鬼がいる池の殺意
【問題】
あなたは今、ボートに乗った状態で円形上の池の中心にいます。
池のほとりには、人食い鬼がおり、あなたのことを虎視眈々と狙っています。
人食い鬼はあなたがボートを漕ぐ速度の4倍の速度で移動します。ですので、池の中心にいるあなたが人食い鬼と真逆の方に向かってボートを漕いだとしても、池のほとりで人食い鬼に待ち伏せされてしまいます。
人食い鬼に捕まらずに池の中から脱出するためには、あなたはどのようにボートを移動させればよいでしょうか。
私は今、まん丸の「鬼ヶ池」のちょうど中心にいた。
水面から目を離し、池のほとり(360度どこを見渡してもそこは池のほとりなのだが)に目を遣ると、そこにはただれた赤黒い肌の怪物が直立し、私の方をじっと見ていた。
人食い鬼である。
私が池のほとりに上陸するのを今か今かと待ち構えているのだ。
私の浅薄な知能では、人食い鬼を出し抜いてこの池から脱出する方法など到底思いつかない。かといって、このままボートで池に漂っていても、状況は好転しないだろう。冬至が近いためか陽は短く、まだ夕方なのにあたりはすっかり暗くなり、気温もどんどん下がってきている。ここに居続ければ体力が削られ、私が生存できる確率は低まっていくばかりだ。
この状況下で私が頼れるのは、彼しかいない。
電話をして、彼に助けを乞うしかない。
それ以外の選択肢は思い浮かばなかったし、今後思い浮かぶ当てもなかった。
私のズボンのポケットの中に入っているスマホは、先ほど確認したところ、充電が切れていた。こまめに充電する習慣がなかったことをこの期に及んで後悔する。
私は意を決し、ボートの甲板に落ちていたもう一台のスマホを拾い上げると、電源を入れた。
そして、アドレス帳から彼の名前を探してタップした。
呼び出し音も待たず、彼が電話に出る。
私がしばらく話し出さずにいると、彼の方から話しかけてきた。
「もしもし、妃呂子?」
「違う。私、実咲」
「実咲? どうして妃呂子の携帯から実咲が架けてくるんだ? 妃呂子はどうしたんだ?」
「私は今、鬼ヶ池にいるの」
「鬼ヶ池? どうしてそんな危険なところに? ……ということはまさか妃呂子は……?」
「ごめんね。直也君、妃呂子のことについて今話すことはできないの」
「そんな……」
絶望に押しつぶされるようにして、直也の声が沈んでゆく。私はそれについて直也に話したいことがいくつもあったが、今はそれどころではなかった。
「直也君、助けて。今、私大変な状況なの」
「どうしたんだ実咲? もしかして鬼が近くにいるのか?」
「私、今、鬼ヶ池の中心にいるの」
「どうしてそんなところにいるんだ?」
「鬼が怖くて夢中で逃げてきたの。鬼は池の中までは入ってこれないから」
「そうか……。で、どうなんだ? 鬼からは逃げることはできそうなのか?」
「ううん。池の外で鬼が私を待ち構えていて、私のことを狙ってるの。このままだと私、鬼に食べられちゃう。どうやって逃げたらいいのか分からなくて、それで直也君に助けを求めるために電話をしたの」
直也は、某有名私立大学の数学科の大学院生である。
直也の知性を借りれば、この絶体絶命の状況から切り抜けられるかもしれないのだ。
「実咲のために俺にできる協力ならなんでもするよ。実咲、今どういう状況なんだ?」
私は、今置かれている状況をなるべく客観的に説明する。
「今私は、ボートに乗って、鬼ヶ池の中心にいるの。鬼ヶ池は、まるでコンパスで書いたかのような綺麗な円の形をしてる。池には流れは全くない。池のほとり、つまり、円周上に人食い鬼がいて、私のことをずっと見張ってる。今私がいるところから鬼までの距離は目算できない。鬼の移動速度は私がボートを漕ぐ速度の4倍もあるの」
