プロローグ
「行方不明になっても後悔しない?」
憧れの人にそう言われ、現実からフェードアウトする事を選んだ。
生きる意味を実感する事になるとも知らずに。
時は一週間前に遡る。
伊勢谷勇斗は芸能界入りに挫折した31歳のバイト。
今日もバイト先であるショッピングモールへ自転車を走らせる。
制服に着替え、いつものフードコートへ向かう。
季節は初夏、ゴールデンウィークの少し前。
一年前に役者になる夢を諦め、少しでも活気のあるショッピングモールでバイトを始めたものの、勇斗は生きる意味を見出せずにいた。誰もが楽しく生きているわけではない。勇斗にとって唯一の夢に挫折した経験は、生きる活力を日に日に奪っていった。
「おはよう、伊勢谷君」
厨房で仕込みの支度をしていると、同僚の柳井美歌が出勤してきた。
「おはようございます、柳井さん」
美歌は勇斗よりも年上で、小学生の子供もいるパートだ。勇斗の教育担当でもあった。一年前にバイトを始めた時から、様々な相談に乗ってもらっている。
仕込みの支度を始めると、美歌が隣に来た。
「私も仕込み手伝うね。あと…今日仕事の後、何か予定ある?」
「なんにも。どうしたんですか?」
すると、美歌の表情が明るくなる。
「付き合ってほしいところがあるの!」
「いいっすよ。隼人君に関係してるんですか?」
二人は仕込みをしながら話を続ける。
「うん、そうなの。今度の日曜日にやる工作ワークショップの整理券、もらいに行きたいの」
隼人は美歌の息子で、小学3年生。勇斗も何度か遊んだことがあり、面識がある。
週末に開催されるワークショップに親子で参加するには、二枚の整理券が必要になる。勇斗と美歌は14時までのシフトになっている。勇斗も特に予定は無いので、協力する事にした。怒涛のランチタイムを乗り切り、二人は14時過ぎに仕事を終えて賄いを食べた。そして、ショッピングモールのインフォメーションへ向かった。
「伊勢谷君、ありがとう!お礼にコーヒーおごるね」
無事二人分のワークショップの整理券を手に入れた勇斗と美歌。
「お安い御用です、これくらい。あ、おごってもらう程の事してないですよ」
「いいのいいの!新作のケーキを食べに行きたいの」
買い物に事欠かないショッピングモールは流行の最先端。トレンドに敏感な女性や子供の心を惹きつける。美歌も世の一般女性同様、特にスイーツには興味があるようだ。
目当てのカフェに入り、美歌は勇斗に空席へ座るよう促す。美歌を待つ間、勇斗は憂鬱な気分を引きずっていた。周りの席を見渡すと、楽しそうにお茶を飲む人々ばかり。自分は生きている意味があるのか、勇斗は自分を肯定する気分にはならなかった。これからずっとこんな沈んだ気持ちで暮らさないといけないのかと思うと、無意識にため息が出てしまう。
「この世の終わりみたいなため息ついて」
カフェのトレーを手にした美歌が勇斗の隣に立っていた。
「あ、いや…」
「何か悩み事?」
「悩みって程のことでは…」
勇斗の言葉を待つ美歌の元へケーキが運ばれてきた。美歌の目が一瞬輝いたが、彼女はあえて勇斗へ向き直る。
「いただきまーす。ごめんごめん、続けて」
美歌に促され、勇斗は一度自分のコーヒーカップに視線を落とす。美歌はその間ケーキを食べ進めながら、勇斗の言葉を待った。
「…自分の人生、何なんだろうって思っちゃって」
勇斗はコーヒーを一口飲み、またコーヒーの水面を見つめながら口を開く。
「周りの人たちは楽しそうなのに、自分は…」
少し間をおいて美歌はフォークを止め、少し首を傾げて勇斗を見る。
「…役者に戻りたい?」
「そういう訳じゃないんです。みんな、充実してるなーって」
「伊勢谷君は今、楽しいと思えないんだ」
美歌は器用にケーキを食べながら勇斗への返答をする。
「生きるのに目的が必要とは思わないけど…」
