25. アニカ、恐怖する。
夢を見た。
それは自分の記憶のはずなのに自分のことでないような、どこか遠くて、けれど体の芯が疼くように最も深い部分に眠る、忘れることのできない記憶のようでもあって――。
『夢は、毎日たくさんの家族に囲まれて、朝から晩までわいわい遊んで騒いで、退屈する暇なんかひとつもない暮らしをすることです』
と、その男は言った。
下らない、ないものねだりだと分かっていた。
望まぬ力を持って生まれたせいで、母を死なせ、生家から引き離され、こんな城に放り込まれて。
今生では最早叶う欠片すらない望みだった。
しかもこんな得体の知れぬ魔女の監視が仕事とは。
どんなに美しく磨き上げられた回廊も、希少な美術品も、至る所に施された精緻なフレスコ画も、歪みのない高価なガラス窓も、その男にとっては牢獄と変わらない。
だから、イアシュヴィリ家の当主に手を引かれて初めて登城した時も、憐れな傀儡よ、と思う程度であった。
金や権力や血筋や魔法……望むものは違えど、この身に群がる連中が妾越しに見ているのは、大概が見え透いた欲望であった。媚びへつらう者に、追従する者、憐れな生贄や身代わりもいた。出過ぎた杭は全て首を落としてきた。それでも連中は蛆のように湧き続けた。
イアシュヴィリ家は監視者という大義名分で正義面をして諫言をばらまいていたが、それもまた私欲にまみれていることは、城中の人間が知っていた。
だというのに、イアシュヴィリの新しい手先は、何故か会うたびに笑顔を振りまいた。魔法を無効化できる力が稀に見る程高いということは調べて知っていたが、そこからくる余裕というには、違うようであった。
どんな目的を持って近付いてきた人間でも、寵が欲しいと一晩を共にした男でも、この深い黄金色の瞳を真正面から見据えて笑った者などいなかった。いつその目が輝きを増し、城の中に嵐が吹き荒れ自分の命が潰えるかと、愛想笑いも凍えていた。
『そなた、名は何という』
『ラト・ハハレイシヴィリです!』
このはちきれんばかりの笑顔に、ついに思い知るしかなかった。
こやつは、本物の阿呆な能天気者だと。
それからのラトは、ほぼ懐いた犬ころであった。そして周囲からは、気紛れに男を摘まみ飽きては捨てると言われている妾の、新しい寵臣とみなされた。
些事であった。
今まで通り、噂が先に飽きるか、男が先に擦り切れるか、それだけである。監視者だから殺すのは面倒があるだろうが、それもささいなことだ。
だが、度重なる親征に心身共に疲弊しきって戻ってきた時の、ラトの能天気な質問と夢物語は、不思議と気持ちが安らいだ。
『俺の理想は、兄妹もたくさんいて、毎日誰彼となく構われて、一緒に泥だらけになって、たまには喧嘩して、母に怒られて……』
愚かな男だと、いつも思う。
母親はラトの無効化の力のせいで出産時に死亡したというし、本家に力のことが知られたせいで、幼少期に金で買われたようなものだ。それなのに、何故そんなありもしない家族の話で笑えるのだろうか。
先の国王も、この身に宿る魔法の強大さに恐れをなし、何年も実の娘を塔に閉じ込めていた。家族など、妾にとっては笑って話すなど狂気の沙汰であった。
それでも、ラトは虚しい夢物語をやめなかった。
『今生で無理でも、来世ではきっと叶います。それで、陛下を一番最初に見付けるんです。そして誰よりも先に求婚します!』
『阿呆。子供を一番に見付けるのは、産婆じゃ』
呆れる点が多すぎて、ついていけないのはいつものことであった。言葉遊びのような、頓智のような、生産性の欠片もない非建設的な会話。
後から思えば、無駄ばかりなのが心地よかったのかもしれない。焼き切れそうなほどに頭を使い、人を疑い、徹底的に調べ上げて裏をかくのは、疲れるものだから。
『だったら、俺があなたを取り上げます』
『何度生まれ変わろうと、産婆と結婚したがる酔狂にだけはならん』
『それでも、約束します! 絶対、あなたを見付ける』
きらきらと目を輝かせて拳を握るラトを、何度も『阿呆』と言っていなす。
