39. アニカ、追究する。
「……くそ、ニコ・メルアか……!」
ぺこり、と頭を下げたアニカの耳に最初に返ってきたのは、ラズのそんな声であった。毒付くその声は怒っているようにも聞こえたけれど、アニカにはラズが単純に照れているのではないかと思った。
だからもう一つのことも、どうにか絞り出せた。
「それと、あの……聞きたいことが、あるのですが……」
ぼそぼそと小さくなった声で続けると、兎の面からはみ出していた黒髪の三つ編みが、びくっと跳ねた、気がした。
ので、念のため、一応の間を置いてみる。
しかし「嫌だ」と言う声は上がらなかったので、アニカは意を決して言葉を重ねた。
「どうして、侍女の姿で私の前に現れたのでしょうか……?」
ごんっ。
「!?」
突然の物音に、アニカは驚いて兎の面を下げた。
見れば膝の上で握り締められていたラズの両の拳に、その額が大きくめり込んでいた。先程の音はコレらしい。
「あ、あのっ、大丈夫」
「不可抗力だ!」
ですか、と続けようとしたところ、凄い形相で遮られた。
ちなみに凄い形相というのは、凛々しい眉が更に吊り上がり、口は引き結ばれているのに顔は真っ赤で、目が完全に泳いでいる顔のことだ。
つまり。
(あれ、照れていらっしゃる?)
やはり恐ろしい計画ではなく、趣味だったのだろうか、と思考が過ったところで、ラズが絞り出すような言い訳を続けた。
「侍女の姿は、その、アラム……乳兄弟から逃げ出すのに適当に変装するのに借りただけで、殿下の前に現れたのは不幸中の不幸な事故だ」
「事故……一度目も、二度目も?」
「当ったり前だ! 誰があんな格好で人前に出たがるか!」
二度もそんな偶然があるだろうかとも思うが、供から逃げ出すということは、アニカから逃げていたとも取れる。つまり二人して似たタイミングで近い場所から逃亡を図っていたのだとしたら、無い確率でもないのかもしれない。
何より、ラズの顔がザクロのように真っ赤なのである。とても嘘とは思えない。
やはり、何か別の目的があって待ち伏せしていたということではないらしい。
(な、なぁんだー……)
ラズが何かしら目的を持って女装して近付いたのであれば。ジーラの時の言葉も、アニカのためではなく、ただアニカの望む言葉に合わせていただけなのではないか。
ずっと、そんな疑念が拭えなかった。
(でも、そうじゃなかった)
ラズはアニカに悪意があって近付いたわけでもなければ、二人きりで話した言葉に他意も作為もなかった。
アニカが悩むたびにかけられた言葉たちは真実、苦しむアニカを思って発せられたものだった。
ラズの真意がどうかというよりも、その恐ろしい疑念にこそ、アニカは囚われ、悩み傷付いていたのだ。
そう理解できた途端、身体中から力が抜けた。
「……よ、良かったぁ~」
兎の面を持ったままの手を胸に当て、ふぁぁ、と息を吐き出す。緊張が一気に弛緩し、膝がかくり、と震えた。
そして「あっ」と思ったときには、体が知らず後ろに傾いていた。
「アニカ!」
「!」
ぐっと腕を掴まれた。支えてくれたのだ、と思ったのに、今度はなぜかボスッと体当たりしていた。ラズの胸に。
(……え?)
