10. アニカ、反省する。
「本日のお話合いの予定は、明日に変更されましたよ」
お仕着せを脱ぎ、黒髪を適当な三つ編みにしながら戻ると、アラムが腕組みをして待っていた。その責めるような視線に、二度目の敵前逃亡をしたラズも、流石に気が引ける。
しかしそれでも、まだ納得が出来ていないのだから仕方がない。
「会うのが嫌だって言ってる奴に、無理やり会っても意味ないだろ」
「それが貴方の今のお役目でしょうに」
苦い顔で理由を告げると、しれっと正論で返された。それは分かっているのだが、もう少し方法があるだろう、と頭が痛くなる。
「お前、昨日あんなに嫌がって泣きそうだった王女の顔を見てないのか?」
「下男ごときが王族の部屋に出入りを許されるわけないでしょう」
阿呆ですか、という目で睨まれた。
そう言えば、アラムはあの部屋には行かなかったのだった。
けれどマルセルに近付かれただけでああも取り乱し、侍女の後ろに隠れ、兎のように隅で震えあがる姿を見た後では、自分がそれを強要しようとはとても思えなかった。
「泣いてる女の子を見て、誰も何も思わないなんて、変だろ」
そんな変な奴らと一緒には、なりたくなかった。
「ですが、貴方が逃げても問題は解決しませんよ」
「それは分かってるけど……」
考えれば考える程、北の庭園でアニカが語ったことが胸に染みて、ラズは板挟みのように悩んだ。
アニカが男を怖いというように、ラズもまた自分を散々女装させたり騙したりしてからかった姉たちが苦手だった。あの姉たちと今すぐ同じ部屋で仲良く話せと言われても、疑心暗鬼から全く頭が働かないだろう。
アニカは、王立学校では並ぶ者のない程の腕前だったはずだが、先程はそんなことを微塵も感じさせない、ただ人と違うことに思い悩む、普通の女の子だった。
そんな相手に、自分まで無理強いはしたくなかった。
けれどラズ一人が拒否していても、アニカの婚約の話は消えてなくなったりしない。どころか、放っておけばマルセルがまた何をするか分からない。
(逃げても解決しない、か)
はっきりと相手に伝えていないのは、ラズも同じだ。もう少し、別の行動をとる必要がある。ということは分かるのだが。
「あーっ」
最適な答えが出せず、ラズは頭を掻きむしった。
◆
部屋に戻ると、ニコがいつもの鉄面皮で待ち構えていた。
(あれは怒ってる。絶対怒ってる)
ひょぇぇ、と閉めた扉の前で無言で怯えていると、ニコにまで溜息をつかれてしまった。
「イアシュヴィリ様にお怪我はありませんでした」
「あ……」
責める前に談話室でのことを報告され、アニカは自分のしたことの大きさを改めて思い知らされた。
あの時は必死だったとはいえ、貴族の子息を力任せに突き飛ばしたのだ。マルセルが文官の例に漏れず非力だったら、あの音であれば大怪我の可能性もあった。
ニコは、ジーラの言葉を受けた後でもあり、素直に謝った。
「ごめんなさい。あんまりにも、近かったものだから、つい……」
しょんぼりと小さくなる。
アニカは「つい」でその場から走って逃げたが、ニコは残って色々と対応しなければならなかったはずだ。マルセルを介抱し、事情を説明し謝罪も代わりにしてくれたのであろう。
マルセルの性格がまだ読めないが、普通の貴族だったら恥をかかせたと激怒してもおかしくない。そう考えると、余計に心苦しかった。
「ニコにも、いつも迷惑をかけて、ごめんなさい」
この状況を作ったのは母だが、原因は自分である。巻き込まれただけのニコには、申し訳なさしかない。
いつまでもそうしていると、
「初めてですね」
という言葉が降ってきた。そろりと顔を上げると、すぐ近くまでニコが来ていた。
「初めてって……?」
「姫様が、わたくしの立場から物を見、考えたことが、です」
「そう……だったかしら」
呟きながらも、我が身を振り返って、そうかもしれない、と思う。
ニコはいつだってアニカの話を聞いてくれるし、怖いと逃げれば助けてくれた。今でこそ母の難題に協力するためアニカに無理を言いもするが、それでも陰ながら支えてくれているのは間違いない。
(ニコはいつだって私のことを考えてくれていたのに、私は)
無理だ嫌だ怖いと言うばかりで、言われたニコの立場を考えたことなど、なかったかもしれない。
アニカが出来ないと言ったら、ニコはどうすればいいのだろう。
今までだったら、アニカの努力の範囲だから、残念で済んだかもしれない。けれどこれは母の命令だ。そのまま無理でした、と伝えられるわけもない。
(もしこのまま男性恐怖症を治せなければ、ニコはどうなってしまうのかしら)
