呉 延生(ご・えんせい)
「そ、そなた、何歳にあいなる?」
動揺を隠しきれず、延生は右肩をやや斜めにそらした。これは自在剣の〈序〉の構えであって、未知なる敵に相対するときの姿態にほかならない。
無意識のうちに、呉延生は目の前に現れた童子を“敵”として認知していたのだった。
「……司馬どの……警戒はご無用にごさいますぞ」
童子とはおもわれない野太い声であった。
見かけは五、六歳にしか見えない。けれども童子の瞳に宿った光はあやしげで十分におとなびていた。
「そ、そなた……」
「私は、趙志明と申します……伯父の命を待つまでもなく、司馬様に同道するつもりでございました」
「や!」
「お信じくださらずともよろしいのです。私はこう見えても、すでに二十三歳。妖の力によって、このような躰のままなのです……本来のおのれの姿を取り戻すためにも、私はどうしても西海道を辿らなければならぬのです」
「・・・・・・・」
「それぞれの家には、外聞を憚る秘事もありましょう……たとえば、司馬様の呉家にも……さあ、鎧掛けに隠れてある御仁、お姿を顕したまい候え」
なんと趙志明は、延生の弟、延霖が潜んでいるのをすでに見抜いていたのである。
その声が終わるや否や、手に短剣を握った延霖が飛び出てきた。
がしかし。
目の前のあまりの小さき姿を目にして、
「ひゃあ」
と、一声を放ったまま立ち竦んでしまった。
ふふふと、趙志明は大人びた薄笑いを浮かべると、そのまま延霖のもとへにじり寄るように小走りで近づくと、丁寧にお辞儀をして、いまさっき延生に告げた通りの事情を告げた。
「……延霖どのは、従軍子女としてこの地に着かれてまだ日も浅いでしょうが、私は出陣のおりから伯父に同行しておったのですよ」
慌てて深葉の礼を返し、延霖は片膝をついた。深葉の礼とは、目上の人物への最敬の姿態である。躰は童子でも十歳近く歳上の相手であり、かつまた将軍趙家の一族であることで、無役の延霖にしては当然のことである。片膝を地につけることは、その地とつながる“方面”の上に立つ相手に対して、向後も敵意を持たないという誓約の意も込められている。
臣従ではないにしても、ほぼそれに近い意味を持つ。
おそらくここであえてそのような礼を延霖が返したのは、同道することになる相手への信頼を示したのであろう。そうと察した延生は、弟を手で招いた。
すかさず趙志明が言った。
「お二方とも、どうぞお座りくださいませ。私はこうして立ったままのほうが、お二方の目線と合うので喋りやすいのですよ」
淡々と述べる童身の趙志明は、もうそれだけで十二分に無気味である。なるほどかれが言ったように延生の目の高さに志明の《《成熟した
瞳が合わさった。
「さて、司馬様・・・・」と、志明が続ける。
司馬とは、この討蛮大将軍府の軍政を司る上級将校のことである。ときに、軍師・参謀としての役割も担う。
「……嶢山をめざして旅の途につかれるのは、お二方のうち、どちらさまでしょうか……お話し合いはまとまりましたか」
「あ……!」と、延生と延霖の二人は同時に顔を見合わせた。
「むろん、わたしが参るのは当然!」
強く言い放ったのは、延生である。なにをいまさら……といった幾分叱咤の色を声に乗せた。
「さようですか」
短く答えた趙志明は、ギョロリと二重瞼の瞳を延生、延霖に向けながら口を閉じた。
「いえ……」と、否定したのは延霖であった。
「……まずはわたしが先行し、道の具合、民がいるのかなどを探ってまいります……姉上は……あ、いや」
慌てて言葉を呑んだ延霖は、よりによって趙志明のすぐ耳元で吐いてしまったことを悔いるより先に、相手が口角をつり上げたのを見た。
○
……討蛮大将軍府の司馬、呉延生は、八歳にして万弦経を諳んじ、十五歳で自在剣の奥義を会得した当代きっての俊英であって、その名は四海八荒に轟いていた。
八荒……とは、地の果て、の意である。
十七で〈討蛮大将軍府司馬〉に任ぜられた。
これも前例無き稀有の人事であった。
司馬とは、軍政を司る重要な役掌で、成人して間もない弱輩がその任を拝命するのは、むしろ異常時といってよい。ちなみに帝国の成人年齢は十七歳である。
その青年に司馬という大任が与えられたのは、帝国危急存亡のおりという現実の要請からではなく、帝王自らが勅任したからである。
……当初、趙将軍は呉延生をその若さと戦場での経験がないという理由で初端から見下していた。けれども、またたく間に延生は兵士らの信頼を勝ち得て、また戦勝へと導く数々の提言を為し、その才威に、趙将軍は瞠目させられた。
帝国に隣接する姜族の攻撃が間断なく続き、かろうじて討蛮軍が前線を維持できたのは、呉延生の才覚の賜物であったといっていい。それに気づくや否や将軍は、呉延生に重要な任務を与えることにした。
『……そなたにしか為し得ないことだ……嶢山へ、帝王陛下の使者として赴いてはくれまいか』
『嶢山へ……!』
延生は絶句した。
嶢山は帝国の西方はるか彼方に位置する未踏の地といっていい。いまだ国交はなく、また幽冥の地として畏れられてきた……。
