13. レヴィ、回顧する。
(決して用意できないもの、か)
マルセルの消えた廊下を見詰めて数秒、レヴィは自分の言葉の虚しさに気付かされて、重々しい溜め息を吐き出した。
◆
ラウルとの出会いは十四歳、王立専学校に入ってすぐのことであった。
だがその存在は、その前の全学校時代から知っていた。
ラウル・アルベラーゼ。
名門アルベラーゼ侯爵家の紛い物。母親の不義密通で生まれた罪の子。
家同士の政略結婚が当然の貴族社会では、愛のない夫婦などざらにいる。外で愛人を作る者など五万といたし、中でも使用人が孕んで追い出されるという話は吐いて捨てるほどあった。
それでも妻に貞淑であれと求める風潮は強く、夫の子と偽って子を生むのは家への最大の裏切りであった。
それでもアルベラーゼ侯爵夫人とその子が家を追い出されないのは、跡継ぎである嫡男を産んでいたことと、何より彼女の実家が資産家であることが上げられる。
だが最大の理由は別にあると、誰もが知っている。侯爵もまた外に庶子を作っていたのだ。自分は好き勝手やって妻は許さないなど、外聞が悪くなるだけであった。
だから彼はずっとアルベラーゼの家にいて、王立の全学校に通っていた。
レヴィと違って。
「邪魔なんだよ。紛い物が道の真ん中歩くなよな」
遠く、聞き慣れた侮蔑の声が聞こえて、レヴィは静かに振り返った。だが視界のどこにもそれらしい姿はない。更に周囲を見渡して、レヴィはその理由を知った。
「まだ王立学校に通ってたのか。お前が行くのは下町の端の端だろ」
その声は、レヴィが隠れて本を読んでいた木陰の前に続く外回廊から聞こえていた。柱の影に三、四人の学生姿が見える。どうやら、一人を取り囲む形のようだ。
(こういったことに、貴賤は関係ないか)
嫌になるほど見慣れた光景に、レヴィはうんざりした。いつも当事者側だったから外側から見たことはないが、胸糞悪いことに変わりはない。
(昔だったら、三倍は嫌味を返したあとで弱味を一つずつちらつかせてやったけど)
レヴィは今年、平民が住む区画の全学校から王立専学校に上がってきたばかりだ。騒ぎは起こしたくない。庶子の自分を引き取ってくれた父のためにも。
「そう言えば知ってるか。今年から浮気仲間が入ってきたって」
「あぁ、他所から入ってきたって奴。随分胡散臭い男らしいな」
酷い言われようである。
「良かったなぁ。お仲間ができて」
「全く、今年は淫乱の血が多くて困った――」
言葉が途中で途切れた。発言者が後ろに吹っ飛んだからである。吹き飛ばしたのは、
「殺されたいのか」
それまで沈黙を貫いていた中心の男でたった。中段に持ち上げていた右足をゆっくりと地に下ろし、他の二人を睨め付ける。
「い、今のも言い付けてやるからな!」
見事な三流の台詞を吐いて、三人が一目散に逃げていく。それを追うでも罵倒するでもなく、残された男が前髪をくしゃりと握り潰す。
つんつんとあちこちに跳ねた黒髪に、三白眼気味の赤茶色の瞳。
(確かに、噂通り取っ付きにくそうだ)
幼い頃に母の不義が発覚し、兄姉から奴隷のような扱いを受けていた延長で、全学校でもその空気は蔓延していた。誰もが彼を不出来で不潔なものとして扱い、とても侯爵家令息とは思えない苛めを受け続けてきた。そのせいで近寄る者全てに噛みつくような荒々しい態度ばかりが目につき、ついた渾名が狂犬。
だが。
「噂に聞くほど狂犬って感じでもないんだな」
歩き出したその横顔を見ながら、独りごちる。拍子抜けだ、と思ったのは確かだ。だからレヴィが隠れた木の前で足を止めたときは、少しばかり驚いた。
「お前こそ、生まれが残念な貴公子とか言われてるくせに、手癖が悪いんだな」
言われて、投擲しようとしていた分厚い本を元に戻す。距離はあったはずなのに、レヴィが逃げた彼らの頭を狙っていたことに気付いたのか。
「僕のじゃないから」
「学校のだろ」
爽やかと言われる笑顔で、木陰から顔を出す。正論としかめ面で返された。
