36. ラウル、微笑する。
◇
『もしかして、ラウルさんも、自分に自信が……?』
その言葉に、思わず反論を見失った。
自信など、あるはずがなかった。
お前は汚い。
お前は卑しい。
侯爵家の面汚し。
偽物の皮をかぶった紛い物。
お前がいるせいで、この家はめちゃくちゃだ――。
物心ついた頃から、そう言って仲間外れにされた。
王立全学校に入るまで、自分は家族ではなく使用人なのだと思っていた。
けれど寝るのは、この家で「奥様」と呼ばれるひとと同じ部屋。
『可愛い子。愛しいあの人の子。あなただけが、わたくしの救いよ』
『嫌よ……いや……あなたさえいなければ……!』
『可哀想な子。わたくしが弱いばかりに……』
優しく儚く微笑むそのひとの腕の中は温かくて、唯一の居場所で、帰る場所で、そして――その家では、悪者だった。
「紛い物が、まだ王立学校にいるのかよ」
「庶民臭いんだよ。とっとと出ていけ」
全学校に入ってすぐ、兄とその取り巻きに囲まれてそう言われたのが最初だった。次には姉とその取り巻きが、お茶の席に呼びつけて給仕をさせ、そのお茶を汚いからと頭からかけられた。
家でも外でも、何も変わらなかった。ただ我慢するだけ。救いがあるとすれば、外に出て理由が分かったことであろう。
兄と姉の怒りの理由を知り、母がやはり母であることを知った。だが堪えるしかないという結論は変わらなかった。
だが授業に出て知識を得、剣技を磨けば、次第に周囲の愚かしさにも気付くようになってしまった。兄と姉の仕打ちには堪えるしかないが、他の連中までが自分を虐げ、母を悪し様に言うのは我慢ならなかった。
気付けば何人もを返り討ちにし、時に大怪我をさせて、その度に父に監禁された。何日も。
「お前たち親子はこの家の名を汚すことしかしないのか」
その声には、嫌悪しかなかった。
何のために学ぶのか分からなかった。
父に愛されたいのか、憎みたいのか、それさえも。
(自信など、持ちようがない)
だから第二王女の婚約者になれと言われた時、期待されたのかと喜んだ。勿論、束の間だったが。
「お前が第二王女の夫となれば、それだけ王室との結び付きが強くなる。今こそ役に立て」
「ですが、あの王女は結婚と同時に王族籍を外され、発言権もなくなるはずでは」
「そんなのは建前に決まっとる。娘がねだっていると言われれば、あの王妃ですら考えるはずだ」
あの鉄壁のような王妃に、それは甘く見すぎではと思ったが、この家でラウルの意見は求められていない。
「それが出来れば、あの女も連れてこの家を出ればいい」
「!」
それは、願ってもない言葉であった。
父の体面のためだけに閉じ込められた母。最近では、時折泣き出す以外は微笑むことしかしない母を、やっとこの家から解放できる。
それを母が望んでいるかどうかは知りようもなかったが、こんな好機はきっともう二度と来ない。
「お任せください。必ずや」
使用人のように実の父に跪く。なんの痛痒も感じなかった。
◆
『お前にだって、抗いがたい何かがあるんじゃないのか。だから、あいつの前に現れて、今ここに立ってるんじゃないのか』
『馬鹿みてぇに苦しんで足掻いてる奴が、同じように足掻いてる奴を嗤うなよ』
ラズ・メトレベリは、真っ直ぐすぎる男だった。嘘もてらいも誤魔化しもなく、ただ当たり前のことを口にする。
そして、弱いだけと思っていた第二王女も、また。
『結婚となれば、一生ご迷惑をおかけするかもしれない相手。言われるままに望まぬ人を選んで、その後ずっとその方を困らせたり苦しませたり、傷付けたくはないのです』
それは母のことだ、と思った。
好きな男がいるくせに、爵位を得るために侯爵家に嫁がされて、慣れない貴族社会で膿んでいく中で再会した男と、一度だけ関係を持った。
一度だけと言ったのは母で、他の家族は結婚前からずっと騙していたと言った。
真実を追及したことはない。
不義の子という自分の存在は変わらない。
