34. クィルシェ、甘受する。
だが、そんな日々もやはり唐突に終わりを告げる。
今回は、二人の夫の時よりも前兆があっただけマシだとも言える。
『今後帝国軍が国内を通過する際には、これを妨げないこと』
帝国の要求した協定は、隷属への足掛かりにしか思えなかった。
だが、利点もある。
帝国の属国となれば、有事の際には協力を求めることが出来るし、虎の威を借る狐がごとく、周辺国への牽制にもなる。交通の要衝でもあるシルヴェストリ王国にとって、その価値は高い。
だが大陸の中央に位置する帝国に対し、シルヴェストリは東端の半島に近い。距離を理由に援助が遅れる可能性は十分ある。
そして何より、戦争を好む軍事国家が、圧倒的な破壊力を持つ一個人をそのままにしておくとは思えない。
つまり協定を受け入れれば、クィルシェは首の皮一枚の状態になり、皇帝が笑うだけでも死ぬかもしれないということだ。
(生殺与奪の権を他人に握られているなど、冗談ではない)
だが尻をまくって逃げるのもまた、クィルシェの矜持が許さない。
畢竟、答えは一つしかなかった。
「陛下、お願いですから一緒に逃げましょう」
すっかり質問攻めをやめたラトが、情けない顔で繰り返す。
この前は不覚にも体を拘束されて動揺してしまったが、二度とそんな愚は犯さない。
「そもそも、何故逃げる必要がある?」
「何故って……」
「妾は負けぬ。帝国がどんな兵器を持ってきても、大軍で攻めても、大地を裂いて叩き落とせば終いじゃ」
「それは……そうですけど」
「監視者が邪魔をせぬ限りはな」
「!」
嫌味ったらしく付け加えれば、ラトの表情が明らかに強張る。それだけで、イアシュヴィリ伯爵に何事か吹き込まれたのは明白であった。
知らず、眉間に深い皺が刻まれていた。
「そなたは……」
そう口にしかけ、止める。
(いざとなれば妾と養父のどちらを取るのか、などと)
物を知らぬ生娘のような問いなど、あってはならない。そもそもラトは監視者としてそばにいるのだ。それ自体が愚問であった。
(もう、決めたではないか)
大切なものなど、二度と作らない。どんなに足掻いてもこの手をすり抜けるのなら、押し潰されそうな孤独に堪える方が何倍もマシだ。寂しさを紛らわせる人肌に違いなどない。歯をくいしばって堪えるだけだ。
(もう、二度と)
家族を求めたりしない。信じないし、期待もしない。
『夢は毎日たくさんの家族に囲まれて、朝から晩までわいわい遊んで騒いで、退屈する時間なんかひとつもない暮らしをすることです』
どんなに無邪気に誘惑されても、眩しいほどに光輝く未来があっても、その先に苦衷があるのならクィルシェは踏み出さない。もう、踏み出せない。
(壊すばかりで、何も生み出せない)
だから歩きたくないなどとは、誰にも言えないけれど。
「愛しています」
「! な、何を突然」
「あれ? そう聞こうとしたんじゃないんですか?」
「そんなことを誰が聞くか!」
相変わらずの阿呆ぶりに、呆れてしまう。騙すか騙されるかの腹の探り合いで、何故そんな思考に飛ぶのか。まるで理解ができない。
「俺はずっと、最初からあなたを愛しています。一目惚れだって、言ったじゃないですか。でもそれは、あなたがとびきり美しいからじゃない。あなたが、大勢に囲まれた中でたった独りだと知りながら嗤うから、悲しくて……嬉しかったんです」
「ほう。妾が苦しむのを見るのが、そんなに嬉しいか」
「ち、違います! 一緒だと思って……俺も、あの家でずっと独りだったから」
ぴくりと片眉を上げたクィルシェに、ラトが慌てて弁明する。僅かに瞼を伏せるその顔は、確かに鏡の中に見たことがある表情で。
「俺はあなたが望むならどこにだって行きます。見るなと言うなら、一生この目を閉じていてもいい。俺は絶対に死なないから、だから」
「愚か者が」
考えるよりも前に吐き捨てていた。無理解への苛立ちが、ふつふつとこの身を燃やす。
