第二一話
王を呪詛し、世継ぎの王子を殺した咎で、第一王子オルと月神女は名を暴かれ、その亡骸は火にくべられた。
そして王とともに第二王子の葬儀が執り行われた。
王都は喪に服し、日々がただ静かに過ぎてゆく。
しかし民の悲しみは長くは続かなかった。
海辺の村が発生源とされる謎の疫病が王国を襲ったのだ。
手を尽くすも死にゆく命は止められない。長く続く旱により、充分に食糧が行き渡らないことも災いした。道という道から人影が消えてゆく。疫病は火炙りにされた王子と神女の呪いだという噂が流れ、民は猜疑心に揺れ、荒れた。
やがて喪が明け、まだ幼い第三王子の即位式が執り行われる。
華々しい門出とは裏腹に、人々の顔はどこか暗く、王国の行く末に誰もが不安を抱いていた――。
*
祈祷を終え、アガリエは顔を上げた。波を思い起こさせる流れのある紋様、それが施された左頬に光が落ちる。
木々の合間からこぼれ射す陽光があたたかい。古来より神が宿るとされる巨木に一礼し、きびすを返す。敷き詰められた珊瑚の欠片の上を素足で歩くと、石灰化した珊瑚がこすれ、ざらざらと渇いた音が鳴った。
アガリエが木立に囲まれた小道を抜け、神域の外までやってくると、そこには守人クムイが控えていた。
簡素な神女装束に身を包む彼女たちは、その腰に二振りの刀を下げている。
守人は神女でありながら武術を極めた女性護衛だ。主に男子禁制の場が多い斎場の内部や、王家の子女の護衛を任されている。
無論、アガリエの傍にも常に控えている。
それも一人や二人の話ではない。事あるごとに数が増えてゆき、今では屋敷の外に出る際は最低でも四人は引き連れて歩かなくてはならいことになっていた。
なにしろ、おちおち祈りも捧げてはいられない時世なのだ。
斎場であろうと寝所であろうと、いつ刺客に命を狙われてもおかしくない。
それほど国は荒れていた。
屋敷へ戻る道すがら、守人クムイから報告を受ける。
「東で起きた謀反は鎮圧までに時間を要するとのことです。城主様から救援を求める書状が届いておりますが、いかがなさいますか?」
「捨て置いてよい。西は相変わらずか?」
「城が落ちていることは確実のようですが、すでに多くの者が城から逃げ出していること、さらには周辺地域に疫病が蔓延していることもあり、城内の様子を探ることができず調査が難航しております。北と南も似たような様子です」
「そうか。カーヤカーナ様のご様子は?」
「本日は王の新しい妃選びの宴を開催なさるとか。アガリエ様にもご参加いただきたいと、ご招待いただいております」
「たしか次で四人目だったか……」
「六人目の妃となられる御方をお選びでございます」
当代の王は御年十一だ。
さすがに妃の数が多いように思うが、母ともなれば感覚が違ってくるのかもしれない。
彼女は王の地位を確固たるものにすべく、世継ぎの王子誕生を今か今かと待ちわびているのだ。子ができなければ妃が何人いようと、いないも同然なのだろう。
抑圧されていた反動か、権力を得た彼女の行動力はすさまじい。
月神女には王の母である己こそが相応しいとして、アガリエをその座から引きずり下ろしたのもまた、彼女だ。
とはいえ王母が月神女となることは許されていない。
慣例を無下にすると反発を招く。そのため彼女は実権だけを欲しがった。
結果、形式的にはアガリエが月神女なのだが、実際に斎場を支配し、皆にカーヤカーナと呼ばれているのは彼女という、前代未聞の奇妙な事態になった。
そのような経緯を経て、アガリエは今も東の神女という呼称のまま、この王城でその務めを果たしている。
それと同時に本来は月神女が担うべき祈祷などの儀式――とりわけ非公開で日常的に行われているもの――は、アガリエが執り行っていた。王母とて神に対する畏敬の念は持っているのに、どうやら祈祷や儀式には興味が薄いらしい。
当面、アガリエにとって億劫なのは、左頬に施された月神女の紋様を、拝所に出入りするたびに塗ったり落としたりしなければならないことだ。
王母は月神女として拝所で祈祷するつもりはないのに、アガリエが月神女のいでたちで代わりを務めるのは、いたくお気に召さないらしい。この姿を王母に見られてしまうと、また傍仕えたちが叱責を受けてしまう。
直接アガリエを問い詰めないあたり引け目は感じているのか。月神女の名は問答無用で奪っていったくせに、彼女の心持もなかなかに複雑な作りをしている。
忘れないうちに消してしまおう。
アガリエは袖から出した手巾で頬をぬぐう。
薄布に赤い塗料がついたが充分ではない。クムイが用意していた水で手巾を濡らし、再び頬にあてて紋様を消してゆく。
ふと、素足の裏が枯葉を踏む。神域の外では枝葉は朽ちて、木々は静かに大地に伏していた。
ここも間に合わないかもしれない。
疫病は人だけではなく森にも広がっていた。大地が侵され、木々が次々と倒れてゆくのだ。その姿に心が軋む。
息をするように自然を愛しんできた神女として、ただただ朽ちてゆくだけの姿を見るのはつらく偲びない。
木々の向こうに建物が見え始めるより早く、弦楽器の華やかな音色が聞こえてきた。陽気な囃子だが、途切れ途切れのそれは、宴のためのものだろう。音合わせでもしているのかもしれない。