咄嗟に立ち上がったラズの力加減が上手くいかず、反動がつきすぎたのだと理解するのに、数秒。ラズの胸板が服の上から想像したよりも意外に逞しいんだなと考えて、数秒。アニカを至近距離から真っ直ぐに見下ろすラズの、焦った顔がきらきらと輝いて見えて、数秒。
「っっご! ごごごめんなさいぃぃっ!」
バッと両手を突っ張ると同時に、ずざざざっと後退していた。先程の衝撃でずれた狐面の上から手元の兎面を重ねて、更にその場に縮こまって衝動をどうにかやり過ごす。
今度はアニカが赤面する番であった。
「わ、悪かった。咄嗟だったから、力の加減が……」
その背後で、ラズもほんのり頬を赤らめながらも消沈していた。
その反応を見て、アニカもさすがにこれは失礼だと思い当たる。
「い、いえ、あの……突然のことで驚いてしまっただけですので! ラズ様は全然悪くないです!」
「でも、男に触られるのはまだ怖いだろ?」
僅かに俯いた角度からそう返された言葉は、言外にマルセルとの出来事を示していた。不思議なのはその声調に、まるでラズも共犯かのような引け目が見えることだ。
(ラズ様は何もお悪くないのに)
そう考えて、気付く。
ラズは男性全般についての恐怖を言っているのだと。そしてそれに気付くのが遅れるくらいには、アニカは男性を怖いと思わなくなり始めているということに。
少なくとも、先程は単純に驚いたのと、心音が異常に激しかったからだ。男性だから、ではない。
そしてマルセルとの件も、今思い出すまですっかり忘れていた。考え出せばやはり肝が冷えるほどの恐怖ではあったけれど、思い出さないようにすれば、マルセルと会話するくらいは出来るのではないかと思う。
「……いいえ」
と、気付けばそう答えていた。
「大丈夫、と断言できるほどにはまだ自信がないですが、ラズ様なら平気です」
「へ?」
「あ、いや、でもやっぱりダメかも……!?」
先程ダッシュで逃げたくせに、と数秒前の自分を思いだして、結局分からなくなった。怖くない。けれど近寄れない。その理由が、今のアニカにはさっぱり分からなかったから。
「……分かった。近寄らない……」
ラズが、がっくしと肩を落として椅子に座り直す。それを受けて、アニカはそれもまたちょっと違う、と思ったが、これ以上今の気持ちを適切な言葉で表現できそうもない。
代わりに、もう一つ、気になっていたことを聞くことにした。
「でも……、どうして今まで仰ってくださらなかったのですか?」
言い出す機会はいくらでもあったのに、と直した狐の面越しに問う。と、悄然としていたラズは一転、視線をそらして、
「馬鹿を言うな」
と小さく言った。
「んなこと、男が恥ずかしくて言えるか」
そのそっぽを向いた横顔が、あまりにあどけなくて、アニカは我知らず思ってしまった。
(か、かわいい……)
ラズはアニカよりも頭一つ分背が高いし、肩回りは一回り以上大きい。顔つきも中性的なレヴィと違って男臭いのに、頬を赤らめて口を尖らせる姿は、普段の厳めしい印象との違いもあって、きゅん、と胸が高鳴った。ラズの姉たちが弟を構い倒すという話に、つい仕方ないと納得できてしまう。
アニカがらしくなく、もうちょっと羞恥に悶えるラズを眺めていたいなどと思っていたところ。
「もうそろそろ、人形の焚き上げが始まります」
「ッ」
入口で存在を消して控えていたニコが、唐突に声をかけてきた。少々邪まな思考に走っていたアニカは、びくぅっ、と背後を振り返る。
見れば祭礼は終わり、使用人たちが城中に飾られていた魔女の人形を集め出しているところであった。
「姫様におかれましては、こちらを」
言葉と共にニコが何かを差し出す。お面の他にもまだ隠し持っていたのかと感心しながら視線を移すと、懐かしいものがそこにはあった。
「藁人形!」
久しぶりに見た相棒に思わず飛びつく。ずっと男性が近づく度にこの人形に恐怖心を訴え、怯えた心を落ち着かせるために釘を打ち込んでいた人形は、ニコの手の上で少しだけ綺麗になって横たわっていた。
「返してくれるのっ?」
期待に目をきらきらさせてニコの顔を窺う。だが返されたのは少し意味深な言葉であった。
「お返ししてもよろしいのですが……姫様には、もう必要のないものかと思いまして」
言いながら、ニコの視線が背後――前庭に組み上げられた焚き上げ台に滑る。そこでやっと、アニカはその真意を理解した。
藁人形は、ニコ以外誰にも不安や恐怖を打ち明ける相手のいなかったアニカにとって、心の支えであった。けれど今、アニカはまだこわごわとだけれど男性と話せるようになり、母とも対峙しようと決めた。
武闘大会の閉会後に会いに行った時、数日以内に時間を取ってくれると了解も得ている。男性恐怖症を克服した自信はまだないけれど、もう隠れて藁人形に釘を打ち込まなくても、立ち直れる気がした。
「よろしければ、焚き上げをお願いしてきますが」
ニコが、優しく目許を和ませていた。少しの寂しさは感じたけれど、部屋中を歩き回った時のような動揺はもうなかった。
「うん。お願いしてもいい?」
ことり、と首を少しだけ傾けて、藁人形から手を放す。ニコは心得たとばかりに頷くと、颯爽と木材で組み上げられたやぐらへと向かっていった。