「そなたは最初から思い違いをしておる。妾がいつ生きたいと言った? 妾がこの場所にいるのは、玉座に座ることしかあの暗闇から出る方法がなかったからじゃ。座り続けているのは、それしか妾の利用価値がないからじゃ。逃げれば妾の価値は終わる。惨めに逃げ惑って暗闇の中で震えるのも、誰にも必要とされず生きることも、妾はするものか」
もう二度と、あの塔での十五年間のような思いを味わうのは御免だった。何より、最も避けられぬことがある。
「それに、そなたは死ぬ。魔法も呪いも効かなくても、毒でも剣でも死ぬ。そなたは死ぬ」
「死ぬから、愛してくれないんですか? それは、死ななければ愛してくれるということですか?」
それはいつかの頓智問答を思わせて、余計にクィルシェを苦しめた。
「……嫌じゃ」
愛は苦しい。愛は怖い。愛したものはみな消える。
それは強迫観念などではなく、純然たる事実でしかない。
生まれたとき、血塗れなのは母の方であった。
塔の前で別れた祖母は、他の誰よりも健脚であった。
二人の夫にも、何の罪も咎もなかった。
けれど死んだ。
クィルシェを愛したばかりに。
「愛など嫌いじゃ。愛などありはしない」
男たちに愛など求めなかった。
欲望のためやってくる者は二度と来なかったし、そうでない者は二度と近寄らせなかった。あとでそれが誰かの命令だったと知っても、何もしなかった。
どんなに思い知ろうとも、人肌を求めずにいられない自分が愚かなのだ。
あの日の腕の温もりは、苦々しいことに永遠であった。
『大丈夫じゃ。魔法の制御なぞ、クィルシェならきっとすぐ上達する。妾が保証しよう。だから挫けてはならぬ』
あの日、塔に着くまでにも何度も繰り返した会話を思い出す。厳しくも優しい祖母は、いつも強い言葉で幼いクィルシェを励ました。それが時に怖いこともあったが、母を知らぬ子供を甘やかさぬよう、そして寂しさを感じぬよう、日々心を配ってくれていたと知っている。
『でも、わたし……ひとりはこわい。おばあさまといっしょがいい』
『何を言う。そなたは独りではない。妾はまたすぐに迎えに来る。だからクィルシェも、癇癪を堪え、頑張らねばならぬ』
泣き言ばかりを言うクィルシェに、祖母は何度も繰り返す。
娘のせいで妻を失った父は、虚しいほどに自然に、クィルシェを疎んじた。父の悪意に触れるたび、クィルシェは酷い癇癪を起こしては部屋をめちゃくちゃにした。死人が出なかったのは、ひとえに祖母もまた優秀な魔法の使い手だったからに他ならない。
『がんばったら……また、いっしょにいられる?』
『勿論じゃ。ばばとも、父とも一緒にいられようぞ。だから約束じゃ』
父とも。その言葉は、何よりも強く、幼いクィルシェの心を魅了した。
『……うん!』
けれど。
どんなに祖母の口調を真似しても、祖母のように強くはなれない。
祖母の言葉だけを心の支えにできたのは、ほんの一、二年であった。父を疑い、祖母を疑っているうちに、帰らぬ人となった。
祖母の大きな愛を知ったのは、何年も経ってから。寂しくてどうしようもなくて、誰でもない人の温もりを求めた夜。人肌の残滓が、あまりに冷たくこの胸を凍えさせた朝。
その度に、セレを、祖母を想った。
形あるものに縋り付くしかできない自分を呪った。
縋れば簡単に壊してしまうと、分かっているのに。
けれどラトは、どんなに拒んでも諦めない。当たり前のように距離を縮め、手を伸ばす。祖母とは違う温もりで、クィルシェを抱き締める。
それがどんなに泣きたくなることか、知りもしないで。
「あります。ここに、愛はあります。俺が、あなたを好きなんです。でもあなたが分かってくれなきゃ、俺の愛は一歩も進めない」
「愛が……そなたの中にある……?」
自身を指して、ラトが力強く言う。言葉が、ゆっくりとクィルシェの胸にも染み込む。そして理解した。