それが、レヴィとラウルの出会いであった。
◇
気付けば一緒にいたというよりも、はみ出し者二人が取り残されたという方が多分正しい。
片や昔からの苛められっ子、片や編入してきた曰く付き。誰かと組まねばならない授業では、相手は必然的に決まっていた。
「何故手を抜く」
剣の授業で、向き合ってすぐに打ってこないと思えば、そう言われた。意外ではあったが、意味のない問いでもあった。
「出る杭は打たれるそうだからね。処世術だよ。君は苦手そうだけどね」
「なら、貴様が既に打たれてるのはもう出ているからか? それとも、出てないくせに打たれているのか?」
せせら笑いの手本のように、ラウルが口角を上げる。その表情が実に悪役っぽくて、つい笑ってしまった。
「意外だな。君は冷静に分析する質ではないと思ったんだけど」
「遠回しに喧嘩を売ってるのか。買ってやるぞ」
「授業でなら君の方が強いけど、実戦なら多分僕の方が強いよ」
「負ける前の言い訳か。みっともない」
そんなつもりはなかったが、印象は会うたびに悪化の一途を辿った。
◇
「ずっと聞きたかったんだけど、あの時何に怒ったの?」
今日も今日とて取り残された二人で剣先を向け合いながら、気になっていたことを聞く。
外回廊での初対面でのことだが、ラウルは説明せずとも察してくれたらしい。そして相変わらずの勢いで拒否された。
「貴様に教える義理はない」
「……母親は嫌いかい?」
それは、善意を装った勝手な期待であった。是と答えるだろうと。きっと自分と同類だろうと。
だが返されたのは、純粋な驚きの瞳であった。赤みがかった焦げ茶色の瞳が、レヴィを見返す。そして次には、傷付いたようにくしゃりと歪む。その理由を、この時のレヴィはまだ知らなかった。
まさか、まるで真逆だなんて思いもしなかったから。
「……俺は、誰も好きじゃない」
それは、意味深な答えであった。言い換えれば、誰も嫌いではないとも取れてしまう。
「もしかして、好きなのか? 君をこんな境遇に産み落とした女を」
「……嫌いになれないだけだ」
信じられなかった。それはただの肯定だ。
そのことについて、ラウルが実はまだはっきりと思考したことがなかったと知ったのは、もっと後のことだ。
だからさっきの驚きは、曖昧な自分の感情に対する答えを思いがけず他人から与えられてしまった故だとレヴィが知るのも、この時ではない。
(あんな女を、どうして嫌わないでいられるんだ?)
待っているだけの女を。めそめそするだけの女を。子供にさえ慰めを求める卑しい女を。
それは全て自分の母親であって、見たこともないラウルの母親ではないと、分かっているけれど。
それでも、母親がいなければ生きていけなかった屈辱は、同じだと思ったのに。
自分はあの家で一番愛されていたと、リシェリ侯爵夫人が自分を追い出したのがその証拠だと、馬鹿みたいに自慢していた。たかが使用人が気紛れに手を出されて捨てられたのだと、まるで気付きもしないで死んでいった。
死体の横に座っていた数日間は、静かだった。父親だと名乗る男が現れて、随分早い対応だと思ったときには、母の言葉がもしかしたら本当だったのかもしれないとも思ったけれど。
けれどやっぱり、引き取られた侯爵家は幸せそうな一家に見えたから、きっと嘘だったのだ。だから、
「……どうして」
そう問い返したのが自分のためなのか、彼をもっと知りたいと思ったからなのかは、分からなかった。
その先を続ける前に、いい加減聞き飽きた声が割って入ってきたからだ。
「またやってるぞ、あの二人」
「同病相憐れむってやつか」
いつもの面子が、まともに打ち合いもせず遠巻きに侮蔑をくれる。ちらりと視線をくれれば、嬉しそうにひそひそと声を高くした。
「傷舐め合って、満足してるんだろ」
「近付いたら淫乱が移る――」
ビュン、とレヴィの前を何かが横切って、彼らの足元ギリギリに突き刺さる。
(わざとか?)
