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18. アニカ、襲われる。

 部屋に戻ると、予定調和のようにニコに怒られた。

 剣の稽古相手について考えていたのだと言い訳すると、ではまず誰をお呼びしますかと真顔で聞かれた。

 逃げられなかった。


 結局、午後に一人ずつ話す機会を用意されてしまった。マルティとは夜に話すからと言うと、今度はレヴィが一番手になった。


「剣の練習相手でしたら、ラウルをお勧めしますよ」


 笑って遠慮された。勿論というか、盗み聞きの件は謝れなかった。

 続いてそのラウルにどうにか尋ねると、


「俺は優勝する。他人を構っている時間はない」


 思い詰めたような目で断られた。勿論以下省略。


(私ってほんとダメ……)


 自分の弱さにげんなりしながら、今度はマルセルに同じ質問をした。


「喜んで! 弱くて良いなら」


 こちらから断った。ということを正直に最後のラズに伝えると、


「……分かりました。引き受けます」


 頭を押さえて首を振られた。

 こうして、アニカの練習は始まった。





 早速翌日から、王立前学校時代に着用していたような男装で木剣を構えたものの、まるで打ち合いにならなかった。ラズが一歩踏み込むたびに、アニカが三歩分後ろに飛び退くからである。

 ニコは黙ってそれを眺め、何故か一緒に見学しているマルセルとレヴィは微笑ましげに合いの手を入れた。

 拷問かと思った。


 夜には大分慣れてきたマルティに泣き言を言い、翌日もまた打ち合いが出来ずにほぼ自主練で終わった帰り道、珍しく言い寄ってこないマルセルが普通に話しかけてきた。


「仮面でお互い顔を隠してみたら?」


 この提案に素早く動いたのはニコで、翌日には、以前藁人形を購入した出入りの商人から二枚の面を仕入れていた。


「……それで何で俺が兎なんだ」


 白と桃色で描かれた、あまり写実的でない兎の面をつけた状態で、ラズが地を這うような声を出す。それを自身も二つの小さな穴から確認しながら、アニカは「おぉ」と小さく歓声を上げた。


「ちょっとだけ怖くなくなった気がします!」


「…………くそっ」


 その日から、少しずつ打ち合いの回数が増えていった。背中側から見ても三つ編みだったから、余計に良かったのかもしれない。掛け声も禁止してもらい、ただただ無言で木剣を打ち合った。

 四日目にはニコに審判を頼み、試合形式で一通り剣を交えることが出来た。勿論アニカの惨敗であった。体中に擦り傷や打ち身ができ、あちこちが痛い。


「そのわりには、随分嬉しそうだな」


 夜、久しぶりに感じる筋肉疲労にぐったりしながら寝台に倒れ込んでいたら、部屋を訪れたマルティがそう尋ねた。アニカはもぞもぞと掛け布に潜り込みながら「そう?」と返す。


「男のひとはまだ怖いけど、顔をずっと見てると兎が可愛いし」


 思い出してまたふふ、と笑う。

 どんなに剣の威圧感があって隙がなくても、兎のお面が全てを台無しにしていた。アニカも面をつけるから視野が狭くなるし、反応も鈍くなりがちだが、それは相手も同じだ。


 何より剣の稽古をしている間、不思議な既視感を感じることがあった。それが、アニカの心を少しだけ躍らせていた。


「だから、ね――アニカ殿下まで、その変な面を肌身離さず持ってるのか?」


「変かな? 見慣れると、すごく可愛いと思うんだけど」


「白と赤の狐は、ちょっと」


 アニカの面は派手な化粧のような独特な彩色をした狐で、鼻から上を覆う型だ。両横には真紅の飾り房がついていて、それもアニカは気に入っていた。


「これがあると、なんだか男の人も少し怖くなくなるような気がして」


 距離感が狂うからだろうか。これがあれば、マルセルとでもどもらずになんとか正面から会話ができた。御守りのような気分だ。


「でもやっぱり、毎日鍛錬してる人には全然敵わないね。追いつくだけでやっと……優勝なんて夢のまた夢な気がする」


 話しながら、どんどん体が温まってきた。瞼が重く、意識も微睡んでくる。


「それでも、殿下はやるのか?」


「うん……頑張りたいんだ……」


 マルティの怪訝な声に、アニカは本当ねと思いながらそう答える。何だか、全てが上手くいくような気がしていた。





 五日目、六日目と、アニカとラズは本格的に打ち合う練習を続けた。その間、ラウルは一度も姿を見せず、レヴィもたまにいなかった。マルセルだけが頬杖をつきながら、飽きもせず二人の練習を眺めていた。


 ニコに至っては、試合形式の審判をする以外は、何故か悪戯のようにアニカに向けてナイフを投げたりしていた。


「殿下……いじめられてたのか?」


「え? 普段からこんな感じですが……」


 ラズに憐れむように見られ、アニカは困惑しながら事実を述べた。


 そうして七日目も、大量の擦り傷と打ち身をこさえて練習を切り上げた。寝室に戻り、勿忘草わすれなぐさ色のドレスに着替えて一息つく。

 侍従長のミリアンは丁度午後のお茶の用意でおらず、ニコやラズもそれぞれ片付けや着替えで不在。思えば随分久しぶりの一人の時間であった。


「疲れたぁ~」


 実に三年ぶりの心地よい疲労に、くたりと長椅子に横になる。足に疲れがきている、と思いながらふくらはぎをさすっていると、断りの声もなく扉が開いた。


「随分とお疲れみたいだね。僕がさすってあげようか?」


「! マ、マルセル様……っ」


 マルセルの突然の出現に、アニカは一拍遅れて長椅子の奥で身を硬くした。そのまますぐに窓へと逃げなかったのは、単純に油断であった。

 練習が始まってから、マルセルが甘い言葉で近付いてくることもなくなったし、何よりアニカも抵抗がついたような気がしていたから。


 けれど後から思えば、マルセルはずっとこのタイミングを待っていたのであろう。一瞬の迷いが判断を遅らせた。その間に窓への逃走経路を塞がれ、アニカは最も距離のある寝台脇へと走る。しかしそれが良くなかった。


