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26. マルセル、登場する。

 テンギス・ベリーエフの剣だこもないような細い手が、三年前のようにアニカの服にかかる――その瞬間、


「ッッ!?」


 横に吹き飛んだ。

 そのまますぐ側にあったフレスコ画前の祭壇に頭を打ち、床に沈む。


「…………」


 あまりに突然の出来事に、アニカはただ目と口を開いてその事態を見ているしか出来なかった。

 男が吹き飛んだのは、奥の入口から伸びてきた長い足に蹴り飛ばされたからだ。

 だがアニカが驚いたのは、その行動よりも足の主の方にであった。


「大丈夫だった?」


 金髪碧眼の美しい男が、小聖堂に満ちる香りと同じ甘さを纏って、どこまでも穏やかに微笑んでいた。


「…………マルセル、様?」


 呆然と身を起こしながら、複雑な思いでその名を呼ぶ。

 寝室で襲われそうになった記憶はいまだに新しい。だがそれ以上に、こんな風に勇ましく助けに来るような人物とは思っていなかった。


(こんなことをしそうなのは、マルセル様というよりもラ……)


 ぼんやりと場違いなことを考えていたら出てきた名前に、アニカはなぜか瞬間的に目を逸らしていた。


(な、なぜ、今……?)


 縛られたままの手首を見つめ、よく分からない衝動に頭を疑問符でいっぱいにする。だがその答えが出る前に、マルセルがその手首に手を伸ばしてきた。


「!」


 反射的に顔を上げる。いつの間に近付いていたのか、マルセルがしゃがみ込んだままのアニカに視線を合わせるように、すぐ目の前で膝を折っていた。


「顔が赤いね。見惚れてた?」


 触れられた手の熱に、寝室での恐怖が一気に全身に蘇る。びくり、と身を引くが、手を取られていて少しも逃げられない。

 一瞬顔が赤かったとしてもそれはマルセルが理由ではないし、今はもう蒼白だと確信があった。


「こんなことされて……怖かったね」


 マルセルが、親身な声で縄のかかったままの手首をさする。

 危機を救ってくれた美男子にこんなにも間近で優しく労われれば、普通の少女であればその純真な胸を薔薇色にときめかせたことであろう。


 けれどアニカはダメだった。あの日の恐怖ゆえか、もう生理的に受け付けなかった。また呼吸が苦しくなる。体中の神経がびりびりと、嫌だと叫んでいる。

 けれどその理由を考える前に、マルセルの両手がアニカの背に回ってきた。噎せるような甘い香りとともに、その胸が眼前に迫る。


「でももう大丈夫。僕がずっとついてるから」


 限界だった。


「ぃやぁぁああッ!」


 縛られたままの両手で、必死にマルセルの胸を押し返す。止まったはずの涙が、再び(まなじり)を濡らす。


「おね、が……来ないで……!」


 一歩分も押し返せなかったマルセルに、知らず懇願していた。来ないで、と掠れる声で何度も繰り返す。

 マルセルは一瞬瞠目したあと、ゆっくりと口端を持ち上げた。


「強引に攻めるのがダメなら、弱ってるところを懐柔しようと思ったんだけど……やっぱりダメかぁ」


「…………え?」


 そして改めてアニカの頬を両手で挟み、にっこりと笑う。


「ひっ」


「そいつ、一緒に殺してあげるって言ったら、僕のものになってくれる?」


 アニカの視界いっぱいに、濁った碧眼が映り込む。その色が、まるで人を呑み込む嵐の海のようで。


(本気、なんだわ……)


 冗談のような口ぶりなのにどこまでも真剣で、背筋が冷えた。

 本能が、怯えるようにふるふると首を横に震わせる。


「私は、誰も、殺したいなんて……」


「家のために君を傷付けようとした男なのに? 名誉や体面なんて目に見えないもののために女性を泣かせるなんて、あまりに低俗だよ」


 憐れむようにマルセルが囁く。けれどそれは誘導だと、僅かに残った理性でアニカは気付く。

 監視者アクレットの一族の長子として生まれながら才能のなかったマルセルは、後継ぎでもなければ王家専属の占術師にもなれない。それなのにアニカの婚約者候補として現れた理由は、魔女の生まれ変わりであるアニカの監視が目的のはずだ。

