29. ラズ、説得する。
ビュッと鈍い程の風切り音が耳元で唸りを上げる。ピッと頬の皮膚が裂けた音が、確かに聞こえた。
それでも、ラズは構わず声を張り上げた。
「待ってくれ!」
グシャ! と瓦礫が跳ねる音が背後で上がる。ニコの悲鳴も聞こえたが、それだけだった。
狙いを外したのか、外してくれたのか。
確かめる術は分からぬまま、ラズは両手を広げ、自分の胸程の身長しかない少女の視界を阻んだ。
こうして対峙してみれば、こんな小さな女の子が五百年前にシルヴェストリ王国の最大版図を成し遂げた女王だとは、到底思えなかった。
(アニカ……その中にいるのか……?)
呼びかけるように、目の前の金の瞳を見下ろす。見返す双眸は、ラズを見ながらもどこか遠くを見晴るかしているようだった。
その表情の中に一瞬アニカの泣き顔が重なった気がして、ラズは恐怖とは違う何かに呑まれそうな錯覚に陥る。
それを引き戻したのは、アニカの声で冷たく嘯く女王だった。
「……退かぬなら、ともに葬るぞ」
「だ、だから待ってくれって! それで何で殿下……じゃなくて陛下が、こんなことをする話になるんだ」
マルセルが、家族に対し表面上とは異なる気持ちを抱いていたことは分かった。だがそれと、クィルシェが荷担する理由とが繋がらない。
そう告げると、クィルシェは美しい金色がかった赤髪をさらりと揺らして、さも当然のようにこう答えた。
「こやつがイアシュヴィリだからじゃ。他に理由がいるか?」
何故聞かれるのか分からない、という風に返すクィルシェの声や瞳は、あまりに純真であった。だからこそ、ラズは言葉を失った。
確かに、ラト・イアシュヴィリは女王クィルシェを殺した。だがそれは過去の出来事で、ラト本人も暗殺の数か月後に死亡している。いくらラトが憎くても、その代償に子孫を殺すのは道理が違う。
だがクィルシェは、まるで幼子のような理屈で人を殺そうとする。ラズは、呆れるよりも背筋が寒くなった。
「……それは、先祖がやったことだ。今の人間には関係ないだろ」
微かに震える声で否定する。
クィルシェはまるで道化の戯言のように受けて、ハッと吐き捨てた。
「それこそ妾には関係ない。監視者は監視者じゃ。妾を殺すように仕向けた」
その言葉に込められた憎悪に、ラズは最早正論すらも口に出来なくなった。
監視者が監視者の役目を全うするのは当然で、クィルシェを殺した人間がもうこの世にいないのも当然で。
では彼女の復讐の正当性は、どうなるのだろうか。彼女が受けた裏切りや消化出来ない憎悪は、どこへ行けばいいのだろう。
クィルシェには、二人の夫と数え切れぬ愛人がいたが、本当に心を許した相手はいなかったとも言う。それでも歴史上では、ラト・イアシュヴィリはクィルシェの最後の寵臣であった。
少しでも信じていた相手に、最悪の形で裏切られた女性の心を、一体誰が分かると言えるだろう。ましてや煩い程賑やかで鬱陶しくても、まっとうに愛されて育ったラズには、その答えなど到底推し量れるものではなかった。
とても、それには同情するなどという上っ面だけの言葉は、口に出来なかった。
だから代わりに、ラズもまた自分の勝手な望みを口にする。
「それでも、アニカの体を使ってこんなことはしないでくれ」
「妾に命令するか」
「違う。これは、当たり前のことだ」
言下に否定する。ラズの倫理観からすれば、これは当然のことであった。
だが目の前の矮躯に巣食う人物は、その当然があまりに違っていた。
「ッ!」
身構える暇もなくラズの体が宙に浮く。と思った次の瞬間には、体中に痺れるような衝撃が走っていた。
「がッ……!」
弾丸のような突風に吹き飛ばされたラズの体が、聖拝堂の壁に激しく打ち付けられる。そのままドサッと床に落ちたラズを塵芥のように見下ろして、クィルシェはクィルシェの倫理観を説いた。
