4. ニコ、提案する。
とにかくじぐざぐに庭園を走り、どうにかニコをまけた、と思って更に次の角を曲がった瞬間、
「そのような格好で、よくもこのニコから逃げられるとお思いですね」
「ひゃあ!」
ニコの顔がにゅっと現れた。
あまりに心臓に悪い登場の仕方に、声が物の見事に裏返る。
「なな何でそんな所から現れるの!?」
高鳴る胸を押さえて問いただすと、ニコはまるで今日の予定を告げるような調子でしれっと答えた。
「姫様がこちらから逃げるだろうことは想定済みでしたので」
「それでそんな所で待ち構えていたの?」
「姫様に殿方全員をご紹介するまでが、仕事ですので」
なるほど、お膳立てをするだけして早くも放置、というつもりではなかったらしい。少しだけほっと胸を撫で下ろしつつも、先程味わった絶望感から、文句の一つも言いたくなる。
「だったらなんで気付いたら服が全部なくなってて、一人ぼっちにさせられてたの」
「それは姫様が何を言っても反応がなかったので、回復するまでにやるべきことをやり、そっとしておいた結果ですね」
「無情!」
思わず叫んでいた。
つまりアニカが呆然としている間に、逃亡阻止等の手段を済ませていたということか。だったらきっちり逃げおおせるまで、もう少しそっとしておいてほしかった。
「情けは昨日までで捨てるようにと、王妃様が」
したり顔で頷くニコを、ジト目で睨む。
二人きりの時など誰の目もないのだから、そんなに忠実に守る必要もないであろうに。
恨みがましく愚痴を言いながら藁人形に釘を打ち付けたいところであるが、今はそんな道具も時間もない。
アニカは思考を切り替えて、ニコに縋りついた。
「お願い! 今日だけでいいから見逃して!」
「では明日ならばきちんとお会いになられると?」
「そ、それは……!」
速攻で言葉に詰まった。
今のが心からの懇願でも決意表明でもなければ、ただの問題の先送りでしかないのは明らかである。アニカは図星を指され、反論も浮かばずに悄然と本音を答えた。
「だって、まだ心の準備が全然できてないのに……」
「姫様が年頃になれば、王妃様がしかるべき殿方を選んで降嫁なされるのは、五歳の時の占断でもう決まったことです」
尻すぼみに声を小さくするアニカに、けれどニコは表情をぴくりとも変えず、そう返す。
シルヴェストリ王国では、末王子であった賢王ヴァシリー五世が占卜を受けて本当に王になったという故事に倣い、健康長寿を神に感謝する五歳の祝いの時に、一緒に過去や未来を占ってもらう風習がある。家族はその結果を食事の席で祝ったり、栄えある未来を願って占いの結果にちなんだものを買い与えたりするのだ。
ちなみに姉は王妃で、王太子である兄は嘘か真か道化師だと教えてくれた。そしてアニカは。
(魔女、だもんね……)
しかも過去に実在した嫌われ者を名指しである。普通は商人や兵士といったような、曖昧なイメージしか持たれないというのに。
それもまた、アニカが劣等感を抱く一因でもあった。
結果、姉のように他国や権力者には嫁がず、結婚して王族籍から抜けることだけは決まっていた。それ自体には、不満はない。
子供の頃は意味がまだ理解できていなかったし、男性恐怖症となった今では、結婚に夢も希望もない。
たとえ母が今回のことを機に、結婚と恐怖症の二つの問題を同時に厄介払いしようと思っても、仕方ないと頭では理解できる。
だが、今の問題はそこではないのだ。
「そういうことじゃなくて!」
と、アニカは声を大にして反論する。
「だから、顔も名前も知らない人に突然会うなんて、怖くて、挨拶どころじゃないもの……」
「では、全員分の絵姿を用意し、詳細な個人情報を暗記するまで叩き込めば大丈夫ですか? ……そうではないでしょう」
冷静に現実的な提案をしながらも、その結びの声には少しだけ同情するような気配が現れていた。その意味を、分からないアニカではない。
