9. アニカ、相談する。
『僕にめちゃくちゃに壊されてみない?』
みない? みない? みない?…………
脳内でマルセルの台詞がリフレインされるごとに、アニカの思考は漂白された。そして。
「っっっっ!!」
そこからの記憶は歯抜けのように曖昧だった。どがしゃーんっ、という音がしてマルセルが視界から消え、気付いた時にはどこかの階段をひた駆けていた。
(こここわいっこわいっもうやだぁぁあ!)
ドレスの裾がめくれ上がるのも気にせず、一階の空いていた窓からがむしゃらに庭園に飛び出す。
(な、何でこんな目に私が遭わなくちゃいけないのっ?)
誰にだって怖いものの一つや二つはあるはずだ。それがアニカにとっては男性というだけで、何故こんな思いをしなければならないのだろう。出来るだけ波風を立てず、そっと生きていきたいだけなのに。
(どうして、誰も分かってくれないの?)
王族だからだろうか。女だからだろうか。それでも母は自分の力で、父の横を得た。嘆くばかりではだめだと、分かってはいるのだけれど。
(そうだねって、ただ頷いてくれるだけでいいのに……)
それだけのことが、とても難しくて。
「もう、やだ……っ」
幾何学模様に刈り込まれた植え込みの一角に飛び込んだ時、
「っぅ、わ!」
「っ!?」
同じく飛び出してきた誰かにぶつかってしまった。アニカの方が速度が出ていたせいか、そのまま相手のお腹の上に転んでしまう。
「ご、ごめんなさい!」
つい最近もこんなことがあったと思いながら咄嗟に謝る。体を起こすと、ドレスの下にいつかと同じお仕着せが見えた。
まさかと顔を見ると、案の定、波打つ黒髪に縁どられた青灰色の瞳が、重たい荷物に文句を言うように見上げていた。
「お前、また……っ」
明らかに怒気のこもった声が、早くどけと言わんばかりに放たれる。
「ごごごめんなさいぃっ」
ひぃっ、と慌てて横にどき、ほぼ土下座状態で平謝りする。まさか同じ人物を連日潰す羽目になるとは。
「まさかお前、毎日こんなことをしているのか?」
その場で上半身を起こした侍女が、後頭部をさすりながら非難する。そう思われても仕方がないが、一応事情があるのだと言い訳する。
「いえ、窓から逃げるのは本当にたまにしか……」
「なぜ窓から逃げる!?」
先にそちらを指摘され、それもそうかと気付く。普通の婦女子は、そんなに窓から出入りしたりはしない。
「ちょっと、のっぴきならない事情が頻発していまして」
説明しながら、流石にはしたなかったかと恥ずかしくなる。顔を赤くして俯くと、数秒をあけて、「はぁ~」と大きな溜息をいただいてしまった。
「とにかく、こんなことばっかりしてると、そのうち大怪我するぞ」
「え?」
罵声が来ると思っていたアニカは、予想外の内容に一瞬理解が遅れた。口調こそ怒っているようだが、内容はアニカのことをちゃんと心配してくれているように聞こえる。
(もしかして、私の周り以外には、常識人が結構いるのかしら……?)
