第二七話
深く沈んでいた意識が揺らぐ。
遠のく睡魔と気だるい体。朝だろうか。けれど目を覚ますと、瞼を開けたのかどうかも怪しくなるほどの暗闇だった。しかも随分空気が澱んでいる。
ここはどこだろう。
起き上がろうとするが、どうにも手足に力が入らなかった。それどころか思い出したかのように体中が軋む。
この痛みは何だ。特に左半身に妙な違和感がある。
右腕を軸に上半身を起こす。視線を巡らせるが、どうやら気の迷いなどではなく周囲は完璧な暗闇に閉ざされており、視界が慣れるまで待ってみても、これと言って何も見えることはなかった。
ゼンはかすかに感じるマナで風を呼ぶ。
かろうじて空気が動く気配があった。ただ密閉されているだけの空間ではないようだ。
恐る恐る立ち上がる。頭のすぐ上に天井があった。手触りからするにこれは石だ。平らな面が広いことからしても人工物のように思えるが、一体ここはどこなのか、さっぱり思い出せない。
鉛のように重い体を引きずり、風の音が聴こえた方へと進む。
ようやく伸ばした指先が壁に触れた。
やはり平らに削られた石だ。手探りで隙間を探すと、ややあって指がかかる凹凸部分を見つけた。ここだけは木でできている。木戸だろうか。しかしガタガタと音は鳴るものの、一向に開かない。
なんでだよ。体の痛みもあって無性に苛立った。
手が駄目なら足だ。
力任せに蹴り上げた。が、その足は突然、目標を失って思いのほか遠くへ伸びた。
不意に戸が開いたのだ。
自然とゼンは前のめりに倒れこんだ。
「うわあっ」
驚くほどかすれた悲鳴が咽喉から出た。そればかりか受け身を取ろうとした左半身に激痛が走り、今度は声も出なかった。
「無事にお目覚めのご様子。何よりでございます」
地に伏して呻くゼンの傍らに、そっと膝をつく気配。
視線をめぐらせると、白い装束に身を包んだ老神女が目尻を下げて微笑んでいた。
見覚えがある。だが痛みが邪魔をして思考が定まらない。
老神女はそんなゼンに動じる様子もない。細腕で苦労してゼンの体を仰向けにさせると、いそいそ着物を脱がし、桶に浸していた布で体を清め始める。痛むはずだ。左胸と腕には矢傷があり、乾いた血が大量にこべりついていた。
老神女は丁寧にその血をふき取ると、煎じた薬草だろう、決して心地良くはない臭いと見た目の塊を塗布し、新しい布をあてた。次いで胸元と同様に腕の傷にも手当てを施す。
作業の頃合いを見計らってゼンは手足を動かし、傷の具合を確かめた。痛い。けれど盛大に転んだりしなければどうということはない。その事実を認識すると気持ちも落ち着いてきた。
大きな石が組み合わさった壁と床。仰げば青い空が広がっている。
「……どうして墓の中なんかにいたんだろう」
その疑問に答えたのは老神女だった。
「追っ手から身を隠すためでございますよ。覚えておられますか。イリを助けるために王母と敵対し、矢を射られたのでございます」
「ああ、それで墓所まで逃げて……、タキとイリは?」
「あなた様のお戻りを待たず、西へと旅立たれました」
薄れていた記憶がよみがえる。
そうだ。ゼンは約束の刻限に間に合わなかった。
左胸に受けた矢傷の深さもさることながら、何より鏃に塗られた毒が体の自由を奪い、思うように追っ手をまくことができなかったのだ。
そうしてようやく辿り着いた王家の墓所で老神女――この墓所において唯一の生きた住人である墓守の手を借りて、石造りの墓の中に身を隠し、傷を癒やすために深い眠りについた。
「俺、どれくらい寝てた?」
「十日と半日ほどでございます」
タキにはマヤーがついている。とうに西に着いている頃だ。
「ふたりとも無事だといいけど」
「さようでございますね。ただ今は己の身を案じてくださいまし。どうやら傷はふさがっているご様子ですが、心の臓に矢を受けたのですから、いましばらくは大事をお取りになるのがよろしいかと」
「まあでも……」
言いかけて、口をつぐんだ。
優しくされたからといって相手を味方と判断し、なんでもかんでも打ち明けるべきではない。
そう教えてくれたのはアガリエだ。
マナ使いであるゼンの体は心臓ではなく、マナの核を原動力としている。
そのためたとえ左胸を矢に貫かれたとしても、核に損傷がなければマナを使って傷を癒すことができるのだ。無論、それとて時間も労力も要することなので、このような有様になっているのだが。
老神女が用意してくれていた新しい着物に袖を通す。さすがに男物は用意できなかったようで、随分と寸足らずになったが、追われる身で贅沢は言っていられない。まだうまく動かない左手をかばいながら、なんとか腰帯を結ぶ。
その間に老神女は一度壁の向こうへ姿を消したが、ややあってから水や果物を載せた盆を持って戻ってきた。