頬の紋様がまだ落としきれていない。いま王母に見つかると厄介だ。アガリエは行き先を変えようとして、やめた。
瓦屋根の上に、見知った姿があった。
彼もアガリエに気づいている。出逢った頃はよく笑う人だったのに、最近は沈んだ表情のほうが多くなった。
無理もない。彼だけではなく、大半の者がリウ王国の行く末に不安しか見出せずにいる。
アガリエはクムイたちを下がらせた。
そうしてここで待っていれば彼の方からやって来ると知っている。
どれほど不服であろうと彼はアガリエを見捨てない。――見捨てられないのだ。
アガリエの前に立ち、彼女の顔を間近で見た途端、言いようのない苛立ちを覚えた。
正確には顔ではなく、赤い塗料が残る頬が原因だ。
「なんでクムイを下がらせたんだよ。ひとりになったら危ないだろ」
「ゼン様は傍仕えたちがお嫌いかと思いまして」
「嫌いなわけじゃない。……ただ、じっと見られたり、聞き耳をたてられてる感じが嫌なだけで。ほっぺた、まだついてるよ」
アガリエが袖口に直そうとしていた手巾を奪う。
顎に指をそえて顔を上向かせる。頬に手巾をあてると、彼女は静かに双眸を伏せた。
塗料はなかなか取れなかった。アガリエの肌がやわらかいので力加減が難しい。強くこすると彼女を傷つけてしまいそうだ。
「ていうか、俺のことよりアガリエだろ。ついこの前、刺客に襲われたばかりなんだから、もっと用心しないと。肩も腕も、ようやく治ってきたところなのに」
「問題ありません。かすり傷でしたし」
「でも毒の方はつらかっただろ。……うなされてた」
今も耳に残るアガリエの悲鳴が、ゼンの心を苛む。
斎場には未だ先代の月神女を慕う者がいるそうだ。
先代の月神女――暴かれたその真名は、フィバナという。
ゼンにとってはアガリエを呪詛しようとした相手だ。そして引導を渡した相手と言っても過言ではない。ゆえにフィバナのことに思いを馳せる時、この胸にはわだかまりしかないが、誰もがゼンと同じ心境ではないらしいということを、事が起きてから初めて知った。
本当に、実に情けないことに、そこまで思い至ることができなかった。
長く斎場を治めていた彼女の死を悼み、アガリエを恨む者もいるのだそうだ。
先日、その一人がアガリエを襲った。
禊の最中に起きた出来事だったため、ゼンは事の詳細を後で知らされただけだが、誰から話を聞いても、傍に腕が立つ守人クムイがいなければ、アガリエが負った傷はさらに深いものになっていたであろうことは明白だった。
ゼンが駆けつけた時、アガリエの体は血に濡れ、それでいて顔は青白く、冷たかった。
アガリエが言うように傷自体はかすり傷程度のものだったが、凶器となった刃には毒が仕込まれていた。傷口から体内に侵入した毒は彼女の命さえも脅かした。実際、刺客は同じ毒で命を絶っている。
寝ずの看病をしたのはゼンとタキだ。だから今も、アガリエの頬に色があるという、平素であればごく当たり前のことにいちいち安堵してしまう。
本調子に戻るまで時間を要した分、眠る彼女の寝息を確認しては胸を撫で下ろすという行為をくりかえし、傍を離れなきゃよかったと、何度も何度も後悔した。
だというのに当人はいたって呑気なものだ。
「ゼン様がずっと手を握っていてくださったこと、おぼろげながら記憶していますよ。おかげで安心できて、よく眠れました」
「ったく。五日も寝やがって。俺たちがどれだけ心配したと思ってるんだよ。イリなんか半狂乱だったんだからな」
「たまにはわたくしものんびり微睡みたかったのです。ところでゼン様、舐めてはいけませんよ」
黒い双眸がじっと見上げてくる。
心の内を読まれているような気がして、ゼンは思わず視線をそらした。
知らず知らずのうちに近づけていた顔も上げる。
吐息が触れそうなほど近くにあって、ちょっとびっくりした。
「なんだよ、舐めようなんて思ってないって。ただこれなかなか落ちないなあと。水とかないの?」
「クムイが持っています。呼び戻しますか? おそらく気配を消して控えているだけでしょうから、呼べばすぐに来るかと」
嫌いじゃないと言いながら、呼び戻すのは不満だった。
「そもそも月神女はアガリエなんだから、消す必要なんてないのに」
「それはそうと、わたくし最近思うのですけれど、ゼン様はわたくしとマヤーの扱いにもう少し差をつけても良いのではないでしょうか」
「……どういうこと? ふたりとも大事にしてるつもりだけど」
「昨日の夜も口喧嘩をして、マヤーに噛みついていたでしょう」
「ええー。あれ、俺が悪いの? だって先にマヤーが噛んできたから、やり返しただけで」
「噛まれたからといって同じようにやり返すのは、ゼン様くらいではないかと」
「え? そうなの? 噛まれたら、嚙み返さない?」
最近のマヤーは人目を気にして滅多なことでは巨大化しない。大抵はゼンやタキの肩に乗れるようにしているので、傍目には変わった毛色の猫に見えていることだろう。
だから噛まれたら、つい噛み返してしまうのだが、ゼンにだって分別はある。
巨大化したマヤーには噛みついたりしない。あの牙で反撃されたら、泣きを見るのは絶対に自分だという自信がある。
――の、だが。
アガリエの眉間にしわが寄る。この娘がこれほど露骨に不快感を表すのは非常に珍しい。
……あれ? 俺、怒られてる?
