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Episode Spring:5  過去

 夜……。

 真っ暗な部屋の中で、俺はベッドの上で横になりずっと天井を見つめていた。校門での出来事から帰ってきて以来このまま。のぞみが恭子さんに校門での出来事を話したのか、陽が暮れても誰もこの部屋にはやって来なかった。

 見つめる天井はどこまでも無機質。それは俺の心の中と同じ。真っ暗でそれ以外何も感じなかった。


「あなた、昔、大切な人、失ったこと、あるでしょ」


 俺はこの言葉の意味を、ずっと自分に問い詰め続けていた。

 俺は昔、大切な人を失ったことがあるのか……。俺は自分の心の中の扉という扉を全て開け放つ。しかし思い当たる人物はまるでいなかった。

 顔も覚えていない父親、俺を邪魔者扱いした母親。俺の人生の中でいなくなってしまった人はいる。しかしそれらはとても「大切な人」とよべるような存在ではない。

 俺にはあの言葉の意味が判らない。でもあの時、俺は確かに泣いていた。永遠に止まらないのかと思うくらい、俺の瞳からは涙が溢れ続けたのだ。悲しいという感情は無かった。でも俺は泣いていた。何か悲しみと苦しみが混ざり合ったような、そんな涙だった……。

 家までの帰り道、のぞみが俺にしきりに話しかけてきた。内容は殆ど覚えていないが、ある一言だけは覚えている。


「こーへーは私たちの家族なのよ!」


 家族……。

 俺にはよく判らないものだ。この池澤家が俺の居ていい場所なのは実感している。でも俺が池澤家の家族であるという実感はない……。そもそも俺には家族というものがどういうものか判らない。

 俺は家族というものを知らないから……。

「…………」

 何度考えてみても、あの時俺が流した涙の意味は判らない、俺には……、

 ガチャ……

 その時、部屋の扉が開いた。

「こーへー……」

 のぞみの声がして、のぞみのものらしき足音が部屋の中へと入ってくる。

「ゴメン、勝手に入ってきちゃって」

 のぞみはそう言うと畳の上に座る。俺は視線を合わせていないが、のぞみは俺のことをみつめているのは判る。

「こーへー、気分はどう? 大丈夫……かな?」

 のぞみは言葉を選びながら俺に話しかけてくる。

「あの、夕飯のカレーの残り、キッチンにあるから……。温めて持ってこようかな?」

「…………」

「後、お風呂も残してるから。いつでもいいよ、お父さんも夜遅いから」

「…………」

「…………」

 そして、しばらく部屋に沈黙が流れる。

「はは……」

 困惑したのかのぞみは苦笑い。元々活発な性格であるのぞみには、今のこの状況は耐えられないものなのだろう。

 俺もただ黙っていたいわけじゃない。昼にあんなことになって、のぞみには済まないと思っている。

 でも今の俺はこれ以上ないというくらいの疑問を抱いていた。俺はその疑問をのぞみに訊ねたい。でも俺はできなかった。

 怖いのだ、俺が訊ねたことの答えを聞くことが、知ることが……。

「こーへー、気にしてるんだ、校門でのこと」

「…………」

「あの時長谷川さん言ってたよね。こーへーは昔、大切な人を失ったことあるって」

 そしてのぞみは視線を畳に落とす。

「実はね……、お母さんに聞いてみたんだ、昔こーへーに……不幸なことがあったのかなって。私の知っている限りじゃそんなこと思い当たらなかったし、お母さんなら知っているかなって。ごめん、勝手にこんなことしちゃって」

 のぞみはとても申し訳なさそうな様子。おそらく俺の過去を勝手に詮索してしまった後ろめたさがそうさせているのだろう。

 しかし別にそれに対する怒りなどはわいてこない。むしろ俺も知りたい。俺に昔何があったのかを。

 何故なら、

 俺には七歳以前の記憶や思い出がない。六歳までの俺の記憶が、すっぽりと抜け落ちているのだった。


「それで、どうだったんだ……」

 俺は視線だけをのぞみへ向ける。

 するとのぞみは静かに首を振った。

「判らないって。こーへーの父親も考えたんだけれど、もう離婚しちゃってるし、あんまりいい人じゃなかったみたいだから「失った」ってわけじゃないし、おばあちゃんは私たちが生まれる前に亡くなったし……」

 それはのぞみの言うとおりだった。俺の実の父親は絶えず暴力を振るっていたらしいから「大切」なわけがない。じいちゃんが死んだ時は確かに悲しかった。しかしじいちゃんは漁師一筋に生きて寿命をまっとうした。だからちょっと違うような気がする。

