〜サイコパス〜
「――へぇ、そんなことがねぇ…」
キアラの店内からキッチンを通り抜け、自室のある三階には行かずに、二階に上がって僕はある人の部屋へと立ち寄った。
向かい合わせのソファに深く腰を下ろし、背を預けたこの人は徐に肘掛に頬杖をつく。
「それで、聞いた感想はあるかい?」
さして興味がなさそうに問う。ないならわざわざ聞かなければいいのに、とは思うが、あえて言わなかった。
だか、その蒼眼は僕にじっと据えられていた。
「それぞれが、しっかりとした理由があると思いました。僕みたいに…曖昧じゃなく…」
「それはそうだろう。君の方が珍しいのだから」
「…あとはまあ、狂ってるなって…やっぱり」
「殺人鬼が狂っていない方がおかしいよ」
いちいち挟まれる合いの手が、若干煩わしい。
男性用のスーツに身を包んだこの人――レオル・クロフォードは、歴とした女性だ。女にしては高い身長と低い声で、本人が言わなければ、完全に男と間違えられる。
表では作家をしていて、僕はレオに拾われ、一応弟子をしている。作品はどれも殺人鬼について考察されており、主にレオ自身のことを書いている。
「感じたのはそれだけかい?やはり、君は相変わらずだ」
レオは大袈裟に肩を竦めた。
「言葉で表すならば、虚無。感情はあれど、考えはない。まさに空白、虚無だ!」
大きく腕を広げ、声を立てて笑い始める。だが、その目は笑っていない。口だけに湛えられた笑みは酷く不気味だ。
正直言って、僕のことはどうでもいい。それは彼女も同じだ。
僕が知りたいのは、他人の理由。それは、この人も例外ではない。
「あの……レオのことも、教えて頂けませんか?」
「………私の過去かい?」
きょとんとした目の奥には微かに輝きがあった。この人は自己愛が強いから、自分が話題の中心になるのが嬉しいのだ。
「まあ、気になってはいたんで」
いつも嘘を並べ立てて、誤魔化そうとするから。
レオの嘘は酷く分かりずらいが、僕には全てお見通しだ。なんでなのかは、僕にも分からない。
「ははっ!いいよ、もちろんさ!」
そう言って、彼女は左足が上になるように、足を組みかえる。
「それでは始めようか、ブラッティムーンの物語を」
簡単に言ってしまえば、理由は他人の笑顔が許せないからだ。
他人が幸せそうに笑っているのが、どうしても許せない。
私の生まれはロンディオより北に離れた田舎街、ファーフォルード。
母の連れ子で、異父姉妹の妹が二人いたんだよ。
正直、家族のことは嫌いだった。奴隷のような扱いを受けて、好きでいられる者なんていないよ。
やれと言われ、出来なければ罵倒が飛ぶ。意見を言えば、口答えだ!、と殴られる。
痛い思いをするのは私ばかり。辛い思いをするのは私ばかり。その横で笑う彼らが酷く目障りだった。なぜ笑っているのか、理解できない。なぜ私ばかり涙を流しているのか、理解できない。私は酷く不幸なのに、幸せそうに笑う彼らが許せない。
だが、共に笑うことを要求される。だから、一緒に笑ってやる。そうすれば扱いやすいと私は知っている。
彼らの理想とする人間でいれば、彼らを思い通りにコントロールできると知っている。コントロールさえできれば、彼らはわざわざ手を下さずとも争いを始める。私と同じ苦しみ、痛みを味わえさせることが出来る。人の苦痛、悲鳴、それが愉快でたまらなかった。
だが、それだけでは次第に満足出来なくなってきたことに、いつしか気付いたんだ。それに、手回しというのもなかなか面倒でね。
あれは十三歳の時だったかな。今でもよく覚えているよ。
いつも本を読みに行く公園で、ある少女が楽しげに笑っていたんだ。彼女の周りには人が集まり、キラキラと輝いていた。
名前はなんと言ったかな?……ああ、そうだ。確かソフィーアだ。年は十歳。ブロンドのミデイアムヘアに白いワンピースがよく似合っていた。
大人にも、同い年の子供にも、年下にも。老若男女問わず好かれるような子だった。
街で評判のその子を見るのは、その時が初めてだった。だが、一目見た瞬間、その子を壊したい衝動に駆られた。
ただ単に気に食わなかった。苦しさなど、辛さなど、悲しみなど一切知らないようなその笑顔が。今までは傍観してるだけでよかった。だが、ソフィーアだけはこの手で壊さなければ、殺さなければ、気が済まなかった。
彼女が一人の時を狙って、私は彼女に近付いた。
警戒心の全くない子でね。それにメルヘンチックな子でもあった。だから、森に妖精の泉があるんだよ、と言ったら、何の疑いもなく付いてきた。