「噛んだら駄目なの?」
「舐めても駄目です」
「なんで?」
すると今度は半眼で睨まれた。
「……いや、だってさ、マヤーは俺らの怪我を舐めて治してくれたし。怒る時は噛んだし。そうやって育てられたから、つい」
「育てられた?」
「言ってなかったっけ。マヤーは昔っから俺らのお守りしてくれてたからさ」
「なるほど得心がいきました。どおりで人離れした突飛な行動を取る時があるわけです。でもこれだけは忘れないでください。わたくしは、マヤーでは、ありません」
「そんなことわかって……いや、うん。ごめんなさい。わかった。あ、ほら! 綺麗に取れたよ。それから、えっと、そうだ。これ履いて」
剣呑な気配を察して、とりあえず謝罪に徹した。せっかく元気になったところだ。できれば穏やかな心持ちで過ごしてほしい。
とにかく話の矛先を逸らそう。ゼンは草履を脱いで、裸足のままだったアガリエの足を手に取る。
誤魔化せたかどうかはわからないが、彼女は素直に従い、草履を履いてくれた。
手入れされた綺麗な足にそぐわない薄汚れた草履で、非常に心苦しくなったが。
立ち上がる。けれど視線を上げることができなくて、アガリエの手元を何気なしに見やり、そこにある月神女の紋様に言い知れない気持ちになって、再び足元を見た。
ゼンは肩書きに興味がない。
月神女がアガリエであろうが、王母や他の誰かであろうが、本当はどうだっていい。
ただ月神女として振る舞う王母の傍らで、粛々と月神女がなすべき務めを果たしているアガリエの姿を見ると、どうにも納得がいかないのだ。
特に手の甲や腕にある紋様が気に喰わない。
体に紋様を刻むには痛みを伴う。それも生半可な痛みではないと聞く。その痛みに耐えてまで月神女の紋様を刻んだのに、この仕打ち。唯々諾々と従っているアガリエの気が知れない。
――知れないのだが、王母に一言文句を言わないと気が済まないと息巻いたゼンを制止したのは、他でもないアガリエだった。
曰く、もともと表舞台に出るのは苦手なので、このままで良いと言うのだ。
全然納得がいかない。アガリエの驚くほど図太い神経で、華やかな場所が苦手など、信じられるわけがない。
頬に、アガリエの手が触れる。
「どうなさったのですか、急に。何か心配事でも?」
白々しい。
「べつに、どうもしないよ」
「さようでございますか」
目が合うとアガリエの口元が微かにほころぶ。
この城へ来てからもう何度、言葉を飲み込んだことだろう。周囲を気にせず、大声で笑うことができた日々はすでに遠い。
アガリエを守りたいのであれば、弱みを握られてはいけない。
そのためには常に周囲の気配に注意を傾け、時と場合によっては嘘をつく必要もある。彼女の足枷になるわけにはいかない。
そう思う気持ちに嘘はない。
けれど、アガリエの言葉だけを信じていては、彼女を守り切れないような気がしている。
あれほど執着していた月神女の名を、あっさり王母に譲ってしまう。王位継承にまつわる騒動の陰で、ゼンとの婚姻が形ばかりのものとなったままだというのに、なんの不満を口にせず同じ床で眠りにつき、目が覚めれば朝の挨拶を交わし、甲斐甲斐しくゼンの世話をする。
――まるで最初から興味などなかったかのように。
アガリエを守りたいのに、ゼンには他の誰より彼女のことがわからなかった。




