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31. ラト、憎悪する。

       ◇




 名を聞かれた瞬間の喜びは、今までの努力が報われた気がした。

 けれど次の瞬間クィルシェの美しすぎる微笑を正面から受けて、そんなものは生易しすぎると知った。気付けば宙を舞っていたことも、噴水に落ちて濡れ鼠になっていたことも、苦にならなかった。

 嬉しすぎて、噴水から出ることも忘れて暫く笑いが止まらなかった。


(やっぱり好きだ! 大好きだ!)


 あの笑顔を見て、改めて確信した。雷に打たれたほどの衝撃であった。


 頬を平手打ちされた時こそ距離感に悩んだりもしたが、あの反応からクィルシェに想い人がいる可能性はほぼないと確信できた。

 だからこそ彼女が一夜限りの男を部屋に招き入れるのを見て見ぬふりをすべきなのか、止め続けるべきかとも悩んだが、ここまでくればもう答えは出ているようなものである。


(決めた。もう迷わない)


 彼女のことを知る。そして二度と他の男は近付けさせない。


「おはようございます!」


 翌朝、いつも通りに挨拶をしたら、まるで昨日食べた魚が泳いで帰ってきたような顔で見られた。


「なぜ笑っている!?」


「今日も陛下のお顔を見れたのが嬉しくて」


「…………」


 正直に答えたら、焼いた魚が炭になったので捨てようと決意した顔で見られた。だがもう何も躊躇うことはなかった。


 クィルシェのことについて聞いて回るのは、もう随分前から日課にはなっていた。仕事の合間を縫って様々な人に声をかけ、二人の夫のことももう知っていた。他にも、重臣たちを気紛れで次々と殺していったことや、気に食わないとすぐに何でも破壊することも。

 けれど本当に知りたいことはそこには何一つなかったから、結局本人に直接聞くことにはなったが。そして当然のように無視され続けた。


 それでも、彼女に問うこと自体が楽しくて、以前にも増して色んなことを聞いた。彼女の好きな食べ物、道具、生き物、茶葉、本、神話、星、紙の産地……何でも聞いた。とりとめのないことから、本当に知りたいことまで、何でも。


「陛下が今一番欲しいものは何ですか?」

「陛下はお子様は何人欲しいですか?」

「陛下は、何をしている時が一番幸せですか?」


 ぎゅっと眉根が寄り、半眼になり、口は歪み、食べようとした食事のなかに虫の死骸を見付けたような目で見られても、少しも苦ではなかった。

 たまに動くその表情に、嬉しさが何倍にも膨れ上がった。そういう顔をする時は、大抵家族や子供についての質問だからだ。

 その理由も、初めて質問されたか、自分とは一生縁のない話だと思っていただけと気付いてからは、余計に愛おしさが増した。

 そう正直に答えると、「変態か……」とまた蔑まれた。それさえも幸せだった。




       ◇




 だがその日々は、突然終わりを告げた。


「帝国軍からの要求が届いた」


 それは、初めてのことではなかった。

 昨年、帝国から撤退した敵軍への追撃軍がシルヴェストリ王国内を通過する際に、国境線を解放することと、食料の提供を求めた。応じない場合は適宜接収するともあり、クィルシェはこれを断固拒否した。

 使者を捨て置いて国境線に現れたクィルシェは、陣頭に立ってこれを追い返し、この時は辛くも難を逃れた。だが相手は西大陸の王者である軍事大国だ。一度や二度追い返しただけで諦めるような相手ではなかった。


「今後、帝国軍が国内を通過する際には、これを妨げないことの協定を要求している」


「それは……協定を結べばいいだけではないのですか?」


 久しぶりに二人きりで会った養父は、どこかやつれた面差しで首を横に振った。


『協定? それは属国への第一歩じゃ』


 そう言って、クィルシェは笑って取り合わなかったという。実際、帝国軍にも魔法の使い手はいたが、シルヴェストリの魔女に敵う者はいなかった。

 しかし一部の者は、この発言に猛反発した。


 帝国軍からの申し込みを跳ね除けるということは、帝国への宣戦布告も同義である。いくらクィルシェが帝国軍を返り討ちにしても、圧倒的な戦力差は覆らない。戦力を分散させられれば、勝ち目はなかった。

 クィルシェ一人に頼った戦法では早晩破綻するのは明らかで、そうなった時、女王を始め重臣たちは悉く処刑されることに疑いようもない。


 何より、クィルシェは強大な魔法の使い手ではあったが、不死ではなかった。クィルシェの死と同時に再び帝国がその牙をむけば、シルヴェストリは一日ともたずに歴史からその姿を消すであろう。


 そうなる前に帝国へ恭順の意を示し、保護領となって国を存続させるべきだという意見が出たことは、不思議ではない。

 実際、クィルシェにはまだ子女はなく、傍系にもクィルシェに及ぶような魔法の使い手は生まれていなかった。


 だがそうして協定を結べば、早晩王の首は帝国に従順な人間にすげ替えられるであろう。その時に退位後の身の安全を約束させても、数ヵ月以内に事故死か病死させられるのは目に見えていた。