「女の子はすぐ疲れたって言うからね。得意だよ」


 ゆっくりと一歩ずつ近づきながら、マルセルが優しく笑う。アニカは壁まで逃げて、必死で首を横に振った。


「けけ、け結構ですっ」


 マルセルと扉との距離を目測しながら、走って逃げられる確率を頭の中で計算する。けれど一厘でもその腕に捕まる可能性が見えれば、アニカは走り出せない。


「女の子がこんなになるまで頑張って……見ていて可哀想だよ」


「そ、それは、剣の稽古だから、当たり前で……っ」


(面、狐の面があれば)


 会話をするためだけに、心の拠り所を探す。しかしそれは逃げた反動で、長椅子の足下――マルセルの近くに落ちていた。


 マルセルが更に距離を詰めてくる。


「ほら、折角きれいな顔にも、傷ができてる」


「ッ!」


 マルセルの長く綺麗な指が、艶っぽくアニカの頬を撫ぜる。ぴり、とした痛みが走ったのは、傷に触れられたからか。それとも。


「やっ――」


 考えるよりも先に、逃げようと寝台の上に身を乗り出していた。だがその足を痛い程の力で掴まれ、そのまま寝台の上に顔面から倒れ込む。掌の感触に硬直する体と悲鳴を上げる口。その上に、マルセルが覆い被さって両手首を押さえつける。

 はっと目を開いて肩越しに振り仰いだ時には、すぐ鼻先にマルセルの白皙があった。


「逃がさないよ」


「――――ッ!」


 すぅ、と細められたマルセルの碧眼に、アニカの蒼白な横顔がはっきりと映り込む。金糸のような髪がさらりとアニカの頬にかかり、ぞくりと全身に寒気が走った。


「こんなにいっぱい傷を作ってまであんな大会に出なくても、僕なら君を助けてあげられるのに」


「……は、はな、して……ッ」


 マルセルが、鼻先が触れそうな程の近さで囁く。生暖かい吐息が耳朶じだに触れ、息をするのも怖かった。


「怖い? こんなこと、早く終わらせたい?」


 それを見透かしたように、マルセルが優しく問う。会話の内容なんて、少しも頭に入ってこなかった。ただ頷く。


「だったら僕を選びなよ」


「え、らぶ……?」


 涙が、勝手に溢れていた。恐ろしさに、呼吸がどんどん早く短くなる。


「妃殿下が言っていたでしょ? アニカ姫が僕を選べば、こんな茶番はすぐに終わりに出来るんだよ?」


 何を言われているのか、よく分からなかった。ただマルセルの体温が、香水が、手首を掴む熱と痛みが、アニカに首を横に振らせた。いやいやと、駄々をこねる幼子のように、ただ必死に涙を散らして首を振る。


「おねが……はな…て……ッ」


「……仕方ないなぁ。あんまり手荒なことはしたくないんだけど」


 マルセルが困ったように眉尻を下げる。いつもと同じはずなのに、背中にのしかかる細身の体が膨らんだようにさえ見えて、アニカは頭が真っ白になった。逃げられない、と本能的に恐怖する。


 甘ったるい匂いに、頭が痺れる。と同時に、くらりとした。


(な、なに……?)


「ほら、僕の目を見て」


 マルセルが誘いざなうように囁く。目が、怖いのに、吸い込まれるようにマルセルの碧眼を捉える。アニカは回らない頭で、変だ、と思った。


(怖いから……? でも、これは……)


 意識が、歪む、ような。


「男への恐怖なんて、味わってしまえば案外あっさりと消えるものだよ」


 痺れそうなほどの甘い声音で、マルセルが毒を吐く。

 思考が、どんどん制御できなくなる。

 その、刹那。


『貴女のために、貴女を殺します。さようなら、……俺の最愛』


 脳裏に、知らない男のひとの声が閃いた。


「!?」


(な、なに今の……っ?)


 自分に向けられた言葉だとは、はっきりと分かった。けれどアニカは知らない。こんな隠した痛みに張り裂けそうなほどに切なく、けれど糖蜜がけの砂糖菓子のように甘い、甘い声は。


「大丈夫。優しくするから」


 マルセルが、耳元で吐息とともに囁く。

 違う、と思った。

 彼はこんなことは言わない。


(…………『彼は』って、)


 誰のこと、という思考はけれど、首筋に湿った何かが触れたと気付いた瞬間、消えた。


「――きゃあああああ!!」


 喉が灼けるような悲鳴を上げて暴れる。拘束された両腕が痛くて、身を捩ることすらまともに出来なくて、それでもアニカは全身で暴れた。ここに短剣があれば、迷わず喉笛を掻き切っていただろう。


「暴れても無駄だよ」


 マルセルの足が、アニカの暴れる足を封じるように押さえ付ける。背中に当たる硬質な体が、そこから漂う男の匂いが、アニカに絶望を思い知らせて。


「男女の力の差くらい、分かるでしょ?」


 くすっと笑声が鼓膜を揺らす。

 身体中から力が抜けていくのを止められなかった。

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