美歌が気になっているのは勇斗の話の内容では無く、なぜ勇斗がこういった話を切り出すのかという部分だった。
「生きる目的かぁ。たまに考えちゃう時ある」
「家族とか隼人君いると、こんな事考える暇も無いですよね」
だんだん勇斗が弱々しくなっていくように美歌は感じた。元々ネガティブな性格では無いが、バイトを通じて出会った頃から勇斗は役者の道を諦めた事もあり、少々自暴自棄な面があった。美歌は勇斗の事を放っておくことができず、こうして話をする事が何度かあった。しかし、今の勇斗はいつも以上に落ち込んでいるようだった。
「ごちそうさまでした。あ、こんな時間!」
美歌は時計を見て驚いた。時計の針は15時5分を指している。
「そろそろ帰らなきゃ…」
「あ、はい」
残りのコーヒーを全て飲み干す美歌。勇斗も席を立つ。
「伊勢谷君、話の続きはまた聞くよ!」
「大丈夫です。すみません、変な事言って」
勇斗は我に返ったような感覚と、心のモヤモヤが少し軽くなった感覚を同時に味わう。お店のトレーを返却口に戻し、美歌もカフェを出る。
2人は足早に駐輪場へ移動する。
「さっきの話は宿題にさせてね」
自転車の鍵を外しながら美歌は言う。
「いや、その…忘れて大丈夫です」
勇斗は急に申し訳ない気持ちになった。その声は美歌に聞こえるかどうかの微妙な大きさだった。美歌の自転車はもう遠く、手を振るのが見えた。勇斗も手を振り、帰宅する。
翌日、勇斗は天ぷらの調理をミスし、危うく大怪我をするところだった。高温の油が腕に跳ね、軽い火傷を負った。キッチンの奥で店長に応急処置を受ける勇斗。
「今日はどうしちゃったの」
「すいません、店長…」
「病院沙汰にならなくて良かったけど、気をつけてね」
「はい」
「今日は洗い場やって、14時で上がっていいよ」
少し休憩した後、勇斗はフラフラと洗い場へ向かう。店はいつも通りだが、勇斗の不自然な行動を美歌は遠くで見守るしかなかった。
14時。ランチのピークは落ち着き、勇斗は洗い場を切り上げる。
「伊勢谷君、まかない一緒に食べない?」
振り返ると美歌が立っていた。
「あ、はい!」
勇斗と美歌は制服を着替え、フードコートの隅で賄いを食べる。
「今日ってこの後、時間ある?」
唐突な美歌の言葉に、勇斗は顔を上げる。
「ありますけど、どうしたんですか?」
美歌の笑顔は、いつもより少しだけ悲しそうに見えた。
「腕の火傷、ちゃんと処置しないと痕残っちゃうよ」
「これくらいすぐ治りますよ。自分が悪いんで…」
二人はしばらく何も言わずにまかないを食べていた。食べる手を止め、美歌が切り出す。
「伊勢谷君。今日、なんか変だったよ…?」
食べるのを止め、勇斗は美歌を一瞬だけ見てまた視線を落とす。
「そう、でしたか?ちょっとボーっとしてたかな」
勇斗は無理に笑って見せた。
「会ってほしい人がいるの。だから家に来て」
「え?あ、はい。え?柳井さんのお家にお邪魔していいんですか?」
勇斗の態度を見て、美歌は笑いを堪える。
「ふふっ。伊勢谷君のそういう動き、初めて見た」
「あ、いえ…その…」
勇斗は少し気恥ずかしくなる。その後二人は食事を終え、美歌の自宅へ向かった。
ショッピングモールから自転車で約10分。住宅街の中に美歌の自宅はあった。
「どうぞー」
美歌に促され、勇斗は美歌の自宅へ入る。
「お邪魔します」
リビングのソファに座るよう言われ、勇斗はソファの端にゆっくり座る。
「少し待ってね」
キッチンの先から美歌の声だけが響いた。
「あ、はーい」
しばらくすると、三人分のコーヒーを乗せたお盆を持って美歌が現れる。
砂糖とミルク、もう一つ透明な液体の入った小瓶をテーブルの上に置く。
「それじゃ、先に手当てしちゃうね。腕まくって」
「あ…はい、わかりました」