どうでも良い、あってもなくても良いような日常であった。だから、いつ終わっても悔いも惜しみもなかった。
人は皆、妾の前をただ通り過ぎる。ラトは、監視者だから長くいただけだ。執着などない。
それでも、奴の言葉で二つだけ、価値のあるものがあった。
一つは、何故妾のことばかり知りたがるのかと聞いた時、顔を真っ赤にして答えたもの。
『……一目惚れだと言ったら、陛下は信じてくれますか?』
そして、もう一つは。
『貴女のために、貴女を殺します。さようなら、……俺の最愛』
◆
「――――ッ」
ハッと目を覚ましたアニカは、胸を冷たい鋼の感触が貫いたような気がして、蒼白になってそこに手を当てた。
「…………ない……?」
しかしあると思った刃は影も形もなく、アニカの成長途中の胸も赤く染まったりはしていない。
あれ、と思うと同時に、夢の中との齟齬が、はっきりしだした意識の中で薄れていく。けれど胸を打つ激しい動悸は一向に収まらなかった。
怖い、と思う。けれどその恐怖は、男性を前にした時の比ではなかった。
(怖くて、悲しくて、辛くて……そして少しだけ、違う感じがした)
何だったんだろう、と今まで見ていたはずの夢を思い返そうとする。けれども、何故か少しも思い出せなかった。嫌な焦燥感が、胸を焦がす。
だがその理由にゆっくり思いを馳せる時間はなかった。両手首が縛られているのだ。上半身を起こすと、足首も同様に麻紐のようなもので縛られていた。
「ちっ、もう目が覚めたか」
「……え?」
何故、と考えていると、背後から男の声が聞こえた。わぁん、と妙に声が響いている。そこで初めて、ここが自分の寝室でないと気付く。
薄暗く狭い室内を、三か所の壁龕に置かれた燭台がゆらゆらと照らしている。視界の端にあるのは、祖王アプシュルトスの大きなフレスコ画。
忘れようもない、五歳のアニカが占断を受けた、あの小聖堂だ。蝋燭には香りがついているのか、噎せるような甘い匂いが狭い堂内に濃く充満している。
(あれ、何で……確か、部屋にいて)
ニコと大会の準備をしていた所に、確か来客があったのだ。話し声しか聞こえなかったが、相手は……そう、マルセルだった。
『やぁ、ニコちゃん。少し気になることを聞いたんだけど』
『急用でなければ、大会終了後にお願いしたく存じます』
『その冷たい感じ、やっぱりそそられるなぁ。攻略したくなるよ』
『では失礼致します』
『扉を閉じてもいいけど、ちょっと早計だと思うよ』
二人の全く噛み合っていない会話に、アニカは扉越しに耳をそばだてていた。最初は早く帰ってと心の中の藁人形に釘をかんかん打ち付けていたのだが。
『噂で聞いただけなんだけど、最近ベリーエフ伯爵家の息子が、こそこそ動いてるって』
『!』
『大会の二日目にも見たって奴がいるし、少し警戒した方がいいと思って』
『ご慧眼、痛み入ります』
ベリーエフと聞いた瞬間、ニコが態度を翻した。聞いたことがある気もするが、アニカには思い出せない。
『もし誰か人に頼むなら、その間、僕がここにいようか』
『…………では、お願い致します。が、絶対に中には入らぬようにお願い致します』
ドスのきいた声で何度も念押しした後、ニコが離れる気配がする。つまり、それ程のことをマルセルは報せに来たということだ。
けれどアニカには、扉越しとはいえマルセルと二人きりにされたことの方が何倍も恐ろしかった。そして案の定、ニコが戻ってくる前に扉は開かれた。しかし入ってきたのはマルセルではなかった。
そこにいたのは。
「ふん。相変わらず、気の弱そうな小娘が」
焦げ茶色の髪に、一重の瞼とうっすら残ったそばかすを持った同じ年頃の少年が、アニカを心底嫌そうに見下ろしていた。
「…………っ!」
だれ、という問いはけれど、喉の奥であがった悲鳴に掻き消された。忘れるはずもない。その顔。その顔は、三年前のあの日、仲間たちに周りを囲ませて、アニカを意図的に押し倒した張本人と同じ。
(ベリーエフ……この男が、ベリーエフなんだ……!)
