【2】当たり前の現実
感嘆の意がこぼれた。自分のいた世界がどれほど小さく薄汚れているのか、そういうことを理解したのである。ゴクリと生唾を飲み込んだ少年はぐっと唇を噛んで歩き出した。
ここに皆で、自由に過ごせたら……
そんな夢見の妄想をしながら、よろよろとした足どりを前に進めて場違いな大通りを突き進んで行く。本来の目的をしっかりと視野に入れて辺りを見回すのは探している人がいたから。
国家の実力組織である警官。彼らは、人々を助ける正義を名乗った集団でありその目印として黒の軍服を着用している。そして、他人を支配し労働を強制する奴隷という存在は現在、法律上で禁止されているらしいのだ。従って、国直々の組織である彼らに助けを求めるのが1番の近道なのである。
周囲を徹底的に観察し、窓の中に映るものまで全てを見回した。そんな中、目に止まったのは窓に映った黒の軍服。顔は見えないが、そこに彼らはいた。時間はない、善は急げだ。
少年は、店前に立ち止まった。中は、扉で見えないがその騒々しさは外まで聞こえる。少しの躊躇が身体を停止させた。場違いだからか?助けが貰えなかった時が怖いからか?扉を押そうとした手はそこで静止し下を向いた。血で汚れた手を見て、ゴシゴシと服に手を押し付けてそれを拭う。
動かなければ始まらない。今でも仲間は苦しんでいるはずなのである。それに比べたら、自分のちっぽけなどうでもいい少しの不安などあってならないようなもの。だから、自分のすべきことは一つでなのだ。そう思った少年は、扉を力強く開くのだった。
酒場なのだろう。奥のカウンターに1人の男と飲んだくれている男たちが複数。その中にいた、2人の軍服を着た男たちを目に止めて彼らの方向に足を向かせた。
一瞬、店内は静まった。注目を集めたことを感じたが、仕方のないことだと思ってそれをスルーする。目を瞑ってその中を通り過ぎていくと、彼らの興味もそれで反れたのか、すぐに店内はその騒々しさを取り戻した。少年は、2人の席に駆け寄って勢いよく話しかける。
「あ、あの!」
彼らに反応はなく、少年はもう一度大きな声で試みた。
「あの!」
すると、こちらに視線を向けた2人。爆笑していた方の男がこちらをギロりと睨んだ。目つきが悪くてイカつい男という印象が強い。しかしそんな圧にはひるまない、ここまで来たのだから。次の言葉を口にしようとした。
だがその言葉が出ることはなかった。
そして、彼から返ってきたのは酒瓶だった。
「なに、お前?汚ぇ、クソガキなんすけど。胸糞悪ぃわ。楽しい酒の席が台無し。あっち行けよ!」
怪しい呂律で少年を指さし、ゴミを見るような眼差しを送り付けるてくる男。もう1人は、黙りきったまま水を飲んでいるだけ。次に発せられるはずだった言葉はそれにかき消され、少年は酒が滴る固まった人形のようにそこに立ちつくした。
「こっち見んじゃねぇ、気持ち悪いんだよ。なに?なんか用すか?その足についた鎖とか……お前なんかが、なんでこんな店に入ってんだわ」
机を蹴飛ばし、男は少年を見た。その目に映っていたのは鬱陶しいものを見るようなもの。本で読んでいた警官とは全く違う、正義の言葉も似合わないような人間だった。男の垂れ流しになる罵倒の数々を少年は、ただただ浴びることしかできなかった。時間は限られていて、その中での1番の可能性の彼らには頼るほかないのだから。少年は、どんなことを言われても絶対に諦められない意思を持っていた。
「話だけでも聞いてください。僕は、奴隷として扱われ毎日重労働をしいられてきました。休むと叩き起され、使えなくなったら廃棄されるという過酷な日々です。ですが、僕一人だけそこから脱することが出来たんです。だから、他の皆を助けてください。お願いします」
深く頭を下げた。今できる最善を尽くす。精一杯の気持ちを言葉に込めて、少年は彼らを見るのだった。
だが、帰ってきたのは馬鹿にしたような笑いだけだった。
「お生憎様、お前の居場所はここにはねぇ。俺に話しかけるな。坊主、世の中、金なんだわ。お前が俺らに助けをこいたのはよぉく分かった。だが、金のない汚いお前のようなガキの願いに俺たちは動かない。それこそ無意味な労働、俺たちにとっての重労働になっちまうからな」
男は酒瓶にそのまま口をつけ、一気に飲み干し手で虫けらでも払うかのように少年を払い除けた。どっと笑いがその店内を包みこみ少年は一人孤立した。皆の顔が、不快そうな眼差しから歪んだ笑いに変化した。
何が面白い?
さっき、飛んできた滴る酒が赤く染まって見えるのは気のせいか。瓶の破片が何とも滑稽で悲しく酷い顔の自分を映した。
弱気になるな。彼らを助けるための道が1つならそれにひたすらしがみつくだけだ。自分たちの弱い力では、どうすることも出来ないのだから誰かに頼るしかないのだと。自分に鞭打ちその屈辱を呑み込んだ。
「お願いします」
何度も頭を下げる少年。しかし、待っていたのは残酷な言葉だった。
「そりゃぁ、ねぇんじゃねえか?あんちゃん。可哀想だろぉ?坊主が凄く惨めだから、これやるよ」
投げられたのは、皿に乗ったハンバーグとサラダ。目の前でボトリと落ちたその食べ物は飛散し、皿は音を立てて割れた。皆、面白がっているだけなのであった。壊れたそれはなんのためのものなのか、自分を底に突きつけるための1つの洗礼なのか。
コイツらは、なんだ?