 そしてそれは、ある者たちにとってはそれほど悪い話ではない。


「これは好機だ。帝国の力を借りられれば、あの魔女を討ち滅ぼせるやもしれない」


「そんな! 陛下はまだ何もしていません!」


 突然の話の転換に、俺は顔を青褪めさせて反駁した。監視者の役目は、忘れていない。けれどそれは、クィルシェが暴走したときのはずだ。彼女は良き治世者だ。

 けれど養父の目は違った。


「『何も』? それは本気か?」


 頭のおかしい者を見る目で、眉根を引き絞る。


「あいつは、存在するだけで宮廷を恐怖で支配している。誰もが奴の一挙手一投足に怯え、唯々諾々と黒を白に変えている。それは政治ではない!」


 つまりは、それが総意であった。




       ◇




「逃げましょう」


「嫌じゃ」


 質問を提案に変えても、クィルシェの態度は変わらなかった。飄々と仕事をこなし、気に入らない者を追い出し、何者にも束縛されることはなかった。


「何故ですか! 帝国の要求の期日は、もうすぐそこまで迫っています。要求を飲む気がないのなら、今すぐにでも亡命すべきです」


 クィルシェに残された道は、帝国へへりくだるか、亡命するか、徹底抗戦くらいしかない。しかしクィルシェが頭を下げるなどあり得ないと、宮廷の中枢に関わっていない自分でさえ分かった。


「使者の首をはねればいい」


「陛下!」


 バンッと執務机を叩く。机上の書類が文句を言うように舞い上がって俺の頬を切り裂いた。


「くどい」


「でも……」


「そなたは監視者だが、宰相でも大臣でもない。妾に意見するなぞおこがましいぞ」


「監視者として言ってるんじゃありません!」


「だったら余計に――」


「好きだから言ってるんです」


 煩げに振り払おうとした手を掴んで、言い募る。今までにも何度も伝えた言葉ではあったが、赤面せずに言えたのはこれが初めてであった。

 だからだろうか、クィルシェの金の瞳がゆっくりと半眼になる。


「またその話か」


「一目惚れだって、何回も言ったじゃないですか」


「興醒めじゃ。何年もそばにいて、いつまでうぶを気取るつもりだか」


 手を振りほどかれる。と同時に繰り出されたクィルシェの拳を、ギュッと正面から握りこんで受け止めた。

 少しも信じてくれないクィルシェに、俺は腹が立ち始めていた。


「俺、そんなに弱くないですよ」


「……ふん!」


 だがそれも束の間で、ぐっと腕を引かれてすぐに拘束から逃げられる。そしてそのまま、苛立たしげに背を向けてしまった。


(全然だ)


 全然伝わらない。そう思うと、悲しみと苛立ちが同じだけ沸き立った。

 そして気付けば、その背中を追いかけて抱きすくめていた。意外に小さな体が、すっぽりと腕の中に収まる。


「何す――」


「だったら、陛下が相手してください。恋人の言葉なら、聞いてもらえますか?」


 言い終えるよりも先に、机がカタカタと震えだした。クィルシェの魔法である。だが俺が触れてその黒い瞳で見つめている限り、魔法が発動することはない。

 果たして。


「……分かった」


 長い沈黙の末、クィルシェが観念したように力を抜いた。部屋の震動も収まる。


(本当は、こんなやり方をしたかったわけじゃないけど)


 そもそも話を聞いてもらえないのだから、仕方がない。

 そう自分に言い訳をしていると、腕の中のクィルシェがちらりとこちらを振り仰いだ。その仕草がどこかいとけなくて、胸が射貫かれたように高鳴りだした。

 今更ながら、時と場合も考えずに口説いてしまったことに気付く。


(どっ、どどどうしよう!?)


 この先のことをまるで考えていなかった俺は、大いに動揺した。女性経験がないわけではないが、好きな人とは初めてである。

 だが俺が狼狽える間にもクィルシェは腕の中で向きを変え、控えめに顔を上げる。

 目尻や頬がほんのり赤い気がするのは気のせいであろうか。


「……目は、閉じるものであろう?」


 拗ねたように言われた。何もかもが吹き飛んだ。


「ッは、はいぃ!」


 ぎゅむっと目を閉じ、腕と唇にも力を込める。


 ガシャン! とシャンデリアが頭上に落ちてきた。


「無効化の力も、黒い瞳を閉ざせば敵ではないわ!」


 あーはっは! と、魔女の哄笑が響き渡った。




       ◇




 俺が好きになった人は、どんな状況に追い込まれても強かった。だから、思いもしなかった。彼女があんなことを言うなんて。


「妾がいつ生きたいと言った?」


 逃げよう、と最後に迫った日、史上最強の魔女と言われた女王クィルシェは、そう言って嗤った。笑っているのに、泣いているようにしか見えなかった。


「妾が誰かを愛せるのは、妾が死ぬときだけじゃ。その時だけが、なんの憂いも怯えもなく、ただ誰かを愛せる」


 そんな寂しいことを言うクィルシェが、悲しかった。それに気付けなかった自分にも腹が立った。けれどそれ以上に、


「……誰か……?」


 そう言ったクィルシェに、憎悪に似た感情を抱いた。


「どうして……俺だと言ってくれないのですか……!」


 それが最後の会話になった。


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