トロッコ問題の殺意
【問題】
制御不能となったトロッコの進行方向の線路上に、5人の作業員がいます。
あなたは偶然そのトロッコの進路の分岐をコントロールできる立場にいて、進路を変えることによって、5人の作業員の命を救うことができます。
もっとも、進路を変えた先には1人の作業員がいて、あなたが進路を変えればその作業員の命が犠牲になります。
あなたは進路を変更し、5人の作業員を救うために、1人の作業員の命を犠牲にしますか。
なお、進路を変更して1人の作業員の命を犠牲にする方法以外に、5人の作業員の命を救う方法はないものとします。
ロイドの朝の日課は、この国の中流階級の人間が大抵そうしているとおり、新聞を読むことだった。
もっとも、ロイドは政治にはあまり興味がない。それは理念的であり、生々しさに欠けるからだ。
ロイドが必ず真っ先に見るのは社会面だった。そこにはロイドが期待する「ドラマ」があるのだ。
「ふむふむ。これは実に興味深い。『トロッコの進路を変えて5人の命を救う』」
ロイドはわざと妻のリュカに聞こえるように、声をあげてその記事を読み上げた。
「『制御を失い、暴走するトロッコの進路には5人の作業員がいた。トロッコの遠隔操作をしていたAは、モニター越しにそのことに気が付き、分岐をコントロールし、トロッコの進路を変えようとした。しかし、Aは、事態がそう簡単ではないことに気付いた。変更する進路の先には、別の1人の作業員がいたのである。Aは迷った挙句、進路を変え、1人の作業員の命を犠牲にし、5人の作業員の命を救った』」
「なかなかひどいことをするのね」
妻のリュカはカモミールティーを飲みながら、ボソッと感想を漏らした。
「そうかい? たしかにAは1人の作業員を殺したかもしれないが、その代わりに5人を救ったんだぜ。どう考えたって1人の命よりも5人の命の方が大事だろ」
「そうとは言い切れないわよ。人1人の命は地球よりも重いんだから」
「だとしたら人5人の命は地球5個分よりも重いだろ」
リュカが反論しなくなったことを、論破が成功した証と捉えたロイドは、新聞紙の覆いの中でほくそ笑んだ。
翌朝の新聞には、例の「トロッコ事件」の続報が書かれていた。
ロイドが声をあげて記事を読む。
「『Aが進路を変えて犠牲にした作業員Bは、Aの妻だったことが発覚した』」
ロイドがリュカの顔色を窺うと、リュカは「職場結婚かしら」とどうでもよい疑問を呈した。
「このAって男、なかなかひどい奴だな。家族でもなんでもない人間の命を救うために、自分の妻を犠牲にするなんてな」
「あなた、昨日はAを英雄視してたじゃない」
「犠牲にしたのが妻だとしたら話は別だよ。夫っていうのは、自分の妻のためだったらなんだって犠牲にしなきゃいけないんだよ」
「それ、私におべっか使ってるつもり?」
「違うよ。本音だ。たしかに5人の命の方が1人の命よりも重いかもしれないが、家族が絡んできたら、そういう理屈の問題じゃないんだよ。是が非でも家族は守るべきだ」
「ふーん」
リュカの反応は想像していたのよりもだいぶ淡白であったが、ロイドは自分の言いたいことが一通り言えたので満足し、脚を組み替え、新聞のページをめくった。
翌朝の新聞にも「トロッコ事件」の続報が掲載されていた。
「お、これはすごいな。『モニター室の防犯カメラの映像に、トロッコの進路を変更する直前にAがコインを投げている姿が映っていた。Aの話によると、Aは5人の作業員を救うか妻であるBを救うかは自分では選べなかったため、神に選択を委ねるしかなかった、とのこと』」
「随分無責任なのね」
「そうか? むしろ俺はAのことを見直したぜ。この『トロッコ問題』の答えは、5人を救うでも妻を救うでもなく、『選べない』なんだ。Aはそれが分かっていて、選択を神に委ねたのさ。人としてこの上ない立派な選択だと思うよ」
「私がAの奥さんの立場だったら、コインごときに殺されるなんて無念だけどね」
「コインごときじゃない。神の選択なんだよ」
「そうなのかしらね……というか、Aは刑事罰に処せられるの?」
「5人の命を救うための行動だから、緊急避難が成立して、罰せられないんじゃないか?」
「やっぱり奥さんは無念ね」とリュカは言うと、庭の畑の水やりのために外に出かけた。
翌朝の新聞における「トロッコ事件」の扱いは、今までとはだいぶ様相が違っていた。
「これはとんだスキャンダルだな。『トロッコで妻を轢き殺したA、不倫をしていたことが発覚。進路変更は実はわざとだった』」
「どういうこと?」
「Aは5人の命を救うためではなく、意図的に妻を殺すためにトロッコの進路を変更したんだよ。あの状況を奇貨としてな」
「え? それじゃあコインは?」
「コインが表だろうが裏だろうが進路を変更するつもりだったらしい」
「ただのポーズってこと?」
「そうだな……いや、違う。Aは、妻の生命保険金を受け取るために、わざわざコイントスをしたらしい。受取人であるAが故意に妻を殺した場合には保険金は下りないから、Aが分岐を切り替えたのは『故意』ではなく『偶然』だということをアピールするために、防犯カメラのある場所でわざわざコイントスをしてみせたんだ」
「賢いのね」
「最低最悪な男だな。なんとかして刑事罰を科せないのか」
「それはできない、って、私は昨日あなたから教わったわ」
「まったく法の不備だぜ」
ロイドはイライラしながら、朝食のベーコンを噛みちぎった。
翌朝の新聞は「トロッコ事件」にまつわるさらなるスキャンダルを伝えていた。
「『Aの妻であるBが死亡時に妊娠していたことが発覚。胎児はAの子ではなく、別の男との間にできた子だった』」
「いわゆるW不倫ね」
リュカはさぞかし愉快そうに笑う。
「なんだよ。登場人物全員しょうもないな。どっちの味方をしていいのか分からなくなってきたよ」
「でも、胎児に罪はないはずよ」
「それはそうだが」
「それに、あなたが初日に言っていた理論に基づけば、人1人の命よりも人2人の命の方が重いんだから、Bの妊娠が発覚したことで、Aに対する非難は増すんじゃないかしら?」
「そういう問題じゃないだろ」
新聞を一旦置き、朝食のプレートを確認したロイドは、普段とは違う一品に気が付く。
「おいリュカ、これは何の肉だ?」
「野うさぎよ。今朝、庭で見つけたから、捕まえて調理したの」
「殺したのか?」
「ええ」
「可哀想じゃないか?」
「でも、人間はそうやって命の恵みをもらって生きてるのよ」
「それもそうか」とロイドは納得すると、ソテーされた野うさぎの肉にフォークを突き刺した。