今は総入れ替えされただけだが、解雇はされないと言い切れるだろうか。結果が伴わなければ、唯一残ったニコが責任を問われる可能性は、皆無と言えるだろうか。
そして気付く。
(私は、ニコの気持ちすら、聞いたことがない……)
ニコがこの男性恐怖症をどう思っているのか、今の自分をどう感じているのか、考えたこともなかった。いつもそばにいるからと、ニコは何でもお見通しだと、勝手に思っていた。
けれどそれは、相互理解には遠く及ばない。
「ごめんなさい、私、ニコのこと、全然分かってなかった」
あまりの愚かさに、血の気が引く思いであった。自分のことばかりを言う主を、ニコはどんな思いで見ていたのであろうか。
改めて深々と頭を下げる。でも本音は、ニコの目を見るのが怖かったのだと思う。そしてまた顔を上げられずにいると、ふっ、と小さな呼気が聞こえた。
「今更ですね」
「……ッ」
いつも平淡で、時に挑発的にも聞こえる声が、柔らかく苦笑するようにそう言った。ハッと顔を上げると、ニコがとても久しぶりに相好を崩していた。
「姫様が剣を習うと言い出したきっかけのことを、覚えていますか?」
脈絡もなく、ニコが随分昔のことを持ち出す。
「覚えてる、けど」
それは十歳になる前のことである。
王立全学校の生活について、王太子である兄とお茶しがてら報告した時、何故女子は剣の授業を受けないのか、という話になったのだ。女が実技を受けてはいけない規則はないはずだと。
そして兄は、こう続けた。
『知ってるか? 母上がいつも持ってる扇、あれ実は鉄で出来てるんだぞ』
そしていざとなればあれで敵を撃退するんだ、と言われたのでたる。
当時から母は多くの貴族を引き連れては采配を振るい、問題を解決し、常に話題の中心にいた。その母が敵に襲われた時、ドレスを翻して華麗に鉄扇を振るう姿を想像したアニカは、「私もなりたいっ」と言って剣の授業を志願した。
今考えればあれはどう見ても象牙と羽だし、母は自ら戦う前に近衛に下知を飛ばす人でたる。あれも兄お得意の嘘だったのだが、剣の稽古はアニカには性に合っていた。
度々報告に行った時の兄の『がんばれ~』には十割十分気持ちがこもっていなかったが、六歳下の双子の弟妹の『ねえさま、すごいっ』は眩しかった。弟には、もう少し大きくなったら剣を教える約束もしていた。
アニカが引きこもるようになり、その約束は果たせないままになってしまったが。
「あの時姫様は、危険だからお止めくださいと反対したわたくしに、『ニコも私が守ってあげるからね』と本気で仰いました」
「あ、そう言えば……」
言われて思い出す。
喜んでもらいたくて言ったのだが、そのあとニコに真顔で「それでは役目が逆転しています」と拒否されたのだ。それで結局、二人して剣の授業を受けることになった。
今のところそれが役に立っているのは、アニカの運動不足解消くらいだが。
「あの時、本当はとても嬉しくて、わたくしも姫様をお守りしたいと思ったのです」
「え」
それは初耳であった。主のお守りで仕方なく付き合ってくれているのだとばかり思っていた。
「ですがそれは、御身だけのことではありません」
中々見られない笑みを深めて、ニコがアニカの手を取る。その手はいつになく冷たかった。先程までアニカを探し回っていたせいであろうか。春とはいえ、まだ風が吹けば寒さを感じる時もある。改めて、申し訳ないことをしたと思う。
「あと一秒でも姫様が動くのが遅ければ、わたくしが止めておりました」
「ニコ……」
「もう、あの時のような後悔は、したくありません……!」
あの時、と苦しそうに絞り出すニコの声に、アニカは何も言えなくなる。
三年前のあの時、稽古中に押し倒されたアニカを救い出してくれたのは、他ならぬニコであった。数人がかりで周囲を囲まれ、大人の目も届かぬように周到に計画された少年たちの悪戯を、鬼神の如き動きで蹴散らしてくれた。
本当はニコ一人ではなかった気もするが、あの時の混乱のせいで記憶は曖昧であった。
あの時にアニカは回復の見込みもない病気を発症したが、ニコもまた心に傷を負ったのかもしれない。そう思うと、今更ながらどうしようもない悲しみと後悔が込み上げてきた。
けれどあれ以降、あの時の少年たちは二度とアニカの前に姿を見せなかったし、一度だけ顔を出した社交界にも、絶対にいないとニコに断言された。
きっと、ニコか母が何かしらしてくれたのだろう。何かしら。
しかしその時の優しさは、今は頑丈に封印されているらしく。
「ですが、毎回この調子では話が一向に進展致しません。今回限りにしてください」
「うっ……、はい」
一瞬の感動は、すぐさま真顔に戻ったニコの当然の釘刺しに呆気なく引っ込んだ。
(あれ、見間違いだったかな?)