勇斗は腕の火傷を美歌に見せる。美歌はソファの横に膝をつき、勇斗の火傷に透明な液体を一滴たらす。透明な液体は一粒の宝石のように七色に輝き、勇斗の腕に零れ落ちた。そしてすぐにガーゼをあて、テープで止める。残りの2箇所も同様に処置をした。最後に美歌は、小声で呪文のように唱えた。
「痛いの痛いの、とーんでけ」
美歌の瞳が赤く輝く。一瞬ふわりとした感覚の後、勇斗の腕から痛みは消えていた。勇斗が驚いて言葉を失っている時、美歌の背後から見知らぬ声が飛んできた。
「いいの?美歌。一般人に使っちゃって」
美歌は立ち上がって後ろを向くと、そこにはスーツの似合う黒髪の女性が立っていた。
「あいり。いらっしゃい」
「彼が候補者なの?」
あいりの鋭い眼光が煌く。勇斗はその視線に恐怖すら感じた。
「コーヒー、あいりの分もあるから。さぁ座って」
勇斗の向かいに美歌、その隣にあいりが座る。
「彼は伊勢谷勇斗君。私の同僚なの」
「伊勢谷です。よろしくお願いします」
あいりはコーヒーをブラックのまま一口飲む。
「高砂あいり、美歌とは古い付き合いでね」
あいりの隣で美歌はいつも通りの笑顔。
「実はあいりが人材を探してるの。伊勢谷君、どうかなって」
突然始まった自己紹介に戸惑いながら、勇斗は相槌を打つ。
「はぁ…人材派遣とかですか…?」
美歌とあいりは二人揃って笑い出した。
「伊勢谷君、天然でかわいい。あいり、伊勢谷君は去年まで役者を目指して劇団員をしていたの」
「そっかそっか。あー、うん。なるほどね」
勇斗は気まずそうにコーヒーを口にする。
「ごめんね、怪しい仕事じゃないの。公に募集する訳にいかない事情もあって」
慌てて勇斗をフォローする美歌。あいりは至って真面目に説明する。
「住み込みで三食、昼寝はつかないけど。極秘プロジェクトなので、絶対に内緒にしてほしい」
「それって正社員ですか?」
「お、いい質問」
勇斗の問いにあいりはメガネの位置を直し、身を乗り出して食いつく。
「正社員という雇用形態ではない。うちの団体の職員という扱いだ」
「そう…ですか」
あからさまに肩を落とす勇斗。美歌は心配そうに腕を組む。
「やっぱり、正社員で安定がいいわよね」
「この年でバイトとか、カッコ悪いですよね...」
肩を落とす勇斗に、あいりは言葉をかける。
「人にはいろいろ事情がある。みんなやりたい仕事に就いても、安定しているわけじゃない」
「正直、自分には大切なものも無いんです。守るべき家族もいないし。周りはみんな夢を叶えたり、子供や家族がいるし。…でも自分は…」
美歌とあいりは顔を見合わせる。少しの沈黙の後、あいりは勇斗に再び質問をする。
「言い方を変えよう。君、現実からフェードアウトする気ある?」
「あいり、ダメよそんな言い方…」
焦る美歌と理解が追いついていない勇斗。あいりは意地の悪い笑顔で続ける。
「今の現状に不満があるなら、プロジェクトに参加してもらう事で世の中に影響を与える仕事ができるかもしれない」
「犯罪…とかではないですよね?」
あいりも美歌も目を見開いて驚く。一呼吸おいて、2人はくすくすと笑い出してしまう。
「ごめ…伊勢谷君…くすくす…大丈夫。犯罪に巻き込んだりはしないわ」
美歌は弁解しながらも、必死に笑いを堪えているようだった。
「闇の仕事でも詐欺でも無いから安心してほしい。どちらかというと、国家機密だな」
「国家規模ですか…僕みたいな人間で大丈夫か心配です」
あいりの言葉を聞いて、勇斗は余計に不安を募らせる。あいりとアイコンタクトを交わし、美歌が続ける。
「私は以前、海外で極秘プロジェクトにあいりと一緒に参加していたの」
美歌の意外な経歴に、勇斗はごくりと息を飲む。
「日本に戻ってからは普通の主婦やってるけど、国境とか関係無く、需要のある仕事である事は間違いないの」
「そんなこんなで詳細を説明する事が難しいんだが、慈善事業だと思ってほしい」
