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九州大学文藝部 初冬号

眇たる学生・一 

作者: 樋口橙華

 「学生か。」とその中年男はバス停の隅で棒立ちして携帯を眺める青年を観察した。その青年は十七あたり、二十歳ではないと思われるほどに幼い顔立ちに黒縁の眼鏡をしていて、最近の髪型なのかよくわからないが何とも形容しがたい特徴のない少し長めの髪型である。朝七時にバスを待ち、買い与えられたようなポロシャツにズボンと、制服でないならば学生だろうというわけである。青年は時刻表も知らず、車が通るたびに首を持ち上げ、バスでないことを確かめると再び画面に視線を落とす。猫背を正してやりたくもあるが、赤の他人なれば、喉を震わせるわけにもいかなかった。


中年男には高校生の娘がいる。腰のあたりをくるくると走り回っていたときは、新しい遊びを見つけたるがごとく家事を手伝っていたが、今となっては携帯を凝視する光景しか見ていない。飯が食卓に並び、父か母が大声で呼び出さなければ食事も忘れるほどである。「親の心子知らず。」—将来が心配でならなければ、時には怒鳴りたくもなるというものだ。娘はこの度に反抗心を膨らませ、日々画面の向こうに安らぎを見出だすのである。しかし、娘はこれを望んではいない。七ヶ月前に父が健康診断で白内障を宣告されたと嘆いた時には大いに心配した。よく目薬を忘れていびきをかいて寝ている光景を見ると今すぐにでも目を覚まさせて知らせてやりたいが、日常がそれを許さず、胸がきつく締め付けられる思いである。これゆえ、娘は人知れず医学部を志し、他人の目を免れたところでやっと勉学に励むのである。この努力はしばしば夜更かしを招くものである。父母にとってみれば夜更かしは不摂生であり、伴う朝の弱さは怠惰である。「子の心親知らず」—この無理解はやはり娘を望まない方向へと働きかける。人は親になれば、子供のころのエピソードはいくつか懐かしく思い出されても、当時の感情は押し流され忘れてしまうらしい。


押し流すものとは何か。男にはこれがさっぱりわからなかった。学校の教師はよくわからない生き物であったが、何年も自分と同じ境遇の生徒を見てきているわけであって、また教師もそのことを誇りと信じてやまないものであったから、教育を施されるとは教師の言葉に従うことにあるのは疑いの余地なく、またこのことを父母もよく理解していたから、全てはプロの仰せの通りにやってさえいれば、進学も就職も滞りなかったものだ。大学で学ぶうちに教師の道を知り、


「これが先生の通った道、シンプルで機械的だ。しかしこれは門でしかなく、この先に途方もない苦労と、苦痛と、苦悩とが待ち受けておられる。例えば持病を持ち時折苦しい表情を見せるような生徒を担任すれば一切危険なことがないように他と情報を共有しなければならないが、当人の希望によりそれを知る者を限定しなければならないことの間で気持ちが右往左往し、特別気を配ることになるだろう。しかし、それを当人に知られてはそれもまた当人を苦しめることになってしまう。このようなことが、毎年のように始まりと終わりを迎え、その度に教師は生徒の行く末を心配する。私には到底それを耐え忍ぶことはできませんよ。」


と言ったことを覚えている。同窓会の時だっただろうか。我々を見た先生の誇らしげな顔は、我々にも誇りを持たせてくださった。そのうち商社に入り、ここまでやってきた。最初は家を買うために、妻と出会ってからは妻のために、娘ができてからは娘のために働いた。娘が作文コンテストで賞状をもらって帰ってきた日は疲れも消え失せ、翌日の災難を被る勇気がもらえた。しかし今となってはこの通りである。娘の望み通りの父親とは気が付けば既にかけ離れてしまっていた。幼い娘は完全に理解してやれたわけではなく、理解する必要がなかった。私が家に帰ればトタトタと玄関に出迎えてくれる愛らしい存在で、結婚できなければ私は犬か猫を飼って、同じように可愛がっていただろうと考える。今犬猫を飼いたいと切実に望むのはこの頃が恋しいからであって、いざペットショップにいけば自分よりも早く死ぬ小さな生き物と共に過ごすなど耐えられず、娘が万が一猫でも拾って来ようものならどうしようかと悩み続けているが、もしそうなればいつもの如く許可しないのだろう。男は「どうしてこうなった」と過去を振り返っては再び今を嘆くことを繰り返している。そこに現れたのが一人の青年である。


 このあたりには大学が名前を覚えられぬほどあるが、ここからバスに乗って移動しなければならないのであれば、有名なところに絞られる。この学生は見た目の幼さに抗して優秀なのだろう。娘と一つか二つしか変わらないのに、大学生としてしっかりと生活できている。もしこの学生が高校生の時に娘のような生活を送っていたのなら、娘はむしろまともな方向に向かって歩んでいるのではないだろうか。夜更かしはしても夜遊びはしていないし、学校で問題を起こして呼び出されたこともなく、いつも携帯を見ているのだからきっと友人たちともうまく付き合っているはずである。至って真面目、不良になどなっていない。これだけでも満足ではないか。そして今そこにいる青年のようなまったく平凡な学生になってくれたなら御の字だ。普通でいい、普通がいい。


 中年男は欠伸のふりをして目を擦り、たった今開いたバスの扉に目を向けた。その期待と、不安と、羨望とが満ちた視線のぶつかるところ、段差を三つ登ったあたりを、パスケースを持ち上げて、空席を探して行く青年あり。その背中はものを背負いつつ出来立ての柱のようで、若い威厳を備えていた。

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