「笑わせる……。当たり前なのは、家族でもいがみ合い、必要であれば殺し合うということの方じゃ。――なぁ、マルセルとやら?」
「!?」
最後の言葉はラズではなく、小聖堂の奥へと向けられたものであった。まさかと思いながら、全員の目がそちらを向く。
果たして、元はフレスコ画があった壁に打ち付けられて半壊した祭壇の陰から、一人の男がのそりと現れた。
足を引きずり、額からは血を流し、満身創痍ではあるものの、その金髪碧眼は間違えようもない。
「マルセル……!」
最初にその名を呼んだのは、無論ニコロズであった。よく見れば、その足元には焦げ茶色の頭も見える。テンギス・ベリーエフだ。
(やっぱり、一緒だったか)
ニコの話から、マルセルがアニカに近付くためにベリーエフに接触を図ったのではないかと思ったが、まさかこんな大それたことを計画していたとは。
「マルセル……。お前が、ベリーエフを焚き付けたのか……!」
体中の骨が砕けたような痛みで言うことを聞かない体を押し上げて、ラズが問う。案の定、マルセルは酷く緩慢な動きながら、いつもの甘い笑みで応えた。
「それが一番、彼女を動揺させられるだろうと思ってね。期待通り、彼女の呪いを壊すことが出来たよ」
ラズに答えたはずのその視線が、ゆっくりと滑ってニコロズのもとで止まる。口の端を更に吊り上げるような行為は、まるでざまあみろと言っているようで。
「てめぇ……!」
父親の鼻を明かすためだけに、アニカを利用し傷付けたのかと思うと、無性に腹が立った。それがどんなに奴にとって至上の願いでも、アニカを巻き込んだ時点で許せるはずもない。
「僕はイアシュヴィリの家に生まれながら、占断の力もなく、まともに占いも出来なかった。だというのに、術者からは最も嫌われる壊す力だけは、不思議と使えたんだ」
だから、仕方ないだろう?
と肩を竦めて続けたマルセルに、ラズの怒りは沸点を超えた。体中を縛る痛みもおして駆けだそうとした、その直前、
「マルセル……!」
体を起こし立ち上がったニコロズが、マルセルに向かって飛び出していた。その顔は先程の蒼褪めた時から一転、何かを堪えるように赤黒く染まっている。
それを正面から迎えるように――あるいは、体中の傷のせいでそれ以上そこから動けないまま――マルセルが莞爾と嗤う。
「父上もご立腹のようで、重畳です」
「マルセル、お前……」
「将来を約束された弟と父上を、ずっと困らせたか――」
マルセルの皮肉たっぷりの言葉はけれど、そこで不自然に途切れた。ニコロズが、痛む体を引きずって息子の元まで辿り着いたからである。そして。
「無事だったか……!」
互いの血がつくのも構わず、その傷だらけの体を確かめるようにしっかりと抱き寄せた。背ばかりはマルセルの方が拳一つ分程大きいが、体格はニコロズの方が大きく、優男の体はすっぽりとその両腕の中に納まってしまった。
ニコロズの思いがけない行動に、全員が沈黙した。二人の荒い息遣いと息子を抱きしめる衣擦れの音だけが、破壊された聖拝堂内に何重にも響く。その強さが、語るよりも雄弁に、子の生死を案じていた父の内心を物語っていた。
だがこの中で最も意表を突かれたのは、誰あろうマルセル本人であったろう。
「父上……?」
力強い両腕の中で、先程までとは打って変わった戸惑った声が上がる。その頬を、バシッ、と大きな手が打った。
「な、ん……?」
突然のことに、マルセルが目を見開く。だが、音に反してその平手がそれほど強くないことは、離れていたラズにでも分かった。
体を離し、マルセルの目を真っ直ぐに見つめて、ニコロズが息子を叱る。
「いいか、マルセル。女王クィルシェは、目覚めてしまえば誰にも対抗などできない。ラト・イアシュヴィリのような無力化の力も、我ら監視者にはもう二度と生まれ出でないだろう」