「とすると、仮に今実咲が鬼がいるのと逆の方向にボートを漕いだとしても、鬼に追いつかれて、待ち伏せされちゃうな」
「そうなの?」
「うん。だって、仮に池の半径をrとすると、今実咲がいるところから池のほとりまでの最短距離は、池の半径であるr。他方、鬼は円周上を半周回れば実咲が上陸できる地点にたどり着けるから、円周率を3.14とすると、鬼の移動距離は3.14r。鬼は実咲がボートを漕ぐよりも3.14倍の距離を進まなければいけないんだけど、鬼は実咲よりも4倍速く移動できるから、鬼の方が早く到達してしまうんだ」
私は数学は苦手だったが、かろうじて算数くらいは理解ができたから、直也の言っていることもなんとなく理解できた。
「じゃあ、どうすれば、鬼に先回りされる前にほとりに到達できるの?」
しばらく直也からの応答はなかった。ただ、サッサとペンを走らせる音は聞こえたので、私のために計算してくれていることは分かった。
3分経って、ようやく直也から答えが返ってきた。
「実咲、今いる地点に何か目印を置けないか?」
「目印?」
「そう。池には流れが全くないから、何か池に浮かぶものであればいい」
私は羽織っていたダウンジャケットを脱ぐと、それを池に浮かべた。
「今、私の着てたジャケットを浮かべたよ。羽毛の軽いやつだから、しばらく浮きっぱなしだと思う」
「それでいい。実咲、そこからどっちの方向でもいいから、池の半径の9分の2だけ進むんだ」
「9分の2?」
「そう。9等分した半径の2つ分だ。難しいと思うが、なるべく正確に頼む」
「分かった」
私は、直也の指示通りにボートを漕いだ。ふと鬼の方を見遣ると、私が進んだ方向の直線上に向かって走っていた。
「直也君、着いたよ。これで9分の2だと思う」
「そうしたら、ジャケットが浮いているところを中心として、円を描くようにして進むんだ。グルグルと何周もして欲しい。鬼の姿を常に監視しながらな」
直也が私に何をさせたいのかはよく分からなかったが、今の私は直也に頼るしかなかった。
私は、ダウンジャケットを中心としてコンパスで円を描くように、ボートを漕ぎ、その円周上を回り出した。
「直也君、私はいつまでグルグル回ってればいいの?」
「ダウンジャケットを挟んで、実咲が鬼と真逆の位置に来るまでだ。実咲が移動するごとに鬼は合わせて移動してくるはずだが、実咲が半径2/9rの円を半周するのにかかる時間と鬼が半径rの円を半周するのにかかる時間を比べたら、実咲が半周するのにかかる時間の方が短くなるはずなんだ。2/9πrは4倍しても8/9πrだから、半周ごとに実咲は1/9πr分鬼より長く進めるんだ。鬼が真逆の位置にくるまで、そのリードを生かすんだ」
直也の頭の回転の速さに、私の頭の回転は全くついていけていなかったが、私は直也に言われるとおりにした。
何周かすると、ついに鬼はダウンジャケットを挟んだ真逆の位置に来た。
「直也君、真逆に来たよ。どうすればいい?」
「よし、そのまま、鬼のいる方向と真逆を向いて、ボートを池のほとりに向けて進めるんだ」
「まっすぐ?」
「そう。まっすぐ。時間をロスしたくないから、鬼の方は見ない方がいい。とにかく一生懸命まっすぐボートを漕げば、鬼に追いつかれる前に上陸できるはずなんだ。実咲に残された距離は7/9rで、鬼が待ち伏せするために進まなければならない距離は3.14rだから、実咲に残された距離を4倍しても28/9rすなわち3.11rになるから、鬼より先にほとりに着けるんだ」
3.14rと3.11r。
それがわずかな数値の差であることは実咲にも十分理解できた。迷っている時間は1秒もない。
私は鬼とは逆の方向に向かって全力でボートを漕いだ。
