第六話
「神託に変わりはありません。次代の王となるべきは、あなた様でございます」
薄暗がりの中でも凛と響く声には迷いがない。
そのまなざしも然り。
「……しかし」
けれど相対する声には覇気がなく、続く言葉を口にすることさえ迷っているかのようだった。
燭台にある蝋燭の炎が、ぱちりと小さく爆ぜる。
「東より訪れた神が気になりますか?」
「あの者もまた、神なのであろう?」
「神にも役割というものがございます。台所の火の神と、王に神託を下される神が違うように。それにそもそも彼の者はマナ使いであって神ではございません」
「真名使い?」
「はい。伝承によれば、森羅万象の真の名を心得ており、それらを用いて人ならざる力を使う者である、と。ですが所詮マナ使いはマナ使い。神ではないのですから、あの者に神託を曲げる力があるようには思えません。ですからご心配には及びません。国のため、民のため、どうか新たな太陽王ティダヌカンとして玉座に就き、権力を揺るぎないものにしてください」
「……そうだな。ようやくその時が来たのだ。古い太陽が燃え尽き、新たなる太陽が昇る時が」
赤い唇が嗤う。
その笑みは闇に溶け、静かに消えていった。
*
リウ王国には八百万の神が在る。
だが王が崇める神はただ一柱。太陽神だ。
そして王は太陽の化身ティダヌカンであり、民は王をこの地を統べる者としてだけではなく、唯一目にすることができる生き神としても崇めている。ほんの少し時を遡るだけで、王は人ではなく神であると声高に言われていた時代があるほど、この国や王家は神を身近に感じて生きてきた。
その影響もあり民の多くは太陽信仰を支えに日々を生きている。
作物が実るのも、豊漁を祝えるのも、すべては太陽あってこそ、太陽神がこの国を加護してくれているからこそだ。
けれど信仰の中枢となる王城の斎場には、月を象徴する紋や彫刻が多く施されている。
治めているのはカーヤカーナと呼ばれる月神女だ。
月は、この世ではない向こう側の世界の太陽と云われる。
月と太陽は表裏一体。
だからこそ神事を一手に担う月神女は王にも等しい地位であり、相応の権力や財力を持つ。
斎場にある御殿はどこも豪奢だった。アガリエの城も十分立派だったが、ここに比べるとなんと質素だったことだろうと思わされる。
主の趣向なのか、どの部屋も柱や壁、天井に至るまで見事な装飾が施されている。それを際立たせているのは、魔物が厭う朱、金や黄、青、緑など多用されている鮮やかな色使いだ。時折きらめいて見えるのは螺鈿だろう。艶やかな乳白色が光を受けるたびに虹色に表情を変える様は、心を奪うに充分な美しさで、どれだけ眺めていても飽きない。
ゼンに与えられた部屋は無駄に広かった。
廊下から戸を一枚隔てた板間は奥へ奥へと伸び、その途中で一段高くなっている。天井から垂れる薄布で区切られたその向こう側が今宵の寝床だ。
そして部屋ばかりではなく、唯一の調度品といってもよい寝台も、十人は横になれるのではないかと思えるほど広く大きかった。見上げた天井や柱には、これでもかというほど多産を象徴する模様が刻み込まれている。
落ち着かない。
当然だ。たとえゼンが歴戦のマナ使いだったとしても、この状況下に置かれたら間違いなく動揺したことだろう。そうに違いない。是非ともそうであって欲しい。
だってまさか生殖能力のないマナ使いが初夜の寝所に閉じ込められるなんて!
これはマナ使い史上初の珍事かもしれない。
マナ使いは人ではない。
そして人ではないマナ使いは、人と変わりない姿形を成していたとしても、子を産むことはできない。
しかしこれまた困ったことに一通りの知識はあるのだ。
それが殊更ゼンを苦しめる。
ゼンたちの師は良く言えば博識、悪く言えば余計なことを山ほど知っていて、それを弟子たちに教えることを喜びとしている。ゼンはそんな彼の話が大好きなのだ。そして興味津々で聞いていたあの時と同様、興味はある。女の子の肌はとにかく柔らくて、芳しいらしい。
いやいやいやいやちょっと待て! 据え膳じゃない! 俺にはマナ使いとしての任務があるんだから!