それを見送っていると、城下の町中からも、わぁぁ、と歓声らしき声が波のうねりのように風に乗って届けられた。
町でも行進の始まりに合わせて、家々の軒先に吊るされた人形が外され始めているのだろう。通り道では、春の花嫁に選ばれた少女と、優勝者改め褒美の受賞者であるラウルのあとを、子供たちが手作りした紙飾りや花で飾り立てられた荷車が、大小さまざまな人形を増やしながらついていっているはずだ。
「……ラウルさんは、大丈夫でしょうか」
「絶対しかめっ面してるな」
思わず零れた心配に、ラズがふっと笑って断言する。ふと見ると目が合って、自然に笑い合っていた。
「一緒に見に行くか?」
「えっ」
ラズがごく普通に掛けてくれた声に、アニカは二重の意味で動揺した。
「っていうのは、まだ……あれか」
それをどう受け取ったか、ラズは早計だったとすぐに打ち消す。
確かに、男女入り乱れる人混みの中に飛び込めるほど完全に男性恐怖症を克服したとは、まだ言えそうにない。
けれどそれ以上に、男女で人形の焚き上げを見物するというのは、表面的な意味以上のものがあるのだ。アニカにはそのことの方にこそ、より動揺したのだが。
(……でもあの表情だと、絶対知らなさそう)
肩に落ちてきた三つ編みを払って神妙な顔をしているラズからは、そんな艶のある話は微塵も感じられなかった。
(一人慌てて……恥ずかしい)
面の下でほんのり赤くなった頬を意識しながら、アニカはでも、と思う。ラズのせっかくの申し出を断って、一人部屋から見る遠い火は、
(きっと、寂しいだろうな……)
けれどその胸に芽生えた思いを正しく口に出来る程、アニカは語彙も経験も足らず、器用でさえなかった。
結局、どちらもその先を続けることができず、城のあちこちから人形を持って前庭に戻ってくる人々を漫然と眺めていると、
「……ひ、姫様のお部屋からでしたら、広場の焚火ならご覧になれるのでは」
地を這うような低い声が、背後からもたらされた。予想外に早く戻ってきたニコである。
しかし走ってきたような息遣いに反して、赤みを帯びてきた西日に照らされた顔は今にも引き付けを起こしそうな程蒼白に引きつっていた。
「ニ、ニコっ? どうしたの? 顔色が近年稀にみるほど悪いけど!」
「お、お気になさらず」
慌てて駆け寄ると、死にそうな顔でそう断られた。凄まじく気になる。だがそこは侍女としての矜持なのか、低頭したまま低い声を絞り出した。
「よろしければ、メトレベリ様も、ご、ご、ごっ」
「死にそうな理由はそれか」
何故か「ご」で詰まるニコに、ラズが得心したように呆れきった声で突っ込む。だがアニカには、「それ」が何なのかさっぱりであった。
ニコはそ一度深呼吸すると、最後の言葉を一息に言い切った。
「……ご一緒されてはいかがでしょう」
「え?」
それは、この場では唐突な提案に思えた。だがよくよく考えれば、ニコは最初から婚約者候補の中から一人を選ぶ補佐を、母から言いつかっているのだった。
アニカがラズを選ぶように仕向けるのは、思えば当然と言えた。のだが、当の提案者はやはり苦虫を噛み潰したような顔のまま固まっていた。
(なぜかしら?)
しかし考えても分かりそうにないので、分かっている事実の方を口にする。
「そっか、まだ婚約者候補、だもんね……」
「……はい。いえ、ですが、やはりまだ抵抗もお強いでしょうし、勿論、わたくしもそんなことをお勧めするのは断腸の思いですので、姫様がお嫌であればもう全然きっぱりと力強く拒んでいただいて構いません」
「少しは俺への敵意を隠せ」
取り繕うように早口で捲し立てるニコに、ラズが目を据わらせて文句を言う。それを聞くともなしに聞きながら、アニカは考えた。
男の人と二人きりになるのは、ベリーエフやマルセルの件もあり、まだ怖い。けれどラズとなら、この面を着けたままなら、少しなら大丈夫な気がした。
ニコも、お願いすれば一緒にいてくれるだろう。
そして何より、先程感じた寂しさや言えない思いを、もう一度胸にしまい直すのは、嫌だ、と思った。
だからアニカは、狐の面をつけた顔を決然と上げ、なけなしの勇気を必死に掻き集めて返す言葉を決めた。
「ですから、もし姫様が、」
「はい、是非」
「「…………、へ?」」
長い沈黙のあとに上がった声は、二つ重なっていた。ニコとラズがアニカを見、それから確認するように互いを見合っている。
そこで、アニカは肝心なことに気が付いた。
「あっ、でももし、ラズ様が、その、良ければ、ということですが……」
行きがかり上、ラズたちは何度かアニカの部屋に入っているが、それでも好んで異性の部屋に入るのはマルセルくらいだろう。
そう思って聞いたのだが、二人は何故かもう一度互いを見、アニカを見てから、綻ぶようにふうわりと苦笑した。
「え? あの……」
その意味が分からず、アニカが一人困惑していると、
「もちろん、アニカ殿下さえ良ければ」
ラズが、くすぐったくなるくらい甘く優しい声で、そう頷いた。
その笑みがあまりに綺麗だったものだから、アニカは面を取って直接見たいような、全力で顔を背けたいような、変な衝動に駆られてとっても困ってしまった。