ありがたく椀を受け取り、咽喉を潤す。
「おいしい」
「それはよろしゅうございました。本来ならもっと滋養に良いものをご用意できればよろしかったのですが、なにぶん老いたこの身にはこれでも贅沢な馳走でございますゆえ、不必要に食糧を求めれば、塀の外の者たちに怪しまれてしまう恐れがございまして。ああ、いえいえ、良いのでございますよ。これはあなた様のためにご用意したもの。どうぞお食べになってくださいまし」
閉ざされた塀の中で暮らす墓守の台所事情など慮ったことがなかった。果実を手に硬直したゼンの気持ちを察し、老神女は目尻の皺を深くして微笑んだ。
さあ、と促され、ゼンは今一度どうしたものかと逡巡したが、結局彼女に勧められるままに果実にかじりついた。果肉は薄く水気がない。旱続きで充分に育つことができなかったのだろう。咥内にわずかに広がる果汁もまた味気ないものだった。
「俺が墓の中で寝てる間、誰か俺を探しに来た?」
「一度だけ、異変がないかと王母が使いを寄こしましたが、使者の身で王家の墓の中を暴くことなどできようはずもなく、すぐに帰ってゆきましたよ。特にここはいわくつきの墓でございますしねえ」
してやったり。愉快そうに笑う老神女が、少し意外だった。
「ん? いわくつき?」
「魔物を産んだ姫。先王最初の王妃の墓でございます」
「最初の……、ってことはアガリエとイリのお母さん? 魔物っていうのはアガリエのことか」
「さようにございます。あの夜のことはわたくしとて今でも夢に見ます。まことに魔物の仕業だったのやもしれませぬ。おや、その驚いたご様子では、わたくしのことはまだお聞きではなかったのでございますね。わたくしは先王の父君の従妹。随分と懐かしいお話ですが、かつては月神女と呼ばれていたこともございます」
驚いた。ただの墓守ではなかったのか。
それにしても清楚な面影とは裏腹に、相槌を打つ間もないほど早口で話す人だ。目覚めたばかりのゼンはその速さについていけずに戸惑う。
「今はアガリエと呼ばれている姫が、その出生ゆえに魔物の子と呼ばれているのはご存知でございましょうか。その姫の産みの母であるため、この墓に眠る妃もまた魔物であると、口さがない者たちは言っているそうでございますよ。とはいえ、そう言われるに足る死に様であったことは間違いないのでございますけれどねえ。ほんにあの夜は、月神女の他に一体どれほどの者が命を奪われたことか。幼き頃より見知っておりましたが、先王は気性の荒い御方にございました。誰ぞあの御方をおとめすることはできなんだか」
「待って、ちょっと待って。一気に話されると処理しきれない。アガリエが産まれた時に傍にいた月神女って誰のこと? それに気性が荒いって、先の王が?」
ゼンとて数えるほどしか顔を合わせていないけれど、柔和な笑みを見せる男であったと記憶している。
「おや、驚かれますか。なるほど神の前では存分に猫をかぶっていたのでございましょうねえ。ですがアガリエの母が命を落とした時、なぜにその宿命を読み取ることができなかったのかと激高し、己の月神女を殺めたのは、間違いなく彼の王でございますよ。傍で手助けをしていた産婆や女官も例外ではなく、わたくしが駆けつけた時はあたり一面血の海でございました。ですから先頃亡くなった月神女は、その後に後継として選ばれた、先王にとっては二人目の月神女なのでございます。いま思えばそれが良くなかったのやもしれませぬ。思わぬところから降ってきた月神女という座に執着し、己の王を呪詛するという恐ろしい所業に及んでしまいました。現王の母御も同じ道筋を辿ることになりそうですしねえ。王国はまだまだ荒れることでございましょう。ほんに嘆かわしいこと」
口をはさむ暇もなかった。そうしてなお、いかに先王が非道であったかを老神女は朗々と語り続ける。
焼き討ちを命じた村の数。宝物庫に眠る宝石や珊瑚の煌びやかさ。臣下に下賜した妃の行く末、逆に臣下の妻を気に入り召し上げた話。民に課した税を吊り上げ、それが払えないとわかると逆上した話。王位継承権のある王子にしか興味がなく、王女は政の駒として地方の城へ送り、年端もいかないうちに降嫁させたこと。城の一部が不審火により焼失した折、運良く政敵が落命したため、皆がひそかに王の仕業ではないかと疑い、その噂を吹聴した罪で別の者が幾人も処刑された事件。
どれもゼンが知らなかった話ばかりだった。
暇を持て余すほど長くあの城に滞在して、できる限り見聞を広めようと努めていたというのに。
「誰も神の逆鱗に触れたくはございませんからねえ」
老神女の答えは端的だった。
