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19. ラズ、露見する。

 嫌な予感がした、という訳ではない。

 ただぱぱっと着替えて戻ってきたときに、か細い悲鳴が聞こえた気がしたのだ。叩扉も省いて扉を開けて、止まったのは一瞬。


「離れろ糞野郎ッ!」


「!?」


 肩を掴んで振り向かせると同時に、頬骨が砕けるぐらいの力でマルセルの横面をぶん殴っていた。

 ドゴッ、と鈍い音がして、そのまま寝台の上にくずおれる。


 その向こうで、呆然とした顔のアニカが慌てて体を引き起こした。寝台に倒れたマルセルと、傍らに立つラズとを交互に見比べている。その両目は真っ赤に腫れ、シーツの跡がついた頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。


(……くそ! 何で俺はいつも間に合わないんだ!)


 こんなアニカの顔なんか、もう二度と見たくなかったのに。

 アニカはいつも泣きそうな顔をするが、いつだってギリギリで堪えていた。婚約者が詰めかけた時も、全学校で陰口を叩かれていた時も。

 あんな風に壊れたように泣く姿などもう二度と見たくないと、三年前のあの時に痛いほど悔やんだのに。


「だい――」


「ッ!」


 大丈夫かと、慰めにもならない声をかけようとする前に、アニカの小さな体がびくりと体が跳ねる。そして次には、いつもの窓へと走り出していた。

 引き留める隙もなく、空色のドレスが風に舞うように窓の向こうに消える。一瞬であった。


「アニカ!」


 気付けば考えるよりも先に、アニカを追いかけてラズも同じ窓から飛び出していた。二階の高さから一足飛びで地面に着地する。だがその時にはもう、トゥヴェ宮の外壁の向こうに消えようとするアニカの背中しか見えなかった。


(速い)


 半日剣の稽古をしたあとの十五歳の女の子の速度ではない。疲れていないのかという以上に、たった数日で、三年前の感覚を取り戻しているようであった。


 仕方なく、ラズも本気で走る。

 何度も視界から消えるアニカを追って辿り着いたのは、案の定というか、北の庭園であった。アニカが部屋に籠るたびに、別の部屋に隠しておいた侍女のお仕着せを引っ張り出しては様子を見に行っていた場所。


 今はジーラのお仕着せは持ってきていない。一旦引き返して取りに戻るか、という考えはけれど、木々の向こうに声を殺して泣く背中が見えて、一瞬で吹き飛んでいた。


「アニカ」


 いつものベンチに縋りついて泣き伏している少女の背に、無意識に声をかける。そして次に足が動きそうになった時、


「! ジーラさん……ッ」


 先にアニカが顔を上げた。途端、ラズは動けなくなった。


(しまっ、何で声なんかかけてんだ俺は!)


 戻ってきた理性に激しく突っ込まれても、アニカはベンチから跳ね起き、木々の壁の向こう側に駆け寄ってきてしまった。


「ジーラさん、助けてッ。私もう……もう……!」


 小さな庭園を囲う背の高い生垣に縋りつくようにして、アニカが涙声で訴える。大会の話が出た時のように、走って飛びつきたい衝動を必死で堪えているようだった。

 けれどラズはその木の陰から出られない。震えて止まらないその小さな肩を、そっと抱きしめて受け止めてあげることは出来ない。

 ラズが、男だから。


「ジーラさん、私、やっぱり出来ない……っ」


 アニカが、ラズの隠れる生垣の下に膝をついて、止まらない涙を拭う手もなく泣き続ける。


「怖くて……男のひとが、怖くて……ッ、もう話したりとか……出来ないよぉ……!」


 うぅぅ、ひっく、としゃくりあげる。その様は、もう第二王女とかかつての剣の申し子という肩書が全て無意味になるほどに、ただただ小さな女の子であった。


「アニカ、殿下」


 言うなと、理性が止める。ラズの今は、抱きしめてもあげられないのだからと。

 けれどだからと言って、このまま黙って去ることなど出来ない。せめて言葉だけでも、アニカを慰めてあげたかった。


「怖いなら、もうやめてもいいよ。殿下はよく頑張った。三年前からずっと、殿下は頑張ってたよ」


「ジーラさん、知って……?」


「ニコ・メルアに守られながら、何度か社交界に顔を出したこともあったろ。妃殿下の勧めで、侍医や専門家とも話したってのも聞いた。そいつらの意見で、殿下が怖がらない男を探すっていう時も、それら全部に、いつだって殿下は逃げなかった。それは凄いことだと、お――ワタシは思うよ」