少年は突っ立っていることしか出来なかった。下げた頭を持ち上げることも出来ない、悔し涙もこぼれない。
希望の光は目の前で無様にも消えるのだ。彼らのその腐った人間性のせいで、いともあっさりと絶たれるのである。
なぜ、僕はここまでの仕打ちを受けなければならないのだろう?
少年の視界は暗闇に覆われた。暗転した世界に感情はない。
「坊主、金があったら俺たちは喜んでお前を助けてやるよ」
目の前でぐしゃりと踏み潰された肉の塊。
ダメだ。
僕は、こんなくだらないヤツらに頭を下げるのだろうか。城の支配者に負けない強さが必要だったから、助けが必要だったから。でも無意味だった。こんなヤツらに頭を下げる価値などない。
知らず知らずにその手にナイフを持っていた。
僕は、何をしようとしているのだろう?
少年は男を睨んだ。空を切ったそれの刃先は男たちに向いていた。
「そのナイフはなんだ?」
男が少年に訝しげな眼差しを向ける。しかし、そんなものが映るわけもない。怒りとかそういう部類じゃないのだ。
ただ、少し手を差し伸べてくれればいいだけだったのに。彼らは僕らの道を壊した。国に反する行動をした。これは、逆恨みなのかもしれないが彼らの存在意味がわからなかった。
一歩一歩前に進んで、ぺたぺたという音ともに素足が床に擦れた。ゆっくりと距離を狭めていく少年は自己中心的な妄想をしていたのか。いや、違う。ちゃんと現実的なものだったはずだ。なんで、コイツらは飄々と生きているのに僕らはこんなに辛く苦しい生活をしなければならないんだろう?その目が彼らを映した。
「なんで、お前らみたいなのが……」
その時だった。店内に勢いよく飛び込んできた弾丸。3発のそれらが窓ガラスを突き破って、少年を襲った。五感でそれをいち早く探知し、後方に体重移動をしてそれを避ける。
「クソッ!」
やはり、追手はそこにいた。目の前で弾丸が通り抜けそのままカウンターを貫く。五感の先の銃撃の方向に目を向けると、知らない男がニヤリと笑ってライフルを構えていた。次の攻撃に備えるため、近くの椅子を咄嗟に盾にする。銃声が腹底にドンと音鳴り、椅子を突き破った銃弾は少年の右頬横を通過する。
「クッ……」
無念の意をこめその店から立ち去ろうとすると、その扉から1人の男が飛んで入る。
「号外だぁ!少年に……小さな少年の首に、多額の賞金がかけられて!!今この街の人間はそいつを追って凄いことになっている!!」
新聞を片手に大声で叫んだその内容は、そこにいた全員を駆り立てるものだった。
賞金という言葉に反応する男たち。その視線が一気に少年に向けられた。多数の敵意が交差する。
「いくらだ?」
「100万ほど……」
そこに載せられている写真は、紛れもなく自分だった。
ヤツらが賞金をかけてきたのか!?
近くにいた警官の男が、ニヤリと笑って立てかけてあった銃を手に取った。皆、こちらを見て武器を手に取る。正義の意味とはなんだったのだろう。本当にこの世界は、
狂ってる
少年は、新聞配達の男を押しのけ勢いよく扉を開けた。人々が行き交う大通りを必死に走る。
最初から希望なんて持たない方が良かった。それが当たり前のことだったのだと痛感した。
「皆ッ!そいつの首に、100万の賞金がかけられている、取り押さえろ!!」
自分は何もしていないのに。なぜこうなったのだろう。アレを敵にまわした時点で間違いだったのか。
自分を責めた。自分の判断を疑った。
店内から出てきた男が大声で叫び2発発砲した。銃声が轟き、人々の眼が一斉にこちらを見る。
なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ。
少年は歩く人々を押しのけ跳ね除け、ぐんぐんと前に駆けた。風が自分に突き刺さって痛い。ナイフを取り出して邪魔な彼らを斬り倒す。もう、何が何だか分からなかったのだ。血飛沫が飛び、女や男がばたばたと倒れていくのは自分のせい。自分がしでかしたことの重大さを知りながら、それでも止まれないのだ。皆、自分を不快そうに眺める。自分たちのような存在が住める場所はここにはないのだとそう思った。関係ない人を斬り倒して、少年は闇へと足を戻す。
息を整えながら、周囲を確認した。追っ手は来ない。倒れた人たちを気遣っているのか、それともただ少年を見失っただけなのか。
鮮やかだと思っていた世界に少年のような人間が入るスペースはなく、本当の世界の汚さを知った。国は奴隷を認めないはずなのに、彼らは簡単に僕たちの命の糸を断ち切った。
こんなにもたくさんの人がいて、広い広い世界なのだから。自分たちを助けてくれる正義を持った人間がいるはずなのだと信じていた。今までの努力を、待っている皆の意志を繋いで僕が諦めていいはずがないのだ。
だが、世界は残酷だ。
ちっぽけな自分だけでは、今の現状を打破することは出来ないのである。何も出来ない。しかし、彼らは僕たちを見捨て嘲笑った。馬鹿な自分に腹立たしさを覚えた。
悔しさで腹が煮えくり返る。現実は僕に味方しないまま遠のくばかり。
だから、自分が強くなって仲間を助けるしかないんだ。
そう、心に決断した少年は誤った道へと足を踏み入れようとしていた。太陽が姿を現す森林にもう一度。
そして、刺客は前触れもなく訪れるのだった。