ニコが態度を一変させた理由が、やっと分かった。この男がアニカに近付くことを恐れたニコが、マルセルの危険を一時置いても行動を急いだのだ。
だがこの男は現れた。
扉の向こうにこの顔が見えた瞬間、アニカは硬直して窓から逃げることすら出来なかった。ふっと意識が飛び、そして気が付けば、ここにいた。
「な、なん……っ」
なんであなたがここにいるの、と言いたいのに、声は震えて少しも音にならなかった。後ろから見せつけるように一歩一歩近付いてくる男に、アニカは蒼褪めながらお尻をずって後ずさる。
「お前、噂になってるぞ。三年ぶりに第二王女が表舞台に出てくるって」
男が、アニカの膝先で止まる。
第二王女ともなれば、その動向は引きこもっていても完全に秘すことは出来ない。宮廷貴族であればその耳目は更に速く、庶民の間で噂になっている武闘大会の仮面戦士の正体も、分かる者はすぐに見抜いたのだろう。
大嫌いな虫けらを見下すような男の目が、蝋燭の明かりに照らされてぎらぎらと薄闇に浮かび上がる。
「ずっとそのまま引っ込んでいれば良かったのによ」
男が口を開く度に、アニカの脳裏に引っ掻き傷のように無数に刻まれてきた恐怖が、一つ一つ鮮明な映像となって蘇る。
(怖い)
「頭のおかしい面なんかつけて、正体隠しやがって」
十年前の、イアシュヴィリ伯爵が告げた嫌悪の混じった声と顔が。
(怖い)
「王族のくせに、優勝してこれ以上まだ何かを望む気か? 図々しい」
三年前の少年の圧し掛かるような体と、その向こう側に見える嗤い合う少年たちが。
(怖い)
「お前が出てくると、俺の立場がどんどん悪くなるんだよ!」
社交界で、男性を見ただけで泣きそうになったアニカを、さざめくように扇の向こうで笑っていた者たちが。
(怖い)
怖い、という単語が、アニカから思考力を奪い、体中を侵食する。気付けば襟首を掴まれ、男の顔がすぐ鼻先に迫っていた。
「俺を学校から追い出しただけじゃまだ足りないか」
「ッ?」
そばかすが数えられるほどに男の顔が迫り、アニカは思考が回らないながら必死にいやいやと首を振る。
学校から逃げたのはアニカだ。その後でこの男一人を追い出しても、アニカはもう学校に戻れない。無意味なことだ。
「お前さえいなければ、女に負けたなんて馬鹿なことを言われずに済んだのに……!」
男が口惜しそうに唾を飛ばす。その言葉の意味を遅れて理解した瞬間、アニカは愕然とした。
剣の授業ではずっと邪険にされていることには気付いていたが、アニカはその具体的な理由を、今初めて知った。
アニカはただ強くなりたくて、学校の授業の一環で剣を楽しんでいたが、少年たちにしてみれば突然乱入してきた少女に、練習とは言えあっさり負けてしまったのだ。その不名誉を強く詰る親も少なからずいただろう。そんな親からの叱責や体面を守るために、アニカは三年前、あの場で背をつかせられたのだ。
(そんな、そんなことのためだけに……!)
