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魔の女王  作者: 香穂
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第二三話

 ふと気づけば目の前には廊下が広がっていた。

 タキは痛みを主張する眉間を抑える。

 何かがおかしい。なぜ自分はこんなところにいるのだろう。

 マナの気配がひどく薄いことからして、故郷アオヌスマではないことは確かだ。となるとここは海の向こう側だろうか。海の向こうへ渡ったのなら、マナ使いとして誰かの願いを叶えるために違いないが、それならば隣に相棒の姿がないとおかしい。マナ使いは二人で一組。単独行動は規則違反だ。

 ゼンのことだから心配はないと思うけど……。

 また頭痛がする。

 そうだ。思い出した。

 ゼンとともに魔物を追いつめ、とどめを刺そうとしたものの反撃に遭い、重傷を負ったのだった。頭部に痛みを覚え、目の前が真っ赤に染まった。そこから先の記憶がない。

 そこに巣食う魔物の名前を、タキは知らない。

 なぜ記憶を喰うのかも。

 解るのはただ、そこに歓喜も悪意もないということだけだ。

 魔物はただ己が生きるためだけに記憶を欲しており、その命が尽きるまで満足することはない。そして追い出す方法はわからない。

 つまるところ、自分は今、魔物のせいで記憶喪失にでもなったのだろう。

 嘆いていても仕方がない。失ったものは戻らないし、これから失われていくものを憂いても、それだけでは何も防ぐことはできないのだから。

 ともかく自分のことも、相棒であるゼンのことも覚えている。マナも使える。特に焦る必要もなかろう。

 あとはできる限り己の現状を把握しなければならない。

 そう遠くない場所にいるであろう相棒の気配を手繰ろうとして、左腕に違和感を覚えた。

 そこに、見知らぬ娘がいた。

 なぜか自分の腕と彼女の腕が絡んでいる。なぜだ。女難はゼンの専売特許のはずなのに。

「神使様? どうなさいましたの?」

 どうもこうも、きみが誰なのか忘れてしまいました。と、正直に言って良い状況かなのだろうか。判断しかねて黙る。

 それにしても自分にこんな奇妙な格好をする知り合いがいたとは驚きだ。じつに興味深い。

 娘の顔は仮面に覆われていた。

 ふくよかな頬。白く塗られた面でひときわ目立つ口元は、大きく弧を描いている。それは柔和な笑みにも見えるが、細い目元のせいか、どこか空恐ろしくも感じさせる。もしかしたら神や精霊を模して描かれた仮面なのかもしれない。後頭部で結われている紐は、王や神にだけ許される禁色の赤だった。

 このうだるような暑さの中、なぜそのようなものをかぶっているのだろう。

「いやですわ、もしやまたお忘れになって?」

 仮面が醸す雰囲気とは隔絶した、軽やかな声が問うた。

「そのようです。きみは誰ですか?」

「あなた様の妻でしてよ。これからふたりで愛を育もうとしていたところでしたのよ」

「はあ、そうでしたか」

「……色気のない反応ですこと」

「失礼。まさかマナ使いの身で妻帯者になるとは思っていなかったもので」

「まあまあまあ、カジュリ! そなた、とうとう神使様に見初められたの?」

 また誰か現れた。

 声をした方を見やると、今度は小柄な少女が立っていた。大きな目をさらに大きく見開き、全身で驚きを表現している。

 カジュリと呼ばれた仮面の娘の驚きようは尋常ではなかった。タキの腕を突き飛ばし、瞬時に廊下の端まで後ずさる。

「王妃様、その、誤解なさらないで。これはほんの出来心、いえ、ちょっとした戯れでしたの……」

「うふふ。照れなくても良いではないの。妃が神使様に嫁ぐことなど、滅多にあることではないわ。王家としてもとても目出度いことよ。さっそく我が君にもお伝えして、華々しくお祝いしましょう。きっとお喜びになられるわ」

「いえ、あの本当に」

「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、僕は生涯妻を娶るつもりはありません。よって僕はカジュリ殿と契ることはできません」

 王妃はきょとんとした表情で首を傾げた。

「どうしてそのように悲しいことを仰いますの? カジュリは見目も良いですし、なにより床上手と評判の娘です。きっとご満足いただけると存じます」

「王妃様、お願いですから、開けっ広げな言い方はおよしになって」

「ああ、それともこの仮面がお嫌なのですか? でしたらすぐに別の仮面をご用意いたします。それになにも閨まで仮面をしているわけではないのですよ。どうぞその点はご安心ください」

「もう少し慎ましく、いえ、もうすでに論点がおかしいですわ。王妃様、どうかもうお許しくださいまし。カジュリの戯れが過ぎたのです。この通り深く反省いたしておりますから」

