5. アニカ、卒倒する。
ニコに促されて再び身形を整えたアニカは、改めてトゥヴェ宮の自室の扉の前に戻ってきた。
深呼吸を三度もしてから目配せすると、ニコがついに扉を開ける。
そこに広がっていた光景に、アニカは分かっていたはずながら息を呑んだ。
男の人が、いた。
しかも六人も。
壁に凭れたり長椅子に腰掛けたりと、姿勢こそそれぞれだが、全員がアニカを見ている。
「ん? 何故そちら側から……?」
誰かが当然の疑問を口にするのが聞こえる。それだけで、アニカの心臓は縮み上がった。
(や、やっぱり、ダメかも……!)
ひょえっ、と喉の奥で出かかった悲鳴を、どうにか飲み込む。その代わり、震える視線で斜め後ろに控えるニコにちらちらと助けを求める。
と、それを合図ととったのか、ニコが一歩前に出ておもむろに一礼した。そして。
「皆様、大変お待たせ致しました」
最悪なことに、事実上の開始宣言をしてしまった。
(えっ、ま、待ってニコ! やっぱり私、)
という心の制止はしかし、発せられてもいないのだから当然ながら届かない。
「ご紹介いたします。こちら、ネストル国王陛下第二王女アニカ・ココイトゥイ・バチュリア殿下にございます」
流れるように名前を読み上げられ、アニカの頭は一気に真っ白になった。
こういった時、まずドレスの裾をつまんで足元を見せ、慎ましくお辞儀をするのがマナーだとは教育を受け覚えてもいる。
だがいかんせん冷や汗が流れだし、手は震え、それどころではなかった。
十二の瞳から逃れようと、床ばかり見る。
それでも、男性特有の香水と体臭と気配は狭い小私室に充満しているようで、堪らなかった。
(に、逃げたい……!)
早くも浮かび出した涙を堪えながら、唇を噛み締める。と、背中をトン、と叩かれた。ニコである。
(そ、そうだ。逃げちゃダメよ。ま、まずは、そう、挨拶を!)
「ア、アニカ・ココイトゥイ・バチュリアと申します。いい以後、お、お見知りおきを」
どもりながらも何とか定型句を言いきって、頭を下げる。と、短い沈黙のあとに「プッ」と遠慮のない笑声が上がった。嘲笑である。
カッ、と頬が熱くなる。けれど恐ろしさに顔を上げられずにいると、更に不躾な言葉たちが続いてきた。
「何ですか、今のは。九歳の妹姫でさえ、もう少し品よくなさいますのに」
少し低めの、明らかに呆れて小馬鹿にした声。
「やめろ。……だが、こんなにも不器用だったか?」
それを諫めるのは、声変わり前のように可愛らしい、けれど懐疑的な声。
「――中身なんかどうでもいい」
ぼそり、と独り言のように冷たく低く呟かれた声も、アニカの耳に届く。
他意があってもなくても、辛かった。知らず呼吸が早く浅くなって、息苦しさに眩暈がする。その時、
「おい、お前らいい加減に、」
「アニカ様。ご無理をなさらないでいいのですよ」
どこか粗野な声と、包み込むように柔らかな声が、同時に上がった。名前を呼ばれたと気付き、ハッと顔を上げる。
遠巻きにする五人から一歩前に出た一人の青年が、困ったように穏やかに微笑んでいた。
「男性が苦手だという話は、妃殿下よりうかがっております。今日は顔と名前を照会するだけの日だとも聞いております。そう構えず、一番遠くから我々を見て頂ければ結構ですよ」
にっこり、と。
最後に届いた柔らかな声で、青年が宥めるように説明する。
無理はしなくていい。
その言葉を証明するように、青年は言い終えると、一番距離のある部屋の角へと下がっていった。
圧迫感が少しだけ消えて、息がしやすくなる。と、こちらを睨んでいた黒髪の少年もまたそれに従うように、反対の角へと退いてくれた。他の三人も、同様に壁に背中をつける。
