序章
伸び始めた草の新芽が足元をくすぐる。沓はどこかに脱ぎ捨ててしまった。この季節の柔らかな大地を直に感じたかったからだ。
(かあさまに怒られるかしら。せめて捨てずに背籠に入れておくんだった。)とまだ新品と言ってもいいスギの浅沓を思う。(でも、木の沓は硬くて窮屈で嫌いなのよね。)
鼻から大きく息を吸うと、つんと刺すような春が濃く香ってくる。花の匂い、風の匂い、そして微かな獣の匂い。
佐保は懐の小刀に手をやりながら、慎重に辺りを見回し、危険な獣がいないか姿を探した。何もいない。残り香だったのだろうかと、再度鼻をひくつかせる。先程感じた微かな匂いは気配すら感じられず、気のせいだったのだろうかと首を傾げながら背負子の籠を地に降ろした。その場に腰を屈めて両の手を合わせる。「野の神様、山の神様、草木の神様、少しだけヨモギを分けて下さい」
一番最初に摘み取った若芽は、神々に捧げるものだ。出来るだけ綺麗そうなものを選んで摘み、真新しい白絹の布に包む。
きっちりくるんだ布を懐に押し込むと、今度は家人の分を集める。主にばば様の腰痛の薬の分だ。でも、たくさん採れたら姐やが蓬餅を作ってくれると言っていた。ならばたくさん摘むしかないだろう。幸いこの辺りであるなら、籠いっぱいに採っても採り尽くすことはなさそうだ。野山と共に生きるなら、その領分を侵しすぎてはならない。
夢中になってヨモギを毟っていたが、籠の半ば程までいっぱいになってきた頃、段々と姿勢が辛く苦しくなってきた。手に持っていた分を籠に放り込んでぐっと伸びをし、ほぅと息を吐いた。
そして顔をあげ、何気無く辺りを見渡し、吸い寄せられるようにそれへと目がいった。
彼方、森の方から粛々と歩んで来る「もの」がある。
(鹿?…)未だ遠い姿に目を凝らしながら、佐保は思った。随分と大きいようだが、立派な角が頭に見える。清らかな朝の陽光が獣の背に当たり、さざめきのような光が煌めいた。金色の鬣がざわめくのが見える。
佐保は俄かに己の肌が粟立つのを感じた。
次第に近付いてきたそれは、どう考えてもただの獣ではなかった。
額の角は鹿のような2本ではなく、1本。背中で煌めいたと思ったものは全身を覆う鱗であった。鬣に縁取られたその顔は、こうべを垂れ目を伏せていても、ぞっとする程恐ろしく、また、はっとする程美しい。このような獣は、見たこともなく聞いたこともなかった。
そして何より。
獣の後ろから、森が迫ってきていた。
獣の歩んだ足跡から木の芽が出でて、めきめきと音を立てて大樹へと成長していく。
獣は佐保から10歩程の所でぴたりと歩みを止めてこちらを真っ直ぐ見据えた。
深い知性を湛えた獣の漆黒の瞳から、一筋の滴がぽたりと地に染み落ちた。