 仮面の娘は廊下に膝をつき、深々と頭を垂れた。

 それでもまだ王妃は不満そうだ。

「悪いお話ではないと思うのだけど……」

「本当に、心の底から、海よりも深く深く反省しておりますわ。また新しい側女が来ると聞いて、その、……退屈で」

「あらあら、そうだったの。そうねえ。新しい側女が来たら、しばらくはあちらに気を使って、我が君のお傍に寄ることもできないでしょうしねえ。でもそなたはもう妃だし、わたくしよりも我が君の御子を授かる可能性も高いでしょうから、奥御殿から出してあげるわけにもいかないのよ。ごめんなさいね」

「……そのようなことは、ありませんわ。我が君は私の顔を心底嫌っておいでですから」

「まあまあ、そのように案ずることはないわ。義母上様の目に狂いはありません。そなたの容姿は義姉上様にとてもよく似ているもの。そなたなら必ず我が君をかどわかすことができます。もうひと押しです。そうだわ、いっそ閨に誘惑の香でも焚いて、義姉上様のふりをして夜伽をすれば良いのではないかしら……」

 お願いですから慎ましやかに、と再びカジュリが懇願するのを傍目に、タキは王妃を観察した。

 王の妃がいる。

 ということは、ここは王城か。

 どおりで作りが荘厳なわけだ。思えば己がまとう着物も質が良い。ここで与えられたものだとすれば納得がいく。生地や帯に赤が多用されているのは、神の従者という謎の立ち位置でこの城に留まっているからで、王にも等しい身分であることを表しているのだろう。

 それにこれまでの会話の雰囲気から察するに、彼女たちはこちらに害意があるわけではないようだ。ゼンが傍にいないのも、危険性は低いと判断したからかもしれない。

 それにしても彼女たちの関係性は興味深い。

 カジュリの仮面の理由は、王の姉に似ている顔を隠すためなのか。

「当代の王は、姉君のことがそれほどにお好きなのですか?」

「ええ、それはもう」

「王妃様!」

「……口外してはならないようなことなので?」

 狼狽するカジュリとは裏腹に、王妃の口調はその相貌に違わずおっとりとしたものだ。

「我が君はお嫌のようですけれど、この城に仕えていて知らぬ者など、果たして何人いるのやら。ですから余計に、義姉上様と似ているからという理由で、王母たる義母上様がお選びになった妃を、我が君は良しとなさいませんの」

「ああ、それでそちらの方は仮面を」

「ええ。わたくしは王妃とはいえこのように幼く、体も未成熟ですので、元気な御子を産んでさしあげることができるのはまだ先のお話になりましょう。我が君にも困ったものです。せっかくカジュリはあんなに大好きな義姉上様にそっくりなのですから、寵愛なさればよろしいのに。殿方のお気持ちとは不可思議なものですわねえ」