アガリエは禊に行っている。今この部屋にはゼンしかいない。だから逃げるなら今だ。今なのだが、逃げるにしても一体どこへ逃げればいいのか見当もつかない。それに首尾よく逃げおおせたところで夜は明日もやってくるのだ。そしてゼンはアガリエの願いを聞き届けない限り、故郷アオヌスマに帰還することはできない。
敷布の上に座したゼンは頭を抱えた。
逃げ出したい。
でも逃げることはできない。
いやでも、やっぱりこのままここにいてもアガリエの思惑通りになるような……。もしかしてジタバタせずに、もう一人で先に寝ちゃったほうが得策かも?
八方塞の状況に加え、何度も何度もアガリエに騙されたせいか、すっかり疑心暗鬼になって身動きが取れなくなってしまっている。そう自覚するとなぜだか余計に動けない。雁字搦めだ。
大の字になって寝転がる。
こんな時、タキならどうするだろう。目を閉じて考えてみる。
「……そもそもタキならこんなヘマしないだろうしな。姉様ならアガリエをひっぱたいて性根を叩き直して、さっさと願い事を聞き出して、それから」
「まあ。とっても心強い姉君ですのね」
不意に軽やかな笑い声が聞こえてきた。
目を開けると、隣にアガリエがいた。
「うふふ。なんて凛々しいお顔」
「……あ、ありがとう?」
「声も素敵」
「それで、きみ、誰?」
真夏の太陽のように明るい少女だった。
けれど微笑む目元も、耳に心地よく響く声を紡ぐその唇も、そのすべてがアガリエに瓜二つで、ゼンにとってはその明るさは違和感でしかなかった。腹黒いアガリエはこんな風に屈託なく笑ったりしない。彼女の笑顔にはいつも裏があるし、目の奥は笑っていないのが常だ。
「アガリエに似ていますでしょう?」
「うん。でもアガリエじゃないのは、すぐわかる」
「まあ、残念。わたくしはイリと申します。西の神女にして、アガリエにとっては姉にあたります」
「ああ、双子だっていう」
「うふふ」
何が、うふふ、なのかわからない。
困った。アガリエより理解不能なのが来た。
しかも混乱を極める初夜の寝所に。
「あのさ、残念だけどアガリエは禊に行ってるから、ここにはいないよ」
ゼンが起き上がると、イリもゆったりとした仕種で半身を起こした。
そればかりか、うふふ、と謎の笑みを浮かべ、さらに四つん這いになってゼンににじり寄り、硬直する膝にそっと手をかける。
はたと気づく。
どうしてイリは肌も透けるほど薄い夜着姿なのだろう。
おまけにとっても心地よい香りがする。これと似たような香りを知っている。この香は、アガリエがジンブンに用いていたものと同じものではなかろうか。誘惑の香りだ。気づけば体の芯が熱くなり脈が乱れだす。
本当に待ってほしい。なんだこの状況は。
体が熱い。
「わたくしはアガリエではなく、あなた様にお会いしたくて参りましたのよ」
「俺に?」
「はい。アガリエではなく、わたくしを選んでくださらない? どうしても神の御力が必要なのです。そのためなら何でもいたしますから」
イリの手が肌の上をすべる。そのしぐさや体温が、ゼンの中の熱を煽る。
「いや、ちょ、ちょっと待って!」
「うふふ。赤くなって、かわいい」
「だから待てって!」
そんな問答にも、戸のすぐ向こうに控えているはずの傍仕えたちは無言を貫いている。特に必要のない時はお節介なほどあれこれと世話を焼くのに、なぜ本当に切望している時には無視するのか。どうやら周囲は助けるつもりがさらさらないらしいと気づき、ゼンは泣きそうなほど打ちひしがれる。ひどい。
近づいてくる赤い唇。
豊満な胸元を膝に押しつけられて、もう動揺を隠しきれなかった。
