14. アニカ、再会する。
ラズと二人きりになり、けれど話すことも目を合わすことも出来ず、時間だけが過ぎていた。
「…………遅い、ですね」
「…………あぁ」
何もせず三十分も過ぎた間に交わした会話は、それだけであった。
(ち、沈黙がつらい)
立ち上がる機会を逸し、ずっと椅子に座り続けていたものだから、そろそろお尻ももぞもぞしてきた。しかしラズも他に人がおらず、部屋の外に下がるに下がれないのだろう。
アニカは、ずっとぐるぐると考えていた。これは好機と考えて、東屋での話の続きをするべきか。それとも一人取り残された憐れな護衛に、もう大丈夫ですよ、と引き際を提示するべきか。
「……あの、」
結論はいまだに出せなかったけれど、とにかく勇気を出して声を出してみる。黙って扉の向こうを見ていたラズが、そのか細い声に反応して振り向いた。青灰色の瞳と目が合う。
そして気付く。こうしてラズときちんと向かい合うのは、初めてかもしれないと。けれど何故だろうか、どこか見たことがあるような気がするのは。
(あ、ジーラさんと同じなんだ)
力強いその瞳が、つい最近心の師と仰いだ女性と同じ色をしているからだと気付く。髪こそ後ろで三つ編みにしているし、眉間には常に皺が寄っているから雰囲気の硬さこそ全然違うが、もうちょっと微笑めば少しは似ている気がする。
(そうよ。みんな、もうちょっと笑ってくれたら)
レヴィやマルセルのような線の細い端麗さはないが、ラズも目鼻立ちが整い、精悍な好青年という風だ。きりりと太めの眉と、少し少年っぽさを残した頬は、貴婦人たちが好みそうな純朴さがある。
(それに、あの子とも――)
「……なんだ?」
「あっ」
ジーラのことからあらぬ方へと思考が転がっていたアニカは、無意識に凝視していたことに気付いて、一瞬で赤面した。慌てて目を逸らすが、頭の中はとっちらかって一気に収拾がつかなくなる。
「い、いえ、あの、」
誤魔化すためにも何か言わなければ、と言葉を探すが、焦れば焦るほど何も出てこなかった。逃げたいと逃げちゃダメが行き交い、大渋滞を起こす。結局どうにも思考がまとまらなくて、諦めの言葉を絞り出そうとした時、
「あ、あの、もも、もう、」
「……アニカ殿下」
二人の声が重なった。期せずして再び見つめ合う。
次に口を開いたのは、どちらが先だったか。
けれどそれは、コンコン、という不躾なノックの音に遮られた。
「……はい」
アニカは急の訪問に驚いたが、ラズはどうやら少し前から気付いていたらしい。物言いたげな沈黙を挟んで返事をすると、渋々寝室を後にする。
「アニカ殿下はご在室か?」
小私室の扉を開いてすぐ、その声は聞こえてきた。婚約者候補たちに比べると低くしわがれており、年が大分上だと分かる。
(だ、誰だろう)
アニカを尋ねるような年嵩の男性など、心当たりが一切なかった。あるとすれば、母に言われて新しい試練を持ってきた母の取り巻きくらいである。
(そ、そんなことされたら、もう許容量が!)
まだ何も言われていないのに、母の無言の圧力が怖くて思わず頭を抱えるアニカ。しかしラズの「ご用件は」という返しに、来客は別の名前を口にした。
「マルセルがここにいるはずなのだが」
「先程席を外したところです。マルセルにご用事でしたら、言付けますが」
ラズの事務的な対応に、しかし男は応じるでもなく険しい声で語気を強めた。
「何だと? 奴め、殿下の側を離れて、一体何を……」
その先は独り言のように小さくなったため聞こえない。だがマルセルが自分のせいで責められそうだと気付き、アニカは考えるよりも先に椅子から立ち上がっていた。
「あ、あの!」
小私室の中まで走り、更にラズの背で自分が隠れるように小さくなりながら声を上げる。
「は?」
「ん?」
入り口の二人がそれぞれ姿なき声に疑問符を浮かべる中、アニカは誤解だけは解かなければと言葉を繋ぐ。
「ま、マルセル様は、私が無理を言って、その……お使いをお願いしたところで!」
まさか迫られたのが怖くて追い出したとはとても言えない。
「それは、アニカ殿下自ら?」
声の主を部屋の主だと特定したらしい客が、ぬっとラズの向こうから首を伸ばしてきた。そうすれば呆気なく見付けられ、アニカはびくっと角まで逃げて、顔だけでもと俯ける。
「そ、そうです。あの、マルセル様にしか、頼めなくて」
マルセルに非はない。あれは多分天性の性分だ。普通の淑女ならきっと笑って躱せる程度のはずだ。現にニコも何度か同じような言葉をかけられているが、全部冷静に無視している。