「そんなに、知っていたんですか……」


 静かに、穏やかに諭すように、ラズは今まで見聞きしてきたことを口にする。それはアニカが王立全学校から突然消えて以降、心配するラズのために兄姉や乳兄弟が集めてくれた情報であった。その貸しのせいで今回の婚約者候補の話を頭から蹴ることが出来なかったのだが、今はそれで良かったとも思っている。


 自分がいない間にアニカがこんな目に遭っていても、側にいなければ助けてやることも出来ない。


(あの時もそうだった)


 三年前のあの時、ラズは自分のことしか見えていなかった。だからアニカが周囲からどう見られているかなど知る由もなかったし、そもそも知ろうともしなかった。


 あの頃のラズは、強くなることしか頭になかった。

 物心つく前から真剣を握らせていた父から、負ける奴は男じゃないと言われて育った。二人いる兄も揃って剣しか教えてくれなかったし、三人いる姉はラズを人形に見立てて散々オモチャにした。

 自分の性別を理解する頃には女が苦手だった。


 だから、剣の授業に女が二人入ると聞いたとき、腹が立った。十三歳以下が通う全学校スコリーオの、しかも騎士を目指す男子生徒のみを対象にした授業のため、学年関係なく合同で行うという点も嫌だった。


(先生の指導を受ける時間がまた減る)


 しかもそのうちのひとりは王族で、下手に怪我もさせられない。邪魔なだけだった。

 だが二ヶ月と経たない内に、女たちは試合形式で白星を積み上げてきた。更に一ヶ月後にはついに最上級生であるラズとの試合が組まれた。


 アニカに勝てたのは最初の三回だけで、あとはほぼ負けた。ほぼというのは、お互い血だらけになったところで引き分けにされたのが四回はあるからだ。

 その度に、擦りむいた鼻や肘から血を流しながら、実に潔くない台詞を放った。


「おれは認めない! 今のは絶対おれの勝ちだった!」


「うん。負けちゃいそうだった。やっぱり強いね」


「なっ」


 アニカも頬や膝を擦りむきながら、そう言って笑った。負けたくないラズは、相手の力量を素直に認めるアニカが信じられなかった。


(負けて悔しくないのか!)


 試合後に言葉を交わす度に腹が立った。

 このことは、家族には内緒にした。女に負けたと言えば父は喜んで練習を三倍にするだろうし、姉たちは悪魔の笑みで「じゃあ女の子になっちゃおう」とドレスを手に迫るだけだからだ。

 だからこのことは乳兄弟のアラムにしか言わなかったのに、翌日には母に知られていた。


「初恋ね!」


 と、姉の結婚が決まったときよりも嬉しそうな顔でレモンパイを焼かれた。


(初恋なわけあるか!)


 ラズは仕返しに燃えていた。絶対に勝つと、雨が降りだしても打ち込みを止めなかった。

 お陰で見事に風邪をひいた。


 二日学校を休み、熱が下がりきらないうちに登校した。

 遅れて剣の授業に参加しようと修練場に向かう途中で悲鳴が聞こえ、駆けつけた。

 そこで、あの光景を目撃したのだ。

 最近の試合では一度も負けたことのない連中に囲まれ、押し倒され、ぼろぼろに泣きじゃくっていた。たよりの木剣に伸ばされた手は虚しく押さえ付けられ、濡れた頬には砂がつき、服も泥塗れだった。


(あんな連中に、アニカは負けたりしないのに)


