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遥かなるチェッカーの先へ LAP2  作者: 綾部 響
8.エピローグ
93/93

楽しみの代価

楽しむ……。

そのありきたりな言葉、そしてライダーならば誰もが感じているだろう事を、千晶は全身全霊で取り組んでいたのだった。

そこには、単なる楽しむとは違う要素が隠されていた。

 先頭集団がホームストレートに戻って来た事でレースは残り6周となり、それでもトップグループに大きな動きは無かった。それぞれが虎視眈々と隙を伺いつつ相手の動向を注視し、他者の消耗を促しながら自身の温存を図る。そんな高度な駆け引きが行われていた。


(本田千晶……。ここまでなのか?)


 そんな中でトップ争いをしていた勲矢那美は、ピットから出された指示板の表示を見て、若干のモチベーションの低下を感じていた。その看板には7の数字と下向きの矢印、そして6の数字が横並びに表示されている。

 これは「ゼッケン7番、降順、6位へ」を意味する。

 ゼッケン7は本田千晶のマシンを意味しており、彼女が抜かれて順位を下げたと知らせているのだが、千晶に拘泥する那美は、それを知ってガッカリする気持ちを自覚せずにはいられなかったのだった。


(はぁ……はぁ……。楽しむ……楽しむ……ね)


 ここまで、力ずくでマシンを抑え込み従わせてきた千晶の体力と精神力は限界を迎えていた。それでもこの順位をキープ出来て来たのは脅威と言えるだろう。


 このマシン〝NFR250Ⅱ改〟の本領は、ただ単にパワードリフトを駆使すればいいと言う話ではない。そういう意味では、新人戦で速水紅音が見せたパフォーマンスは満点ではなかった。

 本来のスペックを発揮させるには、千迅の言った通り「楽しむ」を実行しなければならない。そしてそれこそが、千晶がこのマシンを使用した3つ目の理由でもあった。


(その楽しむが……難題なのよ!)


「えっ⁉ 何っ⁉」


 突如として、千晶の駆るマシンが速度を上げた。いや……それは正しい認識ではない。

 これまでと違い、コーナーでの旋回速度が格段に速くなったのだ。スピードが上がったのではなく、減速する速度が格段に低くなったのだ。その結果、競い合う相手にしてみれば速度が上がったように感じ、前を走る綾子もそう認識した。

 しかも、それだけでは無い、ただ単にペースが上がったのならば、スパートを掛けたと理解するだろうが、綾子の感じ取った気配はそのようなものでは無かった。

 なぜならば……千晶の取るコース取りが、これまでとは全く違っていたからだ。


 ライダーにはそれぞれ、得意とするベストラインがある。レースでは、そのコースをどれだけ理想的にトレースするか、出来るかが勝敗に関わると言っても良い。

 しかし相手のあるレースであり、時にはベストラインが相手と被る事があり、あるいは強引に割り込み、または譲る事で自分の順位を確保したりする。その駆け引きを繰り返しレースは成り立っているだろう。

 故に、自身のベストラインを大きく逸脱し、その上でのペースアップと言うのはある意味で自殺行為に等しい。ライダー自身にも負担が掛かるが、何よりもマシンに負荷が大きく圧し掛かる。良識のあるライダーならば、余程の理由が無ければそのような事はしない。


「く……くぅ! 抑えられないなんてっ!」


(はぁ……はぁ……くっ!)


 限界に近い状態で、それでも千晶のマシンが綾子を責め立てる。それに対して綾子は、定石通りインを固めてブロックラインを取るのだが、そんな事はお構いなしに千晶はアウトから抜きに掛かった。しかもその速度が尋常ではない。


「まさか……こんなに簡単にっ⁉」


『おおおおおぅっとおおぉっ! 先ほど躱されたゼッケン7番、本田選手ぅぅっ! 逆バンク手前で仕掛けて今ああぁぁっ! 入江選手を抜き去ったああぁぁっ!』


 第2コーナーからのS字コーナーを抜けた「逆バンク」と呼ばれるコーナーで、千晶は綾子を捉え抜き去った。テクニカルだがそれほど速度の乗らないこの区間で、しかもその先には100Rと180Rの複合コーナーが迫っている状況でのアタックに、綾子は成す術なく前を譲る形となったのだった。


 対戦相手、しかも有力なライダーとして、綾子も千晶のデータは頭に入っている。そこから、まさか彼女がこのように強引な抜き方をしてくるとは予想外でもあった。

 もっとも、レースでは様々な予測外の出来事が勃発する。


(……でも、まだ抜き返すチャンスは……って、えっ⁉)