じぃん、と両手を組んで感じ入る。感動で見つめていると、侍女が気まずげに「それに、」と続けた。
「もしぶつかった相手が男だったら、どうするんだ」
「あっ」
言われて初めて、その可能性に気付いた。
トゥヴェ宮内では女性率が高いが、庭園では来客以外にも庭師や掃除夫など男性率が上がる。子供の頃の癖で、ついいつも南庭の築山の上にある東屋に逃げ込んでしまうが、脇目も振らず、というのはいい加減止めた方が良さそうである。
「本当です。二度もぶつかったのが貴方で良かったです」
情けない気持ちで苦笑しながら、改めてお礼を言う。と、侍女の頬が少しだけ恥ずかしそうに赤くなった。
照れ屋さんのようだ、と思った時、遠く人を呼ぶ声が聞こえた。
「でんかぁー。アニカ殿下ー」
「ラーズー様ー。どこに逃げたんですかぁ」
別々の方向から、それぞれの名を呼んでいる。そしてピンときた。侍女の仕事内容はアニカには分からないが、生垣にこそこそ隠れる必要があるとは思えない。
そっと目の前の青灰色の瞳を覗き込むと、「ちっ」という舌打ちの後、目が合った。
「ひ、ひとまず逃げましょう」
「はっ?」
突然の提案に目を丸くする侍女の手を掴むと、アニカは腰を上げた。侍女は一瞬抗おうとしたが、追手を確認すると、アニカにならって腰を低くしたまま駆けだした。
いつもの東屋に逃げると確実にニコに発見されるので、政治の中心であるムゼ宮の北側にある小さな噴水を囲む庭園の一角で、二人は腰を落ち着けた。
「何故逃げたんだ」
ベンチの端に座った侍女が、困ったような声で問いかける。しかしアニカは相手が満足するような答えを持ってはいなかった。
「つい」
えへ、と誤魔化すように笑う。と、再び大きな溜息とともに侍女は片手で顔を覆った。呆れられてしまったようである。
「お互い、追われているようだったので」
「一緒に逃げたら、追手が倍増するだけだろ」
何となく言葉を足すと、更に呆れられてしまった。その通りだと、思わず頷く。
「巻き込んでしまってごめんなさい」
しゅん、と肩を落として謝る。
「別に、怒ってるわけじゃない。あと、何度も謝罪は要らない」
男性のような下町言葉だが、相変わらずその内容は気遣いがある。「はい」と微笑むと、気まずいとも違う沈黙が訪れた。風に揺れる草木の音が、耳に心地よい。
(戻りたくない……けど、そうはいかないものね)
さて、このあとはどうしよう、と考えていると、侍女が遠慮がちに口を開いた。
「今日は、婚約者候補の男たちと話し合いをしてるんじゃなかったのか?」
「よくご存じですね」
驚きながらも首肯する。
もしや、今回の件は城中に広まっているのであろうか。だとしたら、毎回の逃走の件も知られている可能性がある。母の耳に入っていたら、怒りを買うだけでは済まないかもしれない。
「それは、その、その通りだったのですが……多分、私が押し倒してしまったようで」
「押し倒した!?」
ぼそぼそと喋っていると、突然侍女が仰天したような声を上げた。そこで、言葉の使い方を間違えたと気付く。その言い方では、まるでアニカがマルセルを襲ったように聞こえてしまう。
「あっ、ち、違いますっ。そういう意味じゃなくて! 距離が近かったものだからつい、咄嗟に押し返したというか……」
両手を振りながら、真っ赤になって否定する。その弾みに、その両手に感じた男性特有の硬い体の質感が甦り、アニカは背筋が寒くなった。
アレは、怖いものだ。女の力では、どうにもならないほどに。
「……怖くて……」
ぽそりと呟く。
今も、気を抜けば三年前のことが甦り、震えが止まらなくなりそうだった。この侍女も、きっとそんなことで、と言うだろう。
実際、城の侍女や小間使いは、仕事の合間に結婚相手を探しているようなところもある。男性と一定以上にお近づきになる行為は、報告し合いこそすれ、忌避するようなものではないのだ。
これ以上嫌われる前に離れよう、とアニカが考えた時、けれど信じられない言葉を聞いた。
「……そうだな。怖い、よな」
と。同じベンチに距離をあけて座った女性は、どこを見るともなく、そう同意してくれた。
その声の真摯さに、アニカはどきりとする。同時に、不思議な感じがした。
ずっと、この小さなどうしようもない感情に、頷いてくれる相手が欲しかった。その相手を、こんな所で思いがけず得られるなんて。
(あぁ、やっぱり、こんなにも嬉しい……)
こんなささやかなことで、泣いてしまいそうだった。
言葉が、勝手に溢れる。
「み、みんなは、きちんと話せば相手のことが分かって怖くなくなるって言うけど、話すことが怖いの。近くにいるだけでも怖くて……。男の人だって、悪い人ばっかりじゃないって分かっているけど、どうしようもないの」
こんな話は、ニコにもあまりしたことがなかった。努力しなければと思う心に同居する、根深い諦念。
そっと隣を窺い見ると、一瞬だけ目が合った。すぐに前を向いてしまったけれど、言葉は、しっかりとアニカに向いていた。
「分かるよ。体が勝手に反応するんだろ。お――ワタシも、子供の頃に散々いじられたせいで姉たちが苦手で、いまだに近寄れない」
そう語る横顔に一瞬眉間に皺が寄り、アニカは一緒だと強く思う。
「でも、いつかは克服しなきゃとは思っている。その為に必要なのは、やっぱり相互理解だとは、思う」
それは、アニカも否定できないとは思う。未知の存在が恐ろしいのは、知らないからだ。知れば闇雲な怖さは半減する。
(つまり私は、男性というものを研究するところから始めた方が良かったのでは?)