「ええ、そうです。だから、」
「それは、そなた一人のものじゃ。妾のものではない」
「あなたのものです! あなたが一言是と言えば!」
荒らげた声とともに、ラトが力強く踏み込んでクィルシェの両腕を取る。頭一つ上から、今にも泣きそうな顔でこの金の瞳を覗き込む男を、クィルシェは嘲笑一つで振り払うことも、投げ飛ばすこともしなかった。
ただ、見詰めた。そして己の内から湧く答えに耳を澄ませた。
言えばどうなるのか。そんなものは分かっている。不安に苛まれるだけだ。
ラトを守るために、クィルシェは死に物狂いで生きるだろう。今度こそ死なせないために、他の何もかもを捨てるかもしれない。
その愛がいつ消えるのか、本物なのか、この気持ちが寂しさからでないかと、死ぬまで疑いながら。
そして、気付いたのだ。
「……あぁ。妾が誰かを愛せるのは、妾が死ぬときだけじゃ。その時だけが、なんの憂いも怯えもなく、ただ誰かを愛せる」
導き出された答えに、クィルシェは恍惚と微笑んだ。
そうだ。それこそが、ずっと求めていた答えなのだ。
「……誰か……?」
だから、愕然とラトが呟いた理由も、分かっていたけれど無視をした。漆黒の瞳が、鼻先でひび割れて歪む。
「どうして……俺だと言ってくれないのですか……!」
そっと、魔法の効かない胸を手で押し返す。
それが最後の会話となった。
◇
次にまみえた時、奴は右手に似合わぬ抜き身の剣を持ち、背後にはイアシュヴィリ伯爵を始めとした重臣を引き連れていた。
目は泣き腫らしたように赤く、頬は紙のように白かった。
青ざめた唇が動いたのは、たったの一言。
「貴女のために、貴女を殺します。……さよなら、俺の最愛」
そう。それだけであった。
◆
ラトが養父に監視者としての役目を果たすよう脅されていたことは想像に難くないし、何万もの民と国の名を守るという名分を掲げられて、ラトがそれを振り切れるほど無責任でも利己的でもないこともまた、分かっていた。
そして、迷い悩みながらも必死に足掻いていたラトの背を、皆が望む方へと押し出したのが自分だということも。
現に、奴はこの身に剣を刺し込みながら、自らが死にそうな顔をして慟哭していた。その顔に、憎しみなどはついぞ湧かなかった。
温かい血潮が胸を、腕を濡らし、指先から氷のような死が這い上がってくるその瞬間も、その泣き顔を眺めていた。
あと少し、もう少しと、ただ憐れと感じた。出来ることなら全力で抱きしめて、泣き止むまでずっと頭を撫でてやりたかった。そんなこと、生きている間に一度も考えたこともなかったくせに。
あの時に、いまわの際の際に、ついに思い知るしかなかった。その衝動の意味を。
奴を、愛していると。
奴になら、殺されてもいいくらいに、愛していたのだと。
愚かにも、それを生きている間に気付けなかった。否、気付きそうになる度に目を逸らしていたのだ。クィルシェが、臆病だったから。
だが今となっては、それを伝えられなかったことが、酷く口惜しくも思える。
だから、これは罰なのだろうと思った。
何十、何百と命を奪ってきたことへの罰など受ける気もないが、奴に愛を伝えられなかった罰なら、甘受するにやぶさかでない。
そもそも、奴の言った『最愛』が真実であろうとなかろうと、クィルシェはどちらでも良かった。ラトのあの慟哭こそが、何にも替えがたいクィルシェの真実であり祝福であった。
何より、愛を識り、何の憂いもなく愛を享受し、愛する者の腕の中で死んでいけたことが――愛する者をもう二度と見送らなくてよいという安堵が、孤独な魔女を初めて穏やかに満たした。
だから。
『あんたがそんなことに囚われて、気に病む必要なんかない』
何の衒いも外連もなく、ラトの生まれ変わりと自覚もない男が、クィルシェの心を慰めるのは、たとえようもなくくすぐったくて、心地が良くて。
「……いいのだ」