 それはどこまでも家のためでしかない。それが本人の意思に沿うかどうかは別として。


「家のため、というのなら、あなただって」


「あぁ、同じだって? 僕も、あんな馬鹿と同じ無能で下衆で低俗な、役立たずだって?」


 アニカの言葉を遮って、マルセルが苦笑する。

 才能がないからと、継嗣になれなかった男が。


「まぁ確かに、家のためといえば、そうかもね。だからさ」


 あっけらかんと言い放つ。

 それは二人で歓談した日、皮肉の中に見えた嫉妬に似ていたが、それ以上に深い諦念が、昏い海の底に横たわっていて。


「僕に壊されてくれるよね?」


 ぱきん、と頭の裏で何かが壊れる音が、した気がした。




       ◆




「メトレベリ様!」


 先にムゼ宮をあらためていたアラムと落ち合ったあと、まだ捜索していない場所を手分けして探していたところに、悲鳴のような声で名を呼ばれた。

 振り返ると、回廊の向こうから見知った侍女が必死の形相で走ってくるところであった。


「ニコ・メルア!」


 ラズも踵を返してニコの下に走る。近付けば、いつもの鉄仮面は跡形もなく、今にも泣きそうであった。

 その顔は、ラズに嫌でもあの日の悲鳴を思い出させた。


『姫様を助けて……!』


 三年前、ラズが治りきらない風邪を引きずって途中から授業に出たあの日。乱闘騒ぎの真ん中で、ひとり獣のように叫んで暴れていた。


 ニコには剣の腕では辛うじて勝っていたが、アニカに怪我をさせる度に鬼の形相で睨まれるものだから、ずっと苦手だった。それがあの時ばかりは、身も世もなく泣いてラズに助けを求めた。


『姫様をお守りできなかった……ッ』


 後日、熱が引いてやっと母に許可を得て学校に戻った時、偶然学校にいたニコを捕まえて事情を聞いて初めて、ラズはベリーエフたちの卑劣なやり口を知ったのだ。

 あの時もまた、彼女は歯を食いしばって悔しさを堪えていた。


「姫様がいらっしゃらないのです!」


 ラズに取りつくなり、ニコが叫ぶ。

 嫌な予想が当たったと、ラズは表情を険しくした。


「やっぱり、一緒じゃないのか」


「テンギス・ベリーエフが姫様の様子を嗅ぎまわっていると聞いて、他の者に確認と、護衛も頼んで戻ってきたら」


「ベリーエフ!?」


 想像外の名前が出てきて、ラズは声を裏返した。

 思わず、今までお互いのことなんか知りもしないという顔をしてきたことも忘れて叫ぶ。


「あいつは、お前が城の周辺も近寄れないくらい徹底的に追い込んで二度と表に出てこれなくしたはずだろ!」


「そうです。メトレベリ様があいつとその取り巻きを徹底的にボコッて心をくじけさせて二度と姫様に近寄らないように恐喝してまわったお陰で、噂すら聞かなくなったはずなのに!」


「…………」


「…………」


 思わず無言になって見つめ合う二人。

 再会した瞬間初対面を決め込んだ腹で、お互いにどう思っていたかがよく分かる瞬間であった。

 閑話休題。


「アニカ殿下が動き出したことで、触発されたか」


「短絡的な人間でしたから、思い付きで復讐を考えても不思議ではありません」


 二人は、先程の件についてはお互い不問にすることにして会話を再開した。


「誰に聞いたんだ」


「イアシュヴィリ様です」


「やっぱりあいつか」


 レヴィに受けた忠告が、ぴたりとはまる。問題は、マルセルがどこにアニカを連れ込んだかだが。


「お前はどこを探した」


「わたくしはトゥヴェ宮をほとんど」


「俺もアラムとムゼ宮を西から順に見てきた」


 トゥヴェ宮は王族の居住空間としての私的な部屋が多く、ラズや下男のアラムには立ち入れない場所が多かった。それはマルセルも同じかとムゼ宮を見てきたのだが、気配もなかった。