美歌とあいりの言葉に、勇斗は安堵する。
「わかりました。人の役に立つ仕事なんですよね」
「そう!人助けの極秘プロジェクトなんだ」
あいりも勇斗に概要が伝わり、満足している。その横で一人、美歌の表情は曇る。
「伊勢谷君。一つ、条件があります」
深刻な美歌の声色に不安を覚える勇斗。
「条件…なんですか?」
「それは私から話そう」
「あいり…」
美歌を見ていられなくなったあいりが割って入る。先程までのライトな感じではなく、真剣な表情のあいり。
「ご家族は近くにいるのかい?」
「いえ、北海道にいます」
「そうか。兄弟は?」
「兄と姉がいます。家は兄夫婦が継いでるので、自分はもうどこで何をしてようといいんです…」
そう言うと勇斗は足元に視線を落としてしまう。すっかり静まり返ってしまう中、あいりは淡々と話す。
「そう…君を気遣う家族はいない?」
「ちょっとあいり、そんな言い方…」
困惑した美歌を横目に、あいりは言う。
「美歌だって少なからずそう思ったから、ここへ連れてきたんだろう?」
「…私は…伊勢谷君に向いてると思ったからよ…。もうご家族に会えないかもしれないっていうのは…」
「家族に会えないって、どういうこと…ですか?」
困惑し、両手で口元を覆う美歌。期待と恐怖を足して割ったような勇斗の表情を見逃さなかったあいりは、勇人にある提案をする。
「伊勢谷勇斗君。君はこれから、死んだって事になる」
「え…な、何言ってるんですか!?」
勇斗は状況を飲み込めないまま動揺する。だが、少し冷静になって考える。
「死んだら…お給料とかもらえないですよね…?」
美歌とあいりは目を丸くして、しばらく動かなくなった。どのくらい沈黙が続いただろう、美歌は小さい声でケタケタと笑い出した。
「ごめんなさい…伊勢谷君…ふふふ…そうじゃ…ないの」
笑いを堪えながら言う美歌を横目に、あいりも少し口元に笑みを浮かべていた。
「こら!か、彼に…し、失礼じゃないか」
「あー!そういうあいりだってぇ、笑ってるじゃないのっ」
2人は気を取り直して、勇斗の方を向く。そしてあいりが口を開く。
「つまり、死ぬ気で働いてもらう事になる。終業先は機密情報により教える事はできない。何か質問はある?」
「あ…えぇと…」
すかさず美歌がフォローする。
「ゆっくり考えて、気になることはなんでも聞いてね」
美歌の言葉に勇斗は少し気持ちが楽になる気がした。突然謎の仕事の話を聞いて、普通は疑念を抱いて当然だ。少し考え、勇斗は質問する。
「機密情報という事は、安全な職場環境…ですか?」
勇斗の問いかけを聞き、あいりは少しだけ身を乗り出して答える。
「もちろんだ。美歌の作ったシステムは完璧だからな!」
少し興奮気味のあいりを制止し、美歌は補足する。
「あいり、落ち着いて。伊勢谷君が承諾してくれれば、身の保証は確実よ。あと、衣食住にも困らないから安心して」
「そうですか…」
安堵する勇斗を見て、美歌は微笑んだ。腕を組んで考え込んでいたあいりが提案をする。
「口外しないことを条件に、一度下見に行くかい?」
勇斗は顔を上げ、あいりの顔を見る。美歌も少し驚いたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべる。
「いいんですか…?」
「そうね…やっぱり直接見てみないと判断に困るわよね。ありがとう、あいり」
颯爽と立ち上がるあいり。
「伊勢谷君、これから少しお時間頂けるかな?そんなに長い時間はかからないさ」
「そうね…夕飯ご馳走するから、いいかしら?」
「はい、行きます!」
美歌の料理の腕前を知っているため、断る理由も無いまま勢い良く返事をしてしまう勇斗。これから彼を待ち受けるのはどんな運命か。勇斗はまだ、何も知らない。彼の未来は明るいのだろうか。