第二十話
イリの姿を認めると、オルの乳兄妹であるカサギは力なくその場に座り込んだ。瞬きを忘れた瞳からはとめどなく涙があふれる。
「我が君は……、本懐を遂げることができなかったのでございますね」
煌々と松明が焚かれたオルの屋敷は静まり返っていた。
それは周囲を隙間なく隊士に囲まれているとは思えないほどの静寂さだ。
どこかで松明が爆ぜる音が響く。
イリは彼女の傍らに膝をつき、うなだれる肩に手を置いた。けれどその手をどうすれば良いのか、イリにもわかってはいなかった。
主を失ったこの娘に同情し、慰めれば良いのか。
それとも謀反人に与したとして、とがめるべきなのか。
王の娘としては後者を選ぶべきなのであろうが、嗚咽もなくただただ涙を流す哀れな姿に、どうしても強く出ることができない。
「そなた、兄上の企てを知っていて、なぜお止めしなかったのだ」
「どうして止められましょう。王の嫡子でありながら、全てを奪われ、このように不遇な場所に追いやられて。奪われたものを取り返すことが、それほどに悪いことでしょうか?」
「それは」
「我が君は焼き捨てられてしまうのでございましょう?」
イリにはその問いに応えることができなかった。
隠しようのない事実であったからだ。
死後、人の魂は海の向こうにある常夜の国ニルヤネリヤへ辿り着くと王国の民は信じている。
だからこそ亡骸は海辺にある洞窟などに安置される。魂がこの地をさ迷うことなく、少しでも早く海を渡ることができるようにと願って。
無論、王族とて死後は魂が常夜の国ニルヤネリヤへ向かうことを望む。
この島には地下に多くの洞窟があり、それは内陸部にある王城でも例外ではない。
公にはされていないが、王家の墓所の地下には専用の葬儀場が備えられており、王族の亡骸もまた、魂が体から抜けきり風化するまでそこで眠ることが習わしとされている。その洞窟の果てはやがて、死を司る西側の海へと繋がっているそうだ。
城の外に設けられている墓所に葬られるのは、その後のこと。海風にさらされ、魂が抜けた後に遺された骨を、埋葬するのだ。
だからこそ謀反人の肉体は火に焼かれる。
炎により肉体を失った魂は海を渡ることができず、この地上を永久に彷徨い、苦しみ続ける。
それは古くから語り継がれている伝承であり、今なお多くの人々がそうだと信じている。ゆえに大罪を犯した者は火炙りの刑に処されるのだ。
いまだ幼さが残る第三王子が兄王子を火炙りにすることを望むとは思えない。
けれど幼いからこそ彼の意志では、母妃や重鎮たちを説き伏せることはできないだろう。特に手を組んだイリたちの母の生家は、第二王子を殺したオルを決して許しはしない。
カサギはゆるゆると居住まいを正した。歯を食いしばり、床につくほど深く頭を下げる。
「お優しいアガリエ様。どうか、どうかお頼み申し上げます。わたくしと母の躯を焼き、最後まで我が君にお供させてください」
「何を言うの。これ以上、そなたが兄上に尽くす必要はない」
そう言えばカサギの母の姿がない。オルの乳母である彼女がこの期に及んで逃げ出すとは思えないのだが、一体どこにいるのだろう。
カサギの傍らに置かれている燭台の炎が、やけに目につく。
すでに日は暮れ、周囲は宵闇に包まれている。その中で屋敷は妙に明るい。室内や廊下に灯されている松明や蝋燭の数が異様なほど多いのだ。
嫌な予感がする。
イリはカサギの肩を強く揺すった。彼女は未だにイリをアガリエだと誤解しているようだが、それを訂正している暇はない。
「そなた、母御はどうした?」
「すでに我が君の後を追いましてございます。わたくしも……」
目の前がぱっと赤に染まった。
血だ。
傾ぐカサギの体をなんとか支え、腕に抱きとめる。
彼女が服用したのはおそらくイリもよく知る毒だ。即効性があり、解毒薬は手順や分量が複雑で、すぐには作ることができない。だからこそ身を守るために神女が持つ毒なのだが、今はそれを心底忌々しく思う。
せめてカサギだけでも助けてやりたい。
けれど彼女は血にまみれた唇で乞う。
焼いてほしい、と。
選ぶなら今この瞬間しかない。
奇しくもここは薬草に精通していたオルの屋敷だ。どこかに薬草を保管している部屋があるだろう。すぐに解毒薬を煎じれば、あるいは間に合うかもしれない。
でも。
助けたところで、生き残った彼女に一体何が残るだろうか。
オルに与していたことは逃れようのない事実だ。遅かれ早かれ刑罰が与えられる。カサギは苦しむだろう。
今ここでこの蝋燭を倒せば――。
何が正しいかわからない。ただ炎に向けて伸ばした指が震える。あと少し、あと少しで蝋燭を倒すことができるのに、どうしてもそれができない。なのに外で待つ隊士を呼び、カサギの手当てをするよう命じることも、解毒薬を作るために立ち上がることもできない。
時だけが着実に過ぎてゆく。
なんて脆弱な意志なのだろう。こんなにも中途半端では、誰も助けられない。
わたくしは皆の幸せを祈りながら、この娘を救う言葉ひとつ持ち合わせていないなんて……。
無力だ。
頬に、赤く濡れた掌が触れた。
「お優しい御方。どうか泣かないでくださいまし。わたくしは本望でございます」
彼女の笑顔が涙でにじむ。カサギの手がそっとその腹部に添えられていることに、どうしようもなく心が震えた。
嗚咽がこぼれるその背に、近づく足音。
それは次第に大きくなり、イリの背後でぴたりと止まった。
「何をしているの。死にたがっているのであれば、叶えてやれば良いでしょう」
イリと同じ顔、同じ声音で、アガリエは躊躇いなくそう告げる。
その冷淡さがイリには心底腹立たしい。
けれど何より腹立たしいのは己の弱さだ。涙が止まらない。戯言を言うなと強く言い返すことができればいいのに、彼女の言葉にその通りだと頷いてしまう自分がいて、ただ涙を流すことしかできない。それが悔しい。
アガリエが蝋燭の前で戸惑うイリの手を握る。
ふたりの手が燃え盛る炎に、それを支える燭台に近づいてゆく。
耳元で、そっとアガリエが告げる。
「この娘の母御もこの屋敷のどこかにいるのでしょう。ならば屋敷ごと焼いてしまえば良いのよ。跡形もなく、綺麗に、オル兄上が生きていた痕跡を消して、全てなかったことにしてしまえば。苦しみから解き放ってやりたいと思うことは、決して罪ではない」
蠱惑的な囁きにあらがえない。
けれど、諦めきれない。
イリは強く手を引いた。アガリエがわずかに目を見張る。
「わたくしは、助けたいの」
「そう。あいかわらずお優しいこと。だけど残念ね。決断を下すには遅すぎたわ」
アガリエは燭台に指をかけると、躊躇いなくそれをカサギの着物の袖に落とした。
炎が広がる。
今度こそアガリエはイリの腕を力任せに引き、屋敷の外へと駆け出した。目に留まる蝋燭や松明すべてを薙ぎ倒し、周囲に炎を撒き散らしながら。
涙が止まらない。
わたくしは、なんと愚かな。
カサギの最期の願いを自ら叶えてやることもできず、結局はアガリエに手を汚させた。
イリが選んだのは、ただ逃げることだけだ。
誰よりも卑怯で、弱くて醜い。
そんなイリの罪深さを飲み込むかのように炎は宵闇を照らし、屋敷のすべてを焼き尽くした。