思い出して、青くなったり赤くなったりするアニカを見てどう思ったのか。男は最初に意外な顔をしたあと、何故か満足そうに頷いた。
「そうですか。そこまでマルセルを」
男が何度もふむふむと繰り返すが、何に納得したのかアニカにはさっぱりであった。それでも、もう逃げていいかしら、と思って男の顔をもう一度盗み見た時、あれ、と思った。
(この方、どこかで……)
見たことがある気がする。と、古い記憶を漁る。
子供の頃の苦い思い出と共に、その名前は蘇った。
「……イアシュヴィリ、伯爵様?」
「あぁ、名乗るのが遅れて申し訳ありませんでした。マルセルの父、ニコロズ・イアシュヴィリです」
厳めしい顔付きのまま、男が軽く一礼する。あぁ、と声を上げたのはラズで、アニカは感情が凍ってしまったように表情が消えていた。
ラズの背を盾にしていたことも忘れ、その場に棒立ちになる。そして蚊の鳴くような声で囁いた。
「覚えて、います。あの時……五歳になった私の過去と未来を占断した、あなたのこと」
「!」
ラズが驚いたように振り返るが、アニカの目の前には当時鮮烈に刻まれた王室聖拝堂の記憶が浮かび上がっていた。
神話の一部を精緻に描き上げたフレスコ画やステンドグラス、装飾的な列柱が美しい聖拝堂内部とは違い、一番奥に作られた小聖堂は、正面に大きなフレスコ画が一枚あるだけであった。
森の中の小村に過ぎなかったシルヴェストリを、一代で今の半分ほどにまで大きくした祖王アプシュルトス。
鷹を従えた祖王と、神官服を着た何人もの男たちが見下ろすその息苦しい空間で、王族は五歳の誕生日に、イアシュヴィリ家の当代監視者から、過去と未来の占断を受ける。
過去とは生まれる前の生き様であり、未来は王家に栄華と災禍のどちらをもたらすかというような、曖昧なものであるはずだった。
けれど、アニカは違った。
『これは……魔女クィルシェ……!』
魔女クィルシェ。
それは歴代の王族の中でも、魔法の力が最も強かった女王の名前である。彼女は史上最大の版図を獲得した強王であると同時に、愛人を何人も持っていたことでも知られている。
彼女は寵臣や愛人のために法を変え、二人の夫はことごとく死別し、何人もの重臣を処刑した悪女でもあった。
イアシュヴィリ伯爵が、アニカを通して何を見たかは分からない。けれどあの瞬間に、アニカの未来は決まったのだ。
第二王女アニカは降嫁し、王籍を剥奪する。
アニカが少しでも魔女の再来とならぬように。アニカの中の魔女が僅かでも目覚めぬように。
その説明を母から受けた時、不安はあったが、抗う気持ちはなかった。ただあの時のイアシュヴィリ伯爵の異様な目付きだけが、幼いアニカの心に恐怖とともに焼き付いていた。
あまりに怖かったのか、魔女と言われてから小聖堂を出るまでの記憶が途切れているほどだ。
(怖くて、ずっと思い出さないようにしていたのに……)
そんなアニカの想いなどまるで知る由もなく、イアシュヴィリ伯爵は僅かに眉を誇らしげに持ち上げる。
「おぉ、それは光栄の至り」
イアシュヴィリ家では、監視者になることが名誉で、当たり前のことだ。マルセルは違うというから、あまり思い出しはしなかったけれど。
(この方にとっては、ただの『光栄』なのね)
思えば、あの頃から大人の男が苦手になり出したことも同時に思い出し、アニカの気持ちは重く沈む。この男に非も悪意もないと分かっているけれど、体は震え、体中の血が凍るようであった。
「殿下も、あの時の占断を心に留め、日々努力されているようですね。大変感心でございます」
表面だけへりくだるような声調で、イアシュヴィリ伯爵がアニカを舐めるように観察する。魔女の片鱗が見えないか、体中を毛穴の奥まで観察されているような気分であった。
限界だった。
「っ殿下!」
くらりと視界が眩んでその場にしゃがみ込む。ラズが声を上げて駆け寄る。だがその手が届く寸前、
「来ないで!」
本能的に悲鳴を上げていた。
壁を頼ってどうにか後ずさる。
その耳に、「もしや、貴殿……」とイアシュヴィリ伯爵の声が聞こえたが、もう誰の目も見るのが怖くて、そのまま寝室に逃げ込んだ。
どうにか扉を閉めた時、「父上?」と呼ぶ声が聞こえた。丁度マルセルが帰って来たようだ。
(良かった……)
行き違いにならなくて良かった。そう思う以上に、まだ自分がそう思えることにこそ安堵していた。




