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20. アニカ、思い出す。

 自室に戻ってきた記憶はなかった。

 ドレスのまま部屋の隅に蹲り、捨てられた仔猫のように震えて丸まった。寝台は、マルセルとの記憶が蘇って怖くて、とても近寄れなかった。


 マルセルの細く骨張った感触も、頭が痛くなるような香水の匂いも、足の間に強引に入ってきた足の感覚も、ずっと体中に張り付いて離れない。どんなに体を拭っても、心にまとわりつくような不快感は消えてくれなかった。


(でも、……違う)


 この胸に嵐のように渦巻く怒りみたいな、悲しみみたいな情動は、マルセルとは違うところにある。

 脳裏に浮かぶのは、ジーラの――ラズの、二人の重なった顔。優しい、優しいと思っていた、偽りの言葉。そして。


(騙されてた……ずっと)


 そんな言葉ばかりがずっと、終わりのない螺旋のように頭の中をぐるぐると回っていた。


(ずっと、何回も、そばにいた……男の人が)


 男、と考えただけで全身がぶるり、と震えた。ラズの顔の後にマルセルと、そして三年前の少年の顔が浮かび、歯の根が噛み合わない。


 ラズが何の目的で正体を隠していたのかは分からない。一度目も二度目も偶然だと思っていたけれど、そうでなかったら。


(どうしよう……怖い……こわいよ……)


 何度でも何度でもジーラの顔が浮かび、アニカはぎゅっと目を閉じた。


 三年前の少年もそうだった。

 焦げ茶色の髪に、一重の瞼とそばかす。名前もよく知らないのに、その顔だけは忘れたくても忘れられない。ただ剣の稽古でたまに打ち合ううちの一人で、会話はろくに交わしたこともなかった。

 よろしくお願いしますと、ありがとうございました、だけ。


 でも、彼が貴族の子弟たちの中でも発言力のある少年であることは知っていた。アニカがいなくなると、途端に唾を吐き捨ててアニカを罵っていたからだ。


『王女が、遊びでしゃしゃり出てきやがって』

『少し出来るからって生意気に』

『王女だから全員から手を抜かれてるって、まだ気付いてないのか』

『先生たちも甘やかして』


 最初はアニカのいない所で話していた彼らも、次第に練習中でも聞えよがしに話すようになっていった。


『あの世間知らずに実戦ってやつを教えてやる』


 最後に聞いたのは、そんな言葉であった。

 悪意は怖かったし悲しかったけれど、それでも大丈夫だろうと思っていた。


 そしてその日。いつものように二人一組に分かれて打ち合う練習の時。少年と木剣を持って向き合って、数合も打ち合う前に、異変はあった。


 こつん、と何かがアニカに当たったのだ。最初は気のせいかと思った。けれどそれは何度も続き、額にも腕にも痛みが走った。小石だ、と気付いた時には足を掬われ、押し倒されていた。


『や、やめて……ッ』


『本物の戦場で、やめてって言ってやめてもらえると思ってるのか?』


 下卑た笑いを浮かべる少年は、もう木剣を持ってもいなかった。服の胸元を破られ、土のついた手が腹を撫でた。

 アニカの手の中にあったはずの木剣は、周りで同じく稽古していたはずの別の少年に蹴り飛ばされていた。もがいて助けを求めたが、周りを少年の仲間たちが壁のように隠して、無駄だった。


 あの時に、知ったのだ。これが、男という生き物なのだと。全員で、全力で、ひ弱な獲物を狩る。それが男のやり方なのだと。


 あの瞬間の絶望は、言葉にならなかった。

 がむしゃらに悲鳴を上げて抗う向こうで、ニコや誰かの怒声が少年たちを蹴散らすのが見えたが、前後の記憶は混乱していて、よく思い出せなかった。


 ただあの時の絶望は、何日経ってもアニカの心を蝕んだ。だから、マルセルの行為も、きっと何日もアニカの心を縛るだろう。


 けれど何度も繰り返し脳裏をよぎるのは、なぜかラズのことばかりであった。


 嘘をつかれていたことが、何よりも哀しい。


 婚約者の話が上がってから、ジーラの言葉や存在はアニカにとってとても大きな救いであった。アニカの恐怖を否定せず同意してくれて、励ますでも突き放すでもなく、ただ導いてくれた。

 彼女の言葉が心からのものだと思えたからこそ、男性でも理解するために頑張りたいと思えたのに。


(本当は、違ったの……?)


 ラウルやレヴィやマルセルのように、家庭や個人の事情があって、第二王女を利用しようとしていただけなのだろうか。そのために、男では近づけないから、変装して誤魔化したのだろうか。


 侍女だと最初に勘違いしたのは、確かにアニカかもしれない。けれど、言い出す機会はいくらでもあったはずだ。それを黙っていたということは。


(……他に、どんな理由があるの?)