私は中高と吹奏楽部であり、決して運動は得意ではないし、体力にも自信はない。
しかし、これがいわゆる火事場の馬鹿力というやつなのかもしれないが、私は一切休むことなくボートを漕ぎ続け、池のほとりまで到達することができた。
私がオールを置いて立ち上がったとき、私は池の円周上をすごい勢いで走ってくる鬼の影を感じた。
私はそれでも鬼の方を決して見ることなく、そのまま陸地に足を掛けると、全力で地面を蹴った。
鬼が伸ばした手が私の後ろ髪を掴み、鋭い爪が首を引っ掻いたが、私はまさしく間一髪のところでそれをかいくぐった。
鬼はボートを漕ぐ4倍の速度で移動できるが、陸地までくれば身軽な人間の方が移動速度は速かった。
私は徐々に鬼との距離が離れていることを感じ取っていたが、それでも決して振り向かずに一心不乱で走り続けた。
「おい、実咲、無事か? 実咲!! 実咲!!!」
鬼を完全に振り切ったとき、私は、右手に握りしめたスマホから直也の声がずっと響き続けていることに気付いた。
私は、息を切らしながら、スマホを口元に近付ける。
「はあ……直也君、私、直也くんのおかげで無事、鬼から逃げられたみたい」
「それは良かった。本当に良かった」
一安心すると、今まで身体を無理させた分の疲労がどっと襲い掛かってきた。
私は体育座りのような格好で地面に座り込む。
「直也君、私、直也君がいないと生きていけないの。だから、直也君、私のことをいつまでも好きでいてね。ずっと私の彼氏でいてね」
「当たり前じゃないか。俺はいつまでも実咲を守り続けるよ」
電話の先にいるのは、私の好きな直也だった。私は、鬼から逃げられたこと以上に、そのことにホッとする。
しかし、直也の次の発言は、私の心のやすらぎを一気に奪い去るものだった。
「それより、妃呂子はどうなってるんだ!? 妃呂子は無事なのか!?」
私は電話に向かって怒鳴りつける。
「『それより』って何よ!? 私よりも妃呂子の方が大事なわけ!?」
私の態度が急変したことに戸惑い、言葉を失う直也に対し、心の中で唾を吐きかけながら、私は電話を切った。
電話を切ると、今度はウーウーと唸るサイレンの音が聞こえた。
それは次第に大きくなる。一方からではない、四方からそれは聞こえる。
私は悟る。
今度こそもう逃げられない、と。
私の目の前で停車したパトカーから降りてきた警官は、私に手帳を示す。
「警察だ。署まで同行願いたい」
言い逃れをしても無駄なことは分かっていた。
しかし、素直に認めるのも癪だった。
「私が一体何をしたっていうの?」
「軽部実咲、君は、君の交際相手である木野下直也と、君の友人である田島妃呂子が浮気をしていることを知り、激昂し、田島妃呂子を殺害したんだ」
やはり警察にはすべてお見通しだった。
「そして、田島妃呂子の遺体を隠すために、ここ鬼ヶ池に来たんだ。人食い鬼がいるこの池には、ほとんど人が寄り付かないから、遺体が発見されることはないと思ったんだろう。君は池の中央に遺体を沈めたんだ」
「……どうして分かったの?」
実は、私にはその答えが分かっていた。
本来遺体とともに池の中に沈める予定だった妃呂子のスマホを捨てず、直也に電話を架けるために電源を入れた時点で、私はそのリスクがあることを十分に覚悟していたのである。
「GPSだよ。捜索届が出されていた田島妃呂子のスマホのGPSが、突然起動し、鬼ヶ池の中央の位置を指し示したんだよ。そして、今、それはちょうど君がいる位置を指しているんだ」
私は沈黙した。もうこれ以上警官に尋ねることはなかったのである。
警官は私の腕を乱暴に掴むと、手首に手錠を掛けた。
「軽部実咲、君を殺人及び死体遺棄の容疑で逮捕する」