ゆるゆると首を振って、そう告げる。借りた体の涙腺が弱いせいか、目頭が勝手に熱を帯びる。久しぶりに涙が出そうであった。
(それでも、一つ、心残りがあるとすれば)
せっかく奴の生まれ変わりに会えたというのに、この想いを伝えられぬことだろう。今さら伝えても、ラトにしてみれば迷惑なだけではあろうが。
だがどのみち、ラズの中に確かに奴がいても、出てこなければいないも同じだ。
「いいって……」
「あぁ、いいのだ。まぁ、会えたら伝えたいことがあったが……詮無いことじゃ」
封印が壊れたことで意識と魔力が表面に出て、軽く暴走してしまったが、目的は最初から一つ――ラトの宿願がどうなったかを確かめたかっただけだ。生まれ変わりにまみえるなど、ましてや何かを伝えようなど、最初から望んでもいなかった。
ラズが困ったような顔をするから、つい口をついてしまったが、どうこうしようとも思わない。のだが。
「聞いておきますよ」
と、ラズは軽く頭を掻きながら、気負いもせずに言った。
「俺があの英雄の生まれ変わりとか、全然自信も実感もないですけど……他の奴よりは機会があるみたいだから」
ラズのその言い様に、どこまでも真っ直ぐに育ったのだなと、改めて感じてしまい。
「ふふ……」
ラトに感じるのとはまた別の感情で、笑みが漏れていた。とくん、と温もる胸に、知らず手を当てる。それから、名案を思い付いた。にこりと、優しく破顔する。
「では、伝言の伝言を頼んでおこう。適宜、聞いて伝えておくれ」
「はい。……はい?」
その曖昧な依頼に、けれどラズはその性格からすぐさま頷く。その後で、聞くとは誰に、という肝心な部分が抜けていると気付いても、遅い。
とん、と握っていた手を優しく押しのけて、それまで沈黙を守っていたマルセルを振り返る。少しだけラトを思わせる容貌が、大きく見開かれた。
そ申し訳なさそうに眉尻を下げる。
(そんな顔をするなら、初めからせずば良いものを)
ラズたちが現れる前に話した時にも思ったことを、再び苦笑とともに思う。
あの時は目覚めてすぐで力の調整もきかず、そこにラトを操ろうとしたイアシュヴィリの者と知って苛立ちが抑えきれなかったが、それでも闇雲に暴れようと思っていたわけではない。
イアシュヴィリの連中に、あのあとラトをどうしたかを聞ければ、それで良かった。答えは、案外呆気なく手に入れられたけれど。
『そなた、目的は何じゃ』
今にも息絶えそうな男にそう聞いたのは、褒美の代わりでもあった。
『……気に喰わない連中の鼻を、明かしてやりたいだけですよ』
そう答えた時の顔を、よく知っていた。あの寂しいばかりの塔に閉じ込められていた子供時代、よく歪んだガラス窓の中に見ていた。
その真意は、少しで良いから認めて、愛してほしい、だ。
(奴のせいで、愛に敏感になってしまったよの)
優しい自嘲が零れる。それもまた、悪くない。
「マルセル。次からは、面倒なことはせず、直接言うのじゃぞ」
優しく語りかけたつもりだったのだが、マルセルはびしりと硬直してから、一層情けない顔をして、
「……、はい」
と頷いた。
面影があるだけで、慈しむ感情が胸に湧く。それが家族と言うものだろうかと、らしくもなく感傷的に思う。思えばこそ、心残りなどないと思っていたのに、またぞろ、叶えられない望みがふつふつと湧いてくる。
出来るなら、奴とこんな風に、家族になってみたかったなどと。
(夢想もいいところじゃ)
あり得ない空想に思いを馳せるなど、生前なら、きっと一笑に付すどころか、歯牙にもかけなかったことだろう。けれど今は、不思議と心地よかった。
(お前も、こんな気持ちだったのかの)
いつも、手に入らない家族への憧憬に目を細めていた記憶の中の青年に呼びかける。生きている時には感じなかった小さな悲しみと喜びが、じんわりと体中に染み渡る。
(さようならじゃ、妾の最愛……)
そうしてクィルシェは、現を手放した。