「……そんなことは、更々承知し」
「分かっておらん! 女王を殺したのは国を守るためではあったが、その怒りはお前ごときの私怨で晴れる程安くはないのだぞ」
脅すように凄むニコロズの声は、どこまでも真剣であった。それはつまり、自分を殺した国自体を女王が許すはずがないという確信でもある。
マルセルの顔から、ゆっくりと薄ら笑いが消える。それが焦土と化した故国を想像したのかどうかは、分からない。
だがそれを、それまで沈黙していたクィルシェが「ふふっ」と可愛らしい笑声で肯定した。
「道理で魔法の力が弱いはずじゃ。今や、魔法の使い手は一人もおらぬか」
改めて確認するようにニコロズを見、マルセルを見、そして最後にラズを見る。そして、にたり、と笑みを深めた。
そこに滲んだ凄絶さは、とても十五歳の少女の造作ではなかった。
「その様子では、母なる大樹もとうの昔の枯れ果てたか。枯れたのは、ころころと変わる人の価値観か信仰心のせいか――とまれかくまれ、妾の独壇場ということじゃな」
金の瞳が、猛禽のように強く煌めき、三度その華奢な繊手が持ち上がる。その手に縋りつくように押し留めたのは、今にも零れそうな涙を懸命に飲み込んで駆け寄ったニコであった。
「陛下! おやめください!」
潤んだ栗色の瞳を、つぅと無感動な瞳が見上げる。その口が、知るはずのない名を紡いだ。
「――ニコか」
「! ……わたくしの名を、存じて……」
「あのような稚拙な封印で、妾の意識まで完全に封じ込むことなど出来るはずもない」
ニコは一瞬驚いたが、すぐに顎を引くようにしてクィルシェの前に片膝をついた。涙を散らして金の瞳を見上げ、改めて頭を下げる。
「では……陛下。後生ですから、アニカ第二王女殿下をお返しください。姫様の体で、どうかこれ以上のご無体はなさらないでください」
それはラズと同様、その少女の体の中にまだアニカが眠っていると考え、体を明け渡すようにという願いであった。だがそれは同時に、女王に復讐を諦めろということで。
「無体? 無体とはなんじゃ? ……こういうことか!」
ぱしりっ、とニコの手を振り払う。と同時に風が堂内を吹き荒れ、長椅子が飛び、壁も床も抉れるようにひび割れた。
最も近くにいたニコの体は呆気なく宙を舞った。ぐしゃっと鈍い音のあと、痩躯が瓦礫の上に落ちる。マルセルとニコロズも、互いを庇いながらなのに壁まで押し戻されていた。最も離れた場所にいたラズでさえ、両足を踏ん張っていても油断すれば飛ばされそうであった。
(腕の一振りだけで、これほどか……!)
魔女クィルシェを止める方法など、ラズの頭では到底浮かばなかった。それでも、立ち上がって走り出す。アニカの下へと。
「や……おやめ、ください……!」
床に這いつくばりながら、ニコが苦悶の声を上げる。どうやら辛うじて受け身は取れたようだが、声は掠れ、こめかみには赤いものが滲んで見えた。
「魔法は、使えば酷く体力を消耗すると聞きます。姫様は、一度も使ったことがないのです。そんなことをしたら、姫様が倒れてしまいます……!」
「では妾がこの体をずっと使ってやろう。さすれば、無用の苦痛を感じることもあるまい?」
子供の頃からそばにいたことを知る女の懇願を、魔女はおかしみを込めて混ぜ返す。そして見せびらかすようにその掌を翼廊の壁の方――ニコと、その向こうのマルセルとニコロズが立つ方へと向ける。
「……いや――」
ニコが、小さく首を振る。繊手が、緩やかに風を纏いだす。その手が巨大な風の塊を動かすのと、ラズが飛びかかるのは同時だった。
「やめろ!」
「きゃああっ」
ドガァンッ、と壁を崩す衝撃が、ラズの怒声とニコの悲鳴を掻き消して幾重にも木霊する。そこに更に瓦礫と成り果てた壁が地面に落ちる音が何十、何百と重なり、轟音が耳をつんざいた。




