【4】魔女
ここは……
目が覚めて、はじめに映ったのは高い天井だった。身体が何故か軽くて、こんなにふかふかしたものを知らなくて。少年は、ぼうっとそのまま何秒か天井を見つめていた。そして、段々と記憶がより鮮明に思い出されてきてガバッと起き上がるのだ。あの時の苦痛が蘇って冷や汗を流す。だが、腹部を見てもそこにあるはずの傷口は綺麗に塞がっていて、血も一切出ていない。
「天国か……はたまた地獄か……」
確かにあの時1度死んだ。背後から突き刺さった刃によって串刺しにされてそれはもう簡単に。ハイムの最後に見た笑みは紛れもなくそこに実存していた。だから多分殺せなかったし、あれから仲間がどうなったのか知らない。だが、死んでもなお不安に陥るのは馬鹿げているような気がして、ライトは周囲を見回し始めた。
死後の世界、なのだろうか……
その部屋は、広い広い大部屋だった。開いた窓の風でカーテンはなびき、近くにあった机の上には読みかけの本が開いている。誰かがここにいたような形跡。シンプルな部屋に少年は眠り傍には誰かがいたようだ。
グリアと一緒に考えたことがある。死後の世界とは、どのうよなものかと。
だが、想像していたものとは全く違うらしい。明らかに不思議な世界だった。妙に現実味を帯びていて、窓の外からの爽やかな風も心地よく感じる。死後の世界は、こんなにもよいものなのだろうか。自分の手足についていた重い鎖ははずれていて、どうやら本当に解放されたような気分にさせられた。
「いや、僕は解放されたのか……?」
自分の言葉と映る景色に違和感を覚えながら考えることを止めたライト。死後の世界に、ハイムは存在しない。それなら、本物の自由を手にしたことに変わりはないのだ。少し、罪悪感を感じつつも少年はもう一度ベッドに横たわった。こんなふかふかのベッドも初めてだった。
「あら、起きた?」
しかし、唐突な上からの声に反射的に体をビクリと反応させる。全身が急速に冷えていくように、ベッドから飛び退いて声の主に目を向けた。ナイフは、ない。だが、一応臨戦態勢を整える。こういうものは、今までの生き方を反映しているような気もする。
「君、酷いのね。私は、君の命の恩人だというのに」
真っ黒の髪の間に隠れる透き通るような白い肌の女。その深紅の瞳がこちらを真っ直ぐ見ているのだった。扉に背を当てもたれかかるようにしてそこに立っている女はクスリと笑って、近づいてくる。彼女の言葉が頭の中でリピートされ、意味不明な解釈を掻き立てた。恩人?どういうことだよ……そうして、手の届くかという距離まで近づくと腕を組んだその女はベッドにライトを突き飛ばした。ライトが倒れると、その上に手をつけて正面から見下ろした。
「ここは、天国でも地獄でもない。君は、まだ生きている。それが、現実であり君の存在が証明している。そして、聞こえるでしょ?そこにある命の鼓動が」
僕は、あの刃で確かに殺されたはずだった。命が途切れる瞬間を感じたのだから。だが、それは幻影だったのだろうか。自分の腹部を何度見てもあるのは、ハイムたちから受けた傷の他に何も見当たらない。
「お前は、誰だ?」
すると、女は面白いというかのように笑みを浮かべながらこう言った。
「私は、魔女です」
◇◇◇
少年は、現在初めての待遇に疲労感を覚えていた。これほど綺麗な服を着たことはないし、目の前に出された食事には目を疑う。広いダイニングは、陽の光が入ってきて明るく、豪華な食事に穏やかな空間。やはり、ここは死後の世界なのではないかと思い始めてしまうほどだった。
「汚かったから、お風呂に入ってもらわないと私の気が許さなかった」
女は、黒髪を一つにまとめて少年の前の席に座った。今までのこと全てが、偽りだったように今の生活が至れり尽くせりで。ピンと来ないのである。少年は、あの後彼女に強引に風呂に入れられ、新しい整えられた綺麗な服を着せられた。理想を具現化した夢なのか、あるいは死後の世界なのか。少年は、一切理解できなかった。
「君、名前は?」
女に自己紹介を促され、少しの沈黙を有する。彼女からは敵意は全く感じられない。周囲に視覚を伸ばしてみても今は、敵となるような人間はいないらしい。別に自分の名を話したところで、食ってかかってくる人間はいないだろう。そんな判断の元、初めて自分の名を口にした。親友につけてもらった大事な名前を。
「ライト」