「あなた様は神であらせられます。たとえそれが事実ではないとしても、皆が心からそう信じていたのであれば、あなた様は神なのでございます。その神の前で怒りを買うような真似を誰が好んでするでしょうか。王にしても他の者にしても、神には心安らかにいていただこうと細心の注意を払い、不必要なことは何もお耳に入れなかったのでございましょう」
「……知らない間にご機嫌取りをされてたってわけか。でも王母には殺されそうになったんだけど」
「では、それほどの覚悟だということでございましょう。神を殺めてもなお、失いたくないものがあるのでございます。ああ、いいえ。王母にも無論それはあるのでしょうけれど、何よりアガリエが強く望んでいるのだと、わたくしは思いますよ」
「俺を殺したいと、アガリエが……?」
「そうではございません。神を弑しても叶えたい願いがあるのでございます」
ゼンではなく、皆に神と崇められるゼンが城にいると不都合だということなのか。だから王母の暴挙を止めることはせず、黙して見守っていたと、この老神女は言いたいのだ。
マナ使いであるゼンを、周囲に神として認めさせたのは彼女だというのに。
信じたい。
それなのに胸の奥が痛むのは、彼女を疑う気持ちがどこかで捨てきれないからだ。そのことにゼンも気づいている。信じたいのに信じきれない。それは己の弱さか、それとも。
目裏に浮かぶのは、はにかんだようなアガリエの笑顔。
うそつきで頑なで、でもゼンにだけは気を許してくれていると思っていたのに、思い違いだったのだろうか。
でもそうだと思いたくない。
だから苦しい。
信じることもできないのに、この胸を射られてもなおアガリエを疑えない。
「俺も馬鹿だよなあ。ふつうはさ、殺されかけたら、殺そうとした相手を憎むものなんじゃないの? でも俺、アガリエのこと嫌いになれないんだよな」
「それは己の保身のためではないと、仰せになることができますでしょうか?」
「……え?」
「己の手を汚したくないのであれば、目の前にある汚いものから目をそらすことが、一番簡単な方法でございます。あなた様はアガリエを処断したくないと思うがゆえに、あの娘の罪を見ようとなさっておられないだけではございませんか? あの娘は国を恨み、滅ぼそうとしていると、お認めになられてはいかがでございましょうか」
「違う! アガリエはっ」
そんなことを願うはずがない。そう断言することが、できない。
胸の傷がうずく。
それでもゼンは老神女を真っ向から見据えた。
「違う。アガリエはそんな娘じゃない」
「何故にそう思われるのでございますか?」
「根拠なんかなくたって、アガリエの傍にいたらわかるよ。イリは目の前で苦しんでいる人を見捨てられないけど、アガリエはその向こう、もっと遠くで苦しむ人たちを見てる。だからきっとアガリエがすることには意味がある。何度も利用されてきた俺が言うんだから間違いない」
「随分とお人好しでございますねえ。あなた様はほんに馬鹿なのでございましょう。けれど、だからこそあの娘にはあなた様が必要なのやもしれませぬ」
老神女はゆるゆると立ち上がり、墓の扉を押し開けた。
「奥にある通路を進むと、地下に広がる鍾乳洞へと繋がっております。底にある水の流れに沿ってゆけば、やがては地上へ出られるはずでございます」
「出られる、はず?」
「鍾乳洞は自然が織りなす迷路。ひとたび迷えば永遠に日の目を見ることは叶わぬやもしれませぬ。わたくしもご案内できるのはここまで。それでも塀を越えて地上を行くよりは御身のためになりましょう。なにしろ塀の外には王母の手の者が常に監視の目を光らせておりますし、あなた様の首を献上したものは身分に関わりなく王母が直々に召し抱え、家族ごと養うとのお達しがありましたゆえ、たとえ宵闇に紛れて塀を越えたとしても、遠からず交戦することになりましょう。その相手が隊士であるか民であるかの違いはございますでしょうけれども」
十日という時間の経過の重みを感じる。
「わかった。ここから出ていくよ」
「おわかりでございましょうけれど、城へ行かれてはなりませぬ」
わかっていなかった。
不満を表情に出すゼンに、老神女は深く嘆息した。
「西へ、イリたちの元へ行かれるとよろしいかと。今のままのあなた様では、再び城へ出向いたところで返り討ちに合うのが関の山でございます。外の世界をその足で歩いて、その目で直に見てごらんなさい」
差し伸べた手を拒まれた。
アガリエは城から、王母たちから逃げることを望んでいない。おそらく老神女の言うように、何度ゼンが出向いても結果は同じだ。無為に己の信念を翻すような娘ではないことは、ゼンも重々承知している。
それにタキやイリのことも気にかかる。
「……わかった。西へ行ってみる」
そう決断したものの後ろ髪を引かれる。
塀の向こうにあるはずの城へ目をやるが、見えるはずもなく、ただそこには痛いほど青い空が広がるばかりだった。