揺れる前髪を見ながら、ちらりと睨む。空手になったラウルがいつもの笑みを口許に張り付けていた。
「あぁ、悪い。手が滑った」
「何だと!? 今のは絶対わざと――」
「でもその方があんたらには良かっただろう? 持ったままだと、その役立たずな手首を切り落としてしまったかもしれないからな」
「なっ」
極悪な笑みと台詞に、連中が顔を歪めて動き出す。どうやら丸腰の相手を叩きのめす好機を逃がすつもりはないらしい。
そんな殺気立つ中を、レヴィはいつもの貴公子然とした笑みを作って進む。
「相棒が、手癖が悪くてすみません」
靴の真横に刺さった男の目の前で、乱暴に剣を引き抜く。シュッと刃先が何かをこすった気もしたが、少々機嫌が悪いので気にせず微笑んだ。
「怪我はありませんか? もしどこか悪いようなら、僕が付き合いますよ。せめてものお詫びに」
「なんだと? ――ち、近寄るな!」
男の声が震える。それくらい、レヴィは近付いていた。相手の両足の間に足をねじ込み、胸を密着させ、残る手でそっと頬に触れる。
「ですが、顔色がお悪いようです。いつも僕たちのことを気にかけていただいてるのに」
「はあっ? お前たちなんか――」
「本当は、気付いてらっしゃったんでしょう? 僕が、女性が苦手ってこと。だから、あんなに……」
意図が分からず声を大きくする男の顔に、極め付きとばかりに顔を寄せ、吐息をかける。最後に、頬を赤らめて蕩けるよう笑みを向ければ。
「僕、嬉しい」
「っ!?」
男が顔を真っ赤にして飛びすさった。周りにいた仲間たちが怪訝な顔で「そ、そうだったのか?」「お前知ってた?」などと囁き交わす。その連中にも極上の笑みを向ければ、
「皆さんも、大丈夫でしたか?」
「っく、来るなぁ!」
脱兎のごとく逃げられた。レヴィが怖いのか、巻き込まれたあとの結果を察したのかは知らないが、手間が省けた。
「お前、右手に剣を持ったままでよくやったな」
「クラス全員がいたから、丁度良いでしょ」
呆れきったラウルが、やっと剣を取りに近付いてくる。その剣を手の中で弄びながら、レヴィは冷ややかに笑った。
これだけ公衆の面前で男色疑惑を投げ掛けたのだ。人の目のあるところでは、二度と近づいてこないであろう。
人目がなければ、あの程度の連中、返り討ちにして黙らせておくなど造作もない。
「お前の仕返しって、えぐいな」
「ちなみに、君も同類になったから」
「な、なんだと!?」
他人事のように言うラウルに、厳然たる事実を教えてやる。今後も組手は互いしかいないことに変わりはないのだから、そういった目で見られるのは必定である。
これで前髪を掠めた剣のことはチャラにしておこう。
彼を知る機会は、まだこの先もあるだろうから。
◆
(あの時のこと、いつまで恨まれるのかな?)
ラウルに弁明するために歩き出しながら、レヴィは懐かしい記憶を思い出していた。もしラウルが結婚できなかったら、一生恨まれそうな気もする。
(でも、僕のせいじゃないと思うんだけど)
だがそれを言うとまた恨まれることが増えるだけなので、黙っておくが。
恨まれている間はきっと誰にも取られないと、そう考えている自分がどこまで本気なのか、自分でも分からないまま。