「お父さんも多分知らないだろうって。お父さん、こーへーのお父さんのこと嫌いだったから」

「そうか……」

「で、でもね、こーへー」

 のぞみは立ち上がり、顔を近づけてきた。

「私はね、そんなことどうでもいいと思うの。確かにこーへーは昔辛いことがあったかもしれない。でも今は私たちがいるじゃない! 今は私やお父さんやお母さんがこーへーの家族なの! 私たちはもう立派な家族なんだよ。だから、もう……」

 のぞみの声は段々とかすれ、涙声になっていた。あの元気で活発なのぞみが泣いている、俺のために……。

 あののぞみを泣かすなんて、俺は最低だ。

 でも、でも俺は知りたい。

 長谷川咲希の言葉の意味が、あの時俺が流した涙の理由、

 そして俺の過去が、知りたい!……


 結局昨晩は殆ど眠れなかった。今日が日曜でなかったらかなりヤバかった。

 明け方にトイレで部屋を出た際、廊下でのぞみとばったり出くわした。よく見るとのぞみの目は真っ赤に充血している。どうやらのぞみも眠れていないようだ。俺はのぞみに対し「悪い」という気持ちでいっぱいだった。

「外に出てみよっか?」

 トイレついでに洗顔を終えた俺にのぞみがそう誘ってきた。俺は少し躊躇したが、俺が答えを出す前にのぞみは俺の腕を引っ張り、強引に外へと連れ出された。

 明け方。外はもう空が白み始めている。気温もそんなに上がっておらず、まだ少し肌寒い。今日は漁が休みのため、目の前に広がる海に漁火は見えない。

「砂浜に降りてみよっか?」

 海岸沿いの道を歩いているとのぞみがそう切り出してきた。しかしまた俺が答える前に腕を引っ張られた。

「今ちょうど干潮だから、いつもより砂浜が広いね」

 砂浜を歩きながらのぞみが話す。ここに来るまで俺は一言もしゃべっていない。何か切り出そうとしても、のぞみの真っ赤に充血した目を見ると申し訳ないという気持ちでいっぱいになり、結局何もしゃべることができなくなってしまうのだ。

 そしてのぞみも昨日のことを気にしているのかいつもに比べて口数が少なく、たまにしゃべっても言葉を選んでいるのが丸判り。のぞみとは出会ってから長いが、こんなのぞみを見るのは初めてだ。

「こーへー、座ろっか」

「ああ……」

 のぞみに促され、俺とのぞみは砂浜に腰を下ろした。

 座ってからしばらくの間沈黙が続く、

 そして……、

「ねえ、こーへー」

 その声に俺は無言で振り向く。

「海って好き?」

「…………」

「私は好きだな。特にここの海は。砂浜はきれいだし、海岸線が入り組んでいないから海が遠くまで見えるし、向こうの田島は夕陽が沈む時すごくきれいだし」

 俺は視線を海へと移す。波打ち際から少し先に、ここら辺で田島と呼ばれる小島が浮かんでいた。

「私よくここに来るんだ。遠くまで青くて、何だかいい匂いがして、ここに来ると落ち着くんだ……」

「…………」

「だから、嫌なことや悲しいことがあったらここへ来るんだ。最近じゃ中学の時バスケ部のエースにコクッてあえなく撃沈した時……。ハハッ」

 それは初耳だった。

「ねえこーへー、知ってる? 私の名前の由来」

 のぞみの名前の由来、そういえば知らない。のぞみは自分の名前をいつも平仮名で書くから由来と言われてもピンとこない。

「私の名前、私いつも平仮名だけれど、本当はちゃんとした漢字の書き方もあるんだよ。希望の「望」を書いてその後「海」で「望海」。海を望む……。私が生まれた時、産婦人科の窓からずっと海の方を見ていたんだって。それを聞いたおじいちゃんがこの名前にしようって」

 のぞみは少し笑いながら話す。その笑顔は作ったようなものではなく、本当の笑顔だった。

「それをお母さんから聞いた時、思わず笑っちゃった。私その頃から海が好きだったんだなぁって……」

 のぞみは目を細め、そして海の方を見つめている。

「だからさ、こーへーもさ、私みたいにこの海を見て、忘れちゃいなよ! 今までの辛いこととか悲しいこと」

 そしてのぞみは俺の方へと向き直り、瞳を見据える。

「人は生きていく中で、いっぱい嫌なことがあると思うよ。でもそれをいつまでも気にしていたら、いつまでたっても前に進むことができないよ。過去のことに縛られていたらずっとそこにいなきゃいけなくて、前に進めなくて、そのうち前を見ることを諦めて拒んでしまう……」