 最初に感じたのは怒りだった。視界が真っ赤になって、気付けば走り出していた。壁になっている男子生徒を引き剥がし、木剣を奪って手当たり次第に薙ぎ倒した。

 アニカの上に覆い被さっていた男の襟首を掴んだ瞬間、アニカの大きく見開いた目と目があったことが、ラズの瞳に強烈に焼き付いた。


 そこに、強いね、と笑った天真さは欠片も残ってはいなかった。


 カッと頭に血が上り、今度はラズがその男に馬乗りになって殴った。二度殴っただけで情けない泣き言を言うから、余計に激昂した。

 誰かが先生を呼び、後ろから羽交い締めにされて引き剥がされるまで、ラズは男を殴っていた。拳の皮がめくれていることにも気付かないほどに。

 先生に取り押さえられて修練場から連れ出された時、アニカの姿はどこにもなかった。


 一方のラズもその日の夜に熱がぶり返して、再び学校を休んだ。やっと復帰したら、アニカは自主退学したと聞かされた。

 だから、ラズの中のアニカはずっと、あの裏切られたような泣き顔だった。


 あんな顔は、二度と見たくない。そう、思っていたのに。


(今度こそ守ると、誓ったのに!)


 また、ラズは失敗した。どんなに鍛えても、強くなったつもりでも、この手は間に合わなかった。悔しくて、握りしめた爪が手の平に食い込んだが、その痛みにさえ腹が立った。アニカの負った傷は、こんな痛みとは比べ物にならない。


「いつかは治さないといけないかしれないけど、少なくともあんな殿下の気持ちを考えないような糞野郎が相手である必要はない」


「…………はい」


 思い出して語尾が強くなるラズに対し、木々の緑に隠れたアニカの声には、少しだけしゃくりあげる気配が消えていた。それに少しだけ安心して、難しいと承知しながら気休めの言葉を足す。


「だから、あんな奴のために泣くな」


「……はい」


 小さな返事が上がり、涙声もどうにか引っ込む。心の底から良かったと思いながら、次はひとまず気付かれる前に引き上げようと「それじゃあ」と声を上げた時、


「待ってください!」


 アニカの切実な叫びに引き留められた。


「お願いします、もう少し……顔を見て、お話ししてもいいですか?」


「そ……れは、」


 やはりそうきたか、とラズは言葉に詰まった。

 ジーラは侍女なのだから、今は忙しいと言って断ることは簡単だ。けれど今のこの状態のアニカを一人にするのは見ていられないし、もし別れた後でまた変な男に会ったらと思うと気が気でなかった。


(……ど、どうしたらいいんだ!?)


 かつてない程の板挟みに、ラズは全身に冷や汗を掻きながら硬直した。希望と現状が真っ向から対立している。その葛藤がいけなかった。


「ジーラさん?」


 がささっ、と足元で大きく木々が揺らぎ、アニカが下から覗き込んでいた。


(しまった……!)


 完全に、目が合った。真っ赤に泣き腫らしたヘーゼル色の瞳が、みるみる大きく見開かれる。


「…………ラズ、様……?」


 何故ここに、という声が、その戸惑いの吐息の中から聞こえるようであった。そのまま瞳が左右に動き、どこか掠れた声が続ける。


「ジーラ、さんは……?」


「あ、いや、あのっ、」


 ラズは思わず一歩二歩と後退していた。ラズは嘘がつけない。それでも、正直に言うことが出来るはずもない。

 瞬間的に頭が真っ白になり、意味のない言葉ばかりが零れる。そして出てきたのは、


「ジーラなら、今さっき、向こうに走って行ったと……」


 ラズにしては会心の言い訳だった。だが、


「……ジーラさんを、ご存じ、なんですか」


 アニカが震えた声で問う。そこで失言に気付いても、もう遅い。


「それ、は……そう、彼女は、城の侍女だろ? だから」


「同じ声……」


「!」


 アニカがぼそりと呟いた。信じられないというように。

 アニカは続ける。


「同じ瞳、同じ髪色、同じ……」


「アニカ殿下」


 それ以上の言葉は怖くて、拒むように名を呼ぶ。けれどアニカは、続けてしまった。


「同じ……ひと?」


 愕然と、問う。赤く腫れた白目と、乾ききったヘーゼル色の瞳が、うそつき、と言っていた。



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