一瞬名案が浮かんだ気もしたが、すぐに書物以外の方法が取れないと気付く。
「話し合いは、上手くいかなかったのか?」
「分かりません。六人中五人とは、一応会話をしたのですが……」
人となりを少しばかり知れただけで、恐怖心が薄れたとは感じられない。そう正直に答えると、
「それは会話ではないだろう」
と否定された。意味が分からないでいると、侍女が言葉を選ぶようにしながら、補足してくれた。
「相互理解ってのは、相手の素性を根掘り葉掘り聞くことじゃないだろ。何を考え、それぞれの状況でどう動くかを知るものだろ」
確かに、アニカは五人のことをそんな風に知ろうとは考えもしなかった。ただただあの時間が早く終わる事ばかりを考えていた。それは、相手を知ろうとする行為とは言えないのかもしれない。
「それに、相互ってことは、自分のことも相手に知ってもらう必要があるってことだろ。あん――殿下は、自分のことは話したのか? 怖いとばかり言ってないで、何をどうしたら怖い、ここまでなら怖くないと、はっきり相手に伝えたのか?」
その問いかけは、まるでアニカの中にないもので、愕然とした。自分のことを知ってもらうなど、その発想自体がなかった気がする。
確かにアニカは今まで、誰にも分かってもらえないと嘆きながら、男性に分かってもらおうと具体的に行動したことはなかった。
「伝えたら……変わるでしょうか」
どこか呆然と、問う。いつの間にか侍女を凝視していた。
その視線の熱さに気付いたように、青灰色の瞳がアニカを見る。
「変わってくれた奴だけ、相手すればいい」
「!」
それは、少なからず人の上に立つ王族としては、傲慢で独善的で、良い考え方ではないかもしれない。けれど小さな人間関係のことで言えば、それは至極当たり前のことでもあった。
価値観は様々で、好き嫌いも千差万別だ。万人から好かれるなど、聖者にも神にも至難の業だ。だから、アニカのことを分かって、歩み寄ってくれる相手のことだけを考えればいいと、侍女は言う。
真っ先に浮かんだのは目の前の女性で、そして家族やニコ、侍従長になったミリアンであった。
(そうだ。良い人は、いっぱいいる)
無理解に接したり近付いたりする相手に振り回される必要など、少しもなかったのだ。
そして嬉しくなった。この出会いは運命だったのかもしれないと思うくらいに。
「ありがとうございます」
万感の思いを込めて、深々と頭を下げた。それから両手を組んで運命の女性の顔を覗き込んだ。
「このご恩は絶対にお返しします。ですからお名前をお教えください」
「っ」
ぐっ、と力を込めて見上げると、侍女が大きく仰け反った。ちょっと力み過ぎたかもしれない。
「礼なんかいらない。ちょっと話をしただけだろ」
「貴方にとっては小さなことかもしれませんが、私にとっては人生の大きな転機になったといっても過言ではありません」
「過言すぎる!」
「ですから是非! お名前を教えてください。あと職場と、良ければご実家も、」
「待て待て待てっ。話がでかくなりすぎてる!」
慌てて後ずさる侍女の顔が引きつっていて、熱くなり過ぎたと気付く。しかしどうしても、この感謝の気持ちを伝えたかった。
「せめてお名前だけでも教えて頂かなければ、帰れません」
脅迫まがいに伝えると、すごい長考の末、渋々了解をくれた。
「……分かった。名前は、ジーラだ。職場は、あー、まだ入ったばかりで変わるかもしれないから」
「そう、なのですね。どうすればまた会えるでしょうか?」
「はっ?」
心底困ったように尋ねると、今度はジーラがすごい勢いで狼狽した。
(やっぱり、王族と個人的に会うのは面倒かな……)
全身で悲しみを表していると、三度大きな溜息が頭上でした。
「暇が出来た時は、庭園に来る。ここは人も少なくて、身を隠すには丁度良さそうだから」
「……はい!」