すると、女が少年の顔をまじまじと見たあとぽつりと呟いた。
「そう、光か。いい名前、と言いたいところだけれど君に光は似合わないわね」
褒めたいのか、貶したいのか。どちらにしろ、少年に怒りの気持ちなど一切なかった。全てが消えたように喜怒哀楽がないのだ。状況が理解できないまま話が進む中でライトは、ただぼうっとその椅子に座っていた。
僕は、生きているのか?だが、生きているのならハイムによってまた地獄へと引き戻されているはずなのだ。それも以前よりも辛く苦しいものを強要されて。しかし、実際目の前に広がるものは異なっている。グリアはどうした?他のみんなもどうなった?そんな思考が目の前の現実を隠していたのだった。
「私は、シルヴィア。よろしくではないかもだから、それは言わないでおく」
シルヴィアが、そう言いながら自分の食事をテーブルに置き椅子に腰を下ろす。綺麗が似合う女だろう。少女と行った方が正しいかもしれない。大人びた雰囲気を醸し出しているがまだその容姿は少しの幼さを残している。髪を耳にかけた彼女の動作は綺麗だろう。表の見えない隠れた顔は仮面を付けるよう。しかし、少年はわけがわからなかった。
「状況を理解できていないようだから、再度説明してあげる」
ナイフを持って、少年の心を見透かしたように彼女は次の言葉を放った。
「私が君を殺した張本人であり、命を救った張本人でもある。そして、君は生きてあの世界と同じ地を踏んでいる」
時が止まったかのように空間が停止した。
やっぱり、僕は生きているのか……
彼女の言葉がライトを立たせた。他の言葉に頭は回らない。ただ、生きているという現実が少年を立ち止まらせてはいけないと言うのだ。テーブルをバンと叩いて椅子から勢いよく立ち上がる。もし、それが本当ならば皆はどうなったのだろう?グリアは大丈夫なのか!?そんな思考が一気に押し寄せるのである。
「落ち着きなさい」
ハイムは、まだ生きている。僕は、こんな所で何を流暢にしているのだろう。一刻も早く彼らを助けないといけないのに。今までの負の念が渦巻いて、少年を奮起させた。しかし、ライトはそこから動くことは出来なかった。彼女の手から、赤黒い小さなナイフが少年に向かって飛ばされたのだ。頬を掠めてピッと血が出る。
「君、今の状況を理解していないらしいわね。私が優しく説明してやろうと思ったのに面倒くさいことを増やさないでくれるかしら?」
その刃が、背後の壁にグサリと突き刺さり落ちない。痛い……痛さを肌で感じて、改めて彼女の言葉が現実味を帯びる。彼女の黒い瞳が赤く染まって睨んでいた。その圧にライトは蹴落とされ、ペタンと椅子に浮かせた腰が落ちた。刃は、遠のく意識の中で確かに自分の腹部を貫いたあの赤黒い結晶のようなもの。彼女が、自分を殺したということは間違いではないらしい。
「お前が、あそこにいた人間なのか……」
「愚問ね?ずっとそう言っているじゃない。馬鹿なの?友達を助けたいのは、分かるけれど君の実力じゃ死んで終わり。弱者がどれだけ足掻いたところで無意味なの。そして、君は彼らを助けられるチャンスを呆気なく無駄にし、地獄へと舞い戻る」
彼女の言葉が突き刺さった。全てが正しい。全てが事実でそこに間違いはないのだ。1人で挑戦し、少年は敗北した。何を残すということもなく、ただただ彼は殺られたのだ。
「でも……世界は僕らに味方してくれなかったから。僕はやるしかないんだよ!」
初めて、シルヴィアに自分の気持ちを話した気がした。これまで誰にも話せなかった言葉を。救いを求める絶叫を。希望の糸は簡単に切られて終わった。これ以上の方法は見つからないし、生きていたのなら再戦を臨むのみ。それが、変わらぬ結果を招いたとしても立ち止まれないのだから。目の前に並べられた食事用のナイフを手に取った。
「そこをどいてくれ。僕の道は僕が決める」
ライトは、自分の信念を突き通したかった。どこかで折れるのではなくただ真っ直ぐ。そして、願いは大事な仲間と何に縛られるわけでもなく楽しく生きることだった。それを達成するために命を持ってして挑戦するのだ。
しかしそれを聞いた彼女は、怒鳴るわけでもなく冷たく突き放すわけでもなく嬉しそうにこちらを見て微笑んだ。
「そう来ないと、私が君を救った意味が無い」
その裏に秘められたものとは一体何なのか。彼女の思考を読み取ることは困難であり、少年自身も気味が悪く感じられた。