とにかく逃げよう。このままでは何かが危ない。何が危ないのかはわからないけれど、危ない。本能がそう叫んでいる。
必死に寝台から降りようともがくが、どこにそんな力があるのか、イリの細い指が着物の帯を引っ張ってその場に押しとどめようとする。背後から伸びてきたやわらかな手が、ゼンの体をゆるやかに、けれど逃げる隙がないほどしっかりと抱きとめる。
アガリエによく似た声が、耳元でとろけそうなほど甘く、囁いた。
「国庫が空になってとても困っているの」
「ここここここっこ? こっこ?」
「ええ」
「こ、国庫って、食糧を貯めておくあの国庫か……?」
「あの国庫ですわ。西の城の、ですけれど」
「イリ、またなの?」
「うわあああ!」
戸口から聞こえた第三者の声に、ゼンはあられもなく叫んだ。
現れたのは今度こそ正真正銘アガリエだった。
「違うんだ、アガリエ! いや違うっていうか、違わないっていうか、でも違うから!」
「……ゼン様、落ち着いてください。ゼン様の貞操はわたくしが守ってさしあげますから」
アガリエの言葉は信用がならない。けれどこれほど心強い言葉もなかった。ゼンは背中にイリを引っ付けたまま脱力する。
イリは唇を尖らせて、乱れた夜着を整えた。
「いやだ、アガリエったら、早いわ。もう少しだったのに」
「どこがだ! 全然だったろ!」
「うふふ」
泣きそうだ。なにこの娘。
アガリエはイリからゼンを守るように、ふたりの間に腰を下ろした。その表情は実に険しい。
「また国庫を解放したのね」
「聞いているわよ。東はしていないのでしょう。でも昨年に引き続き不作が続いているわ。お腹を空かせた民がいるのに、どうして国庫を解放してはいけないのか、わたくしにはわからない。食糧があるのなら分け与えて然るべきでしょう」
「備蓄は備蓄よ。無制限にあるわけではないということは、イリもわかっているはずよ。だから今あなたは困っているのでしょう?」
「父上ったら、わたくしの話を聞いてもくださらないのよ。少しくらい分けてくださってもよろしいのに」
「そうして国中の倉から食糧をかき集めて、最後はどうするの? このまま不作が続けば、その次は?」
「アガリエは心配性ね。月神女様のお見立てでは、あと一年の辛抱だということよ。それに大飢饉なんて数十年に一度くらいしか起こらないのだもの、きっと大丈夫よ。みんなで力を合わせていけば乗り越えられるわ」
「どれほど雨乞いの儀式をしても雨は降らない、作物も木々も実りが少なく、海に出れば不漁続き。どうして今がその数十年に一度だとは思わないのか、不思議でならないわ。あなたがどれほど心優しくても、すべての民を助けることなどできはしないのよ」
「あなたこそどこまで悲観的になれば気が済むのかしら。国庫を解放していないせいで、東では小さな村がいくつも消滅しているというのに、いつまで保守的でいるつもりなの? 壁ばかり築いていると、わたくしの耳にも入っているわよ。そんなに戦がしたいの?」
「戦がしたいのはあなたの方でしょう。国庫の食糧が尽き、城から主たるあなたがいなくなって、民がそれでもまだ大人しくしてくれていると本気で思っているの?」
「もちろんよ。現にわたくしはここにいて、西は平穏なままでしょう」
瓜二つの顔をした娘が、国の行く末を憂いて激論を交わす。
蚊帳の外のゼンはどうしたものかと唸った。何故にこうも次から次へと問題事がやってくるのか。
とにかく夜着のまま寝台の上ですることではないのは確かだ。
けれど二人の激論は止め処なく、さらに過熱してゆく。
……、……、……よし、寝よう。
ゼンはマヤーの傍らで小さく丸まり、目を閉じた。




