第二五話
ゼンは弱っていた。
大粒の涙をこれでもかと言うほど零し、嗚咽で肩を揺らすイリはなかなかに目立つ。屋根の上は人目につきづらいが、泣き声ばかりは隠しきれない。
本格的に身を隠さなくてはと思案した結果、二人は今、オルの屋敷跡に落ち着いていた。
すでに主はなく、屋敷も焼け落ちているため、雑木林の向こうに見えるのは手入れがなされておらず荒れ果てた畑だけだ。普段から人の出入りがないここなら、そう簡単に見つかることはないだろう。
とはいえ油断はできない。
できないのだが。
木に背を預け、ゼンは傍らに座り込むイリを見やる。
「あのさ、そろそろ泣きやんでくれないかな」
「うううっ、だって……、ゼン様が助けてくださるなんて、思いもしなかったから」
嗚呼、と再び泣き崩れる。先程からずっとこの堂々巡りだ。
頭を掻きむしって苛立ちを抑えていると、見知った気配が近づいてきた。それだけでゼンは少し気持ちが落ち着く。
しばらくすると木々の向こうからタキが姿を現した。
「こんなところで何を?」
「……ちょっと野暮用で」
「お邪魔だったなら」
「いやいやいやいや! ちょっと待って、お願い、すっごく困ってる!」
あられもなくタキの足元にすがると、彼は再びこちらに顔を向けた。その目線が何事だと問うている。
「イリが王母に喧嘩売っちゃってさ、二人で逃げてきたとこ」
「それはまた随分と楽しそうなことをしていますね」
「たっ楽しくなんかないわようううっ」
「では、何故そんなことを?」
「だって!」
泣き濡れたイリの声は切実だった。
「我慢できなかったんですもの! 民が、国が、これほどまでに困窮しているというのに、カーヤカーナ様は王を傀儡にして贅沢三昧。どうしてそんな非道なことが許せるというの? どうして誰も何も言わないの? 民を救えるのはわたくし達しかいないというのに!」
頬を伝う涙は地面に落ち、染みこんでゆく。
長く雨が降らないこの国で、代わりに流れた涙や血は如何程か。
けれどタキは揺らがなかった。
「きみが言っていることはただの正論ですね。ただし正論は声高に叫ぶだけではなく、それが正しいと皆に信じさせ、より良い方向へ導かなければ意味を成さない。それがきみにはできなかったから、こうして彼と逃げる羽目になっているのでは?」
「わたくしは何度も伝えたわ。でも誰も手を貸してくれなかったのよ」
「それはカーヤカーナを敵に回してまで味方するだけの魅力が、きみにはなかっただけのことです。きみに味方をすれば己の命が危ういと感じたから、誰も手助けをしなかったのでしょう。なるほど確かに、ただ泣くしかないその有様を見る限り、彼らの判断は正しかったようですね」
その言葉はイリの心をえぐったらしい。反論しようとした口は結局何も語らず、瞬きを忘れた瞳は呆然とタキを見つめていた。
「タキ、もういいだろ。悪いのはイリだけじゃない」
「そうですね。ここもそろそろ危ないようですし」
ゼンはタキを真似て耳を澄ます。木々の向こうから荒々しい足音が響いてきた。追っ手だろう。どうやら考えが甘かったようだ。
抜け殻のように座り込むイリの腕を引いて無理やり立たせる。
有難いことにタキのおかげで涙は止まったようだが、先程より心身ともに衰弱しているように思えた。こんな状態で無事逃げおおせることができるだろうか。
そんなゼンの心配をよそに、イリは己の足で立つと、手の甲で乱暴に頬をぬぐった。
「お二人は早く逃げてください。わたくしはアガリエを助けに参ります」
「は? なんでアガリエ?」
アガリエは王にも等しい権力を持つ月神女――表向きがどうであれ――だ。いくら王母でも害を成すことはできない。だからあの場で最も危ないのはイリのほうだとゼンは判断した。
けれどそれは違うとイリは首を横に振った。
「実はわたくし、おとなしくしているようにとアガリエに言われておりましたの。わたくしがカーヤカーナ様に歯向かえば、その責任を取らされるのはアガリエだから、と」
「なんだよ、それ!」
「でもアガリエにはゼン様がいるから、きっと大丈夫だろうと思っていて。まさかゼン様がわたくしを助けてくださるなんて、夢にも思っていなかったから、だからあの……ごめんなさい」
「そういう大事なことは早く言えよ! タキ、この娘を頼む。俺はアガリエを助けに行くから。……ん? なんか変な匂いがする」
甘ったるい香り。どこかで嗅いだことがあるような。
タキの胸元に顔を近づけようとすると、露骨に嫌がられた。掌を顔面に押し付けられる。
「頼むと言われても、どこへ逃げればよいのやら」
それもそうだ。イリの領地は島の西、後ろ盾であるはずの母方の生家は今や王母の手中にある。斎場にしても、しきたりがどうであれ王母がカーヤカーナと呼ばれている今、タキが指摘したように、王母に背いてまでイリを手助けする者がどれほどいることか。