 となると残すは。


「「王室聖拝堂」」


 二人の声が重なる。

 城の東端に立つ聖拝堂は、春祭りの初日こそ王侯貴族の礼拝や儀式で賑わうが、中日はムゼ宮や円形競技場などに人が集まり、最終日の夜の式典まで人は少ない。

 それにマルセルは監視者の一族(イアシュヴィリ)の人間だ。聖拝堂は管理下とまではいかないが、融通がきく場所であることは確かだ。


 二人は一瞬で合意すると、同じ方向に駆けだした。

 そして幸運なことに、聖拝堂の入口近くで、見知った人物を見付けることが出来た。


「イアシュヴィリ伯爵様!」


 ニコが駆け寄って名を呼ぶ。

 祭礼用の正装に身を包んだニコロズ・イアシュヴィリは、春祭りに似つかわしくない甲高い声で呼ばれ、眉間に強い不快感を刻みながら二人を振り返った。


「何だ? 突然失礼だろう」


「申し訳ありません、ですが」


「アニカ殿下を探しています」


 侍女ごときが、という白眼視を感じ、ラズが続きを引き取る。と、明らかにニコロズの視線が変わった。

 ラズは粗野で品がなくとも、家柄だけはきちんとした公爵家だ。と思ったのだが、目を眇めて観察するような視線は、どうも意味が違う気がする。

 だが今はそんなことを気にしている時間はない。ラズは構わず続けた。


「貴方の息子と一緒にいる可能性が高い。居場所をご存じでないですか」


 ニコを脇に避けて詰め寄る。だが返されたのは、少し予想外の発言だった。


「侍女殿が探せば十分だろう。君は第二王女には近寄るな」


「は? 何故今そんなことを」


 失礼と知りながら、思わず間の抜けた声が出ていた。こんな時にまで、息子の競争相手を蹴落とそうというのだろうか。

 そんなことよりも早く答えろ、と内心苛立つラズに、ニコロズは更に想像だにしない言葉を続けてきた。


「自覚はないだろうが、君の前世の一つは監視者ラト・イアシュヴィリだ。魔女の関係者が近くをうろつけば、魔女の覚醒を誘発しかねない。今すぐ婚約者候補の話を断れ」


「…………は?」


 理解が追いつかなかった。

 シルヴェストリ王国では健康長寿を神に感謝する五歳の祝いの時に、一緒に過去や未来を占ってもらう風習がある。元々は王家のみで行われていた儀式だったが、それが貴族に広まり、富裕層から今では一般家庭にまで浸透した。

 だが前世などというものは証明することの出来ない不確かなもので、現在ではお祝いと縁起担ぎ程度の意味しかない。

 それに普通は神官とか旅人とか、曖昧で適当なはずだ。個人名で占断されるなど、異例中の異例である。

 しかも監視者ラト・イアシュヴィリと言えば、魔女クィルシェを討った五百年前の英雄。全く本気とは思えなかった。


「今は前世の話なんかどうでもいい。早くマルセルの居場所を」


「五歳の祝いに占断を受けただろう」


「んなもん忘れた」


「これだからメトレベリ家は……!」


 急かすラズの言葉を遮って問うニコロズに苛立ち、ラズはついに敬語も忘れて本音で返す。ニコロズが皺の増えた眉間を抑えて呻いたが、ラズはどうでも良かった。

 恐らく九割脳筋の父は慶事の一つとして形だけ占断は依頼しても、六人兄弟の前世も未来もほとんど興味などないはずだ。多分、勝手に育って好きに生きればいいとしか思っていない。

 そして親が覚えていなければ、五歳の子供など何をか言わんやである。


(くそ、こんなことしてる場合じゃねぇのに)


 今は一分一秒も惜しい。ニコロズが教える気がないのなら、これ以上構っていられない。


「知らないのなら結構です。では」


 軽く一礼すると同時に再び駆けだす。その背にニコが続き、ニコロズが「待て、だから君は探すなと」としつこく声をかけた時だった。


 どごぉんっ……! 


 大地を揺るがすような大きな衝撃音が、辺り一帯に響き渡った。


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