(す、すごい……)
正論を振りかざして圧力をかけたわけでもないのに、全員が青年の意向に従った。それは言葉や腕力で解決しようとするアニカの中の男性像からは、かけ離れていることだった。
そして、更に気付く。
(こわく、ない)
顔を上げた時にこそ近くにいるように見えたが、それでも今までのような恐怖までは感じなかった。
(こんなひとも、いるんだ……)
三年前から部屋から出ず、社交界にも当然関わっていなかったアニカにとって、伝説のようなその紳士的な対応は、まさに青天の霹靂がごときであった。
(もしかしたら、本当に、何とかなるかも……)
この部屋に入った瞬間に消えたと思われた光が、再び胸にきざす。と思えたのはけれど一瞬であった。
「あれぇ、みんなそれでいいの? じゃあ遠慮なく、僕から親しちゃおうかな」
「ッ!」
第六の声が、真横から聞こえた。反射的に飛びのこうとして、すかさず右手を握られる。ぎょっとして顔を上げると、拳一つ分もない距離に、金髪碧眼の美しい男の顔があった。
「なっ、なんっ……!」
「初めまして、アニカ姫。僕はマルセル・イアシュヴィリ。二十歳だよ。イアシュヴィリ伯爵家の長男だけど、跡継じゃないから安心してね。趣味は古今東西の呪いがかけられた品を集めることかな。女の子とお話しすることも勿論大好きだよ」
右手をどうにか奪い返そうとする間にも、男は更に距離を詰め、アニカの顔を覗き込んでくる。息がかかりそうな近さに、アニカはもう声も出せなかった。
「…………ッ」
「んー、すべすへしてて綺麗な手だなぁ。女の子の手触りって最高だよね。アニカ姫の赤毛はどなた譲りなのかな? 瞳も……王族は魔法の力が強ければ強い程明るい金色に見えるっていうけど」
男が、深い海のような碧眼を近付けて囁く。もう、限界であった。
「ぎょえっ」
「ぎょえ?」
轢死した蛙のような声を上げて、アニカは気を失った。
◆
ちゅぴちゅぴゅ……と、遠く小鳥の囀りが聞こえる。うっすらと目を開けると、明るい日差しがレースの天蓋越しに優しく降り注いでいた。
(あぁ、もう朝……)
恐ろしい男性に迫られる悪夢を見た気がしたけれど、夢で良かった。現実だったら、とても耐えられない。
「あー、怖かったぁ」
もう一度寝直そうと、掛け布団を首元まで引き上げて寝返りを打つ。
「何が怖かったの?」
「!?」
目の前に、夢の中の男がいた。
「――ひ、」
「ひ?」
「ひゃあぁぁあああああッ!」
がはりっ、と布団を跳ね除けて、一番離れた部屋の角まで全速力で逃げていた。
「ななななな何でいるんですか!? しししかも私の、べべベッドの中に!」
第二王女専用の寝室にいるはずのない存在に、寝起き一秒で恐慌をきたす。壁に背も両腕もつけながら、大量の疑問符が嵐のように吹き荒れる。
寝返りを打って横を向いた時に目の前にいたということは、その前からずっと横で一緒に寝ていたということだろうか。
(私のベッドに、男の人が勝手に!?)
理由も状況も理解できなくて、ただただ混乱した。いくら使用人を全員男性に入れ替えると言われても、着替えなど寝室に入る用事まではないはずと思っていたのに。
(まさか着替えも入浴も、全部……?)
死ぬ、と思った。
そして同時に思ったのは、理由なんかどうでもいいから今すぐ逃げたい、であった。
「アニカ姫ー? そんな離れないで、こっちにおいでよー」
当の男性は、布団を腰まで掛けた格好でしどけなく手招きしている。あまりに場違いすぎて、思考が数秒停止した。
(にに、逃げないと!)