変わらない、はずだったのに。
『私の事情を承知した上で、私自身をちゃんと見て、見下さないで接してくださるラウルさんたちを、このまま治せないからと嫌いになりたくはなくて』
どいつもこいつも、ラウルのことを知れば見下す。
ラウルが何かしてもしなくても見下す。
ラウル自身を、これっぽっちも見もせずに。
ずっと、そう思っていた。
けれど今、ラウルが最も厭うその行為を、ラウル自身がしていた。そのことに、言われるまで気付かなかった。
第二王女は、ただ我が儘で嫌なことから逃げているだけの、意気地も信念もない、愚かな小娘だと。話もせず、見極めもせず、周りからもたらされる情報を鵜呑みにしていた。
あの学校の連中のように。
「最低の糞野郎か……」
「やっと気付いた?」
嫌々振り返ると、いつものにやついた顔をしたレヴィがアーチ型の入場口の前に立っていた。試合直前の興奮が、すっと冷める。
「あぁ。あの孔雀みたいな頭飾りが、やはり貴様の指示だったことにな」
「あれ、そっち?」
適当に返すと、レヴィが腕組みをほどいて近寄ってくる。こちらには抜き身の剣が握られているというのに、気にもしない。
「君の強がりも同族嫌悪も、彼女たちの『ありがとう』の前では形無しだね」
「そんなもので絆されたりはしない」
「知ってる。でも、君は頑張ってる奴に弱い」
レヴィは笑う。いつも、どんな場面でも。
その何もかもを見透かしているような、諦めているような顔が、ずっと嫌いだった。レヴィは、本気を出せばほとんどの人間を下せる。使用人だった母親が死んで父親の侯爵家に引き取られたときも、全力を出せば本妻を追い出すことも、弟を圧倒的に凌ぐこともできた。
だがそれをしなかった。王立専学校に入ってからも、爪も牙も隠し続けた。
そして、昨日の試合でも。
「何故手を抜いた」
いつかに言ったような台詞だと思いながら、問う。
「試合形式で君に勝ったことは一度もないよ」
「実戦形式のなんでもありなら、負けなしのくせに」
「ぼくが得意なのは戦略だ。圧倒的な技量じゃない」
嫌味ったらしい言い方に舌打ちで返すと、「それに」と言葉が続く。
「今なら、君はもう少し違うやり方で願いを叶えるかもしれないと思って」
気色悪い笑みを収め、レヴィが僅かに視線を落とす。その意味も、心配も、分かっていないつもりはない。それでも、ラウルにはこれしかないのだ。
「俺の願いは変わらない」
「それも知ってる。でも、覚えておいて。僕はいつだって、君の母上よりも、君自身の幸せを願っているってことを」
「……ふん」
そんなものは、興味がない。
ずっと、ラウル自身などどこにもいなかったから。
けれど。
「行ってくる」
「あぁ。健闘を祈るよ」
少なくとも今この場では、ラウルはただのラウルでいられる。
それは少し、心地がいい。
◆
レヴィの言葉を受けて、ニコが早速準備に取りかかった。
アニカから少しでも離れるのが嫌だと、手近な関係者に長剣を借りた。落ちていたリボンも、ラウルが踏みつけていた中で無事な幾つかを拾い、後頭部で結んだ髪に巻き付けてくれる。
観戦はしなかった。
待っている間、どちらの勝利を願えばいいか分からず、ただ二人が大怪我をしないようにだけ祈った。
(でも、ラズ様との約束は……)
クィルシェを通して聞いた、ラズの切実な『約束』の言葉が胸を苦しくする。そしてずっと閉まっていた、あの少年との約束も。
(……聞きたい)
ラズの本音を。
どうしてジーラとして近付いたのか。どうして、婚約者候補として現れたのか。どうして助けに来てくれたのか。
クィルシェの伝言もあるけれど、アニカ自身が、聞きたい、と思った。
そうして待つこと、二十分近く。勝敗は、ニコより告げられた。
「決勝のお相手は、メトレベリ様です」
それを、アニカは複雑な思いで頷いた。
(とにかく、ちゃんと戦おう)
狐の面を握り締め、立ち上がる。
程なく、決勝の声が天幕の外からかけられた。