「あと、メトレベリ様に関しましては、明日時間を調整させて頂きます」
「はい」
「今度は逃げてはいけませんよ」
その後も懇々とニコの釘は打ち続けられ、そのまま湯浴みが終わるまで、二人は反省会という名のお喋りを続けた。
その後、食事の前にニコはミリアンと交替して退出し、夜になれば、またマルティが話し相手として部屋を訪れた。
「今日、ある人に、伝え合うことの大切さを教えてもらったの」
寝台に潜り込み、扉の前に立ったままの少年に話しかける。勇気はいったが、昨日のように時間はかからなかった。
マルティのことを知りたい、と思ったからだ。
「今日、マルティと話したけれど、あれでお互いのことを理解できたかというと、とてもそうではないと思うの。だから、マルティのことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしくて。何か聞きたいことはある?」
率直に聞くと、マルティは少し考えてから、躊躇いの気持ちを乗せながらこう聞いた。
「では、兄妹について、どう思っているか聞きたい」
「兄妹?」
意外な質問だったが、それも自分自身のことかと改めて知る。それから、順に四人の兄弟の顔を思い浮かべた。
「そうね。兄様は、王太子としては完璧みたいだけど、人をからかうのが好きで、嘘が上手過ぎるのが玉に瑕よね」
「……確かに」
「でも、場の雰囲気を掴むのがすごく上手で、それって人の気持ちを汲むのに長けているということだから、純粋に憧れているわ」
「そう、なのか?」
マルティが意外そうな声をあげる。
兄は公私での顔を完璧に使い分けているが、そのせいで距離が近づくと勘違いと誤解から対人関係の再構築が始まる。本人がそれを楽しんでいるのだから、改善の見込みはまずない。
「姉様はいつも社交界の華で、お姫様の鑑みたいな人だったわね。でもいつも発言がお茶目で、時々過激だったから、よく驚かされた気がする」
「それは、少し意外だな」
「そうでしょう? 姉様は、家族でも外面は大事よって、いつも言ってたから」
だがまぁ、あの忠告はほぼ兄に限定されていたとは思うが。
「姉様が嫁がれる前は、妹のサーシャと三人で、よくお茶会をしてたわね。でもサーシャは双子の兄のラシャが大好きで、離れるといつもラシャのことばかり気にしてたの」
「……それは初耳だ」
恥ずかしがり屋で引っ込み思案な妹の話題になると、マルティが小さく目を見開いた。
確かに、サーシャはまだ九歳ということもあり、社交界のデビューもまだであれば、公務にも縁遠い。サーシャと口をきいたことのない貴族の方が圧倒的に多いであろう。
アニカは少し面白くなって、くすっと笑ってしまった。
「三人でのお喋りは楽しいんだけどね、三人の中で一番最初に帰るって言いだすのもサーシャだったわ」
いつもラシャの陰に隠れているサーシャの珍しい自己主張は、いつも瓜二つの兄に関することばかりであった。
「それで姉様はサーシャを見送ると、いつもこう言うの。『ラシャは、サーシャと離れると死んでしまうのよ』って」
「……そんなわけあるか」
思い出してくすくすと笑い続けるアニカに、マルティがいじけたように突っ込む。距離はまだ縮められないけれど、少しだけこの時間が楽しくなっていた。
「でも、私もラシャはサーシャがいないと寂しくて泣いちゃうんじゃないかって、ちょっと思うの。あの二人は、いつも一緒で、いつもお互いを一番大事にしているから」
可愛い二人の弟妹の顔を思い出して、にやにやが止まらなくなる。「ふん」とマルティが鼻息を荒くしたが、アニカはおやすみを言うまでにやにやが止まらなかった。