実際、事前情報を徹底的に詰め込んだことは、今までにもあった。けれどどんなに自分の中で人物像を予想して身構えても、いざ会って少しでも差異があると、すぐにパニックになってしまうのだ。
結局、構えすぎないことが大事だとは、アニカも分かってはいる。けれど、頭と心はいつだってあべこべで、言うことを聞いてはくれない。
「……でも、無理よ。私には、出来ない」
ニコの、時に挑発的にもなる平板な物言いに抗う気力すら消えて、アニカは肩を落とす。
頑張りたいとも思っているのに、口から出てくる言葉は消極的な言い訳ばかり。男性から逃げて現実から逃げて、絶対にやってくる未来からも逃げている。情けなくて仕方がなかった。
嫌いな自分が、もっと嫌いになる。
もしかしたら母からの最後通牒かもしれないことも、本当は分かっているのだ。これ以上呆れられて本当に見捨てられる前に、死ぬ気で小私室で待つであろう男性の中に飛び込む覚悟が必要だということも。
けれどこの小さな体は、意に反してすぐに逃げようと反対方向に走り出してしまうのだ。
(きっと、ニコもさすがに呆れてる……見限られちゃう)
それがきっと何より怖いことだと、分かっているのに。
「姫様」
「!」
また考え込んでしまったアニカを、そっと導くようにニコが呼ぶ。いつの間にか俯いていた顔を、アニカは恐る恐る上向けた。
六歳の頃からずっとそばにいてくれた友達は、笑っていた。ほんの少しだけだけれど。
「これは、良い機会です。男性恐怖症は、克服しなければ今までのように一生怯え続けるしかありません。しかしもし、今回の状況を利用して克服できたなら……。嵐は耐えるしか術がありませんが、去った後には晴天が待っているものです」
「それは……頭では分かってはいるのだけれど、でもどうしても、体が言うことを聞いてくれなくて」
アニカのためを思っての言葉だと分かっているのに、思いきれない。ついに、ごめんね、という言葉が出そうになった時、ニコの強い声がアニカの迷いを押しのけた。
「姫様は、勘違いしていらっしゃいます」
「……へ?」
意味を汲み取れず困惑する主の手を取り、ニコが言い聞かせるように言葉に力を込める。
「婚約者といっても、適齢期の、女性に普通に興味のあるそれなりの男性、である必要はないのです」
「……はい?」
「男性と一口に言っても、様々な方がおります。それこそ国王陛下のように、妻を大事にし、そこそこ普通に女性に接する方もおられるでしょう。しかし!」
ガッ、とニコが胸の前で力強く拳を作る。
「世の中には女性に興味のない方や、仕事や出世や金至上主義の殿方も少なくなくいるのです。他にも既に現役を退いたようなご老人や、男性にしか興味のない男性というのも存在します。要は、社交界の主役たちが避けて通るような、姫様にとっての優良物件を獲得できればいいのです! そうすれば不要な接触を持つことも、危機感を覚えることもなく、二つの問題を同時に解決できるのです!」
「…………そ、」
あまりの力説に、すぐには声が出なかった。
天啓だと思った。
「それよニコ! なんで今まで思い浮かばなかったの!」
ニコの拳を両手で掴みながら、アニカも小声で快哉を叫んだ。
「そうよ。結婚と言っても、誰もが仲睦まじく四六時中一緒にべたべたしているわけじゃないものね! お互い利害関係だけで結ばれる仮面夫婦だって、立派な夫婦よね!」
「そうです姫様、その意気です!」
母が選んだと言っても、有力貴族の跡取りはまずないし、そもそもアニカの評判は三年前から地を這っている。社交界の売れ残りくらいしか来ないはずである。その中でも特に女性に興味のない相手を選べば、運が良ければ一生放っておかれる可能性だってあるではないか。
先程まで千尋の崖っぷちに立たされているようだったのが、今は分厚い雲間から一筋の光明が降り注いでいる気分であった。
「私、やれるかも!」