 何度も何度も、記憶の中のジーラに問いかける。三つ編みを解いた背中は、一度も振り向いてはくれなかった。




       ◆




 その夜、マルティがいつもの時間にアニカの部屋を訪れても、入室の許可は一向に下りなかった。


「もう寝てしまったのか?」


 独りごちると、金魚の糞のようについてきたディミトリー・ミシェリが一々憤慨した。


「殿下を呼びつけておいて先に寝るなどと、礼がなっていないにも程があります!」


「ディー。ここではマルティだ」


 後ろで喚く近侍に小声で釘を刺し、もう一度ノックする。やはり返事はなかった。

 痺れを切らしたディミトリーが退室を促そうとした頃、マルティを呼ぶ声が扉越しにささやかに届いた。


「今日は、ごめんね。ここからでも、いい?」


 物を隔てているというだけでなく、今夜のアニカの声は酷く弱々しく疲れているようだった。


 普段からマルセルが言い寄っているようだとは、ディミトリーから聞いていた。

 それに加えて母上の強引な提案で春祭りガザクフリ武闘大会コンヴェントシアに参加するため、再び剣の稽古を始めたとも聞いている。心身ともに疲れているのは当然なのだろうが。


「何かあったのか?」


 扉は開けないまま、静かに聞く。その瞬間の動揺や迷いは、扉越しでも感じ取れた。


「大丈夫、なのか?」


 アニカが三年も自室にこもっていたのは知っているが、マルティの中の第二王女と言えば王立前学校で剣を振るい、家族の中でも溌溂はつらつとした笑顔を振るうあどけない存在だった。

 こんなにも気落ちした声を聞くのは、思えば初めてであった。


 しかしマルティの心配に反し、返ってきたのは小さな笑声だった。


「マルティは、やっぱり心配性ね。染みついちゃったのかしら」


 心配をかけまいとしているのか、それともマルティの声を聞いて少しでも気分が安らいだのか。

 後者はないな、とマルティは少なからず寂しく思う。


(寂しい、か。今更だな)


 アニカに対するそんな感情は、三年前に諦めている。嫌なことを思い出し、マルティが返す言葉を探せずにいると、


「マルティは、大会に出るの?」


 アニカが逡巡を滲ませながらそう聞いてきた。マルティは再び沈黙する。


 春祭りの大会は、優勝賞品が王族からの褒美ということもあり、王族の参加は暗黙の内に認められていなかった。アニカは女性であることと、母の鶴の一声で例外的に許されただけだ。

 マルティもディミトリーも、参加するつもりはない。しかしそれを正直に伝えることは出来なかった。


 自分からは正体を明かさないこと。それが母と兄との条件だから。


(全ては、サーシャのため)


 マルティが最も優先するのは、アニカではない。マルティは無意識ながら声を落として、「いや」と応えた。


「大会には出ない。ぼくも、ディーも」


 少しの引け目を感じながら、そう続ける。アニカはどう思うだろうか。二人だけずるい、と詰るだろうか。


 けれど少しの間を空けて返ってきたのは、予想外に優しい声だった。


「そう、良かった」


「え……なんで」


「だって、マルティが怪我でもしたら、サー……みんな、心配するでしょ?」


 そう言う声に強がる様子は感じられず、戸惑うマルティを心配しているようであった。

 少しも不公平を責める様子がないのは、アニカがとことん鈍いからだろうか。それとも分かっていて、それでもただ純粋に相手のことを思って心配できるのだろうか。


 そんなのは無理だ、とマルティは思う。マルティは妹のことしか考えていないし、心配もしない。けれど。


(サーシャも、そうか)


 妹はマルティと違って恥ずかしがり屋で引っ込み思案で、いつも人をよく観察している。その為なのか、妹はいつだって周りに気を遣って、自分を後回しにする。


『気疲れしないのか』


 一度そう聞いたことがある。すると、


『見ない振りをする方が、気になって疲れちゃう』


 と答えられた。マルティにはいまいちピンとこない考え方だったが、もしかしたらアニカも似たようなところがあるのかもしれない。


 三年前まで、アニカはマルティにとって完璧な姉であった。

 兄も長姉も王族として完璧ではあったが、姉として最も優れていたのはアニカだと、マルティはずっと思っていた。


『ねえさま。ぼくにも剣をおしえて!』


『勿論! サーシャを守らなくちゃだもんね』


 あの時の笑顔と言葉は、本物だった。そう思いたかったけれど、人伝に学校をやめ、剣もやめたと聞いたときは嘘つき、と思った。

 結局アニカも他の兄姉同様、年の離れた双子を子供と思って適当にあしらっているのだ。


(サーシャだけいればいい)


 そしてそれは、サーシャも同じと思っていた。今回のことが起こるまでは。

 人前に出なくなった姉を、サーシャはずっと心配していた。アニカの部屋で人知れず行われていたお茶会にも顔を出していたし、上の姉が嫁いだ後も何度かこっそり会いに行っていたらしい。

 だからこそ、今回のことも姉のことが念頭にあるのは間違いない。そのことが、マルティにとっては少し複雑でもあるのだが。


「今夜は、もう下がります」


 今日はもうこれ以上この場にいるのが辛くて、マルティは自分からそう願い出た。


「うん、ありがとう。おやすみなさい」


 返ってきたのは、少しの安堵と少しの繕い。頼られないことの寂しさをまた感じながら、マルティは「失礼」と小私室を退室した。



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