 綾子も抜かれた事に動揺はしたが持ち直し、改めて追撃姿勢をとったのだが、千晶の後ろ姿を見て思わず絶句してしまっていた。

 その理由は、前を行く千晶のライディングスタイルにあった。

 180Rを抜けた先には、ほぼ直角に右へと曲がるコーナー、通称「デグナーカーブ」がある。急激な角度のコーナーでは、減速して丁寧に回るのが定石だ。そこまでの区間も然程距離はなくスピードに乗らない為、特に危険を冒してまで速度を上げて攻略する必要のないコーナーだと言える。

 そこへ向かって千晶は、信じられない加速を見せて飛び込んでいくのだ。同じライダーとしては、これは常軌を逸している。


(……転倒するっ!)


 瞬間、綾子は千晶の転倒とリタイヤを思い浮かべた。もっとも、その時点で両者の差は僅かに開いており、仮に千晶がスリップやハイサイドを起こしても、彼女に影響はないのだが。

 しかし綾子は即座に、信じられない光景を目の当たりにする。


(ここで……ドリフトっ⁉)


 この速度の乗らない急なカーブで、千晶は何故か慣性ドリフトを使って、強引にマシンを旋回して見せたのだ。


(それでなんで……回れるのっ⁉)


 そして千晶は、綾子から見て明らかなオーバースピードであるにも拘らず、見事にコーナーを攻略して立ち上がって見せたのだった。


 慣性ドリフトは扱いが難しい反面、コントロールが出来れば強力な武器になる。実際、日本のトップラダーたちもそれぞれに身に付けたドリフトを駆使してレースに臨んでいる。

 だがそれも、使いどころと言うものがある。

 特に慣性ドリフトは、どこでも使えば結果が得られると言う技術ではない。低速コーナーではドリフトを使わずにグリップ走行をした方が確実だし、何よりも早く立ち上がれる。トップライダーたちは、その技術をうまく使い分けてコースを攻略しているのだ。

 それにも拘らず、千晶はデグナーカーブの様なきついコーナーでパワードリフトを使用し、そればかりか信じられない加速を見せている。綾子が唖然とするのも、うなずける話だった。


(はぁ……はぁ……。……次ねっ!)


 素晴らしいスピードでデグナーカーブを抜け、次に迎える難所「ヘアピンカーブ」を前にして、千晶は全身から汗を拭きだし苦悶の表情で、疲労困憊の様相でそれでもアクセルを緩めようとはしなかったのだった。


 千晶が一ノ瀬千迅の病室を訪れた際に躱した会話、そこで聞いた千迅の台詞。


 ―――……楽しかった。


 今千晶は、これを実践しようと必死になっていたのだった。

 もっとも、今の千晶は他者から見ても楽しそうには見えない。いや……そんな事は無いのだろうが。

 おおよそバイクに携わる者は、大小はあれどバイクを運転する事が楽しくて仕方が無いだろう。それはレースで戦うライダーたちも同様だ。

 だから千迅の言った「楽しかった」と言うのは、ある意味でライダーならば誰でも抱いている感想のように受け取れる。

 もっとも、レースを真面目に取り組み少しでも上の順位を目指すのならば、ただ楽しいだけでは済まされない。苦しい事や辛い事が幾つもあり、結果が出た時にだけ楽しいと感じる事も少なくないだろう。その楽しさが得られずに、レースの世界から去って行く者も多くいる。

 それでもライダーならば、バイクを運転するだけで楽しいと感じていると言って過言ではない。そうでなければ、辛い事や苦しい事に太刀打ちなど出来ないのだから。


 しかし根本的な問題として、千迅の言った「楽しい」とは、そういった世間一般的な見解ではなかった。少なくとも千晶はそう受け取り、それが事実だと理解していたのだった。


(ほんと……楽しませるのも(・・・・・・・)……大変ね!)


 ヘアピンカーブに差し掛かった千晶は、今度はオーソドックスともいえるパワースライドを使って車体の方向変換を図り、一気にコーナーを立ち上がり加速した。見事にコントロールされたパワースライドは無駄に減速する事無く、コーナー出口では信じられないような加速を見せていた。それにより、後続の綾子たちとは更に差が開き、前を行く先頭集団との距離も縮まったのだった。


(千晶……。引き際を間違えないで)


 本来ならば喜ぶべき場面なのだが、運転している千晶に余裕はなく、何よりもそれを見つめる菊池美里は、立場上感情を表には出せないが、内心では心配で落ち着けずにいたのだった。


急激に速度を上げる千晶。

周囲の不安をよそに、彼女の快進撃は始まったのだった。

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