹、”一人目”の義理の妹だ。
俺のちゃらんぽらんな親父は、結婚を六回している。そしてその相手にはほぼ全員に娘がいた。ゆえに、俺には妹が六人いる。
俺の目下に現れた二人の少女は、双子の俺の義妹だ。
――義妹が、また帰ってきた。
おいおい……次はお前たちかよお!!?
最後までお読みいただきありがとうございます。
久しぶりの挿絵ありの作品になりました。私の作品の挿絵は全て自分で描いているもので、初めの頃と比べると少し上達したかなと見返して思いました。
読者の皆様は挿絵のある作品に対するイメージというか、どのような印象を持ちますでしょうか。挿絵のある直近の作品は冒頭に挿絵を置くようにしていました。小説も絵もまだまだ初心者ですので、至らない部分もあるでしょうが、私の遊び心が入った作品と思って楽しんでいただけたら幸いです。
本作品は2024年8月半ばくらいには出せそうだったのですが、投稿が遅れてしまった背景があります。夏を舞台に制作していましたので、投稿時期も季節を合わせようとしていました。何故遅れたかといいますと、当作品を作り始める前から短編でと思っていたのですが、作り終えていざ投稿しようとしたら文字数制限に引っ掛かり投稿できませんでした。そういう経緯がありまして色々と整理しようとしたら遅れてしまい、いつの間にか9月を過ぎてしまいました。短編は何度か書いたことがあるのですが、ここまでの文字数を書いたのが初めてで、今迄気付かなかったんですね。今回は特に文字数制限とか決めてなかったので盲点でした。今後は今回以上に長くなる場合、一応連載にして分けて投稿しようと思いました。
今回の「義理の妹が帰ってくる」シリーズの短編は今後も書いていきたいと思っておりますので、よければブックマーク、評価の方よろしくお願いいたします。