ハッと意識を回復するや、きょろきょろと激しく視線を動かす。と、今度は小私室に続く扉がガンッと乱暴に開かれた。
「なんだ今の悲鳴は!」
「いやぁぁぁっ!」
見たことのある男が五人、この部屋になだれ込んできた。
悪夢の再来であった。
(やっぱり夢じゃなかった!)
涙目になりながら、朝方逃走に使用した窓を振り向く。
その前に、当たり前のようにニコが立っていた。
「ニコ! ニコ! ニコ!」
何故そんな所に、と考えるよりも前にダッシュで駆け寄り、その腰に隠れるように縋りついていた。
「おおお男の人が私のベベベッドに! おい追い出してニコ! これはもう男性恐怖症とか以前に不審者でしょ!?」
涙ながらに訴える。だがニコは至って普通の顔で首を横に振った。
「いいえ姫様。確かに行動は大体不審ですが、追い出すことは出来かねます」
「不審者だなんてひどいなー」
「お前、そこで何やってんだ!?」
全然堪えていない笑顔で寝台上から手を振る男に、乱入者の一人がその襟首を掴んで引きずり下ろしにかかる。
「何で!? って言うか今までずっとそこにいたってことは、あの人が寝てる私の横に入ってくるのを止めずに見てたってこと!?」
もしかしなくてもそうだということに気付き、アニカは愕然とした。ニコだけは口でなんと言おうとも味方だと信じていたのに、こんな所でこんな手酷い裏切りに遭おうとは!
しかし寝台脇でわーわーやっている二人以外にも、他の四人もまるで部屋を出ていく様子がない。それが怖くて、アニカはニコから離れられなかった。
そんなアニカに向き直りながら、ニコが最初の問いに答える。
「これもまた、妃殿下からのご命令でございます」
「寝起きに同衾することが!?」
「寝付くまでの話し相手を選ぶことが、です」
意味が分からなかった。
今までの生活で、大抵はニコが話し相手にはなってくれていたが、それもそういう職業で、というわけではない。
周りに女性がいなくなるということは必然的に日常的な話し相手もいなくなるということではあるが、寂しくても必要性は全然まったく、これっぽっちも感じなかった。
むしろ一人がいい。
「要らないです」
ぷるぷると首を振って拒否した。
「お選びください」
無情に却下された。
「いやいや無理だから! そんな男の人と二人きりになるのも怖いのに、寝る寸前まで誰かと話していないといけないなんて絶対毎日悪夢にうなされちゃうよ!」
「眠れはするんですね」
「大体まだ名前すらろくに聞いてないのに、まず段階ってものが」
「あ、じゃあ僕は名乗ってるから、僕は大丈夫ってことだよね?」
「違いますっ」
「あ、会話してくれた。嬉しいなぁ。これって心を開いてくれたってことだよね?」
「ニコニコニコニコ!」
「ひとの名前を無闇に連呼しないでください」
いまにも涙腺が崩壊しそうな主を見下ろし、ニコが面倒くさそうに切り捨てる。
が、いい加減これでは話が進まないと気付いたのか、そのすぐあとに嘆息を一つ。主から男性陣に視線を移すと、低頭しながら呼びかけた。
「皆様、大変申し訳ございませんが、扉の前に横一列にお並びくださいませ」
こういう時、ニコはとても頼りになる、とアニカは思う。
過去にも男性恐怖症克服のために社交界に出たことがあったが、その時も卒倒しそうになったアニカをニコが支え、その場を如才なく切り抜けてくれたのだ。
(ニコがいないと、私って本当にダメだわ……)
ニコのあくまで冷静な声と態度に、恐慌をきたしていた精神が僅かながら平静を取り戻す。そっとニコの背に隠れるように立ち上がりながら、アニカは言われるまま一列に並んだ六人の男性を見渡した。
(うっ)
藁人形を買った商人が持っていた地獄絵図を思い出すアニカであった。




