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30. ラト、恋に落ちる。

「……生きてる……」


 そう呟いたのは誰だったか。

 瓦礫が巻き起こした煙の向こうに、確かにニコやマルセルたちの姿が見えた。

 僅かに芽生えた安堵を噛み締めて、ラズはやっとのことで捕まえた手首にもう一度力を込める。目の前の惨状に対し、その手首はやはりあまりに細かった。

 実に不快げに睨み上げてくる少女の正面に回り込み、ともすれば怒鳴り散らしそうになる気持ちを呑み込んで呼気を整える。


「アニカは、これから大事な試合があるんだ。ラウルが勝ってくれていれば、最後の決勝に間に合う。体を、アニカに返してくれ」


 レヴィに選ばれた憐れな生贄のことを思いながら、ラズは自分に冷静にと言い聞かせる。クィルシェは手こそ振り払わなかったが、その目は下らぬと冷ややかに嘲罵(ちょうば)していた。


「妾を殺した人間を讃える大会にか? 随分愉快なことを言う小僧じゃな」


「それも知ってるんなら、承知してくれ。アニカはこの大会で優勝して、母親に自分の気持ちを伝えるんだ。これを逃したら、きっとアニカは二度と言えなくなる」


「意味が分からんな。優勝せずとも、意見を言うのに誰に何を(はばか)ることのある?」


「それが出来たら、アニカはあんなに困って泣いたりしねぇよ!」


 どこまでも嘲弄するクィルシェの態度に、ラズはついに我慢ならずに声を荒げていた。

 何度も挫けそうになりながら、それでも苦手な男たちに話しかけようとしていたアニカのことを。母の期待に応えたくて、出来なくて、それでも自分の気持ちを知ってもらいたくて頑張ろうとしていたアニカのことを。

 知りもしないで馬鹿にされるのは、どうしても許せなかった。

 けれどそんなことで、クィルシェの気持ちが揺らぐことなどなく。


「難儀よな。余計に妾のままの方が良かろうに」


 (びん)(ぜん)と眉尻を下げて、笑う。そのさまが、あまりにアニカとかけ離れていて。


(ダメだ。伝わらない……)


 相手のことを考え過ぎて、相手の反応が怖くて、たった一言を発するだけでも臆してしまうようなアニカと。

 目の前の人間全てを従え屈服させてきたクィルシェとでは、その価値観が違い過ぎて。細腕を掴む手の、力が緩む。


「……それでも。それでもアニカには、俺との約束があるんだ」


 抜けそうになった手に力を込め、少女の瞳の奥の奥を覗き込む。金の瞳の奥に閉じ込められた、ヘーゼルの瞳に届くように、強く。


『次こそは絶対! 絶対おれが勝つから!』


 三年前、再戦を約束して、けれど果たせずじまいだった約束を。今日果たせるのだと、ずっとこの日を待っていたのに。


「だから……」


 だけど、ラズにはもうこれ以上、クィルシェの心を開かせる言葉を思いつかなくて。


「――――『約束』……」


 そう呟いた声が誰のものか、一瞬分からなかった。

 その声は、クィルシェのものというにはあまりに儚げで、アニカのものというにはあまりに切なげで。

 目の前で揺らめく瞳は金色なのに、やはりどこか、今にも泣き出しそうなほど寄る辺なくて。


「『俺の、最愛』――」


「――――」


 クィルシェがぼんやりと呟いたその言葉に、一瞬視界がぼやけて思考が(くら)んだ。そして束の間、無数の記憶が脳裏を駆け巡った。

 自分のものと自分のものでない様々な、時に胸が締め付けられるような記憶の断片。そしてその最後にぽんっと残ったのは、始まりの――あるいは再起のあの日。


 そう、父の下から奪われ、名も奪われ、地獄のような修練をして、これから死ぬまで悪鬼の城に住むのだと言われて登城したあの日。

 謁見の間の遥か遠くに、今まで見た何ものよりも神々しく美しいその御姿(みすがた)を見付けて。けれどそれ以上に、その太陽のように輝く瞳に過った刹那の寂しさに、心を囚われて。


 痛切に、思ったのだ。

 あんなに孤独な太陽では、あまりに可哀想だと。傍に行って、その瞳に自分を映して、少しでも笑ってほしい、と。


(一目惚れ、だったんだ)




       ◇




「お前の真っ黒な瞳は、全てを飲み込む元始の無のようにおぞましい」


 四歳のとき、俺の家族を奪った男は、顔を歪めてそう言った。

 俺の出産と引き換えに死んだという母の肖像画を見つめては毎日泣いていた父と、似ているようで全く違う顔だった。

 けれどその二つの感情の違いを理解するには、まだ俺は幼くて、自分のことすらまるで分かっていなかったから。


「その忌むべき力で、いずれあの魔女を殺すのだ」


 痛いほどの力で肩を掴まれ、突きつけられたその言葉の意味すら、理解することはできなかった。ただ最後に結ばれたこの一言だけが、前の家にも新しい家にも居場所のなかった俺の心を惹き付けた。


「さすれば、お前は英雄だ」


「…………はい……!」




       ◇




 この国で英雄と言えば、三種類ある。

 一つは始まりの無より生まれ、世界を作り、地上を整え、世界の外より襲いくる無を退け続けていると言われる天上の神々のこと。

 一つは、無に魅入られた孤独の魔王が地上を荒らした時、地上に降臨して魔王を討伐した救国の二柱のこと。

 そして一つは、母なる大樹デダ・ツカリの寵を受け、シルヴェストリ王国を建国した祖王アプシュルトスのことである。


「そのアプシュルトスでも、魔法の無効化には散々手こずったという。お前にはその力がある。その力は、この時代には無二のものだ。決して殺されてはならない」


 出来ない、と言うと、いつもそう言ってぶたれた。

 魔法は無効化出来ても、武力には無力だ。魔法で動かされた物体にも同様に無力である。その力だけに頼って、鍛練を疎かにしてはならない。

 だから魔女に殺されないために、まずは護身術を身に付けるのが大事だと。その他にも、密通のための手段や暗号、城の抜け道、いざという時のための何通りもの人の殺し方も教え込まされた。