それにも腹が立った。
なんて楽観的なんだ。この子の脳内は花畑だな。ああ、早く壊したい。殺したい。苦しみを知らないこの子に、苦しみを教えてあげたい。
森の奥まで来て、彼女はやっと違和感を持ったらしい。
「ねぇ、泉はどこ?随分奥まで来たけど…」
「ああ、泉かい?泉は………ないよ」
その時の彼女の驚き様は本当に愉快だった。
振り下ろされる斧を見て青ざめる顔。悲鳴を上げ、逃げ惑う彼女。
「アッハハハハ!鬼ごっこかい?楽しそうだねぇ!」
追いかけては斬りつけて、それを繰り返し、ついに彼女は走れなくなった。
それでも、這って逃げようとするから、少しずつ四肢を切断してあげた。それでは物足りず、目を抉った。耳を削いで、鼻を削いで。最終的に彼女は失血死した。
彼女を虐めながら私は最高の快楽、幸福感で満たされていた。こんな感情は味わったことがない。
他人の苦痛はなんて、なんて甘い!これを味わわずに、人生が始まったと言えるだろうか!?否、言えない!この快楽が私を作る。
私はこの快楽を忘れることなんて出来ない。そして、虜になった。
「――…これが私の過去、そして理由さ」
しばしの沈黙の後、レオはそう締め括った。まるで物語を読み終えた時のように、手をパンッと合わせる。
その瞬間、ギラギラと狂気で煌めいていた瞳が、急にそれを失った。
「さて、君の感想を聞こうか?」
再びソファに背を預け、今度は交差させた足の上で手を組む。
「必要以上に苦しめるという点については、謎です。だけど、あなたの他人の幸福が不公平で許せない、という考えを否定する気はありません。ただ、僕にはやっぱりよく分かりません」
と言うよりも、彼女は自分の惨めさを認めたくないだけなのでは、と思った。他人の幸せが許せないのは、そういうことも関わってきているのではないか、と。
だが、こんなこと聞いてもはぐらかせれるのがオチだろう。
「苦しめる点については、完全に私の趣味みたいなものさ、一言で言ってしまえばね」
「趣味、ですか…」
ああ、そうさ、と言って彼女はカクテルグラスを揺らす。
カクテルの名はブルームーン。ジンベースのカクテルで、彼女の瞳の色によく似ている。
上に行く際、ギルさんが持って行ってやれ、と持たせてくれたものだ。
「ああ、やはり美味しいね。この色といい、幸せの瞬間というカクテル言葉といい、私にぴったりだとは思わないか?」
演劇のセリフのような言葉を言い、話を逸らそうとする。
いつもは流されてあげるが、今日は流される訳にはいかない。
「殺人鬼になる原因って…何だと思います?」
自分の思い通りにならないと分かると、レオは見るからにつまらなそうな、嫌そうな顔をして見せた。
だが、この質問するのはレオにだけだ。彼女ならば僕が欲しい答え、またはそれに繋がるものを持っていると思ったからだ。
そうだねぇ、とレオは考え込むように腕を組んだ。
「育った環境や親…も一つの要因ではあるだろうね。だがね、私は思うのだよ。誰もが殺意、狂気を身のうちに飼っている。一般人はそれを実行に移さないだけ。我々は実行している、それだけの違いだ。だから、皆誰しもが殺人鬼になる可能性は十分にある、とね。」
「必ずしも、特別なことではないと」
「そうさ。それに殺人というのは、少しの理由がその衝動を掻き立てるものだ。特別な感情でもない」
どこか説得力ある言葉だった。これはいつもレオが小説の締め括りに使う言葉だ。よく、読んでいたからすぐ分かる。
そう。僕は、この言葉を深く信じてしまっていたんだ。
「殺人には理由がある。それは欠けたものを満たす、という理由だ」
伏せていた顔を上げ、レオをじっと見つめる。中性的で美しい顔には、やはりいつものように口だけの、ひどく不気味な笑みが浮かんでいた。
「私は君ではない。故に良くは分からない。だが、君のことは君がよく分かっているはずだ。そう、君はただ目を逸らしているだけなのだよ、自分の動機からね」
「……」
「私はヒントも答えもあげないよ。だってそれじゃあ君、納得しないじゃないか。それでは意味が無い。それでは楽しくない」
――ああ、この人は。
そうだ。この人はこういう人だ。ひどく残酷で利己的で、無責任な、僕を拾った人。
「……失礼します」
そう言って僕は席を立つ。
ドアノブに手をかけて肩越しに見ると、レオは真っ直ぐ僕を見ていた。
蒼月の瞳は、やはり光を映さない。血色の良い唇が象った笑みだけが、僕の脳裏に深く焼き付いたのだった。