いわば決して足を踏み入れてはならぬ地であり、天地の理が通じない魔障が蔓延る地……であった。
すなわち。
かの地へ赴くことは、死そのものを意味していた。……延生が驚愕したのは、それが帝王の意思だと趙将軍がついに明かしたからである。
『本来は、姜族を討ち従えたのち、余が陛下の名代として赴く計画であった……』
……けれども姜族との戦況は硬直化しており、将軍はこの戦線から離脱できない。いやむしろ、互いに一進一退であるからこそ、そこに“虚”というものが生まれ、事実上の休戦、という不可思議な事態が出現した。
戦場、ことに長期戦の場合にはまれに生じる時間的空白といっていい。暗黙の了解で、互いがそれぞれの態勢を整え、補給路を確保し、死者を弔い、病兵を送り返し、あるいは治癒させるための期間的猶予がもたらされた、と言い換えてさしつかえあるまい。
『……あと半年の間は、休戦となろう。その隙間を縫って、そなたが余の代わりに嶢山へ行ってもらいたいのだ。これは軍命に非ず……辞退するもしないも、そなたの裁量に委ねよう』
将軍はそう告げてから、
『……応諾ならば、余の甥っ子を従者として連れていくがいい。さらに、陛下から賜りし狛鷹を一羽、そなたに預けることにしようぞ』
と、付け加えた。
軍命ではない、と強調しておきながら、下賜された帝国の秘宝というべき〈狛鷹〉と、将軍の血縁者を同行させるとまで将軍に言われては、さすがに断わることはできなかった。
宿舎に戻ってから、延生は旅支度にかかりながら、これはいまの戦場よりもむしろ過酷で、生命の危機と隣り合わせの道中になるだろうと気を引き締めた。というより、死地へ赴く……覚悟というものが少しずつ芯から湧きつつあった。
真っ先に呼んだのは、従軍子女の《《弟》》である。彼あるいは彼女らは上級士官の血縁者のみに限られ、ちょうど激戦から停休戦へ転じはじめた時期に帝都から呼び寄せられていた。
延生の弟は、延霖といった。
……二歳下である。
『姉上、わたしが、姉上に扮して参ります』
顔に憂色をのぼらせて延霖は告げた。
……延生が女であるということは、弟の延霖だけが知っている呉家の秘密である。
『……これはひょっとしたら、趙将軍の陰謀かもしれません……姉上をこの地から遠ざけ……』
『ならば、なおさらのこと、この陣営に延霖だけを残してはおけぬ』
『では、わたしが姉上に扮し、呉延生として嶢山へ赴き、姉上は従軍子女に混じって、将軍や幹部の周辺に目を見張らせておればどうでしょう?』
『それも考えた……けれど、延霖は長剣がまだ遣えぬ……未踏の地へ赴くには、腕の立つ者でなくては……』
『では、傭兵の中から数名を選び伴につけてはいかが……』
『むろん、それも思案したが……やはり、死地の旅へ霖を追いやることなどできぬ』
『けれど姉上、嶢山へ続く果てしない西海道は、女人禁制の道だと伝え聴いています。姉上がいかに剣の達人とはいえ、一歩足を踏み入れると……どうなることか……』
延霖はそれが心配で仕方ないのだ。いやむしろ、趙将軍は延生の秘密を突き止めた上で、こちらを翻弄しようとしているのではないか……そんな疑念も首をもたげてくる。
延生は延生で、二人が一度に死ぬことになれば呉家は滅びてしまう、そのことに躊躇している。私事といえばそうなのだろうが、茫漠たる不安が拡がっていくのをとどめることができないでいた。
このとき、趙将軍の甥御が挨拶にやってきた……わけであった。
そして、あろうことか、趙将軍の甥……は、年端もゆかぬ童子だったのである……。
「さて……」
呉延生、延霖の姉弟二人は、目の前の《《童子》》が薄笑みを浮かべたさまを見て、すかさず延生が、「いや、延霖が述べようとしたのは……」と、方向を転じようとしたとき、志明は、ふふんと受け流した。
「警戒なさることはありません……」
趙志明の薄笑いは見ようによっては確かに愛らしい。それを無気味ととるかは、むしろ見る者が持っている罪悪感の高低によるだろう。
「……私はすでに存じておりましたよ……司馬様が女人であることを……」
淡々と述べる童子の表情が真顔に変わった。笑みが消え、キリリと眉が上がった。
「……お二方、先ほども申しましたぞ。名家には露わにはできない秘密があると……司馬様の秘密は、伯父にも告げてはおりませぬ。この陣営で、司馬様が女人であることを知るは、この場に居る者のみ」
なんら確証などなかったが、延生には、趙志明の言明には好感を覚えた。率直に告げるその真摯さは、相手からの善意を受け取るだけの価値はあると延生は覚悟を決めた。
「志明どの……あなたの目的は?」
延生が問うと、
「それは先ほども申しました」
と、趙志明が続けた。
「……本来の自分の姿を取り戻すには、なんとしても嶢山へ赴かなければならぬのです。私は十年をかけ、西海道の諸相を調べてきました。近在から逃れてきた流民、捕虜になって脱走してきた辺境の兵士などに聴取し、地図を描き、古伝書肆を紐解き……趙家の身代が傾きかけるほどの財を投げうって調査に邁進してきたのです」