貴族の男にとっては、体面が何よりも大事だとは、知識として知っている。だが女のアニカにとっては、とても三年間の恐怖と引き換えにするほどのものには思えなかった。
何より、アニカを倒した後のあの手付きは、勝ち負けなど完全に関係なかった。
(…………!!)
瞬間的にあの時の感触が皮膚に這い上ってきて、アニカはぞっと身を震わせた。生理的な涙が滲んで、視界を歪ませる。
けれど男は、アニカの様子など構わず捲し立てた。
「学校からいなくなったと思えば変な男使って潰しにきて、次は侍女に指図して退学に追い込んで……俺が家の中でどれだけ肩身が狭くなったか分かるか!」
変な男のことは意味が分からなかったが、侍女はきっとニコのことだろう。社交界にも決して出てこないと断言したのは、きっとそういうことだったのだ。
「それもこれも全部お前のせいだ!」
「っ!」
ドンッ、と掴んでいた襟首を投げるように床に叩きつけられる。容赦なく後頭部を打った。ひび割れるような痛みが走り、視界がぶれて目がちかちかする。けれどそれは悔しさのせいだけではなかった。
男の目に宿る、あの日と同じ感情――嫉妬、侮蔑、嫌悪、劣等感……。その強さは、三年前の比ではない。
そしてそれは、アニカも同様であった。
それは自業自得だと、三年前なら少しは言えたはずだ。けれど今は、息すらまともに吐き出せなかった。
ハッ、ハッ、と二人の短い呼気が狭い小聖堂に幾重にも響く。男は怒気で、アニカは恐怖で、空気がヒリヒリするほどに引きつっていた。
「大会の褒美なんか貰えると思うなよ。大会が終わるまでずっとここに閉じ込めてやる」
ハッハッ、と男が昏く笑いながら、床に転がったままのアニカを跨いでそそり立つ。
(怖い……!)
涙がぼろぼろと、壊れたように頬を濡らした。唇が、指先が、体中が震えて止まらない。そんなアニカをどこか満足そうに見下して、男が嗜虐心たっぷりに上唇をめくりあげる。
「あぁ、そうだ……ただ待つだけってのも退屈だし、あの時出来なかった続きでもするか」
「…………!?」
「第二王女がうちに降嫁するなら、俺の汚名もすすげて一気に立場も回復する。お前も手垢がついて売れ残るくらいなら、俺に囲われた方がマシだろう」
「――――ッ」
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
男が、下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと屈んでくる。けれど必死で縛られた両足で床を蹴っても、少しも逃げられなかった。感情の回路が、もう、暴れ回ってぐちゃぐちゃに千切れそうだった。
恐怖や悔しさ以外の様々な情動が、体の奥の、よく分からないところから湧いてくる。
――何故やり返さない。
自分のものとは思えない思考が、あちこちから狂った奔馬のようにアニカを翻弄する。
――そんな驕児など殺してしまえ。
――お前には、その力があるだろう。
(殺す……なんて)
――殺すことなぞ造作もない。ただ望めばいい。強く、強く望め。目の前の男を、その汚らしい手を我が身に伸ばし、畏れ多くも触れようと考える愚物を、本能のままに切り刻め。
(本能の、ままに……)
理性の箍が、外れる。
「――――こ」
「あぁ?」
「っ…………来ないでッ!」
喉を駆ける寸前で言葉を変えた。
そうしなければ、殺す、と叫んでいた。叫んでしまえば最後、この小聖堂を吹き飛ばすほどの嵐が男を襲うだろうと、強い確信があった。
だから、何も起きないことにこそ、アニカは大きく安堵した。
荒く息を吐き、途中で止まった男を懇願するように睨み上げる。
殺したくない。殺してはダメだ、と自分に強く言い聞かせる。
けれど。
「はあ? はは、王女なら命令してみろよ」
男が、小馬鹿にするように鼻で嗤う。体と手が、再びアニカに迫ってくる。
恐怖に、体が痺れたように動かなかった。