 殺したくない、と言うと、またふだれた。

 そんな覚悟の足りないことでは、到底英雄にはなれないと。


 そうして、毎日ぼろ雑巾のようになりながら一日が終わった。

 夜には厩舎の干し草に潜り込んで眠りながら、新しく父となった老人の言葉を繰り返し思い出す。考えたくはなかったが、頭に染み付いて離れなかった。

 そしてそのうち、一つの疑問が浮かぶようになった。


 魔法で動かしたものを止められないのなら、雷が落ちても大地が割れても、もうどうしようもないのではないか、と。災害のような魔女の力の前に、人間一人が鍛練を積んでも出来ることなどないのではないか、と。

 その疑問の答えは、十七歳の春、抗いようのない形でもたらされた。


「明日からお前は女王陛下にお仕えするのだ」


 新しい父の実の子供が登城することになった祝いの席で、そう告げられた。しかし城に上がっても、する仕事は侍従でも騎士見習いでもない。

 魔女である女王の側にいること。

 ただそれだけだと言われた。

 そしてやっと、理解した。


「常に側にいろ。常に監視し続けろ。そして奴が我らに魔法を発動したら、その効力が発揮される前にしがみついてでも無効化しろ。それが、監視者アクレットであるイアシュヴィリ家に生まれた者の責務だ」


 死ぬために、生かされていたのだと。


 父から俺を引き離した本家の連中の命と名誉を守るためだけに、今まで鍛えていたのだと。歴代でも最も恐ろしいと言われる魔女が動いたときには真っ先に殺されるために、育てられたのだと。


 いつか、誉めてもらえるかもしれない、なんて。


 父のもとを離れてよく頑張ったなと、いつか言ってもらえる日が来るのではないかなどと夢想していた自分の愚かさを、こんな日に思い知るなんて。

 目の前で祝われ、晴々しく頭を撫でられる者を憎むことも羨むことも、苦しかった。


 何でもない顔をして給仕を続けるのが辛くて、黙って逃げ出した。後でまた折檻されると分かっていたが、見つかるまでずっと庭の噴水の影に隠れて、久しぶりに泣いた。


 真ん丸の月を映す水面に、情けない男の顔が見えて、堪らなかった。




       ◇




「面おもてを上げよ」


 朗々たる声が、絢爛豪華ながら寒々しい謁見の間に響いた。


(これが、魔女の声)


 散々脅されていた存在の声は、意外にも玲瓏として澄んでいた。想像したような濁声でもなければ、おどろおどろしさもない。

 俺は意を決して、えいやっと顔を上げる。そして驚いた。

 声に促されて真っ直ぐに顔を上げたのは、自分一人だけだったのだ。隣に並んだ父も、新しい監視者を見に来たはずの重臣たちでさえ、声の主の顔ではなく、手や膝を見ている気がする。


(なんだ……?)


 それが、最初の違和感だった。


(直接顔を見てはいけないのかな)


 そういう国もあることは知っている。だが大陸の端の小国であるシルヴェストリは、他国から田舎の無粋者と呼ばれるくらいで、そこまでの厳格さはない。


 どうしたらいいのかと視線をさ迷わせ、結局前に戻すしかなくなって、玉座に座った人物を見る。

 目が合った。


(た、太陽?)


 人形めいた美しい顔貌かんばせに、二つの太陽が嵌まっている。そう思った。

 その太陽は混じりけが一切ないかのようにきらきらと輝き、瞳孔の黒さえも飲み込むほどであった。それにかかる長い睫毛も濃い金色で、今にも自ら光り輝くのではないかと、ラトは本気で思った。

 だがどんなに見つめてもそんなことは起こらず、二つの太陽は世界を嫌うように睫毛の影にどんどん隠れてしまう。


(勿体ない)


 そう思ったとき、再びの声が聞こえた。


「名は」


 短い問いに、呆けていてすぐには反応できなかった。だが形式的にはそれで正解であった。俺に身分はなく、地位も役職もない。公的な場で女王と直接的口を利くことは許されてはいなかった。


「ラト・イアシュヴィリと申します」


 恭しく、隣に立った養父が答える。違う、とは言えなかった。


「そなたに、そんな名の子供や孫がいた記憶はないが?」


「分家の子供を引き取りました」


「ほう。妾を殺すためにか」


 あくまでも淡々とした問いかけに、養父が声を裏返して頭を低くした。


「め、滅相もございません。我々はただ、一族に与えられた職分を」


「あぁ、よい。妾が暴走した時、そなたらの力が必要なのは分かっておる。……期待しておるぞ」


 養父の言い訳を遮って、女王が肘掛けに気怠そうに頬杖をつく。その艶やかな紅唇は笑っていた。

 その顔を、俺は放心したまま見詰めていた。


(……俺がいる)


 あの満月の晩、水面の中に見た思い違いをしていた愚かな男と同じ顔が、豪奢な玉座の中にもあった。


 そう思った瞬間、無意識のうちに彼女に近付いていた。

 夫も宰相も騎士も近侍も、誰もその横に侍らせず、謁見の間に集った臣下全員にたった一人で対峙する、孤独な魔女のもとへと。


 それは結局三歩も進めずに騎士に取り押さえられるのだが、とにかくそれが、魔女クィルシェとの初対面であった。


もう1話、回想が続きます。

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