 タキとしては王に同情したいところだ。

 母親に姉への思慕を見透かされた挙句、姉によく似た面差しの娘を娶らされたのだから、それは不満であろう。

 タキにも尊敬する――決して恋慕ではない――姉弟子がいるのでよくわかる。せめて自分で見つけて選んだのなら事はもう少し順調に、そして早く進んだだろうに。

 せっかくだから王に会っていこう。

 記憶にはないが、これほど王の関係者と親密なのだから、おそらく自分は王に会いに来たのだ。何か得るものがあるかもしれない。

「それで、王はいずこに? 目通りが叶えば幸いなのですが」

「もちろんですわ。我が君もお喜びになりましょう」

 見上げた空は薄れゆく青に赤が忍び寄り、廊下は薄暗闇に包まれていた。逢魔が時だ。どこからともなくカラカラと乾いた音が響くが、あれは一体何の音なのだろう。

 王妃やカジュリとともに屋敷の奥へと進んでゆくと、やがて広々とした芝生の庭に出た。

 生い茂る木々には鮮やかな花が咲き乱れ、果実が実っている。隅々まで心配りが行き届いた豊かな庭だ。

 けれど何故だろう。違和感がある。

 何かがおかしいと感じるのに、それが何かわからない。

 眉間に痛みが走る。タキは一度立ち止まり深呼吸をした。

 痛みを強いてまで記憶を取り戻そうとは思わない。どうせ何事もなるようにしかならないのだから。

 王妃は縁側に座す。カジュリもその背後に倣った。

 彼女たちの視線の先を辿れば、溜め池の縁で何をするでもなく、ただぼんやりと立っている少年の姿があった。

 あれが王か。

「トウジュ。下がれと命じたはずだぞ」

「ええ、存じております。ですが途中で神使様にお会いいたしましたので、道案内をしてまいりましたの」

 ようやく少年はこちらを振り返る。

 その表情がとたんに陰った。

「そなた、また来たのか」

「そのように嫌そうな顔をされるほど、僕はここへ来ているのでしょうか?」

「しかもまた忘れたのか。そなたも難儀よのう」

 タキが定期的に記憶喪失になることも知っているようだ。

 近くへ寄れ、と少年は鷹揚なしぐさでタキを手招く。縁側から庭へ降り、置き石の傍らにあった草履を拝借して彼の元へ向かった。

 溜め池で魚が跳ねる。

 しばし少年は無言だった。タキもただ隣に立って池や木々を眺める。

「……なにか、憂いることでも?」

「憂いることばかりだな」

「側女のことですか」

 すると王は眉間にしわを寄せ、次いで背後を顧みた。

「トウジュ。そなた、この者に何を吹き込んだのだ?」

「うふふ。我が君が知られて困ると思われるようなことは何も申しておりませんわ。今日、表で妃選びの宴が開かれていることは、この城にいる者であれば誰もが知り得る事実ですので、緘口令など敷きようがありませんしねえ」

 それはそうだが、と王は口ごもる。

 意外な反応だった。王は、王妃のことが苦手なのだろうか。

 カジュリと違って仮面をしているわけではないから、くだんの姉の面影は彼女にはないのだとばかり思っていたが。

 不満そうな王に対して、王妃トウジュはにっこりと笑みを深め、さらに追い打ちをかける。

「そのように不貞腐れるくらいならば、義母上様に正直に申し上げればよろしいではありませんか。妃は己で気に入った娘を選びたいと。でないと此度あたり、義姉上様にそっくりな声をした娘が召し上げられるかもしれませんよ。それとも義姉上様にそっくりな手をした娘でしょうか?」

「トウジュ、口が過ぎるぞ!」

「まあ、怖い御顔ですこと。図星だからこそ、そのような御顔をなさるのでしょうねえ」

 手厳しい。

 しかも追い討ちは続く。

「そもそもそのように恥じ入ることではないと、わたくしは考えているのですけれど、いかがなものでしょう。だって義姉上様はとっても素敵な御方ですもの。お慕い申し上げるのも無理からぬことですわ」

「……それは」

「ですからどうか今宵はカジュリを閨へお召しください」

「どうしてそうなるのだ!」

「あらあら、よろしいではないですか。義姉上様に似ているというだけで、血は繋がっていないのですから。世継ぎ問題は急務。それにこれ以上閨から遠ざけられては、わたくしもカジュリも遠からず廃妃となりましょう。我が身ひとつで済めば良いですが、家の者は黙っていないでしょうし、そうなれば城内がさらに荒れるであろうことは想像に難くありません。事が大きくなる前に君主として手を打つべきかと存じます。それにほら、寵愛するのにカジュリは申し分ないでしょう? 兄上方のように世継ぎ問題で命を取り合うのがお嫌なら、カジュリが産んだ男児は、王妃たるわたくしの子として育てますから、どうぞご安心くださいな」

「だから、どうしてそうなる。……だからそなたは嫌なのだ」

「うふふ。義姉上様のご指導の賜物ですわね」

 力なく項垂れる少年の背は、いっそ哀愁さえ漂わせている。

「そなたには要らぬ話を聞かせてしまったな」

「いえ。ただ一言申し上げるなら、僕も王妃様のご意見に賛同ですね」

「そなたまで何を言うか!」

「妃に仮面をつけさせても、何の解決にもならないと思ったまでですが」

「まあまあまあ、神使様にお墨付きをいただけるなんて光栄ですわ」

「あのう、お二方とも、そのくらいで……」

 カジュリの狼狽ぶりは仮面をしていても伝わってきた。仮面の迫力に似合わず純朴そうな娘だ。対する王の表情はこれでもかというほど沈んでいる。

 王妃は自らも庭先へ降りた。

「さ、戯れはほどほどにして。話は尽きぬようですけれど、そろそろ日も暮れてまいりました。神使様は神の元へお戻りになられた方がよろしゅうございますわ。さあ、こちらへ。人目につかない抜け道をご案内いたします」

「トウジュは駄目だ。そこに居れ。余が参る」

「ではカジュリがお供いたしますわ」

 王妃は素直に頷き、タキに恭しく一礼した。その様子からして、王とカジュリが申し出ることを予測していたのであろう。愛らしい容姿に反してなかなか食えない娘だ。

 カジュリを先導に溜め池にかかる橋に向かう。

 その背に、トウジュが囁くような声音で告げた。



「義姉上様がお産みになられた神の御子を、世継ぎとしてお育てするのも、なかなかに魅力的なお話ですけれどねえ」



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