「…………」

「でも、こーへーはそうなっちゃだめ! そんなことさせない! そのために、こーへーはここにいるの。私たちと一緒にいるの!」

 のぞみは俺の瞳を見据えたまま、訴えるような口調で話す。

 何だかのぞみはいつの間にか俺なんかよりもずっとずっと成長していた。あの活発な性格の裏にはこのような意識がなったのだ。

 それに比べて俺は、なんて情けないんだ……。

「こーへーは前に進んでいくの!」

 のぞみの声は俺の心の中にまで響く。しかしそれはすぐにかき消されてしまう。

 のぞみ、ごめん……。俺はまだ、進めそうにもない……。

 瞳が……、あのどこまでも深い瞳が、俺を容赦なく引きずり込もうとしているのだから。


「そろそろ干潮だね」

 俺の横に座って海を眺めていたのぞみが話す。

「ねえ、こーへー、知ってる? あの田島はね、干潮の時歩いて渡れるんだよ」

 それは俺も昔じいちゃんから聞いたことがある。干潮の時この砂浜から田島にかけて一筋の道ができるのだという。地元に人には周知の事実で、釣り人はこの間に島へと渡り磯釣りを楽しむらしい。

「昔はね、干潮になったら田島までちゃんとした道が出てきたんだけれど、今は大潮の干潮の時でないと出てこなくなっちゃったの。お父さんの話によると、地球温暖化が原因なんだって」

 のぞみは残念そうに話す。

「お父さんとかはけっこう心配してたけれど、私にはあんまり関係ないかな? だって私は田島に渡りたくても渡れないから……。知ってる? 田島には何か訳ありの女神様がいて、女性が島へ渡ると不幸なことが起きるって。何でも未婚の女性は行き遅れちゃうんですって!」

 女神様が奉られているっていう話はじいちゃんに聞いたことあるが、行き遅れるとかいう話は初耳だ……。つーかどうでもいい話だ。

「実際二十数年前に近所の島田さん家の智子さんが、男の人と密会をするのに島へ渡っちゃったんだって。そうしたらその男の人にふられちゃって、その後も男運に恵まれずに行き遅れちゃって、四十五歳を過ぎても未婚独身なんだって! コワいよねぇ……」

 どっからそんなくだらない情報を得てるんだよ……。つーか何なんだその全くありがたみのないご利益は?

 その時、楽しそうに(?)話をしていたのぞみが急に立ち上がった。

「誰か、島から渡ってくる?」

 のぞみの声に俺も田島の方を向く。最初は釣り人じゃないのかと思ったが、間もなくそうではないことが判った。田島の砂浜から海の中へ入っていこうとする人影はスカートを履いていたからだ。

「あ、あの人女の人だよ。大変、あの人智子おばさんみたいに行き遅れちゃうよ!」

 のぞみはそう言いながら俺の横でピョンピョン飛び跳ねる。

 つーかそんな問題じゃねーだろ! それにいちいち行き遅れた人の実名を出すな!

「でも大丈夫かな? まだ完全に潮が引いてないから、けっこう海水が残っていると思うんだけれど」

 それはのぞみの言うとおりだった。潮は完全に引いておらず、遠浅の海とはいえ海水はまだ残っている。事実海を渡る女性は腰の辺りまで海水に浸かり、危なっかしい足取りでこちらへと向かってきていた。

「でも誰だろう? もしかして昨日から島にいたのかな?」

 確かに、今島から戻ってくるということは、前の干潮時に島に渡ったということ。その女性はたまによろけながらこちらへと近づいてくる。

 俺はその女性の姿をじっと見つめる。そして近づいてくるにつれて女性の表情が確認できるようになってきた。

「あ、あれは!」

 俺は頭で理解する前に海の方へと走り出していた。そして海の中へと入りこちらへと近づいてくる女性の元へと向かった。

 波に足を取られながらも、俺は海の中を必死になって走った。そして俺は女性の前で立ち止まった。

「はあ、はあ……」

 慣れない海中ダッシュで息を切らせた俺だが、息を整えるのも早々に顔を上げる。

 そして俺の目の前にいる女性は……、

「ど、どうして、ここに、いるの?」

「それはこっちのセリフだよ、長谷川咲希さん!」

 太ももまで海水に浸かった状態で、俺たちは再び瞳を合わせた。

 長谷川咲希……。田島から渡ってきた女性の正体は彼女だった。

「あの、名字か、下の名前か、どっちかにしてください……。フルネームで呼ばれるのは、不自然な気がします……」

 彼女は少し困ったような表情をしていた。

「じゃ、じゃあ長谷川さん、とりあえず砂浜へ移動しようぜ。今一番不自然なのは、このシチュエーションだよ」

 俺はのぞみが呆然と突っ立っている砂浜を指差す。

「そうですね……」

 しばらくの間があった後、彼女はジャバジャバと音を立てて動き出した。



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