どこか、城からさほど遠くない距離で、人目に触れずに過ごせる場所はないだろうか。
その答えを導きだしたのはイリだった。
「城の外に王家の墓所があります。こっそり塀の中に入ることさえできれば、中には墓守しかおりませんし、しばらくは身を隠しておくことができるはずです」
「それだ! 墓の場所なら俺にもわかる。そこで落ち合おう。マヤーはタキについていって」
ゼンの肩に駆け上ったマヤーは、一度だけ頬にその体躯をすり寄せると、軽々とタキの肩に飛び乗った。
「アガリエをつれて、俺も必ず行くから」
「もしも来なければ?」
タキは不吉なことを平然と言う。その表情は真剣そのものだから、なおさら質が悪い。
「夜明けまでに戻らなかったら、……その時は」
「その時は西へ参りましょう」
「西? イリがいた西の城は情報がなくて、今どういう状況かわからないって聞いてるけど」
「……はい」
だからこそ行きたいのだ、と力なく俯いた表情が語っている。
「わかった。ただしタキは時々記憶喪失になるから、何かを判断する時はちゃんと記憶のすり合わせをしてから決めるようにしてくれるかな。本人も無意識に忘れていることが多いから、そこはイリが注意するように。でないと大変な目に遭うぞ」
「ええっ、今は?」
「つい先程全消去したばかりでして、俄かの知識しか持ち合わせていません。ですが王母がなかなかに手強い相手だということは理解しています」
どこか堂々と宣言するタキに、イリの表情はひどく胡乱げなものになっていく。
「ところでひとつ疑問なのですが、そのアガリエとやらは助けられることを望んでいるのですか? 聞いていると、どうやらこうなる可能性も考慮していたように思えますが」
「うん。アガリエの願いは俺にも、きっと誰にもわからない。でも、そうだな。だからこんなことになってるのかもしれない」
イリのように素直に頼ってくれたらいいのに。
先王の死からこちら、アガリエの傍にいてわかったことがある。
アガリエはゼンを信頼してくれている。それはきっと、心から。
寝所にいてさえ周囲に気を配っている彼女が、肩の力を抜いて微笑む瞬間を何度も見た。本人に自覚があるのかどうか、彼女は夜空を眺めたり、他愛のない会話を交わすのが好きなのだ。そういう時はいつも決まってマツリカの茶を手ずから淹れてくれる。
感情の起伏を隠すアガリエが時折見せる、控えめな笑顔がゼンは好きだ。
信じていないからゼンに願いを打ち明けないのではないかと悩んだこともあった。
けれど違う。
彼女は何か考えがあって沈黙を保っているのだ。
王位継承に伴う兄たちの争いや、王母に月神女の座を半ば奪われた時も、彼女は彼女の意志でそれを受け入れた。
そんなアガリエをゼンは放っておけない。
願いなど、もうどうでもいいような気さえしている。
たとえそれがマナ使いとしてあるまじきことだったとしても。
アガリエが笑ってくれるなら、それだけで。
傍を離れるべきではなかった。アガリエを守りたいのなら、たとえどれほど彼女が強くても、嫌がっても。
ゼンはタキやイリと別れ、屋根の上を駆けた。
常より巡回の隊士の姿が多い。身を隠しながら進むうちに、廊下を行きかう神女たちの会話が耳に飛び込んできた。
どうやらイリが危惧していたとおり、アガリエは王母の命によって捕らえられているらしい。やはり彼女を残していったのは失態だった。
どこに捕らえらえているのだろう。
城内に牢があることはゼンも知っている。アガリエも罪人のようにそこに繋がれているのか。
ふいに、覚えがある声が聴こえた。
ゼンとアガリエの屋敷がある方向からだ。
なるほど確かにあの屋敷は周囲を庭と塀に囲まれており、渡り廊下もなく、敷地内に入るにはただひとつある門をくぐるしかない。周囲に隊士を配すれば、牢にも等しい環境が整うだろう。
きっとアガリエはあそこだ。
近づくにつれて警備が固くなる。屋根の上に人影はないが、平屋が続くこのあたりは屋根が低い。地上からでも充分に矢が届く距離だ。
唄はまだ続いている。
それは、母親が我が子を想い涙する唄。
神に祈るのは我が子の幸せ。愛し子がこれから歩むであろう道がどうか安らかで、幸福に満ちたものでありますように。どのような苦しみも悲しみも、この子を襲うことがありませんように。
幸せに、誰よりも幸せになりますように。
そのためならばこの命を捧げても惜しくはない。
それは身を引き裂くような、痛切な母の祈り。
歌っているのはアガリエだ。ゼンは幾度か彼女がこの唄を口ずさむのを聴いたことがある。産小屋で落命した母親から生まれた彼女が、一体どのような気持ちでこの唄を口にするのかと、そのたびに考えた。
素直にその問いの答えを教えてくれるような娘ではなかったけれど。




